原爆はなぜ投下されたのか? ~70年目の原爆の日に~

2015年 8月9日(日)


原爆投下までの悪魔のシナリオ

「戦争を早く終わらせるために、原爆はやむを得なかった」…とするアメリカの論理は以前からある。
そのことを今さらのように知って激怒していたお笑い芸人がいたが、戦争とはそういうもの。武器があれば使用する。使用した側にはそれなりの「しかたなかった」という論理もあるのが常だ。

しかし、原爆に関して言えば「たまたまあったから、やむを得ず使った」とは言えない。

原爆の開発はじつはもっと前から密かに進められていて、人類初の原爆が完成して初の実験に成功したのは1945年の7月16日。ヒロシマ・ナガサキのわずか半月前である。

これは何を意味するだろうか…?

アメリカとしては、莫大な国費を投入して長年かけて完成させた世界初の原子爆弾。
その威力を実戦で用いて威力を試し、人体実験を行い、その脅威を世界に知らしめて、なによりソ連よりも先に、いかに有利な立場で日本を終戦に追い込み、その後の占領統治を有利にすすめるか…?

そのためには、原爆が完成するまで、日本に戦争を続けさせておく必要があった。

昨年の8月に「原爆投下までの悪夢のシナリオ」という記事を書いたが、前後関係を時系列に見てみると、その恐ろしいシナリオが着々と進められていく過程がいっそう明確に浮かび上がってくる。


ヤルタ会談

1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われた、アメリカ(ルーズベルト大統領)・イギリス(チャーチル)・ソ連(スターリン)による会談。この中でもとくに「極東密約(ヤルタ協定)」と呼ばれるものが、日本に関する内容である。

ソ連と日本の間には、1946年までが有効期限の「日ソ中立条約」があったので、日本は最終的な終戦のための調整はソ連に依頼できるだろうと信頼していた。
しかしソ連はこのヤルタ協定で、日ソ中立条約を一方的に破棄して、夏ごろには日本を相手に参戦する意思を表明。その条件として、樺太の南と千島列島をソ連に渡してほしい、という密約を交わす。これによって、アメリカとしては戦後の日本を占領するライバルが出現したことになる。


ポツダム宣言

日本を最終的には無条件降伏に応じさせるための要求をまとめたもの。当初イギリスのチャーチルからは6月ごろにポツダム宣言について話し合う提案がなされていたが、アメリカでは就任したばかりのトルーマン大統領が、どうしても7月半ば以降にと提案。7月半ばといのは、世界初の原爆が完成し、最初の実験が行われる予定の時期である。

ポツダム宣言の草案の中には当初、日本に対して「天皇制の存続は保障する」という条項があった。
これを掲げれば、戦局の悪化した日本は受け入れる公算が高くなるだろうと。

しかし、7月に開かれたポツダム宣言の会議ではその条項が削除され、日本に対してあくまで「無条件降伏」を要求する形となった。

ただ、この宣言を日本に向けて発するにあたって、アメリカ(トルーマン)とイギリス(チャーチル)とならんで中華民国(蒋介石)の署名はあるが、なぜかソ連の署名がない。

もしソ連もそこにサインをしたら、ソ連が中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告をすることが日本に知れてしまい、あきらめた日本は受諾する可能性が高まる。

つまり、トルーマン大統領は、日本が絶対に受け入れない無条件降伏を掲げ、ソ連が参戦する情報も隠し、日本がそうそう簡単にはポツダム宣言を受け入れないであろうという公算のもとに提示した。

案の定トルーマンの思惑通り、日本の鈴木貫太郎内閣はこれを黙殺。
これによって、一応日本に対してポツダム宣言受諾を奨めたが日本が拒否した、という既成事実は出来上がり、最終手段として原爆を使用することの名目が確保される。

トルーマンの頭には、原爆の完成・実験・使用可能となる日程までの秒読みがあり、その中でポツダム宣言の草案・提示・ソ連参戦のタイミングなどとをにらみながらギリギリのタイムスケジュールが出来上がったのだ。

ポツダム会談

1945年7月17日~8月2日、ドイツベルリン郊外にあるツェツィリエンホーフ宮殿内のこの部屋に、イギリスのチャーチル・アメリカのトルーマン・ソ連のスターリンらが集まって、日本の無条件降伏に向けた会談が行われた。
(画像は実際にこの部屋を訪問した友人のM.Oさんがfacebookにアップされたものを借用)。


マンハッタン計画

話は少しさかのぼる。日本が真珠湾攻撃を仕掛ける1941年よりも前から、原爆の開発は密かに始まっていた。

ドイツが先行して核爆弾を誕生させることを恐れたユダヤ系の亡命物理学者レオ・シラードが1939年にアメリカのルーズベルト大統領に核兵器の可能性を提言している。
このとき同じユダヤ系の物理学者アイン・シュタインも名を連ねているが、アイン・シュタインはその後の核開発には実際にはかかわっていない。

研究開発の年月を経て、実際に原爆の製造に着手したのは1942年10月ごろとされている。
つまり日本が真珠湾を攻撃してから10か月後。ミッドウエイ海戦で戦局がアメリカに有利に転じたのが1942年の6月。10月にはガダルカナル島で日本軍が大敗している。そのころすでに原爆の製造は具体的に着手されたことになる。

そして人類初の原子爆弾が誕生するのが、それからおよそ3年後の1945年7月。7月の半ばに初の核実験が行われ成功し、そのすぐ後にヒロシマ・ナガサキへ。


◆悪夢のシナリオの完成

ここまで見てきた前後関係の中で、昨年書いた「悪魔のシナリオ」とも見事につながるのである。
ヤルタ会談でイギリス・ソ連と戦後に向けたお互いの思惑を確認。

1945年5月に、国連憲章を作成する名目で4名がサンフランシスコに集まった。
アメリカの呼びかけ人であるエドワード・ステテュニアス、大統領補佐官にしてソ連のスパイでもあったアルジャー・ヒス、サリバン&クロムウェル法律事務所のジョン・フォスター・ダレス、それに特命全権大使としてモスクワに2年間スターリンの戦争を指揮していたW・アヴェリル・ハリマン、合計4名による密約である。

5月にはドイツがすでに無条件降伏をしていたので、莫大な予算をつぎ込んで開発した原爆の威力を試し、その威力を世界に知らしめるために使用できるのは日本しかない。もし日本が降伏してしまえば、そのチャンスは永久になくなる。

日本との和平交渉などには一切応じず、むしろ日本が絶対に受け入れない無条件降伏をつきつけて戦争を長引かせ、その間に原爆を完成させる。そしてソ連が参戦してくる前に原爆を使用する必要があった。

原爆の実験が7月半ばに成功すれば8月には投下が可能。そしてソ連が参戦してくる見通しが8月の半ば。となると、原爆を投下するのは8月の初旬、という運命が決まる。

広島・小倉・長崎・新潟、の4都市を攻撃目標とし、天候の許す範囲で運命の日はやってきた。

「戦争を早く終わらせるために原爆はやむを得なかった」というのは国内外への弁解にすぎず、実際には「是が非でも原爆を使うために」すべてのシナリオが仕組まれていったことになる。



◆日本にとって 引き返せたラストチャンスは…?

日清日露戦争のころは、ロシアが中国や朝鮮半島にまで勢力を広げていたので、英・米としては日本にも少し力をつけてもらい、ロシアに対向できることを期待した。日本がイギリスと同様に帝国主義の道をすすんで植民地政策をとることにも後押ししてくれていた(→日露戦争の講和条約は、アメリカのポーツマスで結ばれている)。

しかし、日本がアジア圏に勢力をどんどん拡大し、大東亜共栄圏を築くにいたると、今度はイギリス・オランダ・アメリカなどは日本を警戒し、日本の力を削ごうと働きかけてくる。

★幕末に黒船でペリーがやってきたとき、アメリカが日本に求めたことを思い出してみると、アメリカは日本に「極東のよき協力者」であることを求めているのではないかと思う。日本がそれ以上の力を持ちすぎると、英米は日本に圧力をかけてくるのだろう。

「日清戦争前の日本固有の領土に戻れ」など、日本が絶対に受け入れない要求を掲げて経済制裁を課してきたアメリカ(→通称「ハル・ノート」)。

そんなアメリカと戦うべきだと参戦論を主張する軍部。軍部のみならず、明治以来負け知らずで来た日本全体のムードが、「和平交渉なんて弱腰だ」という空気を作っていたのではないだろうか?

しかし軍部もさすがに国力の差が歴然とあることは心得ていたので、なるべく短期決戦で決着をつけるべく、1941年12月8日未明、真珠湾攻撃をしかけた。日本は世界の大国を敵に回して泥沼の戦いに突入したのである。

だが、真珠湾攻撃は国際条約に違反する「奇襲攻撃」ではなく、ちゃんと宣戦布告の打電を打ったことを確認してから攻撃に入ったとされている(→山本五十六の記録等)。
にもかかわらず、アメリカ側が発表を遅らせて最初の一発を日本に叩かせ、「パールハーバーを忘れるな」を合言葉に、アメリカ全土に日本と戦う戦意を高めたともいわれる。

いわばアメリカの筋書きによって突入し、アメリカの筋書きによって原爆を落とされて終結したあの戦争。
あらためて日本にとって、あの戦争は何だったのだろうか…?



外交には常に他国の事情も複雑に絡んでくるので「やむを得ない」部分は常にあるとしても、いつの時点だったら、引き返せる道がまだ残されていたのだろうか…?

開戦からわずか1年足らずのうちに、南の島々、マレー半島からシンガポールまで一気に制圧した日本だったが、翌1942年の6月のミッドウエー海戦でアメリカに戦局は有利に傾き、10月にはガダルカナル島で大敗。

さらに絶対国防圏と言われたフィリピン、レイテ沖の開戦で日本の海軍が事実上壊滅するのは1944年(昭和19年)の10月。体当たり攻撃の「特攻」が行われたのもちょうどその頃だ。

パイロットの命と引き換えに敵艦を撃沈させるなどという、自爆テロのような戦法が「作戦」と言えるのだろうか?
この時点で、天皇陛下自らが「よくぞ戦果をあげてくれた」ではなく、「そうまでして闘わなくてはいけない状況なら、戦いはやめるべきだ」と判断されていたら…?

さらに最後の1945年(昭和20年)に入ると、フィリピン、マニラ、テニアンなどを手中に収めた米軍のB29が日本本土へ爆撃できる状況となる。

3月1日に、近衛文麿が天皇と接見して戦況を伝え、終戦を急ぐことを進言。
しかし天皇からの答えは「一撃講和」、すなわちいちど戦局を有利にもっていってからでないと終戦を有利には進められないと。なんとか一発逆転で戦局を打開すべく、特攻も拡大されていくことになる。

そして3月10日は東京大空襲(約10万人死亡)、4月には沖縄にアメリカ軍が上陸、戦艦大和を中心とする最後の艦隊が特攻作戦で出撃して撃沈(約3000人が死亡)、沖縄戦では6月までの激戦で軍人・民間人合わせて24万人が死亡、全国の各都市への空襲…



とくに終戦までの半年間、すでに戦局は明らかだった中でどれだけの命が犠牲になっただろう?
しかし ここに至る道のりの中で、日本に引き返せる機会がいつあっただろうか?

マンハッタン計画も終盤に入り、実際に原爆の製造に入ったのが開戦からわずか1年後。ちょうどミッドウエイ開戦で戦局が逆転したころ。

もし仮にこの時点で日本が本気で終戦を申し出ても、巨額の国費を投じて4年越しに開発してきた原爆が間もなく完成するアメリカが、日本の降伏を受け入れただろうか…?

さらに時間を巻き戻して、真珠湾攻撃から半年ほどの間に、マレー半島の先端シンガポールまで日本が占領した段階で「終戦」(=アメリカが敗戦国となる)なんてことが考えられただろうか?

たしかにその後の戦局悪化による多大な犠牲はなかったかもしれない。しかし、戦艦大和をはじめとする大型戦艦も、日本は明治以降「負け知らず」できたという驕りも持ち続けたまま、ずっと平和が続いただろうか?
日本が占領した各地のどこかでまた衝突が起こり、何らかの因果でふたたび日米の戦争へと突入し、やはり原爆は日本に投下される運命にあったのではないだろうか?

いろいろ考えさせられるが、武力行使に「必要最小限」などということはあり得ないのではなかろうか?

わが国の存立危機、他に手段がない…、いかなるもっともらしい理由があろうと、いったん武力公使という手段に出て突き進んでしまったら、そうそう簡単には引き返せる道はないということだ。だから、本当に不当な侵略に備える防衛(個別的自衛権)以外、いかなる戦争も肯定されてはならない、というのが私なりの結論である。


    
↓ FBへのシェアも歓迎ですが、こちらにもワンクリックを!

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

全く同感です

高木さんの考え思いに全く同感します。「テンパ二で朝食を」は私が言葉で表現出来ないもやもやを全て表現してくれていてとても気持ちがよく読めます。私はなかなかここまで表現に落とし込めません。それがもどかしくもあります。
原爆のことはまったく私も同感します。原爆の威力を日本で試したかったのが事実と思います。そしてそれがソ連への警鐘となるからですね。もうひとつ言えばキリスト教信者ではない黄色人種だから罪の意識が多少緩和されるというのもあると思います。わざわざエノラゲイに宣教師を搭乗させたぐらいだから。
日本人の思想のなさは悲しいほどです。鬼畜米英があっという間に親米ですから(苦笑)。そして戦争の反省をしない。天皇は裁かれて当然ですが、米国は対ソ連中国の防波堤として日本を(天皇を)そしてA戦犯までも利用しました。それが戦後70年経っても延々と続いている。今の天皇は親父の罪を反省してるからこそ戦争を反対して慰霊の旅を続けているのだと信じたいです。今の安倍政権にもっともの申して欲しいと思います。憲法で認められていないと言ってもその憲法を空洞化しようとしてるのですから。日本という国は国際舞台で活躍できる理性も知性もないのだから東の辺境国として憲法9条を守り抜いて欲しいと思う今日この頃です。とりとめもなくと色々言って申し訳ありません。
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
このすぐ下の「カテゴリ」から興味のあるテーマごとにクリックして覗いてみてください。
一部パスワードをご存じのメンバーの方のみ閲覧できるページを含みます。

カテゴリ
カウント開始 2011.1.14~
リンク
最新記事
最新コメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR