「友」「平和」が幻想か、「脅威」が幻想か

8月4日(火)

渡辺謙さんもつぶやきました。

渡辺謙

一人も兵士が戦死しないで70年を過ごしてきたこの国。どんな経緯で出来た憲法であれ僕は世界に誇れると思う、戦争はしないんだと!複雑で利害が異なる隣国とも、ポケットに忍ばせた拳や石ころよりも最大の抑止力は友人であることだと思う。その為に僕は世界に友人を増やしたい。絵空事と笑われても。

2015年8月1日 10:13 · Setagaya-ku, Tokyo, 日本


まったく同感です。
私も家族ぐるみでおつきあいしている韓国や中国の友人一家がいます。実際に「友」を持ってみると、相手の国を悪く言ったり、戦争を正当化してはいけない、と思うものです。政治家たちもそういう「友」を持ったらいいのにと思います。


◆賛否の平行線

安保法案に賛成する方からすれば「友」とか「平和」といった言葉は「幻想」だと笑われるでしょう。

中国のチベット問題などを挙げて、話しの通じない相手・とんでもない「ならず者」なんだと。現実論として、集団的自衛権や武力行使なくしては日本を守れないとまことしやかにおっしゃいます。

ならば、集団的自衛権を持ち武装を強化すれば「脅威」から本当に日本を守れるのか?…こちらから見ればその方が「幻想」です。

まあ、ここまでは「持つべきか、持たざるべきか」の平行線。
でも単なる平行線じゃないんです。
安倍政権の掲げる安保法案には根本的に大きな誤りがあるのです。
が、そこを分からない(分かろうとしない)から平行線になるのです。

少し前に、★「持つことの危うさ、持たざることの強さ」と言う記事に書いたこととも重複しますが、あらためてなるべく簡単にポイントを整理します。


◆「自衛」の議論なしに

もし近隣諸国の「脅威」を言うならなおさら、今やるべきは、万一に備えての個別的自衛権をきっちり整備すること!

いわば「正当防衛」として、有事に備えたマニュアル、どのように対応するか、どこまでできるかを明確に。今の日本の危機管理はないに等しいので、まずそこを議論すべき。

「個別的自衛権だけでは守り切れない面がある」と言うなら、先ずは個別的自衛権で出来ることをちゃんと整備した上で、「これだけではこういうケースにここまでしか対処できない」ときちんと説明し→「集団的自衛権は必要だ」→「憲法を見直すか?」という流れになるのが筋というもの!

そこをすっ飛ばして、自衛隊を海外に派遣できるケースや後方支援についてなど、新3要件の解釈ばかりを審議している愚!

「あれ?国民の命を守るために、って言いながら、なんで自衛隊を海外に出して他国の後方支援をする話ばっかり議論してるの?」と、子どもでも不思議に思う疑問に答えられないのです。


いつか来た道

筋も通らないまま、戦後の平和憲法を骨抜きにして、アメリカ追従で他国のために自衛隊を派遣できるようにし、「後方支援」「兵站(へいたん)」を行う。それは「平和への貢献」であり、「積極的平和主義」だと?

ある国を「ならず者の国」とレッテルを貼り、「正義のため」と称して世界各国に軍事介入をしてきたアメリカが正しかったのでしょうか?それで問題は解決し、平和は訪れたんでしょうか?

また、過去のいかなる戦争も、「とんでもない相手国に対して、ほかに手段がないので、やむを得ず、必要最小限の武力行使を」と、いまの政権とまったく同じことを言って始められてきました。


◆「ふつうの国」になりたいのか?

中国と韓国以外は日本の集団的自衛権を歓迎している、と言います。
はい、たしかに諸外国には「個別的」も「集団的」もなく、「自衛権」は一本です。
自国が攻められたら応戦する、親しい国が攻められたらともに戦う。「ふつうの国」として。

でも、日本はそれをしない国になったのではないでしょうか?
先の大戦で多大な犠牲を出し、世界で唯一、原子爆弾を投下された国として、「二度と過ちを繰り返しません」と誓った国ではないのでしょうか?

平和憲法が「アメリカに押し付けられたもの」という見方もありますが、日本人もちゃんと草案に加わり、日本人の意思で「戦争放棄」をうたった9条を盛り込んだのです(←認識の違いは多々あるでしょうが、冒頭の渡辺謙さんも「どんな経緯で出来た憲法であれ」とおっしゃってます)。
日本は戦後70年、その平和憲法のおかげで他国の戦争に巻き込まれることなく平和を守ってこられたことは事実です。

「持つべきか、持たざるべきか」の平行線の議論は不毛です。
日本が戦後70年間守ってきた平和主義をここで壊し、いつか来た過ちの道へ引き換すのですか?


危険な負の遺産を残すだけ

武装すれば相手は警戒し、紛争関係にある一方を「支援」すれば他方を「敵」にすることは明らかです。

今年1月、「イスラム国(ISIL)と戦う国を支援します」と安倍総理の発したひと言が凶行の引金となったことからも明らかです。

日本政府は、結果的になにもできなかった、というか、何もやろうとしなかったと言ってもよい状況。

特殊部隊を潜入させて過激派組織から人質を奪回できなかったことを責めるつもりはありません。それができない上、相手は話の通じる相手でないのならなおさら「刺激」してはいけなかったのです!

また、その後中立な隣国トルコではなく、なぜISILに空爆を行うなどISILから見れば「敵」であるヨルダンに交渉をゆだねたのか?

私には、今の政権の「総合的な判断」が正しいとは思えないし、もし仮に集団的自衛権を手にしてもちゃんと使いこなせるとは思えません。

「後方支援」に関する国会での答弁を聴いていても、安倍総理も中谷防衛大臣も、実際の戦闘をまったく知らない素人だと思います。また安倍総理の「絶対にあり得ない」は信用できない「実績」が多すぎます。

そんな中で「下手な作文」で適用範囲が無制限に広がる危険を秘めた安保法を今作ってしまえば、それこそ時の政権の判断いかんによっていかようにも解釈・運用が拡大されるようになります。
そんな恐ろしい「負の遺産」を後世に残すべきではありません。


◆真の「積極的平和主義」とは?

結論として…

あくまで自国の防衛としての自衛権(=個別的自衛権)は早急に確立するが、他国のために自衛隊を派遣して戦争を「支援」する集団的自衛権は放棄する。
中米のコスタリカと並んで、日本は平和憲法を守るために集団的自衛権は行使しない国であることを世界に向けて宣言する。
そして、国連憲章に、世界の先進国も日本の理念に続くように呼びかけていく。

それこそが、本当の意味での「積極的平和主義」だと私は思います。



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楽器パラドクス

7月27日(月)

素敵な美女と楽器の描かれた絵の数々…

でも…よく見ると、「ん?」

笛

フルート(横笛)の向きが逆です!
世界にはいろんな横笛がありますが、顔の左側に構える笛はないはず。

ピアノの蓋の形状も、開き方も逆ですね。奏者の左に高音があるのかな…?
それに蓋が演奏者側に長すぎ。折り返して譜面台が出せる状態で開きますから、本体よりもっと短いはず。

ピアノ

「鏡の中の演奏者たち」…さんなコンセプトで描いてるのでしょうか…??
いや、そうでもないらしい…
次の絵を見てください。

ヴァイオリン

ヴァイオリンを弾いてる女性、楽器を右手に持って、左手で弓を持ってますが、鏡に映った姿と見てもおかしい!
弓を上から構えて、アクロバット演奏でしょうか…??



これらの絵が誰によって、どういう意図で描かれたのかは存じません。もしかすると何か意図があるのかもしれません。

一般に、楽器の形は機能美に優れたものが多いので、楽器をモチーフにしたデザイングッズは多いですが、絶対にありえない「形」にはしないでいただきたい。

「うるさいこと言うなよ、綺麗ならそれでいいじゃん、楽器のこと多少知ってるからって、うるさいよ」、そんな声も聞こえてくるかもしれませんが…
テレビドラマでも、警察車両なんかはよく考証してリアルに再現してるのに比べ、楽器・演奏に関してはけっこういい加減な表現が多く、いつも残念に思います。

どうせ描くならちゃんと描いて欲しい!

デザイン

7月22日(水)


だいぶ前にこの本を読んで感動しました。

こだまを走らせた男たち

私が子どもの頃、まだ東海道新幹線が開業する前まで、東京~神戸を6時間半で結んでいた特急「こだま」「はと」「つばめ」…。

初代ブルートレインの「あさかぜ」とほぼ同期で昭和33年に登場し、東海道新幹線が開業する昭和39年10月のダイヤ改正まで「ビジネス特急」の愛称で活躍しました。

「汽車」から「電車特急」へ。近代の国鉄の特急列車の草分けともいえる花形車両で、その後の特急列車のベースとなりました。
私の模型ギャラリーの中でも外せない車両のひとつです。

私の模型ギャラリー

そこには、日本の最先端といえる技術が集結されました。
車両のデザインを手がけたのは星晃(ほし あきら)さん(2012年没)。国鉄デザインの神様のような方です。

航空機と同じように木型を作って風洞実験も行い、空気抵抗をいかに少なくするか?
「流線型」という言葉が当時の国鉄で合言葉になりました。


こだまデザイン こだまデザインa


重量配分、安全性、快適性…それらの条件をいかに満たして「形」にするか。
そこに生まれるのが「機能美」であり、これこそまさに「デザイン」という仕事だと思います。


◆使えないデザイン

一方こちらは、パロディとしての「使えないもの」「機能しないデザイン」の数々。
こんなグッズを集めた展示もあり、見に行ったことがありました。


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ひとつぐらい「作品」として購入して、玄関などに飾ってもいいかもしれませんね。
遊び心をくすぐる、憎めない「形」たち、私もけっこう好きです。


では、こちらは…?

新国立競技場


ようやく白紙撤回されましたが、ザハ・ハディドに支払われる14億7000万円も含め、ここまでのデザイン・設計契約料などにつぎ込んだお金は、すでに59億円!そのほとんどは戻らないとか!

東京タワーを横に倒したよりも長い370mものキールアーチが2本。それだけの重量を支える構造は?
その真下には、都営大江戸線が走っています。

技術面や予算を無視した「斬新さ」?…こんなものが「デザイン」といえるんでしょうか…!?
ゴッホやセザンヌなどの名画が1点いくらぐらいか知りませんが、15億円も出してこの「絵」を買いたいと思いますか? 

<きょうのSo-netニュースより>

新国立競技場のこれまでの建設計画をめぐって、すでにデザインや設計などで、およそ59億円の支払いが確定し、そのほとんどが、戻らない見込みであることがわかった。JSC(日本スポーツ振興センター)が、民主党の会合に提出した資料によると、デザインを手がけたザハ・ハディド氏の事務所や、国内の設計業者などと結んだ契約金が、総額およそ59億円にのぼり、その大部分の支払いが、すでに完了しているか、確定していることがわかった。
このうち、ハディド氏側に対する支払いは、およそ14億7,000万円で、それとは別に、損害賠償が請求される可能性があるという。



茹でガエル

7月21日(火)


少し前にFBに投稿したものをこちらにも…

ヒットラーのような独裁者についていってしまう現象を「群衆心理」と言いますが、いま安倍政権を支持してる人たちにはとくに「群衆」という印象はありません。
短期フィーバー型ではなく、長時間かけてジワジワと洗脳されて気づかない「茹でガエル」型。



ここからは私なりの見え方です。

政権交代が目まぐるしかったころ、海外から「日本の代表は誰なんだ」と信頼されないんじゃないかと、安定した強い政権を望む声もありました。
また「経済第一」の価値観が強く、「景気対策」が常に最大関心テーマでした。

そこに成立した第二次安倍内閣には大きな期待・信頼・支持が集まったのではないでしょうか?

安倍氏の狙いもまさにそこで、まずはじめに国民の大好きな経済政策(アベノミクス)で支持層を固め、人気の波に乗じて、祖父からの悲願を遂げようと。

やや批判も出てきたものの、まだ勝てる見通しのあった昨年12月に、あらたに4年の任期にリセットすべく解散総選挙をやって国民に(アベノミクスの?)信を問い、思惑どおりの結果を出し、「錦の御旗」を得たとばかりに強行路線に…



なんとなく「日本を元気に」してくれそうだ、と期待した人には良かったかもしれませんが、もともと数字だけの景気対策や経済最優先の価値観には冷ややかだった私のような目から見れば、「弱者斬り捨て&財界優遇」の政策には批判的でした。

昨年「集団的自衛権」が出てきた頃からは、正直「いつになったら皆さん安倍政権の正体に気づくんだろう」と思ってました。

しかし人の意識って不思議ですね。いまだに安倍政権の「信者」は、この安保法案を強引に通過させたことを「まずは良かった」と喜び、党首討論で政権側の矛盾を鋭く追求していた野党のことを「真剣に議論してこなかった」と言い、採決で委員長の席を取り囲んだことを「議事妨害」と言い、国会を取り囲む多くの反対の声を「少数派の雑音」と言い…

いちど真ん中の「杯」と見えたら、誰が何と言おうと「向き合った横顔」には見えない(見ようとしない)んですね。

ルビンの杯

参照→ 
「いろんな見え方」

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「この道しかない」は幸せから遠ざかる道

12月22日(月)



きょうは一年のうちで一番昼間の時間が短い「冬至」。とくに今年は旧暦の11月1日と重なる「朔旦冬至」という19年に一度の特別の年なんですね。

勤め帰りに通っている学校も、今週で年内の授業が終わります。

きょうは、私の尊敬している先生の「コード・即興」の最後の授業でした。前半の1時間は今年の総括、後半は受講生たちの実技発表という構成でした。

前半の1時間、今の日本に対する先生の想いをお聞きしていて、私の想いとも見事に重なってしまいました。

総選挙が終わって1週間。これが今の日本の姿なんだと半ばあきらめ、堂々巡りから頭を切り替えようと、季節を感じたり音楽に意識を向けようとしてきましたが、やはり本質から目をそむけていられない想いがふつふつと…

そもそも何のために「音楽の力」を信じてきたんだろう…?
自ら命を絶つ人が一人でも減るように、皆が楽しく笑えて健康に暮らせるように…
この世の中に一粒でも幸せの種を蒔けるように…

でも、日本の社会全体が進もうとしている方向はことごとくそこから遠ざかっているような気がしてなりません。

私もこれまでさんざんブログでもFBでも発してきたことと、今日の先生の想いとがあまりにもリンクしてしまい、3日3晩夜を徹して語り合っても語りつくせない想いがこみあげてきます。

音楽をやる人間は、ただ単に美しい音、自分が上手になる小手先のことだけに目を向けるのではなく、今のような世の中で、自分は何のために音楽を磨くのか?

自分のテーマに向き合うことと、社会に目を向けることは、ともに「本質」を考えることに通じる両輪なのではないか…と。



12の音の中には、必ずしも明るい純粋な音ばかりではありません。もの悲しい響きもあれば、すこし汚れたまじりっけのある音や、そこでは落ち着かないで次の響きを引き出すような役割の音もあります。それらをどうバランスよく使いこなしていけるか?

決して純粋な理想論ばかりではなく、現実の汚れを知ることもまた大切なこと。そこから目を背けていては真実は見えてきません。

目先の利益追求、きわめて低次元での娯楽に走って、「自分には関係ない」と思ってしまえばこの世の中のことはすべて「他人(ひと)ごと」になっていきます。弱い立場の人のことを思いやる想像力も優しさもどんどん失われていくでしょう。

知識や情報も大切ですが、本当に大切なのは、そこから見える「真実とは何か?」を自分なりに考えていくこと。

これ以上具体的に書くと愚痴っぽくなるので、今日のところは行間から読み取っていただけたら幸いです。

個々のテーマに関しては、また日を改めてシラフの時に一つずつ出すことにしましょう。

集い&ゲーム

11月6日(木)


今年も残すところ2か月を切りました。
さまざまな文化行事の打上げ、年末に向けて宴会も多くなってくるシーズンです。
宴会といえば、よく行われるのがビンゴなどのゲームのお話し。


BINGO(ビンゴ)

いまさらビンゴゲームについて説明するまでもないでしょうが…

一般的なものは、全部で75個の数字が、「BINGO」のB 列…1~15、I 列…16~30、N 列…31~45、G 列…46~60、O 列…61~75という風にグループ分けされています。

手元に配られるカードには、B~O列それぞれ5つずつ、合計25個の数字が選び出されて印刷されていて、真ん中(N列の中央)はラッキーホール。

BINGO-IMAGE.jpg

読み上げられる数字は1~75の中から任意。回転するくじ引き機のようなものから取り出された玉に書かれた数字が1つずつ読み上げられます。
読み上げられた数字が手元のカード内にあればその箇所を穴で抜いていき、抜けた箇所がタテ・ヨコ・斜めいずれか1列に並べば「BINGO」!
転じて、何か推理が当たった時や、メンバーが全員そろった時などに「BINGO!」と叫ぶこともありますね。

B~O各列とも、手元のカードに選び出されているのは15個のうち5こずつ。全体では75個のうちの25個。つまり1回のコールで読み上げられる数字が手元のカード内にある確率は単純に考えて3分の1の確率。そこはまあ分かりますね。
でも、読み上げられるごとに手元カード上でヒットし、それがタテ・ヨコ・斜めのいずれかで一列に並ぶ確率は…?う~ン、数学の「確率」の問題として解くのはかなり複雑になりそうですね。
(考え方→計算式の分かる方はぜひコメント欄に!)

今はすっかり有名なBINGOゲームですが、私が小学校のころ(昭和40年代)にはあまり一般には知られておらず、英会話教室でカナダ人の先生がやってくれて知りました。

1~2ケタの数字が英語で読み上げられ、その数字が手もとのカードの中にあるかを探して抜いていき、そろったら「BINGO!」と叫ぶ…新鮮で面白かったですね。高価なものではありませんがいちおう景品も出ました。

アメリカやイギリスでは、教会や慈善・非営利組織が運営資金確保のために営業するビンゴ・ホールやビンゴ・クラブも各地にあり、賞金を賭けたビンゴ大会も行われているといいますね。


宴会やパーティでの「ゲーム」の是非

ビンゴは、とくに勝つための作戦もなく、とくに頭脳を使う必要もありませんから、子供からお年寄りまで誰でも参加でき、人数制限もとくになく、飲食しながらでも簡単にできます。

風船割りゲームやいす取りゲームのように、参加者にルールを説明したり移動して列になってもらったり…といったわずらわしさもありません。

年末の忘年会などでは、幹事さんがゲームの仕掛けや景品を用意して張り切って盛り上げようとされている光景をよく見かけますが、宴会の中でやられるゲームは正直あまり好きになれません。

私もゲームそのものが嫌いなわけではありません。子どもたちも交えてのホームパーティでやるなら、私も進んで世話役をやるでしょう。また冬の山小屋などに閉じ込められたような時にやるのはいいでしょう。全員である程度ゲームに集中できるならば。

でも、各種の交歓会や講演会・シンポジウムの後の交流会をはじめとする社交の場では、初めてそこで知り合う方たちとも自由に「歓談」を楽しみたい場です。
そういう場で、やたら「盛り上げ」ようと安易にゲームを取り入れられると、会話が中断されてゲームに気を向けさせられ、盛り上げのトークやマシンの「騒音」がけっこう長い時間続きます。
「ゲームをやるために来たんじゃない!」と。

結婚式の二次会では、なつかしい学生仲間で談義に華を咲かせるもよし、新郎側・新婦側の友人同士が知り合える貴重な場でもあります。弦楽四重奏などの生演奏や、スクリーンに二人の出会いをまとめた映像を流して時々見て盛り上がるのはいいでしょう。でもそこでゲーム大会というのはいかがなものでしょうか?

また、職場の忘年会もしかり。私もそれなりに大きな組織に属してきましたが、放送現場は年末まで忙しいですし、せいぜい各現場ごと・部署ごとに「今年もお疲れ様!」の意味を込めて、ふだん直接お話しすることも少ない人たちとも一献交わしながら…というレベル。もともと会社をあげての大宴会が好きではない私としては助かってます。

いずれにしても、そういう「人との会話」が主体の社交の場で、必要以上に場を盛り上げるためのゲームはいりません!

ひところ流行った、「ネルトンパーティ」 (★注…トンネルズというお笑いコンビが進行役となり、男女の集団お見合いをさせるような番組をヒントにしたもの)よろしく、初対面の男女が緊張してなかなか話すきっかけがつかめないかもしれないので、場の空気を和ませ、うちとけあって距離を縮めるのに何かゲームで盛り上げよう、という意図なのでしょうか?

そういう幹事さん・主催者のあたたかい「配慮」なのかもしれませんが…
はっきり申し上げて余計なお世話です! 
そんなに張り切って「さあ、みなさんで〇〇ゲームをやりましょう」などと盛り上げていただかなくてもいいのです!
むしろせっかくの会話を中断され、無理やりゲームに集中させられて、意味もなく盛り上げ、うるさいだけで迷惑だと感じることがほとんどです。

そもそも参加者の会話で盛り上がるのはいいですが、べつに会場全体を無理やり盛り上げてくれなくてもいいんです!だいたい奇声をあげて盛り上がらないと楽しく飲食できないという発想がおかしい。
べつに景品がほしくて参加してるんじゃありません。もし高価な商品や旅行券などが当たればラッキーかもしれませんが、同じ参加費を払って景品の当たる人と当たらない人との不公平感も拭えません。その景品代をむしろ食事に上乗せしていただいた方がいいと思ってしまいます。


素敵な会合は参加者全員が主役

ビンゴゲームでトークや景品引き渡しまで含めたらあっという間に30~40分は費やされるでしょう。その時間で、もっと有意義なことが考えられないでしょうか?

たとえば私なんかは、せっかくその場に集まった方たちがどういう方たちなのか、もっとお互いのことを知りたいと思います。

講演会でもミニコンサートでも、そこに参加される方は出演者や主催者の知り合いだったり、どこかでその行事の情報を得て興味をもって来場された人たちです。

会が終わってからそれぞれ個別に出演者や主催者に花束やプレゼントを渡して立ち話しするだけ。
この広い世界で、わずか何十人かが同じ時間・同じ場所に集い、共通の人(出演者や主催者)もあり、テーマへの興味も共通しているのに、まったくお互い話もしないで知り合うこともなく散っていくのはもったいないと思うのです。

主催者側の一方的なトーク、用意されたプログラムだけで終わるのではなく、きょうここに集まっている人のこともちょっと紹介したり、できればひとりひとりが1~2分で簡単に自己紹介し、そのあと興味のある人と自由に歓談できる時間がもてたら素敵だと思うのです。

20人程度ならひとり2分ずつ自己紹介しても40分、ビンゴゲーム並みの時間でできます。

1~2分ですから、所属や仕事の経歴、あるいは個人的な趣味のことを延々と喋られたら困ります。また単に所属・名前だけでなく「私はどういう人で、なぜ今日ここに来たのか、誰とどんな関係なのか、いまどんなことを考えて目指しているのか」といったこと(=今ここに来ている「あなた自身」のストーリー)を、その場に集まった人たちに1~2分で簡潔に分かりやすく伝えられるか…?

ちょっとしたセンスと訓練も必要かもしれません。そういう機会が少ないから慣れてない方もいらっしゃるでしょうが、簡潔に「自分を語る」って大切なことだと思いませんか?
→ 人をつなげる力=「物語」


お決まりのプログラムを押し付けない

宴会での安易なゲームによる盛り上げを「反面教師」とするならば…

こういう場でこういう人たちにはこれをやったらウケるだろう…などと安易にお決まりのプログラムを押し付けないことです!

いま学んでいる音楽療法でも、認知症のお年寄りにはこういう曲でこんなことを、発達障がいの子供にはこういう曲でこんなことを…と仮のプログラムを組むことはあります。

病気や障がいについて理解し、そういう人にはどんなことを提供したらよいか、どんな効果が期待できるか…という風に考える上で、仮のプログラムとして考えてみるのはたしかに無意味なことではありません。
手足を動かす運動を、ただひたすらノルマのようにやることは難しくても、音楽に合わせてやれば楽しく、みんなでできる、というメリットはもちろんあります。

でも、その人の生きてきた生き様、幼少や青春時代の思い出、音楽の好み、音楽的な経験…それらはそれこそ人それぞれ。その時その時の気分によっても、いまはこういう曲を聴きたい・聴きたくないもあるはず。

与えられた時間枠の一部に「さあ、みんなで~~をやってみましょう」はあってもいいですが、お決まりのパターンでそれだけをずっとやられたり、次から次へと「はい、あなたにはこういうことがいいでしょう」と勝手に決められたことばかりを繰り返されたらたまったものではないでしょう。

これは福祉や医療の世界に限らず、世間一般の「子供向け」「お年寄り向け」にも言えることだと思います。
たしかにお年寄りに「ドラえもん」じゃないでしょうし、保育園ぐらいの子どもに「演歌」でもないでしょう(「園歌」!?)

でも、相手は子どもだからこういうものを与えておけばいい、お年寄りはこうすれば喜ぶだろう…という安易なお決まりのパターンに流れてはいけないと思うのです。

<余談>
私は子供のころから鉄道が好きでした。そういう番組や写真集も見ていました。
ですから、どうして子供向けのおもちゃの機関車は、あんなに赤や緑などカラフルなものばかりなんだろう?と思ってました。イギリスなど外国にはカラフルな蒸気機関車もいますが、日本では圧倒的に「機関車といえば黒だろう!」と。子ども扱いされてお決まりのものを与えられることが本当に嫌でした。


子供向けだからこういうもの、こういうお話し、こういう歌…etc. お年寄り・障がい者への福祉は…etc. テレビ番組でも、子ども向け番組、福祉の番組、それぞれがまるで行政のタテ割りのようになっているように思います。

アメリカの「セサミストリート」などを観ていると、子ども向けの番組でありながら、かつての映画の大スターやミュージシャンなどが着ぐるみのキャラクターと一緒に登場したり、車いすに乗った人がストリートバスケットをやっていたりします。
子どもも大人もお年寄りも障がいのある人も、社会の中では一緒なんですよね。

日本でも、新美南吉の「ごんぎつね」「おぢいさんのランプ」「てぶくろを買いに」など、大人が読んでもなにか大切なことを考えさせられるようないいお話もいろいろあります。
映画でも音楽でも、本当に素晴らしい作品は、子供が見ても大人が見ても感動できるはずなのです。

むしろ、分かりやすいかどうか、いまそこにいる対象者に適切な題材かどうか、といったことの方が重要ではないでしょうか?

人にはそれぞれ価値観がありケースバイケース。一概に年齢層や症例でくくったり、宴会芸やゲームのようにお決まりのパターンで企画すればみんな喜ぶだろうと安易に決めつけてはいけないとあらためて思うのです。

お決まりのプログラムでその場だけを盛り上げようとするより、もっと「人」として「人」と向き合い、「自分を語る」ことにもっと重きを置いてはいかがでしょうか?



本質を見失わないで

10月19日(日)

安倍改造内閣がスタートして早々に、女性閣僚による問題が次々と報じられています。
法務大臣のうちわ問題、経済産業大臣の政治資金の私的流用の問題…etc.

目玉であったはずの女性閣僚の登用にスタート早々につまずき、安倍首相の任命責任が問われることは必至でしょう。安倍政権そのものが国民に信を問われる時が遠からず来る…そこは私もひそかに期待していることです。

しかし、政治資金問題の発覚した閣僚だけを責めるのではなく、これを機に「政治とカネ」を根本から問うべきではないでしょうか?
世界でも類を見ないほど高い議員報酬・諸手当・特典を見直し、大企業や経団連とべったりの政治ではなく、本当に世のため人のための政治を志す者だけが議員(政治家)に立候補するようにしなくてはいけない、というのが私の考える本質論です。

→ 大企業中心の「政治とカネ」に根本からメスを!


靖国はなぜ問題なの?

そして、もうひとつ本質を問う意味で、高市総務大臣をはじめ3人の女性閣僚が靖国神社に参拝した問題。
「それぞれの自由に、自らの心に従って行うものでございます。外交問題になるようなものではございません」とおっしゃってるようですが、この問題の本質はどこにあるでしょうか?

「極右だ」などと一喝する声も聞かれますが、そもそも右とか左とかは私にはよくわかりません。
それより、靖国神社とはどういう場所で、閣僚が参拝するとなぜ問題になるのでしょうか?

サイトでも圧倒的に多いのは「靖国にはA級戦犯も合祀されているから問題なんでしょ?」という声です。ではその方たちに問います。あらためて、A級戦犯とは何ですか?

戦後GHQが行った東京裁判で、平和を犯した罪に問われ、絞首刑となった東条英機をはじめとする7人の「戦犯」ですね。
その東京裁判の席で、アメリカの弁護士がある重要な動議を出したことをご存じでしょうか?
戦争そのものを国際法で「違法」とする規定がないのに、戦勝国が敗戦国の戦争犯罪人を裁くことに妥当性はあるのか、という歴史に残るきわめて重要な動議です。
しかしこの動議は否決され、裁判は続行。東条英機をはじめとする7人が絞首刑となって幕が引かれました。
(↓ 下記のリンク「あの戦争は何だったのか?(1)A級戦犯とは」参照)

いずれにせよ、日本人自身が「あの戦争は何だったのか?」を問いかけ、責任の所在を明らかにして裁かれた人たちではない、ということです。
当時の軍部の圧倒的多数は参戦論だったばかりか、国民もみないけいけムードで、戦争反対や命の大切さを訴えようものなら「非国民」と言われたのです。

戦後アメリカにべったり寄り添って経済成長を続けてきましたが、日本人として過ちを反省し、平和を誓って戦後をスタートさせたと本当に言えるでしょうか?
A級戦犯だけを「悪者」にしておしまいですか?
そのA級戦犯も一緒に祀られてるから靖国神社は問題だというのでしょうか?

閣僚が靖国神社を参拝することの根本的な問題は、そこではないと私は思っています。


日本軍人だけを祀った靖国は、真の平和祈念の場ではない

靖国神社は、日本の軍人(A級戦犯も含む)だけを英霊(神様)として祀ってある場所なのです。
非戦闘員の女性や子供やお年寄り、名前も分からない無名戦没者の霊は祀られていません。また、朝鮮半島(今のように北も南もない)から駆り出されて日本のために戦わされ亡くなった方の霊も入っていません。

千鳥ヶ淵にある無名戦没者の碑に手を合わせ、すべての戦争犠牲者の霊に向かって「過ちは繰り返しません」と平和を誓うのであれば、中国や韓国も怒るはずがありません。

こともあろうに、日本の軍人だけを「英霊」として祀ってある靖国神社を参拝し、「日本の繁栄のために犠牲になられた人」に手を合わせ、「心の問題だ」「内政干渉だ」などと発言するから問題となるわけです。
公式参拝か私個人かを問題にされますが、現職の閣僚であることに変わりありません。

一般の人で、かつて軍人だった父親や祖父や知人の霊が靖国神社に祀られている人もいらっしゃいます。そういう人たちがあくまで個人として参拝する、あるいは春の桜や夏の御霊祭を見に行って幻想的なろうそくの灯りを眺めるのとは意味が違うのです。

→ 「閣僚が靖国に参拝 またしても日韓、日中に亀裂!」
(2013年4月に書いた記事です)


私も戦争体験のない世代ですが、学校ではあまり教わらなかったことも含めて私なりに調べたこと、思うところをブログにもつづってきました。

→ 「あの戦争は何だったのか?(1)A級戦犯とは」

そのあたりをきちんと認識しないまま戦後を突き進んできたことが、国や組織の過ちを冒しても誰も責任をとらず、国民に隠ぺいし、あいまいにトカゲのしっぽ切りで幕を引こうとする無責任な体質を温存してきたのではないかと…

→ 「あの戦争は何だったのか?(2)誰も責任を取らない」

いずれも去年の夏、終戦記念日のころにつづった記事です。


誕生日に想う ~きちんと表現する力~

9月26日(金)

お陰様で、本日57歳の誕生日を迎えました。
 
子どものころは、誕生日を「おめでたい日」として祝ってもらいますが、大人になって人生も後半戦に入ってくると、誕生日は嬉しくない日ともなりがちです。

でも、またひとつ歳をとることが嬉しいか嫌かではなく、私という人間をこの世に送り出してくれた今は亡き両親に、私が育つ過程でお世話になった多くの皆様に、そして今日まで無事に生かされきたことに感謝の気持ちを新たに。
そして今の私なりになにか活かせることをあらためて考えてみる…誕生日ってそんな日じゃないかと思うんですね。

いま私には、こうしてプライベートに思うところを自由に綴れるブログという表現手段が与えられています。
なにをどう書いても自由です。身近な楽しい話題、美味しい話題もいいですが、せっかく発信するならちょっと社会にも目を向けたテーマについても私なりに発信していきたい。
 
音楽の話題ももちろん好きですが、音楽を通じて社会にも窓を開けていたい。

単に他者を批難して蹴落とすことではなく、きちんと自分の意見をもち、人にもそれが伝わるように表現して発信していきたい。

「文章」の「章」という1文字を授かった私なりに、「きちんと表現する力」をこれからも探っていきたいと思います。
そんな今日の私から、最近よく耳にする言葉について考え、差別や偏見のない世の中になって欲しいという願いを込めて綴ります。

どうか今後ともよろしくお願いいたします。


◆ヘイトスピーチ


私はその言葉そのものからして好きになれません。
国際的にもレベルの低いと言われている日本のヘイトスピーチに、今の日本を情けなく思い、日本の将来を憂う気持ちでいっぱいになります。

いくら言論の自由とはいえ、政治家や政党、韓国や中国など他国の人を10羽ひとからげにして汚い言葉で攻撃して排斥しようとする、非常にレベルの低い表現手段だと思います。
後に書きますが、あれはまともなコミュニケーションとは言えないと思っています。

公衆トイレの落書き、2チャンネルのレベルの一方的な罵倒を、姿をさらした状態で発しているようなもの、とでも言ったよいでしょうか?

おそらくヘイトスピーチに走る人たちというのは、社会に対する何らかのビジョンを持っているわけでもなく、「せめて自分に何かできることを」と行動を起こすこともなく(←ヘイトスピーチをすることが唯一の行動とだったりして?)、無責任な罵倒によって単に自分の日ごろのストレスを発散しているのではないかと。

政治家の中にも少数派ながらいい政治を目指している人もいますし、韓国や中国の人たちともし個人的ないい友達がいたら決して言えないようなことを平気で言えてしまう、とても哀れな人たちだと思いますね。


相手を知らずして

「国」対「国」、以前に、「人」対「人」だと思うんです。
たとえば音楽やスポーツを通じて、あるいは単純に飲み友達としてでもいい、「人」としていい信頼関係で共感できる外国の友達が一人でもいたら、相手の国全体をけなしたり相手の国民全体を否定して憎むような発想は決して出てこないはずです。
相手の民族・国を否定するような発言というのは、相手国のことを何も知らないから言えるのです。

相手国(たとえば中国や韓国)の人の中にも、両国間の政治的な問題、あるいは過去の歴史認識に関する問題などから「日本人は嫌いだ」という言動をとる人たちもいますが、日本の科学技術や日本人の優れた面を分かる人は日本に滞在し、日本語を話し、日本人のよき友人も作っています。人としてどちらが豊かでしょうか?

政治・外交レベルではなく、あくまで個人の「人」として見ることができたら、政治・宗教・イデオロギーの違いを超えていい友達になれるはず。
私などは、例えば音楽を通じて中国の人たちとも、韓国の人たちとも、北朝鮮の人たちとももっともっと仲良くできると思うんです。日本の音楽や文化の多くは中国から朝鮮半島を経て教わった部分が大きいのです。音楽や楽器を通じてもっともっとアジア諸国と仲良くできるはずです。

そういう発想を持てない人たちが、単に政治・外交的な情報だけを得て、例えば竹島問題や尖閣諸島問題だけを見て、自国の主張だけに固執するから相手国が憎くなるのでしょう。

こういう発想の延長で、相手国をろくに知りもしないまま憎み、相手がこちらを敵対視するから嫌いになり、相手国を憎むことに同調する者同士が結束し…かつての日本の過ちを繰り返す道にも通じるように思えてなりません。
戦争への道に限らず、あらゆる差別・偏見もそういうところから生まれるのではないでしょうか?


国際世論を追い風に

とくに最近の日本のヘイトスピーチは国際的な目で見てもレベルが低く汚いようです。
国連の人種差別撤廃委員会が、日本政府に対して刑事訴追を伴った法規制を強く求めているそうです。なんとも情けない話ではありませんか。

そうした国際世論も背景に、ヘイトスピーチに対してなんらかの規制を考える動きも出ています。
いまの現状では悲しいかな、規制もやむを得ないかと思います。
でも規制には少なからず「言論の自由」「表現の自由」への制約という面が背中合わせです。

たとえば、政治的無関心から抜け出して「国民のための政治」「民主主義の原点」を訴える健全な表現活動としてのデモまでも規制しようとする動きもあります。
どうして事の本質をはき違えるのでしょうか…?

ただこの一例からも分かるように、まともな表現と、そうでないヘイトスピーチのような誤った表現をどこでどう線引きするか?…あらゆる規制やルールづくりでももっとも難しいところですね。


ヘイトスピーチの深層を斬る

上から一律に命令する形での「規制」ではなく、もっと本質的に見てどうしたらヘイトスピーチをなくせるのでしょうか? 

先ほど書いたように、ヘイトスピーチは、相手のことを直接知らない、理解しようとすらしないから無責任な発言ができてしまう面があります。
ヘイトスピーチをしている(しかできない)人たちには、もっとグローバルな視点を持っていただきたい。

それともうひとつ、汚い言葉で無責任発言をしたくなるのは、日常的にかなりのストレスがたまっていることが想像できます。
世の中に対しても、自分の身の回りにいる人たちに対しても、おそらく「バカヤロー」的なストレスを常々溜めているのではないかと思うのです。

そのストレスは、表現力の貧しさとも密接な関係にあると私は思っています。
表現力のある人はそんなにストレスはたまらない、まともな表現力がないからストレスがたまる…つまり「表現力とストレスとは逆の相関関係にある」ということです。

自分の所属する会社組織内でも、地域やサークルの活動の中でも、個人的な友達同士でもそうですが、自分のやるべきことをちゃんとやり、相手のことや全体のことを思い、自分なりに良かれと思うことを提案して行動に示している人なら、お酒の力を借りなくてもこちらの思いをきちんと相手に伝えることができるはずです。

相手の人格を否定したりけなしてつぶし合う喧嘩としての議論ではなく、相手も尊重しつつこちらの立場・思い・提案をきちんと相手に伝えることができるかどうかです。

相手や全体のことも見ず、現状にもし不満があるなら「どうしたら良いか」という提案もなく、それを相手に伝える表現力もない…ストレスが溜まるのも無理はありません。


きちんと表現する力(=真のコミュニケーション力)

ヘイトスピーチからちょっと話はそれますが、人としてのコミュニケーション力について。
いまは携帯やスマホ、ライン、サイトなど、一昔前に比べたらそれこそコミュニケーションの手段は無数にある恵まれた時代です。

どんな場面でも「コミュニケーションを大切に」と言われますし、コミュニケーションの大切さを否定する人はどこにもいないでしょう。
また、親しい友達を集まって徹夜で騒ぐなど、コミュニケーションの嫌いな人はおそらくいないのではないでしょうか?

ところが、本当の意味で上手にコミュニケーションができているでしょうか?
会っているその場の「お喋り」では盛り上がれても、少し離れたところにいる人ときちんと会話を交わせるかどうかは別です。
相手が問いかけてきたこと、相談してきたこと、見ておいてほしいと案内してくれたこと…それらに対して、離れていても相手の気持ちを思い、相手は今どういう情報を待っているのかを理解し、投げられた球はそこそこのタイミングで返す…それがきちんとできてこそコミュニケーションです。

せっかくメールやラインという素晴らしい手段があるのに、メールをしてもいつまでも見ていなかったり、見て自分さえ分かったら「了解しました」のたった6文字の返信すらなく、二言目には「忙しくて、バタバタしてたんで…」。「忙しい」という字は「心」を「亡くす」と書くんです。

また業者さん等に連絡し、事情を説明し、何かを依頼し、その後どうなったかは向こうからの連絡を待っていても、いつまでたっても返事がこない。はじめは「まだ忙しいのかな?」「もう少し待ってみよう」だが、時間がたつにつれ、「あれ?どうしたんだろう?」へ、さらに「いったい何やってるんだ!」へ。
ついにこちらから「その後どうなったんですか?」と尋ねると、担当者が代わってたり、話がまったく通じていなくて止まっていたり…

仕事ができるかどうか、会って接している時に「いい人」かどうか以前に、きちんとしたコミュニケーションが取れない人が一部にいることによって、なにかとストレスになっていくことが多いように思います。

繰り返しますが、コミュニケーションは単に会ってるその場のお喋りだけではありません。
こういう時にはどう返したらいい、こういうことは何日以内に返信…といった社交辞令のマニュアルでもありません。
相手が投げてくれた球をきちんと受け止める。相手がどういう気持ちでこの球を投げてくれたのかを理解する。それに対してそこそこのタイミングできちんと返す。いわば気持ちのキャッチボールだと思うのです。

それは必ずしも文字や音声による言葉だけとは限りません。
たとえばバス停に来たバスやホームに入ってくる列車に「私は乗りません」ということを列の後ろに並んでいる人にも分かるように、一歩身を引くとかちょっと振り返るといった「しぐさ」でも意思表示になります。また目の前に座っている人が立ち上がろうとしていたら目の前に立っている人は身体ひとつ分よけて通れるように。自分以外の他者を思いやり、こちらの意思を伝えようとする気持ちがあるかどうかです。

このあたりは、この「コミュニケーション」というカテゴリ内に以前にも書いた記事がありますのでご参考いただければ…
 → 「気持ちに応えるタイミング」
 → 「未熟な大人から素敵な大人へ」

その他、この記事を含むカテゴリー「コミュニケーション」をさかのぼってご覧ください。



冒頭にも書いたとおり、汚い言葉で一方的に他者をけなして否定するヘイトスピーチは「まともな表現手段」「コミュニケーション」とは言えません。
「相手に伝える」というコミュニケーションの基本から逸脱した、単にわがままで一方的なストレス発散。 そこにまた感情論で同調し、汚い言葉を発することでもやもやが晴れてすっきりするとしたら、なんと無責任で貧しい精神構造でしょうか?

人としての基本的な能力、コミュニケーションの力を磨くことが、ヘイトスピーチを、ひいては差別や偏見をなくしていくことにもつながると私は思います。



プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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