琉球・沖縄の悲劇の歴史

9月4日(金)

戦後70年の2015年夏、沖縄の悲劇の現場を訪ねたのを機会に、私なりにまとめておきます。

★悲惨な状況を示す画像も現地でたくさん見ましたが、あえてここには載せません。参考となる図表と旅の画像にとどめますので、皆さんの想像力で補ってください。

沖縄戦といえば、終戦の年1945(昭和20)年4月~6月を思い浮かべますが、じつはその前年1944年10月10日に沖縄空襲がありました。空を覆い尽くすほどのおびただしい米軍機による空爆を受け、民家の大半が焼かれています。

戦局はアメリカに有利に展開し、南の島では次々に玉砕が繰り返され、制空権を奪ったアメリカは南の島を基地に日本への空襲を実施。沖縄は真っ先にその犠牲となっているのです。

沖縄という地理的な条件ももちろんありますが、かつては中国との交易の地であった琉球王国は、明治の廃藩置県によって日本の一部となり(↓ 後述)、日本は沖縄にいくつかの飛行場を作り、中国への爆撃を行う拠点としていたのです。

その日本軍の拠点である飛行場をアメリカは真っ先に占領して、アメリカ軍が日本を攻撃する拠点にしようとします。
基地や飛行場などの軍事施設は、守りと攻めの拠点であると同時に、真っ先に攻撃目標となり住民も巻き込んで悲劇の舞台となる、ということです。これはいわば戦争の常識といえるでしょう。 


いわゆる沖縄戦(1945年4~6月)の悲劇はなぜ広がったのか?


沖縄戦概要

1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍は沖縄本島の西、北谷(チャタン)から上陸を開始します。
ここは当時の日本軍の北飛行場・中飛行場にも近い場所です。

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★日本軍は上陸するアメリカ軍に対してほとんど攻撃を加えず、米軍を無血上陸させて島内で迎え撃つゲリラ作戦をとります。上陸地にほど近い西原(にしばる)地区がまず最初の激戦地となります。

北谷から島の東部までを一気に制圧したアメリカ軍によって、沖縄本島は北と南に大きく分断された形となります。北へ逃げて早い段階で捕虜となった民間人はまだよかったのですが(学校教育も受けたという)、南へと逃げた人たちには地獄の悲劇が待ち構えていました。

圧倒的な火力をもつアメリカ軍に対して、★「切り込み」と言われる奇襲攻撃をかける作戦がとられ、住民たちに★「防衛召集」がかけられます。まったく軍事訓練をしていない民間人が、爆弾をもってアメリカ軍の戦車に立ち向かうという、人命を道具としかみない無謀極まりない愚かな戦法です。

また日本軍は、住民の衣服を借りて、喋り方も服装も住民になりきって戦うよう命令が下されます。
民間人を偽装する作戦です。この計画は、アメリカ軍の手に渡って直ちに翻訳されました。その資料が、米・メリーランドの国立公文書館に残っています。これによって米軍は、軍人も民間人も区別なく無差別に殺戮を重ねることになります。

西原を突破したアメリカ軍は、日本軍の司令部のある首里に到達。
しかしここで、★司令部は降伏することなく、南へと移動して戦いを続行します。これによって住民も日本軍とともに島の南へと追い詰められていくことになります。

「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃(下記)が日夜を問わず行われます。島の北からは米兵が迫り、空からは戦闘機の機銃掃射。逃げ場を失った人々は「壕(がま)」へと。

しかし、もともと住民らが潜んでいた壕(がま)に、北から逃れてきた日本軍も合流して人が密集。

アメリカ軍としても、いつどこから住民に変装したゲリラ部隊が出てくるかわからず、穴という穴に火炎放射を浴びせ手榴弾を投げ込んでいきます。
敵国アメリカだけでなく、日本人の軍人と民間人らも、追い詰められた劣悪な環境の中で、人間が人間でなくなる惨劇も…

< 南風原(はえばる)旧陸軍病院壕>

南風原 旧陸軍病院壕 南風原 旧陸軍病院壕2
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火炎放射で焼かれた壁面と、地中に埋められた医薬品の瓶
*クリックすると大きな画像でご覧になれます


「デーテコーイ」「ダイジョウブデスカラ」…日本語で呼びかける米兵。
しかし住民らは、★「鬼畜米兵」と教育され、捕虜となれば女性は強姦され、男性は戦車にひき殺される。死んで生き恥をさらすより自決することを強要されていました。これによって、投降することなく自爆する者、集団自決する者、断崖から身を投じる者が続出しました。


<島の最南端 喜屋武(きゃん)岬>
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乳飲み子をまず放り投げ、自ら断崖から身を投じる母親の動画が撮影されたのはサイパンですが、ここでも同じような悲劇が繰り広げられました。

ついに6月23日、日本の第32部隊の牛島満司令官がまぶにの丘で自決すると、組織的な戦闘は終わりを迎えますが、悲劇はその後も続きました。
「ひめゆり」の中にも、解散命令が出されてだいぶ経ってから命を落とした人も多数いました。

★6月23日で「組織的な戦闘は終わり」という表現は何を意味するのか?
国としての「降伏」でないまでも、戦闘の終了を示す告知がどこまできちんとなされたのか…?



もうお気づきでしょうが、ここまで文中に★印をつけた箇所は、日本軍の決めた方針・とった行動によって犠牲が拡大したといえる部分です。こうした記述は教科書からは一切削除されています。


負け戦であることは明らかだったにもかかわらず、日本本土を守るための「時間稼ぎ」のために、沖縄で犠牲となった人たちは推定で25万人

そのうち本来は非戦闘員である住民の犠牲は20万人を超えると言われています。その中にはまだ少女だった従軍衛生婦「ひめゆり隊」250名以上いたことは有名ですが、朝鮮半島から連れてこられた若い戦闘員も1万人以上いました。


<平和記念公園に立つ韓国人犠牲者の慰霊碑>
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*クリックすると大きな画像でご覧になれます

<旧海軍司令壕>
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幕僚室には、手榴弾で自決した痕が生々しく残る。


鉄の暴風

♪「ざわわ ざわわ~」と歌われる♪『サトウキビ畑』の3番の歌詞に、「あの日鉄の雨にうたれ、父は死んでいった」とあります。でも、それがどういうものなのか、私も正直よく判っていませんでした。

南風原文化センターで実際に手に取った砲弾の破片です。

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片手で持てる大きさでも2キロ近くあります。今こんなものが1つでもビルから落下して通行人が死傷したらそれこそ大問題でしょう。
それが、昼夜問わず海上のアメリカ艦船から発射された砲弾が暴風のごとく浴びせられたのです。

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琉球王国から沖縄県へ

さらに長~い琉球王国の歴史をごく大ざっぱに…

7世紀ごろ、中国は隋の時代に台湾から沖縄・奄美諸島あたりの島は「流求」と言われたようで、それが「リュウチュークク=琉球国」の起源とも言われます。

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろ草紙』では、12世紀に源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄に逃れ、その子が琉球王家の始祖「舜天」になったと言われますが真偽は不明。

16世紀のはじめに東方について著したポルトガル人のトメ・ピレスは、琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について次のように記しています。

「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。 彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」。


*日本と琉球王国

16世紀後半、豊臣秀吉が明と李氏朝鮮を征服しようとした際に、琉球王国に助勢を命じましたが、と親交の深い琉球の国王は拒否します。

しかし、文禄・慶長の役で豊臣軍が朝鮮出兵をした際には、琉球は日本軍に食料を提供するなど兵站の一部を担いました。

江戸時代に入って間もなく1609年、薩摩藩(島津氏)は3000名の兵を率いて薩摩を出発、当時は琉球王国の領土であった奄美大島へ進軍。そして沖縄本島へと進み首里城まで迫りました。
琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗しますが敗れ、尚寧王が和睦を申し入れて首里城を開城。

これ以降、琉球国は薩摩藩の属国のような形で貢納を義務付けられます。その一方、明に代わって中国を統一したに対しても朝貢を続け、薩摩(日本)と清(中国)の2つの国からの支配を受けることになります。

建築や文化の面で、中国と日本の両方の影響を受けて独自の文化を築いてきたように見えるのはこのためです。

首里13 首里12 首里11
★クリックすると大きな画像でご覧になれます

幕末、黒船のペリーも琉球を訪れ、日本と同じように開港を迫ったと言われています。

明治政府が1871年に廃藩置県を行った際に、琉球王国の領土を薩摩藩の所属下にいったん置きますが、翌1872年に「琉球藩」を新たに設置し、琉球王の尚泰を琉球藩王として華族の扱いとしました。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号を使用し、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫りましたが、琉球は従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて琉球へ渡り、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じます(=いわゆる琉球処分)。そして同年4月4日に琉球藩を廃止し「沖縄県」を設置しました。

こうして日本の一部となった沖縄が、先の大戦では日本を防衛するための時間稼ぎの場となって多大な犠牲を強いられたのです。戦後、アメリカ領となり、1972年にふたたび日本へ復帰して今日に至っています。

2015年夏、沖縄を訪ねた3泊4日の旅の画像はこちら…

→ 「
沖縄 ~戦後70年を訪ねる旅~


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

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