あまりの商業ベースは、豊かさを奪う


★4年前、2012年の記事をあらためて掘り起し、リライトを加えました。


◆古き良きもの

それも単に博物館のガラスケースに大切に保管されているだけでなく、ちゃんと生きた状態で使われてこそ価値があるというもの。

弦楽器の名器ストラディヴァリウスは、300歳を過ぎた今になってますます音色を輝かせてくれます。木の乾燥具合、一説によるとカビが音の秘訣とも言われますが、いずれにしても素晴らしい持ち主によって音の命を吹き込まれてこそその価値は輝くのです。

イギリスでは蒸気機関車など過去の「産業文化財」を大切にしようとする意識が社会全体に定着しています。日本でも最近は蒸気機関車の動態保存は各地で行われ、もと国鉄職員や職人さんたちが部品の鋳造から釜の手入れまで大変なご苦労をされ、まるで生き物のような蒸気機関車の魅力を子供たちにも伝えてくれています。

われわれの身の回りでも、古き良きもの、その心を大切にしたいですね。



少し前に「カッコウ時計(はと時計)」の記事をこのブログに書きましたが、カッコウ時計は1870年代にドイツの小さな街・シュバルツバルトで誕生しました。

重りの力で機構を動かし、中には2本の竹笛と吹子(ふいご)による小さなパイプオルガンのような仕掛けを内蔵し、定時になると扉が開いて鳥が顔を出して時刻の数だけ「パッポウ」と鳴きます。

まさに遊び心を職人さんが本気で形にした素晴らしい文化ですね。
シュバルツバルトには今でもカッコウ時計の協会があり、100年ものの時計を大切にメンテナンスしてくれると聞きます。

(→ 「カッコウ時計」 の記事)
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ところが最近の日本では、街の時計屋さんでもデパートでも、ほとんどの時計は電池式のムーブメントを内蔵したものばかり。ぜんまい仕掛けの時計は注文しないと手に入りません。
 
まあ、それはいいとして…
♪「おじいさんの時計」のような「100年休まずに…」とまではいかないまでも、時計は何かの記念に買って贈られ、末永く使うもの、ではなかったのでしょうか…?


たった半年でお別れした「はと時計モドキ」

今年(2012年)の春、娘の誕生日に電池式の「はと時計モドキ」を買ったのですが、わずか半年足らずで不具合が起き、修理に出す際に故障の原因について説明を求めたのですが、なんの回答もなく新しく来た“代替品”には別の不具合が!

買ったお店は量販店で、修理はおろか、商品の内容はまったく分らず、ただメーカーの工場に修理に送って、戻ってきたら連絡してくるのみ。
教えてもらったメーカーの窓口に問い合わせても、技術担当でないと何がどういう不具合だったのかも一切分らず…

けっきょく技術(修理)担当者まで電話で追いかけ、説明を求めたところ、不具合の原因は、ABS樹脂(プラスチックの一種)の歯車が割れたことが原因とのこと。肝心な稼働部分が、金属の歯車ではない…?

そして修理から戻ってきて動かしてみたら、また別の不具合(=小窓の開閉がひっかかる)。
納得できなかった私は、その技術担当者と営業担当者を呼び出し、説明を求めました。

また分解しないと見えない他の可動部分のパーツにも、驚くべきところが金属ではなくABS樹脂が使われていることも分かりました。 

いまもし新品の同機に交換してもらっても、また同じような不具合が起きる可能性もあるし、一年以内の保証期間内なら修理も可能だけど、ある期間を過ぎて新しい商品になったらこの型は製造中止となり、部品を保管しておく一定の期間が過ぎたら、もはや修理もできなくなる可能性も大ですね?」と問うと、営業担当者も技術担当者も返答に困ってらっしゃる。

これでは、娘の誕生日の記念としては意味をなさないと判断し、半年間わが家で鳴いてくれた記念の時計への愛着もありましたが、結局のところ「返品」とさせていただきました。


基本的な操作ができない新製品

時計に限らず、カメラしかり、ラジカセ(←古い…笑)しかり…

昔ほど「高級品」ではなくなって量産化が進んだのはいいことですが、すぐ壊れる。修理を頼もうとするともう今は製造していなくて部品がない、「修理するよりも新しいものを買った方が安いですよ」という時代。

それだけではありません、本来その道具が備えていたごくごく基本的な機能、実際に使う人が、それまで当たり前のように使ってきた基本的な機能がどんどんなくなって、見た目・流行りの売れ筋だけで、画一化した同じような商品ばかりになってしまうのです。

例えば、先ほどの古い話ですがラジカセ(ラジオも聞けるカセットテープレコーダー)。
テープのA面とB面をひっくり返して入れる原始的なタイプからずっと愛用してきた私は、FM放送で流れる音楽を録音したり、音楽のリハーサルを生録音したりしてきました。

カセットの取り出し口は透明のアクリルで、中のテープの回転・テープ残量がよく見えてました。また、アナログで3ケタの数字が回転し、リセットすると「000」になるカウンター。録音中でも再生中でもリセットボタンを押して「000」にしておいて、後で巻き戻してその箇所を探すのにも、テープの残量を知る目安にするにも、何かと便利な機能でした。

ところが、ダブルカセット(=カセットテープが2本入り、一方を再生してもう一本のテープにダビングできる)や、オートリバース(=A面サイドの再生が終わると、自動的にヘッドが回転し、テープが逆回転してB面サイドを再生してくれる)になると、それまでの基本的な機能が消えて私には使いづらいものとなってしまいました。

車の中で聴くような場合、A面が終わりまで行ったら、いちいちテープを取り出してひっくり返して入れ直さなくでも自動的にB面になってくれたら、たしかに便利です。

また、テープを友達にコピー(ダビング)してあげたい場合、それまでは2台のラジカセを用意して「出力」から「入力」へラインをつないで、一方を「再生」に、一方を「録音」にしてやるしかなかったけど、ダブルカセットなら、1台の機械にテープを2本入れ、再生・録音ボタンひとつでダビングができる、しかも倍速でやってくれるから時間も半分で済む…たしかに便利です。

だれでも簡単に、ある決まった使い方だけなら便利で簡単でいいでしょう。でも、でもです。

本来エアチェック(=放送を録音)するにしても、生録するにしても、テープの途中で止めたり、自分の入れたい途中の箇所から別の音楽を録音したい、これはA面に録音したい、こっちはB面の途中から(例.この曲の次に)入れたい…といったことは当然あったわけですね。

あと私がよくやったのは、手元に片面60分のテープしかなくて、FM放送で録音したい交響曲の演奏時間が70分、という場合…
3楽章まで終わったら、客席でごほんごほんと咳払いのする隙間時間に素早くテープを取り出してB面にひっくり返して再び録画ボタンを押す、ということをやれば、1曲全部録音できたんです。

ところが、オートリバースではこの芸当はできなくなりました。そればかりか、入れたテープがどっち方向に回り出すのかも分かりません(ボタンを1回押すと、いま回っている方向を逆転させてはくれますが、いま録音・再生ボタンを押したらどっちに回り始めるかは分かりません)。
またデザイン優先のため、カセットののぞき窓がサングラスのように黒くなっているものが多く、中のテープが今どっちに回っているのかも、残量がどのぐらいあるのかも見えなくなってしまいました。

編集もなにもしないで、ただ繰り返し聴くだけ、まったく同じテープをもう一本作って人にあげたいだけ、機械の操作は苦手…そんな人にはいいかもしれませんが、すべてがそうではないはず。
なんでもイージーに使える、お決まりの使い方しか想定されてないものばかりが市場のほとんどを占めてしまうのです。私のような使い方(=本来の録音)をする人たちは、みなさん口をそろえて「使いづらい」と言ってたはずです。

技術的にはできないことではなく、新しく付加された機能よりむしろ単純なことなのに、それができない。
もしその機能を要求するなら、一部の「マニア向け」と称する「高級機種」に限られてしまう。
私の要求って、そんなに規格外なんでしょうか!?


「売れるものを作る=売れるものしか作らない」…無責任!

商品を開発するメーカーも、小売店も、ただ人気があって売れる商品一辺倒になってしまっています。
小売店は、扱っている商品に関する知識もない、修理する技術もない。かつての街の時計屋さんや靴屋さんは偉かった!
いまはみんなが代理店。ただ人気商品を仕入れてきて、並べて売るだけ…? 

そして製造元のメーカーも、販売店も、量産のラインに乗ったものを一定の数作って流せばいい。
新製品が出る情報は伏せて旧製品の在庫を一掃しようとする。

基本的なメカは旧製品と共有されて引き継がれていればまだしも、全く新しい方式のものがどんどん出てくるとそれまでの基本的な機能がどんどん消えていく。修理などのアフターケアも含めて、旧製品のユーザーへのフォローはほとんどない。
 
使う人のこと、道具を愛して長く使いたいと思う人の気持ちなどまったく関係なく、古い部品はどんどん一掃して新商品開発… いわゆる「売りっぱなし」状態…無責任ですよね!


クリスマスを過ぎると市場から消えるポインセチア…これも商業主義?

正月明ければ2月の「節分」で豆まき・恵方巻き一色、それが過ぎると「お雛さま」一色に…
秋になれば「ハロウィン」一色、ハロウィンが終われば「クリスマス」一色に…

デパートからコンビニまで、季節ごとの商戦は過熱する一方ですね。
しかし、「そのイベント」を過ぎると、本来あるはずのものが手に入らなくなる!

もう何年も前の話ですが、お正月にウィーンから生中継される演奏を届ける音楽番組「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」を何年か担当したことがあります。
ある年、ウィーンのコンサート会場ではポインセチアをメインに飾るとの前情報を受け、生中継を受ける東京のスタジオでもテーブル周りにポインセチアを飾りたかったのです。

ところが…

クリスマスを過ぎると花屋さんの店頭からはもちろん、卸しからも生産者からも、すべてのポインセチアが花の市場から消えるんですね!

真夏にポインセチアやシクラメンを要求してるわけではないんですよ!
(もしドラマの収録で季節外れのものを要求されたら、それこそ初めから造花で対応したでしょう)
それが、クリスマスからまだ1週間しかたってないのに、まったくどこにもない…?

クリスマスを過ぎて正月を迎える時に買う人はほとんどないから?…はい、必ずしも売れないものを店頭に並べてくれとは言いません。しかし、花屋さんから市場に問い合わせてもらってどこにもなく、生産者のもとにもないんです!
それも、100鉢とか大量の発注ではなく、ゲストテーブルの前にならべるせいぜい10鉢すらない。なんで!?

栽培農家に残っていたものもすべて焼却処分され、市場でも一切取引してはいけない、なんて禁止令でも敷かれてしまうのでしょうか!?

クリスマス前に鉢植えにされたものでも、わずか1週間で枯れてしまうなんてことはないはずです(←ポインセチアの赤く見えている部分は「花」ではなく「ガク」なので、けっこう長持ちし、以前私の実家で母が買ってた鉢植えは年明けの2月ごろまで元気でした)。

少なくともウィーンではステージいっぱいに飾られているものが、日本の市場からはクリスマスを過ぎたとたんにすべて消滅してしまうのは、あまりにも商業主義に走り過ぎてるのではないでしょうか?

しかたなく、その年は赤と白のバラをスタジオ一杯に飾りました!
常設番組の基本セットを使ったので、美術予算の大半を「花」にあてたのです。
巨大な花輪で“パチンコ屋さんの開店祝い”にならないように(笑)、テーブルやバックにちりばめて…

朝からスタジオ中がバラの香りで満たされ、匂いに酔う人が出ないか心配したほど。
でも喜んだのは出演者だけではありませんでした。お正月のその番組のために出勤した照明さん・音声さん・番組スタッフ(ほとんど男性)も、収録後はみなさんバラの花を抜いて紙に包んで持って帰られました。

災い転じてなんとやら…。私の現役時代の思い出のひとつです。
(業務上知り得た守秘義務はもうとっくに消滅してるので書かせていただきました)



このような私の価値観って、おかしいんでしょうか?
「売れるものしか置かない、それは当たり前じゃん」なんでしょうか?
驚いたり、嘆いたり、ちょっと文句を言いたくなるのは間違ってるのでしょうか…?

あまりにも市場原理・経済の原則ばかりが優先され、どんどん使い捨て商品を産み、画一化されたものだけとなり、人の想像力も精神的な豊かさも奪われてきたような気がしてなりません。

古いものだけに固執するつもりはありません。最新技術も素晴らしい世界を切り開いてくれます。
でも、モノと人との関係って何なんでしょう?
ただ売れるものを並べればいいのでしょうか?

本来のモノが持っていたはずの基本的な意味、備えていたはずの基本的な機能、それを使う人たちのモノへの愛着、そこから広がる想像力…

企業としての利益、商売の成立ももちろん大切でしょうが、人として大切なことを商業主義はどんどん奪ってきたのではないでしょうか?


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震災5年目の独り言

3月11日(金) 


今日・明日の生活もギリギリの人が、生きるために必死に働き、自分のことでいっぱいいっぱいになる…これは仕方ないかもしれません。



では、お金持ちになれば余裕ができて、弱い立場の人のことを思い、世の中の不条理を怒り、どうしたら少しでも良い世の中になるかを考えるようになるのでしょうか?

いまの権力者や大企業の偉い立場にある人たちは、そうなっているでしょうか?

むしろ富める者の方が、ますます自分の懐を肥やすことばかり考え、
カネカネカネの虫となり、庶民の感覚から大きく外れ、
弱きものの気持を思いやる想像力も人としての心も失っていくことが多いのではないでしょうか?



ならばせめて、特別にリッチではないけど、まあまあ衣食住にはこと足りている人が、マネーゲームや目先の快楽だけを追い求める生き方からちょっと外れても良いんじゃないでしょうか?

人と比べてもっと欲しいと思う欲はほどほどに、
自然や芸術、美しい人の心に目を向け、
自分より弱い人のことを思い、
世の中の不条理を自分にも大いに関係ある問題としてとらえ、
正しく怒り、
職場の上の立場や権力などに一切臆することなく、
人として当然のことを堂々と言い、
きちんと言えるためにさまざまなことに興味をもって学び、
学びながら考え、考えながら発信し…



知りたいと思う好奇心と、ほんの少しの想像力と、自分より弱い人たちへのほんの少しの思いやりと、まともなことをきちんと言えるほんの少しの勇気をもって。

「余裕の偽善者」などと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず…

そういう人に、私はなりたい。



…震災から5年目、深夜のひとりごとでした。

アベノミクスは「投資のすすめ」 ~本当の豊かさとは?~

2016年3月6日(日)


私は経済が専門ではない。しかし、中学・高校生ぐらいの常識で見ても、最近の新聞に報じられることの中には、国の舵取りとして「本当にこれで良いのだろうか?」と思われることがたくさんある。
私がこのブログをはじめた2010年の秋から、この「★豊かさとは…?」というカテゴリーを設けて書いてきたこととも重複するが、ここ2~3年を振り返りつつ、あらためて見てみよう。


トリクルダウンのトリック

インフレ政策、大企業が儲かり、経済界が活性化することで、国民の下々まで豊かになる…これがアベノミクスの唱えるトリクルダウン。ここ数年、みなさんの実感はいかがだろうか?

トリクルダウン

大企業を優遇し利益を上げさせても、肥えるのは上ばかりで、下々にはまったく降りてこない。それどころか、むしろ格差が拡大し、貧困層はますます追いつめられているというのが多くの実感ではないだろうか?

街でインタビューすると「給料は上がっていかない」「豊かになった実感はない」という声がほとんど。
むしろ、物価は上がる、消費税も上がる、介護手当がカットされるなど福祉政策は切り捨てられる、年金の受給年齢が引き上げられたり受給額が減らされる、医療費の自己負担も増える…むしろ将来の不安は増すばかり、という声が多数を占めるようだ。

なぜこういうことになってしまうのか?
いくつかの角度から私なりに見てみることにする。


◆子育てママの悲鳴・怒り

先ごろネット上で「保育園落ちたわ、日本死ね」という書き込みが話題を呼び、反響が広がっている。
たしかに言葉遣いは汚い、論理性に欠ける、苦しいのはあんただけじゃない…といった批判の声もあるが、子育て世代の母親たちからは共感の声が多い。
→ 『保育園落ちた日本死ね』投稿は私です」

この話題、1週間以上前からネット上で見て知っていたが、表現の仕方などに賛否両論あるだろうと思い、しばらく静観していた。だが、この人が本当に言いたいことには共感できるところが多く、私なりのコメントとともにフェイスブックにシェアしたところ、思わぬ賛同をいただいた。みなさん私と同様、この投稿者の「心の叫び」に賛同されてるようだ。

安倍総理は国会での答弁で、待機児童の増加を「うれしい悲鳴」などと発言し、民主党の山尾議員に厳しく追及された。
私はべつに民主党の支持者ではないが、この山尾志桜里(しおり)議員は、ミュージカル「アニー」で初代主役を務めたのち、東大法学部を卒業し、司法試験に合格して検察も務めた経歴もある才女で、厚生労働のスペシャリスト。
論理性にブレもなく、国民・庶民の目線に立っている。安倍総理と一騎打ちをしても一枚も二枚も上手なように思える。

★注)
私はいまのところ特定の政党を支持はしていません。どうも日本という国は、「誰が、どのグループが」という所属や駆け引きに多くの時間とエネルギーを要し、肝心の本質の議論がなかなかできないところが残念です。
いまの政権与党の矛盾点を、国民の目線で鋭く追及するという意味では、ほかにも社民党の福島みずほ議員や、日本共産党の志位委員長や小池議員…etc. 個別にいいな、と思う方を個人的に応援したいですね。

山尾議員
→ 答弁で完敗続き 安倍首相が嫌う山尾議員の質問力(日刊ゲンダイ)


「保育園に子どもを預けてまで働かなくても、安心して子育てに専念できるしくみが必要」との意見もあるだろう。
ただ、女性が働くことは、必ずしも「夫の収入だけでは足りない」という経済的な理由だけではない。たとえ子どもを産んでも、男女平等に社会に参加し、責任ある仕事を続けたい、自己実現を果たしたい。まさに今の政権も「一億総活躍」をうたっているではないか!?
子育てに専念するにしても、子どもを預けて働くにしても、それは個人の選択の自由。そのどちらの受け皿も社会には求められるはずだ。

そもそも少子化(=子供の数が少なくなること)はいま急に起こってきた社会現象ではなく、何十年も前から言われてきたこと。なのに保育園が足りなくて子どもを預けられないのは、なぜ…??

保育園(施設)の数もさることながら、保育士が不足しているというのは深刻。
しかし、私が学生時代から今日に至るまで、若い女性の中に「子供が大好きだから保母さん(保育士)になりたい」という話はけっこう耳にしてきたように思う。そういう若者は決して少なくないはずなのだ。まして今は少子化で、子どもの数そのものが少なくなっている。なのに保育士が不足…??

その原因として、保育士の報酬があまりにも低すぎる という問題がある。
専門的な知識・経験を身につけ、実習を積んで晴れて保育士になり、けっこう長時間拘束されて体力も神経もすり減る労働にも関わらず、あまりにも報酬が低すぎるため、なり手が少なくなってしまうのだ。


求められる社会の受け皿

これは保育士に限った話ではなく、介護の世界でも、福祉の現場全般にも言えることだろう。
2015年春には介護手当も大幅にカットされ、介護士たちもますます厳しくなっていると聞く。

昨年(2015年)、公約だったはずの「低所得世帯の保育料無料化」を白紙撤回した。
仮にそれを実施したとして年間かかる予算は240億円程度。その財源がないというのだ!
また、3党合意だったはずの「子育て支援」も、その3千億円の財源確保ができないと、見送る気配を見せはじめている(2016年3月現在)。

民間企業の「利益追求の原理」からすれば、「利益を生み出さない効率の悪い仕事」かもしれないが、世の中には誰かがやらなくてはならない大切な仕事がある。そういうことにお金が回っていかないのだ。社会の仕組みとして非常にゆゆしき問題だと思う。

民間企業の「利益追求の原理」では成り立たない分野にこそ、国や自治体(行政)の手を差し伸べるべきではないのか? そのための税金ではないのか!?

単純に比較できる対象ではないかもしれないが、安倍政権になってからこれまで海外には85兆円を超えるお金をばらまき、オリンピックのためにいったいどれだけのお金をつぎ込もうとしているのか…!?

「一億総活躍」をうたい、「介護離職をゼロにする」などと安倍総理がインタビューで豪語するのはいいが、具体的にどうするつもりなのか?

子どもやお年寄り・障がいのある人たちのケアを、120%家族だけに押し付けるのではなく、社会全体としての受け皿づくりが必要ではないだろうか? 愛と思いやりのある、国民のための政治を望むところだ。


社員に還元されない企業の利益

企業ばかりを優遇しても、国民は豊かにならない。これには長い実績(?)がある。

この「★豊かさとは…?」のカテゴリーで初期のころにご紹介した図表をあらためて…

社員へは還元されない実績

総務庁の統計から、1990年のバブル景気の前後を3期に分けて比較したもの。
会社というのは、たとえ儲かっても社員の給与には反映させていないことがよくわかる。

★バブルに向かっていた左の1986~89年ではすべてプラスで「増加」だが、その中でもとくに高いのは「役員給与+賞与」の21%↑

★真ん中の2001~04年になると、株主への「配当」が70%の増加で断トツに高く、「役員給与+賞与」もプラス59%(倍増以上)、なのに「従業員給与」はマイナス↓

★右の2005~08年になると、株主への「配当」もマイナスに転じ、従業員への「給与」はマイナス23%(=2割以上カット)、なのに「役員給与+賞与」だけはプラス13%↑

…つまり会社は、利益が出なければ当然のように「厳しい」と賃金をカットし、たとえ利益が上がっても「先行きが不安だから」「何かのために蓄えも必要だから」と内部留保を増やし、働く社員たちへは還元しないのだ。

私も2000年前後に職場の組合で執行部を経験したが、連合の話を聞いても会社はどこも、たとえどんなに儲かっていても「厳しい」を口癖に社員への賃上げには応じないものなのだということを実感した。

そして、何年か前の年末に「年越し派遣村」が日比谷公園にできた。
私は正月早々カンパを持って日比谷公園に行き、企業とはかくも無慈悲に、真っ先に弱い者を切り捨て、寒空の下に放り出すんだな、と思った。それがこの「★豊かさとは…?」というカテゴリーを設定するきっかけともなったのである。

年越し派遣村
→ この記事の後半 「派遣村で過ごしたお正月」

そのような企業の体質が変わらない限り、企業をこれまで以上に優遇し、法人税を軽くし、総理自らが海外でトップセールスをやって日本企業の売上に貢献したところで、国民の末端までその恩恵が落ちてくるとは考えにくいのである!


回っていかない巨額のお金

内部留保=企業が現金として金庫にしまって備蓄しているお金」でしょ?→「そのお金を社員に支払いなさいよ!」、などと言ったら公認会計士3級クラスの人に笑われてしまうだろう(笑)。

内部留保とは、会社が現金として蓄えているわけではなく、企業の決算においても「内部留保」などという項目はない。あくまで概念としてのもので、「利益剰余金」と言った方がよいかもしれない。

内部留保とは、企業の純利益から、税金・配当金、役員賞与などの社外流出分を差し引いた残りで、ひらたく言えば「企業の儲けの蓄え」のことだが、会計上は「利益準備金」、「任意積立金」(いわゆる団塊の世代が一斉に退職する時期を見込んでの「退職引当金」なども)、「繰越し利益剰余金」などで、貸借対照表の「純資産の部」に計上されるもの(←決算の用語は難しい)。

‪利益剰余金等

いずれにせよ、会社が利益を上げても社員には還元されないお金(=「利益剰余金」)があるわけで、その額は2007年の時点ですでに100兆円を超えている!

今年の国家予算が96兆円だとして、国を回す1年分の総予算よりも大きな金額である。その巨額のお金が企業の「内部留保」となって動いていないのである!

企業にこれだけ「蓄え」があると、銀行(金融機関)がお金を融資しようとしても、借り手がなかなかつかない。金融緩和で低金利政策→ゼロ金利、さらにはマイナス金利へと日銀がやっても、なかなか借り手がつかず、お金が動かないカネ余りの状態がまだ続くとみられる。

先ごろ、日銀の黒田総裁が国会に呼ばれ、ゼロ金利からマイナス金利に転換したことについて問われていたが、その答弁を聞いていて、私には「アベノミクスはもう限界なんです」という意味に聞こえた。


◆インフレ政策は 「投資(ギャンブル)のすすめ」?


アベノミクスという言葉を初めて耳にしたころ、「デフレからの脱却」=「インフレ政策」と単純に理解した。
そこには金融緩和、低金利政策がセットであった。いまでもその大筋は変わらないだろう。

大企業を中心に、大きなお金の動きを作り出し、その効果を国民の下々にも行き渡らせる、そのために、何本かの矢を放っていく…と。

しかし、国民ひとりひとりの目から見ると、インフレで物価が上がるということは…?

子どものころ、いままで100円のお小遣いで買えたものが110円、120円…と値上がりしていく。でもお小遣いそのものはそんなに上げてもらえない。だから今まで買えたものが買えなくなり、不幸せに感じたものだ。

同じ理屈で、いま10万円を机の引き出しにしまっておいても、物価が上がれば同じものが10万円では買えなくなってしまう。言い換えれば お金の価値が下がってしまう のである。

また低金利政策で、銀行にお金を預けてもろくに利子はつかない。昭和40年代には銀行の利子は5分5厘(5.5%)なんていう夢のような時代があった。今は0.何パーセント。定額貯金で100万円預けておいても、1年たって1万円にも満たない。

こうなると、お金をただ貯金して眠らせておくより、そのお金をなにかに運用(=投資)して新たな価値を生み出した方が良い、という発想になる。むしろ、ローンを組むなら金利の低い「今でしょ!」で、消費を増やしましょう、どんどん投資しましょう、と。

アベノミクスはまさにこの「投資」を活発にすることが狙いで、貨幣経済の動きを活発にし、世の中で動くお金を増やそうとしている。
一般の主婦もサラリーマンも、あなたも私も、企業も個人も「積極的に投資しましょう」と。

消費税を8%に上げるとしたことで、車やマイホームなどいずれ購入を考えている人たちは、消費税が上がる前に買っておこうと駆け込み需要が増えた。

たしかに一時的に金回りはよくなり、企業活動への期待から株が買われて株価が上がり、海外の事情も追い風となって円高から円安に転じた。

「ほらね、民主党時代になしえなかった、16年ぶりのデフレからの脱却を果たしましたよ!」と大きな手柄のように豪語していた安倍政権。

ここにきて原油価格が下がり(ガソリンや灯油が値下がりして喜んでいる人もいるはず)、中国経済が先行き不安となり、株価は急落。海外の不安要因からドルが売られて円が買われ、円高に戻る動きも…
すると「これは外的な要因で、一時的なもので、アベノミクスの失敗ではない」と…?

しょせん私に言わせれば、投資家(=マネーゲーマー)の一喜一憂による行動が数字になって現れてるだけの、きわめて実態のない数字。そんなものに振り回されて政権が評価されるのか?

アベノミクス、デフレからの脱却(=インフレ政策)は、いわば「投資(ギャンブル)のすすめ」。言葉は悪いが、ギャンブルを奨励する政治ではないか!

そして政府自らもギャンブルをやり、国民から預かっている大切な年金資金を株に投資して大きな損失を出した。その失敗のつけはすべて国民に…!?
年金の受給額を減らす?、受給年齢をゆくゆくは75歳~に引き上げる?…冗談じゃありませんよ!


◆副作用は貧困層の拡大・格差の拡大

本当の意味での経済成長には、国民の所得が上がって消費が増えなくてはいけない。
ところが現状は、大企業を優遇しても中小・零細企業、ひいては働く個人、国民ひとりひとりにまで「豊かになった」という実感が広まっていかない。

「まだ道半ば」という言葉を信じていつまで待っても、このやり方では国民の末端にまで豊かさが巡ってくることは本当にあるのだろうか…?

アベノミクスの効果が十分に出ていないどころか、むしろ副作用が深刻になっている。
こうしている間にも、年間120万円以下での生活を強いられている底流老人といわれているような人たちをはじめ、低所得者で生活費を切り詰めている人たちが存在する。物価の上昇は直接響くだろう。
さらに消費税も上がり、福祉などの社会保障は切り捨てられ、医療費の自己負担も増え…二重三重の苦しみに追い詰められている。
2015年12月の時点で生活保護を受けている世帯は163万世帯、過去最悪の結果となっている。
もはや「格差の拡大」などと静観してる場合ではなく、待ったなしの状況なのだ。


◆弱きを切り捨て、強きを優遇する政策

これもこのカテゴリーでことあるごとに書いてきたことだが、今の政権は「弱きものからむしり取り、弱きものを切り捨て、強きものを優遇し、強きもののための政治」である。

そもそも、税金は儲かった者からたくさん徴収し、生活に厳しい人からは少なく…というのが古代からの税の原則ではなかったのか?


①消費税の逆進性

かつては贅沢なものには「物品税」が10%課せられていたが、日常品・食料品などの生活必需品は非課税であった。

自動車やグランドピアノなど高級なぜいたく品とみなされるもの、劇場への入場、温泉への入湯には特別な税金が課せられていた。
しかし、銀座の高級クラブでグランドピアノを購入する場合は「ぜいたく品」だが、音大生が勉強のために買う楽器は免税価格で買える、といった個別の配慮がうかがえた。

それが、消費税が導入されて物品税が廃止されてからは、一律に免税なし。一見「平等」に見えるが、弱い人への配慮がなくなり、弱いものにほど重くのしかかるのが消費税なのである。

この消費税の逆進性については、竹下内閣の時に消費税が導入された当初(1989年)から指摘されていて、当面は3%でスタートするが、弱者への配慮・品目ごとに税率を変えるなどきめ細やかな対応を検討するという約束だったはず。
それをずっと放置したまま税率だけを5%、8%と上げてきて、ここにきてようやく「軽減税率」という話になった。

来年春に消費税10%に上げるに際して、食糧品だけは8%に据え置く(=ほかの物品よりは少し安いままにする=「軽減税率」)ということだが、国民の実感として、今の8%より安くなるわけでもないのに「軽減」とはなんだ、という感覚もあるだろう。

生鮮食料品だけでなく加工食品も軽減の対象に含めたことを大手柄のように公明党さんはおっしゃるが、外食か持ち帰りかの区別も曖昧であったり、線引きが難しい課題はあるし、もっと軽減税率の対象を日常生活品全般に広げるべきだと思う。

もし仮に今の物価水準で消費税10%となったら、一般家庭にはどれほど影響するだろうか…?

消費税負担の逆進性

私の想いとしては、10%への消費増税は凍結するべきだ。
もし軽減税率をやるなら、今の8%かかっている商品の税率を下げるか非課税とする。
そして外食費に関しては、1回ひとりあたり500円以下は非課税、1000円以下は何%、2000円以下は何%、3000円以下は何%…という風にぜいたくな外食ほど高い税率にする。さらに領収書を切って「会社の経費」として飲食するものにはより高い税率で。

つつましく生きる個人にはやさしく、ぜいたくな人からは高く、法人(会社)からはさらにしっかり取る…という発想に切り替えたいものだ。
法人税の減税をやめ、富裕層からあと1%ずつ税金を集めれば、消費税10%は必要ない、という試算もあるようだ。先ほどの企業が留保している「利益剰余金」に対して課税する、ということも考えられるのではないだろうか?
経済学者や心ある政治家に、ぜひご検討いただきたい!


②法人税を軽くして消費税を重く

消費税は輸出を主な業とする企業にとって二重のうまみがある。
下請けからの仕入れにも消費税がかかっているという前提でその分を補てんしてもらい、実際には下請けにはそれ相当分を払っていない、という実態もあるようだ。

さらに、海外に輸出する場合、海外からは消費税はいただけないので、その分は還付されるという制度を利用すれば、消費税という制度は輸出大企業ほど有利でおいしい制度なのである。

消費税

消費税は国民に重くのしかかり、大企業にとっては「うまみ」となり、さらに法人税の減税…
個人には厳しく、法人(企業)に優しい構造が二重三重にできているのだ。

法人税↓消費税↑ 新聞「赤旗」(日付不明)
★クリックすると大きな画面になります


③復興特別税も、法人は早々に廃止

東日本大震災からの復興のために、特別な税金を設けると決め、平成25年1月1日からからスタートした。法人の利益に応じて課税するものと、個人の所得に課税するものとの大きく2種類。

法人税を現行よりも軽減する代わりに、この復興税を課税するとしたはずなのに、当初予定していた3年度が過ぎないうちに法人の復興税は「廃止」し、さらに法人税も軽減する流れになっている。

一方、個人にかかる復興特別税は…?

私の手元に届いた地元の信用金庫からのお知らせ

H25.1.1~復興特別税

預金金利や公共債の利子に対して国税が15%、地方税が5%、それに加えて復興特別税が0.315%加算され、トータルで20.315%。さらに出資金の配当金に対しては、トータルで20.42%。この制度は、今のところ平成49年12月末まで続く予定である。

大震災への復興のためにお金を出すことを嫌だというつもりは毛頭ない。
現に私も音楽活動を通じて震災直後にチャリティ活動に参加し、それなりのまとまった金額を日赤を通じて寄付しているが、そのお金がどこでどう使われているのかがさっぱり見えない。きちんとしたお金の使われ方があって、払える者は払いたいと思う…それはいいのである。

ただ、これだけ金利が安い中、個人がこつこつと貯蓄したなけなしの預金金利には向こう10年間しっかり復興税をつけておいて、なぜ法人への復興特別税は早々に打ち切ってしまうのか? 
さらに復興特別税に代える前提で減らした法人税を、元に戻すどころか、なぜさらに「減税」をするのか!?

個人からはむしり取り、企業はどんどん優遇する!
まさに、貧しいものからはさらにむしり取られ、富めるものはますます潤う…トランプゲームの「大貧民・大富豪」みたいな社会である。

豊かな者、儲かった利益に対しては多くを課税し、弱き者への課税は軽くする…という本来の姿に戻すべきだ。
来年4月の消費税10%化を予定通り進めることについて安倍総理は「世界に冠たる日本の社会保障のため」と先日の国会で豪語したが、消費税を上げる以前に、企業への優遇措置を改めるべきだ。
それこそ先ほどの企業の「内部留保(=利益剰余金)」に対して課税する、という考え方もあり得るのではないか?


◆国民の所得そのものを上げた「所得倍増計画」

国民が実感を持てる経済成長戦略とは?

かつて、1960年の池田勇人内閣の時に「所得倍増計画」というのがあった。
正確には「国民所得倍増計画」、国民総生産を20兆円にまでもっていくとする長期計画で、発案者は経済学者の下村治。

戦後10年以上が過ぎ、戦後の復興から「もはや戦後ではない」と言われ、技術は進み、国民の所得を倍に、月給5万円だった人の月給を10万円に!  

電気洗濯機、冷蔵庫、テレビ…これは「三種の神器」と言われた。そのほかにも電気炊飯器、電気掃除機…etc.
そうしたものが各家庭にどんどん普及し、それまで手作業だった家事が機械化されて楽になり、時間にも心にも余裕ができた。

空いた時間(=最近あまり聴かなくなったが「余暇」)に何をするか? 
習いごと、趣味の活動、そして旅行(=海外旅行もこのころ解禁され、だれでも飛行機に乗って外国へ行けるようになった)、映画や音楽会…etc.
主に精神的な豊かさを求めることが多いが、そうしたことの多くも「消費活動」であり、お金の回りはよくなり景気を押し上げる。

さらに自家用車。それまで車を持っているのはお医者さんと学校の先生ぐらいだったのが、みんな車の免許をとってマイカーが持てるようになった。

街には自動車が増え、交通渋滞や交通事故が増え、公害問題も深刻になったが、人々の「夢」が商品化され、それらを手に入れるためにみな仕事を頑張ってお金を稼ぎ、流通が増え、それがまた新たな需要を生み…まさに高度経済成長は「所得倍増計画」をはるかに上回って、1970年代のオイルショックまで続くことになる。

少なくとも、国民が実感をもてた、名実ともに中味のある経済成長だった。いま再びそのような経済成長は望んでもおそらく無理だろう。90年代に巻き起こった、主に土地の値段を釣り上げることで実態のない数字だけがどんどん上昇していく、いわゆる「バブル」が起こったが、あのような現象が再び到来してほしいとも私は思わない。



昭和の高度経済成長は、同時にマイナス面も提示した。先ほど書いた交通渋滞や交通事故、公害といった社会問題もさることながら、モノやお金による豊かさの追求は、本当に人々を幸せにしたのだろうか、という疑問も投げかけた。

モノやお金による豊かさの追求は、どこまでも満たされることがなく、ようやく新しいものを手に入れても、人と比較して不幸に感じたり、モノやお金を手に入れるために恐ろしい殺人や強盗も起こるようになる。昭和時代の刑事ドラマも、そうした人々の陰の部分を描いてきたように私は感じた(←テーマ音楽もとても侘しく暗いものが多かった)。

また、誰でも努力すればお金を稼げるという自由競争の原理は、秀吉が農民出身であっても天下人になれたように、またゴールドラッシュのアメリカンドリームのように、誰でも差別なく自由に、努力によって手に入れられる素晴らしいことのようにも思えるが、競争・足の引っ張り合いが激しくなる。 

人の気持ちが見えず、自分さえ儲かればいいという身勝手な発想になり、ストレスの溜まる社会になっていく。「お金をたくさん持っていること=自分が努力した結果」であり、「お金さえ出せば何をやってもいいんだ」という、資本主義の歪んだ姿にも。

モノやお金による人間の欲望は、それこそ無間地獄のように際限がないもので、本当の意味での「豊かさ」とはかけ離れた姿になることもある。

★「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、
   無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

→ 世界でもっとも貧しい ムヒカ大統領 の言葉である。



不健全な「経済の虫」たち

話を最後に現代に戻そう。
安倍政権が掲げる、「企業中心」「経済第一主義」「成長戦略」は、国民の生活を踏みにじりながら、きわめて不健全な姿で、真の豊かさとは反対の方向に進んでいるように思えてならない。

「金儲け」の原則ばかりで動いていて、人としての優しさ・思いやりに欠ける政策が多すぎる。
儲かるためならなにをやってもいいのか?

そんな情報ばかりで、それこそFBで日々シェアしていたらきりがないが、ここ数年の間に私の目にあまりにも…というものに絞っていくつか触れておく。

まずは、2015年の正月(元旦)の東京新聞1面のトップの記事から

武器輸入国支援
★クリックすると大きな画面になります(以下、新聞記事は同様)

「武器を買ってくれる国には、資金を提供します」
…海外へのばらまきもある種の「投資」?

そもそもは、経団連からの武器輸出提言が

 経団連の軍拡提言jpg

財界には、過去にこんな発言をした人物も…

そろそろ戦争でも

2014年4月に武器輸出3原則を緩和して実質的に武器輸出を可能にし、ガザ地区を攻撃するイスラエルのネタニアフ首相と安倍総理は会談。その頃書いたブログ記事をご参照。
→ 「イスラエルより愛をこめて」


そして、武器輸出に関連する企業からは…

自民に1億献金

すべての企業ではないとしても、こういうカネの循環があることは否定できない。
企業・団体からの政治献金(愛媛新聞 2015126)
(愛媛新聞 2015年12月6日)

武器商人

武器産業・政治献金

こういうことも背景にあった上での、昨年の「安保法制」「集団的自衛権」だったのである!

安保法制を強引に通して間もなく、昨年10月1日には「防衛装備庁」なるものが発足。法案を強行採決してからわずか1か月足らずで「庁」が設立できるはずがない。つまり前々からこういうことが本当の狙いの安保法制だった、ということだ。

この「防衛装備庁」なるものができる話をいち早く大々的に取り上げたのは「赤旗」である。

防衛装備庁

★2015年10月1日の夜7時のNHK「ニュース7」では、この「防衛装備庁発足」の話題には一言も触れず!
夜9時の「ニュースウォッチ9」では、27分ごろからの「トゥディズ・ウォッチ」という1日の出来事をハイライトで伝えるコーナーで、「スポーツ庁の発足」の話題にくっつけて「防衛装備庁も今日発足しました」とわずか10秒足らず報じただけだった。

中国を脅威とし、日本人の命と安全を守るために集団的自衛権が必要だ、などといった「説明」をあらためてどう思うだろうか?
自衛隊を海外に派遣し、日本が直接攻撃を受けていなくても他国のために闘える国へ、他国に武器(←国会では「弾薬」と答弁)を供給できるようにしたい…その背景には「経済」という大きな力が働いていることは明らかである。

まだまだこの2~3年の間に目にした、とんでもない記事は尽きないが、きりがないのでこの辺で


これでもまだ、経済(=金儲け)を崇拝し続けますか?

「景気」とか「経済戦略」という言葉につられ、企業の先行きをどう見るか、まるで企業を馬に見立てた競馬新聞のような経済新聞をうつろなまなざしで眺めているサラリーマンたち。会社人間のバイブルでしょうか?
いわばマネーゲームの予想屋のような目で経済をとらえる…言葉は悪いがそうした「経済の虫たち」によって、今の政権は容認(崇拝)され、支えられていると言っても過言ではないでしょう。

私がこのカテゴリー内でもしばしば使ってきた表現。

「人の命よりも、地球よりも、経済(=企業の利益)は重い」
(↑ 中学の社会科で、憲法の基本的人権に絡めて、「人の命は地球よりも重い」と学んだはず。)

武器の輸出だけでなく、原発の事故しかり、列車の脱線事故や高速バスの重大な事故しかり…おかしな事件や事故、政治と癒着したさまざまな不正・疑惑・隠ぺい…etc.

その陰には、まず必ずと言ってよいほどこの価値観が作用しているように思う。
この価値観こそが、人類の敵であり、人の心を腐敗させ、社会を滅ぼす、がん細胞のような存在ではないだろうか!?


◆(結び) あたらしい豊かさへ

物価は安く安定していて、自分の身の丈に合った、本当に必要なものを大切に使い、たとえ給与が上り続けなくても必要なものは手に入る幸せ。

子どもができても、親が要介護になっても、自分自身が病気や障がいを負っても、社会のしくみに助けられて最低限の生活は守られる幸せ。

そしてすべての生きる人が、生きがいと誇りをもって生きられる幸せ…

冒頭に書いた子育て支援策や介護といった、企業の経済・効率化の原理では成立しないような、でも本当に大切なことにこそ、国が積極的にお金を出して受け皿をつくっていかなくてはいけない。

また、オリンピックに見られるようにスポーツの世界には巨大な商業市場も絡んで異常なまでの巨額のお金がつぎ込まれるが、スポーツ以外にも人々に感動と勇気を与えること、たとえば芸術・文化・伝統工芸といった世界にも、もっと国が理解を示して援助を回しても良いと思う。

弱きを助け、人々の精神的な豊かさのために上手にお金を使う。
本当の意味で「豊かさ」を実感できる社会に方向転換していかなくてはいけない!


(まだまだ尽きないが、とりあえず「完」! 2016.3.6)

宇宙から地球を見たら…

2月27日(土)


「瑠璃色の地球」という松田聖子さんの歌があります(作詞:松本隆、作曲:平井 夏美)。

この歌の2番に、

「泣き顔が微笑みに変わる 瞬間の涙を 
 世界中の人たちに そっと分けてあげたい 
 争って傷つけあったり 人は弱いものね
 だけど愛する力もきっとあるはず」

という歌詞が出てきます。

この歌を聞いて私が思い出すのは、ある宇宙飛行士の言葉です。

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ちょっと古い話ですが、アポロ11号が月面に着陸し、アームストロング船長とオルドリン宇宙飛行士が、人類初めて月面を歩いたのは1969年の7月

大阪万博「EXPO‘70」の前年、私が小学校6年の夏休みに入った日の出来事で、2人の宇宙飛行士による月面からのテレビ中継をリアルタイムに観ていました。

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この時、月着陸船を切り離した母船「イーグル」は月の周りを周っていました。
母船の中でM.コリンズ宇宙飛行士がたったひとり、月の地平線から昇ってくる美しい地球を眺めて語った有名な言葉があります。

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世界の指導者が  はるか上空から自分たちの星を見たら 
彼らの態度も根本から変わるはずだ

何よりも重視している国境は見えないし
言い争いもぱったり聞こえなくなる

地球は 見える姿の通りにならなければならない

資本主義者も共産主義者もない 青と白の姿に
金持ちも貧乏人もいない 青と白の姿に


つい先日放送されたNHKスペシャル「新・映像の世紀 第5集「若者の反乱が世界に連鎖した」の後半でこの言葉が紹介されていたので、画面を写真に撮りました。

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★一つ一つの画面をクリックすると大きな画像でご覧になれます


1969年といえば、米ソの冷戦時代。
ベトナム戦争が激化し、アメリカ国内で若者を中心に「ベトナムに平和を!」と反戦運動が巻き起こった時期です。そうした平和を訴える活動は、全世界へと広がっていきました。
そして、ボブ・ディラン、デビット・ボーイ、ビートルズなどが世界中で愛された時代です。

★注)
音楽を、政治的・社会的な目的で奏でるべきではない、利用すべきてはない、というご意見もあることは承知しています。それを言うなら、音楽を売れる・売れないといった商業目的で奏でるべきではない、とも言えるんじゃないかと思いますが。
しかし、「音楽の力」はそれだけ人々に訴える力を秘めていて、なんらかのメッセージ強い想いが込められた音楽が社会に何かを訴えかけ、共感を呼び、結果として人々に愛されるのは当然だろうと私は思っています。


あれから46年、技術革新は留まるところを知りませんが、
はたして、世界は平和に なったのでしょうか? 
人々は幸せに なったと言えるのでしょうか…?

もしそれを阻んでいる要素があるとしたら、それは何でしょうか?
見方は様々あると思いますが、私は…

「人の命よりも、地球よりも、経済(=企業の利益追及)は重い」という価値観に世界の指導者たちが侵されているところに根本の原因があるような気がしてなりません。


「ふるさと納税」は「お得」な制度…?

12月8日(火)

師走に入り、なんとなく気忙しい季節になりました。
先日テレビを観ていたら、12月に入って「ふるさと納税」のかけこみ申請が増えている、との話題が!

私もこの「★豊かさとは…?」のカテゴリーで、これまでにも何度か話題にしてますが、自分が今現在住んでいない地域、たとえば生まれ育った「ふるさと」に、あるいは旅行で訪ねたお気に入りの、頑張ってほしい市町村などに自分の意思で税を納める、という発想があってもよいのではないかと思ってました。

しかしこの「ふるさと納税」、特産品目当てのフィーバーぶりにちょっと違和感も感じます。そもそもこの制度の発想の原点は?…私なりに検証してみました。


◆「取られる税金」から「自分の意思で納める税金」へ

サラリーマンが給料から差し引かれるのは、所得の10%にあたる所得税(→国へ)、そして前年の所得に応じて決められる住民税(→住んでいる自治体へ)。 
この税金の他にも年金だの保険料だのなんだかんだ差し引かれるものが多く、給与明細を見ると腹立たしいから見ないようにしている…私もそうですが、実はそれがいけないんです!

知らないうちに「取られる税金」、その金額を見ないようにすることで、自分たちがどれぐらい税金を払っているのか、その税金がどう使われているのか、にも関心が薄くなってしまうのです。

そこで、一方的に引き去られる税金ではなく、働く納税者ひとりひとりの意思で納める税金、とりわけ自分がいま住んでいない「地方」へ納税できる仕組みができたらいいな、と思ってきました。

いまは所得の10%を所得税として国に徴収されますが、それを例えば10口に分け、ある程度はこれまで通り国へ、何口かは自分の好きな自治体(都道府県)へ、という発想です。

地方が、国からの地方交付税補助金をあてにして大型プロジェクトの公共事業を計画しても、多くの場合受注するのは東京や大阪に本社のある大手のゼネコン。地元に落ちるのは一時的な工事関係者の人件費と飲食店のお客が増える程度。国からの補助金のほとんどは地方をスルーして大都市の大企業に入るのです。
また、どの地方も観光産業を発展させ、願わくは企業や学校を増やして税収を増やそうとします。とかく全国どこにでもありそうな綺麗な施設はできますが、その地域の美しい自然や伝統的な文化が失われてしまうことも。

そうではなく、独自の発想で魅力的なふるさと創生をやれば都会に暮らす人からも納税してもらえる、という仕組みが出来たらいいのに…と。


◆「ふるさと納税」制度とは?


そういう意味では、いまの「ふるさと納税」はそれに近い発想の制度ともいえます。

しかし正確にはこれは「納税」ではなく「寄付」です。ある自治体(市町村)に「寄付」をすることで、その分が翌年の住民税から「控除」される、いわゆる「寄付金控除」のしくみを活かした制度なんですね。

私の発想と大きく違うのは、国に納める税金(所得税)の一部を直接地方へ、ではなく、私たちが住んでいる地域に納める住民税の一部を回す、という点です。

たしかに東京や大阪などの大都市は、人口も多いし法人も多いので税収は豊かでしょう。その一部を地方の市町村に回してもよいかもしれません。 でも、私の思ってきたのは、自分の住む自治体に納める住民税からではなく、「国」に納める税金(=所得税)の一部をひとりひとりの労働者(=納税者)の意思で地方に、つまり国が地方にばらまく地方交付税や補助金の代わりに一人一人の納税者から、という発想でした。

それはともかく、今は住んでいない故郷へ、あるいは自分の好きな自治体に、自分が働いて得た収入から納めるべき税金の一部を寄付という形で回すことで、必ずしも生活の場ではない地方にも関心が寄せられ、財源がどう活かされるかにも関心が高まり、地方は地方で都会に住む人にも覚えてもらえるような独自のふるさと創成をする励みになる等、お互いにいい意味で意識が変わるきっかけになれば、という期待はあります。


豪華な特産品目当て?

いまは書店に「ふるさと納税」のコーナーもあり、さまざまな書籍が出ています。
制度のしくみの説明とあわせて、全国の市町村ごとの特産品がカタログのように並んでいます。

ふるさと納税

ある自治体に「寄付」をすると、寄付したことの証明書が発行され、それを自分の住む自治体に提出すると、翌年の住民税(=前年の所得に応じて課税)から寄付額に応じた控除が受けられる、という仕組み。

もし3万円寄付すると、手数料の2千円を除いて2万8千円が翌年の住民税から控除される(=払うべき住民税から免除される)のです。

そこにもう一つ、豪華な「おまけ」が付きます。寄付した自治体からかなり豪華な特産品などの「返礼品」がもらえるのです。3万円寄付すると1万5千円相当の特産品が送られて来ます。
1万5千円相当の品を「買った」ことになるのか「貰った」ことになるのか…?

もともと払わなきゃいけない税金を「寄付」に回すわけだから差引ゼロ。しいて言えば手数料の2千円で豪華な特産品が手に入る…「わ、お得!」「やらなきゃ損!」という感覚ではないでしょうか。

ただし、寄付できる額は、その人の年収ごとに上限が設けられています。本来払うべき住民税も一定額は確保しなくてはならないという趣旨でしょう。

たとえば年収が300万円の人の場合、寄付できるのは3万1千円です。しかし年収1千万円の人は18万8000円、年収3千万円ではなんと106万2000円まで寄付が可能。
106万円の半返しといえば53万円! 冷蔵庫にはメロンやカニや牛肉がびっしり…!?

つまり、「ふるさと納税」による「お得感」は富裕層ほど大きいのです。
(しかも、比率は直線的ではなく、年収が多い人ほど限度額の比率が上がっています。)

理念としての新しい「地方」のあり方や納税者の意識変革といった視点からすると、豪華な景品につられての「節税」感覚、「損得」、しかも富裕層ほど得をする仕組み…、なんとも皮肉な結果にも映ってしまいます。


まずは試行段階から

「損得」の節税感覚や、「特産品目当て」というと聞こえは悪いですが、人にはなんらかの動機付けは必要です。

株式にしても、本来は会社に出資することで企業を支え、株主となって会社の経営にも関心をもち、もし業績が上がれば配当金をいただける、というものですが、多くの投資家はいわば「賭けごと」のような感覚で値上がりしそうな株を買い、値下がりしそうならさっさとその会社に見切りをつけて株を売ります。

人は多かれ少なかれ「損・得」の感覚で動くもの、それは仕方ないのかもしれませんね。

私の考えていたような納税を分配する理念で、地方からの会計報告やクーポン等の「おまけ」が付く程度では、手間をかけてわざわざやる人は出てこなかったでしょう。それがこの「ふるさと納税」によって多くの人たちが関心を寄せた効果は大きいでしょう。

3万円が寄付されれば、半返しで1万5千円の豪華な特産品を送ったとしても、地方には半分の1万5千円が残ります。もし1000人が寄付すれば1500万円。そんな寄付金が都会に生活する人から地方の市町村に寄せられたことはこれまでなかったでしょう。有効に活用していただきたいものです。

一方、都会の住民税の収入が減ってしまう心配もあります。その意味でも、年収の高い人への寄付金の制限枠をもう少し引き下げて、年収が高い人ほど「お得感」「節税メリット」が高くなる比率をもう少し押さえてもいいのかな、とは思います。

いずれにしても、都会の生活者にとっても地方にとってもメリットのあるこの制度、今後の展開を見守りたいと思います。

ちなみに、私が20代のころ関わった地方の「まちづくり」「ふるさと振興」の発想は、よかったらこちらの記事(ちょっと長いですが)の後半をご参照ください。

→ 
「ふるさと」…本当の「地方の時代」とは

カテゴリー設置から5年

7月24日(金)

戦後の日本がずっと追い求めてきた資本主義、自由主義、競争主義。企業が自由競争で成長すれば国民の生活も豊かになる…?



しかし今の社会を見ると、企業が儲けても国民は豊かにならず、カネを持っている者=成功者で、自分が成功者となるために他人を蹴落とし足を引っ張り、カネさえ払えば何をやってもいい、そんな歪んだ姿になっていないでしょうか?
人のことなんか関係ない、自分さえよければいい、今さえ良ければ後のことなんか知らない、想像力も思いやりもない、ストレスのたまる世の中へ…


「豊かさの敵とは?」
この記事は、2012年の3月、つまり東日本大震災からちょうど1年後、まだ民主党政権だった時に書いたものです(タイトルをクリックすると記事に飛べます)。

その後ふたたび自民党が政権をとり、第二次安倍内閣が成立すると「アベノミクス」を旗振りに、私の考える「豊かさとは?」とはまったく逆方向への矢が次々に放たれてきました。
弱きものをどんどん切り捨て、大企業ばかりを優遇し、見かけの数字だけの景気を上げる経済第一主義へ…


「人の命よりも、地球よりも、企業の利益は重い」?


中学校の社会科で、憲法で定められた基本的人権の理念を「人の命は地球より重い」と習いました。
それを文字って、私のブログ内でしばしばこの表現を用いてきました。

そんな経済(=企業の利益)第一主義の発想。
原発や武器を輸出し、海外で戦争できる国を目指してまでも? 
まるで母体を滅ぼしてでもひたすら増殖をつづける「がん細胞」のように…



私は当初からそんなアベノミクスには反発してきた一人です。
「経済」という名のマネーゲーム感覚、企業中心の金儲け主義、アベノミクスを良しとする風潮、ひいては自分には関係ない、自分さえよければいい、今さえよければいい…そんな世の中の空気に対して、ぶつけようのない怒りを感じてきました。

私だって身の回りの楽しい話題・おいしい話題・可愛らしい話題・音楽寄りの話題だけをアップしていれば楽しいし、みなさんも気楽に「いいね」が付けやすいことも分かっています。

でもあえて、今のような政治・社会の風潮の不条理に対して、私なりに想うところを発信するために多くのエネルギーを費やしてきたように思います。
すべての人がいつまでも幸せに、おいしいものを食べられ、美しい音楽を楽しめる世の中が続くように。
子や孫の代まで恥ずかしくない日本を引き継げるように、そして世界中の友と仲良く平和で暮らせるように…

私のブログ内に「豊かさとは…?」というカテゴリーを設けたのは2010年の7月。いまからちょうど5年前、ブログを開設して数か月ほどたった時です。以来、さまざまな出来事をこの切り口で見つめ、折に触れてつづってきました。

よかったらこちらからさかのぼってご覧ください。
★カテゴリー 「豊かさとは…?」

  

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「私たちのこれから」

7月11日(土)

やはりこの国のかじ取りは間違っています!
アベノミクスに賛成の方も、いま一度よく考えてみてください!


老後の不安

下のパネルはほんの一例ですが、介護保険料や国民健康保険料の負担が増えて年金の手取り額がどんどん減り、これまで社会に貢献してきた人たちが安心して老後を過ごせなくなってきています。

年金先行き

★NHKスペシャル「私たちのこれから」より


しかも、介護保険料の負担は上がり、ますます福祉の担い手を確保して充実させなくてはいけないのに、この春から介護報酬を削減するなど、福祉はどんどん切り捨てられています。

消費税を何のために上げてきたんでしょうか?
また年金機構は、データの管理があまりにもずさん。その責任もまだきちんととったとは言えません。


◆弱者に厳しい政策

消費税の逆進性(富裕層にほど有利で弱者に厳しい性質)を見直すと言いながら、消費税が導入されてからこの15年あまり、生活必需品には安く、ぜいたく品には高くという見直しもなされないまま一律に消費税率だけが上げられてきました。

しかも、軽自動車にも普通乗用車並みに税率を上げる、13年以上の車歴の車には15%も高い税率にする…どんどん消費しなさい、新しいものをどんどん買いなさい、ということです。見かけの数字での「景気」を上げるために。そして消費税を上げる環境を整えるために?

かくして、ぜいたくをせず、つつましやかに、身の丈にあった消費を選択している人たちへの負担を増やすばかり。

私の思う「豊かさとは…?」(=この記事を含むカテゴリー名)に逆行する流れです。


格差拡大、弱者切り捨て

インフレ政策で物価を上げる。これによって、必要なものを買うだけの同じ消費でも、見かけの数字は上がることで「景気」はよくなったように見えます。

しかし、給料は上がらず、取られるものは増え、年金受給者など弱い立場にとって物価の上昇(インフレ)は二重・三重の苦しみです。

金融緩和で低金利政策が続けば、貯蓄をしていても利息は対してつかない、物価は上がる、つまり貨幣価値は相対的に下がります。だからどんどん投資した方がいいですよ、ということになります。
どんどん稼いで、投資をして、大量に消費して…それができる人はいいですが、そちらにばかり目を向けた政策は、弱者をますます追い詰めます。かくして社会の格差をどんどん広げてきました。


◆社会保障の崩壊を加速させる力

高齢化が進んで、国や地方自治体の社会保障費の負担も増えることは何十年も前から予測されきたこと。

病院を老人の談話室にしないよう、医療費の一部個人負担を増やすなど、「受益者負担」の発想もある程度取り入れていくこと自体はまちがっていません。しかし、今のような切り捨てる一方の政策は明らかに間違っています。

最初にも書いた通り、なんのための消費税だったのでしょうか?
さらに、国債の発行額は増え続ける一方で、国は大きな借金を次世代に残すことになります。

そんな中で、新国立競技場にかかるあの馬鹿げた出費に象徴されるように、無駄な公共事業への出費はとどまるところを知りません。けっきょく一部の大企業を儲けさせるためだけの大規模プロジェクト。

東日本大震災の復興財源も、実際のところ全国にばらまかれ、復興とは関係のないところにお金が消えているという話もいろいろ聞きます。

さらに、安倍総理のけた外れの海外歴訪、そして海外へのばらまき外交
武器輸出や戦争に参加できる国を目指す安保法案…etc.

それら政策のほとんどすべてとも言ってよいところに、大企業への利益誘導、その見返りとしての企業からの政治献金…という構造が見え隠れします。

いまの政治は、国民のためではなく、財界(大企業)と政治家のための政治といってもよいでしょう。



いかがでしょうか?
見かけの景気を上げ、企業活動を優遇して元気にすれば国民も豊かになる…そんな幼稚な幻想で「やっぱりアベノミクスはいいんじゃない?」などとまだ言えますか?

今さえよければいい、自分さえよければいい…そいういう思いやりのない者が中心となって社会をわがもの顔に操っていったら、日本はどうなってしまうでしょう?

過去の戦争で犠牲になった人たちへの反省も思いやりも忘れ、国の発展を支えて来てくれた高齢者、次世代を担う子どもたち、そうした「今だけで見た生産性」には合致しないけど、長い目で見て守らなくてはいけない人たちを無視した思いやりのない政策は、国の道を誤らせ、海外からの信用も失い、やがて国を滅ぼします!


注)

ここに綴った内容は、NHKスペシャル「私たちのこれから」のサマリではありません。あくまで私なりに見た「これまでの日本の政策」についての雑感まとめです。
番組ではこれらの背景に関する話題も出ましたが、高齢者に限らず若い年代も含めて「いかに自分なりの備えをすべきか?」 が中心だったように思います。
ただ、裏返せば「自分さえ良ければいいのか?」という思いもあるので、あえてこのような記事を書きました。

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自分だけの手作りの世界

5月1日(金)


もうすぐ「子どもの日」ですね。

子どもを連れてどこかへ出かけるのはとても楽しく、子どももとても喜びます。
でも行く先々で可愛らしい魅力的なおもちゃが欲しくなり、買ってもらえないことが不満となり、哀しみ・不幸の原因になっていきます。

街には本当に商業ベースのものが溢れています。

私が子供のころは「サンダーバード」や「ウルトラマン」などの放送番組が放映され、それを追う形で玩具メーカーからプラモデルが次々に発売されました。

でも最近は、子供向けのアニメを制作する段階で、玩具メーカーがタイアップして、おもちゃを同時に(場合によっては先行して)開発し、それを売るための宣伝のように本編が放送される、なんてこともあるそうですね。

次から次へと新しいものが欲しくなるように、世の中のしくみが作られているのです。それは子どもの世界だけのことでしょうか?


モノに支配された幸福感

家電製品、ゲーム、パソコン、車…etc.
自分の生活スタイルに合わせて、本当に必要なものを選んで購入しているでしょうか?

多機能なものが次々に発売され、みんな持っているから、あった方が便利だから…と、購買欲がどんどん膨らんで、お金がいくらあっても足りない、なんてことはないでしょうか?

企業が利益を追求し、新しい技術・新しいモノがどんどん生み出されることで、国民を豊かにし、国を発展させると信じられてきました。マルクス経済学などで言われるとおり、まさにそれが資本主義の原理でもあります。

しかし、つぎつぎに生み出される新しいモノが本当に人々を幸福にしてくれるのでしょうか?

企業の利益追求によって次々に売り出されるものは、手作りのはと時計(→「古き良きもの」)のように、100年にもわたって大切に愛されるものでは必ずしもありません。

むしろ保証期間を過ぎたら計算されたようにすぐに壊れ、新しいモデルが作られると前のモデルは製造中止となり、部品交換もできず、「修理するより新しく買った方がお得です」という状況が生み出されています。お店の人も商品知識に乏しく、単に仕入れたものを並べて売るだけで、「これが今いちばん売れてます」で買わされてしまう。

自分に合ったものを探そうとするとかえってモノ選びが難しく、自分に合ったものに愛着をもっていつまでも大切に使いたいと思うと悲しい思いをし、時代についていけないようにさえ感じます。

お金をどんどん使って、次々に生み出される最新のものを手に入れ続けなければいけない。手に入らなければ不幸の原因となる…そんな世の中に流されてはいないでしょうか?

以前、この「★豊かさとは…?」のカテゴリーでご紹介したムヒカ大統領の演説や、世界一幸せな国・ブータンのお話を思い出してください。

 → 「世界一貧乏な大統領」ムヒカ大統領 
 → 「世界一幸せな国」ブータン



手作り模型の世界へ

とはいえ、いまの日本でモノを購買することを拒否して、石器時代のような生活することは不可能ですね。

洗濯・掃除、料理、移動のための交通手段…現代文明が生み出してくれた産物のおかげで快適な生活ができています。以前は膨大な時間と手間がかかっていたことが楽にでき、そのぶん自分の好きなことに時間を充てることができます。そこを否定するつもりはありません。

そこでできた時間をどう使うか?、何をするか?
なにかひとつ、自分なりのこだわりをもって、なんでもお金と引き換えに手に入れるのではなく、自分だけの楽しみを! 

私の場合、子どものころから何かを作ることが好きだったおかげで「模型づくり」にささやかな幸せを見つけることができました。

お金を使うことを我慢して、無理して仕方なく自分で作るのではありませんよ。お金を使わなくても自分なりにこだわりをもって、時間をかけて作り出すことにこの上ない「楽しみ」と「幸せ」を感じるのです。

私に似てものづくりが大好きな下の娘がいまは良きパートナーです。
 → 「妖精の家」
 → 「8歳の娘とデザインした8号機」

(ご興味のある方は、これらの記事を含むカテゴリーはこちら… 「★模型ギャラリー」 )



お金をかけなくても鉄道模型はできる!

鉄道模型は、非常に高価なおもちゃで、お金のかかる趣味(道楽?)の代名詞のように思われるかもしれません。

そもそも終戦後間もないころ、日々の生活物資も充分にない時代に、線路の上に電気を流して走る機関車を作り出したパイオニアたちの夢には、お金では測れないロマンを感じます。

私が小学校高学年で入門したころは、模型としてのシステムも完成され、種類も豊富になり、実機を短くシンプルにしたフリーの車両や、子ども向けの入門セットなども発売されていました。プラモデルやミニカーに比べれば高価でしたが、今ほどの高級品ばかりではなく、子どもでもお年玉やお小遣いを貯めれば手に届く世界でした。


ところが最近は、機関車もどんどんグレードアップされ、実機に忠実に1両何十万円もするモデルも少なくありません。子どもが入門で始められるような世界ではなく、大人でもごく一部の人にしか手の届かない高値の華になってしまったように感じます。

キットもかなり高価なものが多く、細部まで精巧に作られている代わりに、指定された通りに組むしかなく、ひと昔前のように基本的なベースキットを工夫して自分なりのオリジナル車両を作ることはかえって難しくなっているように思います。

自分で真鍮板を切ったり曲げたり、ネジ穴を切ったりして「作る楽しみ」を知らなかったら、私もここまで鉄道模型を続けることは不可能だったでしょう。

ヤフオクで1つ何百円かで入手したジャンク部品を手に取って眺めながらイメージを膨らませ、何か月、場合によっては何年もストックしておいた部品を組み合わせ、思い立ったところで図面をおこし、真鍮板やペーパーで車体を切り出し、実物はこういう部分はどうなっているのか気になることを色々調べ、適当に省略するところは省略し…本当に自分のペースで楽しんでいます。



模型を通じて想うことは、他の世界にも通ずることも多いかもしれません。
そういえば、音楽を愛好される方(プロの方も含む)には、なぜかテツ人口・模型人口の比率が高いように思います。なぜでしょう…?

思うに音楽と模型は、いずれも「いかにそれらしく再現するか?」という点で、非常に近いものがあるのではないかと思います。実機の特徴ある部分をほんのわずかスケールより大きめに作って強調したり、ある部分は適当に省略してすっきりさせたり、リアルな汚しをかけたり…etc.

また本業とは別に、好きな世界を大切に、焦らずこつこつ続けることの大切さも、私は鉄道模型の世界から学びました。

よかったら、私が中学3年のときからお世話になってきた鉄道模型屋さんのお話し(→ 「遊びから学ぶ  ~人生のある恩人」 )をご笑覧いただけたら幸いです。


プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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