「スポーツの力」とは…

9月8日(月)

義足をつけてパラリンピックに挑み、自らハンディを持った体験やスポーツとの出会い、東日本大震災からの復興に動き出す故郷の姿と「スポーツの力」を訴え、東京五輪の招致に貢献した佐藤真海さんが結婚されたそうですね。おめでとうございます!

パラリンピック佐藤さん

この記事が目に留まった時に思ったのは、流行語ともなった「おもてなし」からもう1年たったのか、ということがまず一つ。
そしてもうひとつ、彼女もスピーチの中で訴えていたように「スポーツの力」という言葉が最近よく使われるようになり、「音楽の力」と同じだな、と感じる点です。

「スポーツの力」と「音楽の力」、どちらもそこに挑んで日々努力を重ねている人たちは素晴らしく、障がいのある・なしを超えて人々に感動と勇気をもたらすという点ではまったく同じだと思います。

ただ、いまの社会の中でその両者には大きな違いがあります。それは、商業ベースに乗って巨額のお金が動くかどうかの違いです。

べつに音楽の世界からみて、スポーツは脚光を浴びて大きなお金が動くからうらやましい、とやっかむつもりはありません。 スポーツの素晴らしさを否定するつもりもありません。

ただ、世の中全体の価値観と言いますか、人々の注目を集めるところ(=とくに勝ち・負けがはっきり目に見えやすいスポーツ)に皆が群がり、そこに商業ベースの大きな力が働き、巨額のお金が動く…オリンピックなどはそのもっともいい例といえるでしょう。 そこにやや疑問を感じるのです。

以下、日本全体のムード・流れには逆行すると思われるかもしれませんが、誤解を恐れずにあえて書かせていただきます。


東京オリンピック過熱

昨年ブエノスアイレスでは安倍首相も自ら演壇に立ち、福島に関して「すべてはコントロール下にあります」と発言しました。本当でしょうか…?
たしかに日本人として、東京で再びオリンピックが開催されるのは喜ばしいことです。昭和39年の東京オリンピックを知っている人には感慨深いものがあると思います。

2020年に東京オリンピックが決まったことで、東京の交通網や都市基盤整備の計画が出され(すでにオリンピック招致が決まる前から水面下ではできていた?)、わずか2週間の開催期間のためにホテルや不動産業者、飲食店や土産物店に至るまであらゆる業種が波及効果を期待してすでに色めき立っています。暗いニュースが多い中、晴れ舞台に向けて景気が上がるのもそれはそれでいいでしょう。

でも、そのためにいったいどれほど巨額なお金が投入されるのでしょうか?
いま日本がやらなくてはならない最優先課題がオリンピック招致でしょうか?福島をはじめ被災地の復興はどうでしょうか?国民のための政策はどうなのでしょうか?
「東京オリンピックに回す予算を、復興支援に!」という声も少なからずあることは事実です。


商業ベースでつくられる感動

少し前に、24時間テレビに関してフェイスブックにこんな記事をシェアしました。

24時間TVギャラ

私はもともと「24時間テレビ」に対して冷ややかな見方をしてきた。

みなさん「感動」を求めて(飢えて?)いるのはわかる。競争でギクシャクした世の中、電車内も街も無表情な人ばかり。そんな中で、何か自分に挑戦したり人の役に立つチャリティに汗を流す…そういう「感動」をみんなが求めていることは確かなようだ。
でも、自分の身近なこと、自分の問題意識、自分がかかわっている活動などを通じて自分なりの手作りの「感動」ぐらい作れないのか?

感動」という名の「商品」はいらない!

テレビ局が大騒ぎして、24時間通して何かイベントをやり、タレントが何かに挑戦する姿。もちろんそこに感動がないわけではない。しかし彼らはノーギャラで自分のライフワークとしてやっているのではない。スポンサーもついてTV局も視聴率稼ぎに沸き、タレントらにもそれなりに高いギャラが支払われているのだ。それを観て「おこぼれ涙」にあやかりたいのか?それが本当の「感動」だろうか!?…情けない!

やるなら、一市民らが地道にやってきた活動を時間をかけて取材し、しっかりしたドキュメント番組でも作ったらいい。そういう番組こそスポンサーを付けずにTV局独自の発信テーマとして。

芸能人がもらうギャラだけを「けしからん」と言ったり、そのギャラを受け取るべきではないとか全額寄付すべきだといった議論とはちょっと趣旨が異なります。

私は「感動」を大切にしたいと常々思っています。だからなおさら「商業ベースでつくられた感動」に対して違和感(嫌悪感)を覚えてしまうのかもしれません。


◆本当の「スポーツの力」とは?

きょう、同じ新聞紙面には、テニスの錦織選手の快挙ぶりが大きく報じられていました。
たとえどんなに強い相手でもひるむことなく、最後まであきらめずに粘りのプレイを続ける彼の姿は本当に素晴らしいですね。
そのスポーツをふだん愛好していない人でも、思わず吸い寄せられて見てしまうような素晴らしいプレイというのはあると思います。

それは音楽でも同じです。必ずしもふだんから音楽を愛好し、その楽器を演奏しない人でも、素晴らしい音楽の演奏には人を魅了する力があります。
そこには人生のドラマがあり、感動の分かち合いがあります。人類にとっての共有の財産のようなものでしょう。

でも、スポーツと音楽で大きな違いがあります。それは冒頭にも書いた通り、多くの人の目を集め、商業ベースになるかどうか、の違いです。
思うにスポーツというのは、勝ち負けの結果が誰の目にもはっきりしていることと、子どもから大人まで誰でもボールを蹴ったり投げたりすることはできますから、すそ野が広いということはあるかもしれませんね。 それにしても音楽人口だってそれなりにあるはずなんですが…

サッカーでもオリンピックでも、世界の舞台に日本人が出ていくと、それこそトップニュースとなって新聞の一面を大きく飾り、「いけいけニッポン!」と大騒ぎされます。

日本代表の選手には、まるで日本の全運命を託されているかのように、過度な期待が寄せられます。 スポーツ選手たちにとってそれは「励み」「応援」にもなるでしょうが、同時にものすごいプレッシャーとなることでしょう。

その競技を愛し、日々努力を重ね、結果としてどこまでいけるか、自分らしい力を出し切って結果がどうかを試す世界の舞台。そこに「日本の代表」として「勝たなくてはいけない」という重い使命を課せられるのです。

ただでさえものすごいプレッシャーの中にあるのに、なおも報道陣に取り囲まれて「結果は期待できそうですか?」などと質問攻めにされても笑顔で答え、中には元首相だった人物に「あの子は肝心なところでこける」とまで揶揄され…、本当に見ていて可哀想になることも少なくありません。

ふだんべつにそのスポーツをやりもしない、愛好しているとも言えないような人たちまで、それこそ仕事を休んでまで日の丸を掲げて「ニッポン、ニッポン」と騒ぎ、冷めた言い方でもしようものならそれこそ「非国民」とも呼ばれかねない空気。
喩えは悪いですが、戦時下に日の丸を振って軍人たちを送り出していたナショナリズムとも重なって見えてしまいます。

その巨大なエネルギーは、当然ながら商業主義にも乗っかって巨額のお金を動かす原動力となります。どんな商品にも選手の名前やチームのロゴが加えられることによって付加価値がつけられ、商品の売り上げに貢献…etc.

はたしてそれが本当に「スポーツの力」なのでしょうか?



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24時間テレビについて

もともとの企画は萩本欽一・徳光和夫が中心となり、手弁当でチャリティー企画で募金活動をという企画。それに賛同した企業がスポンサーとなり、出演者も手弁当で集まったと聞きます。日テレや萩本・徳光に関連がある、各種義理等がある芸人達もそれにノンギャラで参加する形でした。それが、この10年程企画が肥大化したためにノンギャラではまわらなくなり商業ベースに移行してきた感があります。いまの形はもともとの思想とは逸脱した形に変形してしまったという事。
結局、本当の意味でのチャリティーに前向きの人々だけで維持できる企画規模からはみだしたものは商業ベースに頼るしかないという現実です。何をするにも経費がかかる。方向性が変わった段階でリセットすべきなんでしょうけどそれも「マイナス思考」と判断されがち。なんらかの説得力のある方向転換のネタが無いかぎり続けざるをえないのが現実でしょうね。

Re: 24時間テレビについて

森川さん、お久しぶりです。

錦織選手、あと一歩のところで残念でしたが、よく健闘しましたね。
そんなタイミングに、日本全体を敵に回しかねないような記事を書いたのに、ご丁寧にありがとうございます。

そうです、「24時間テレビ」の始まった当初は欽ちゃんや徳光さんの持ち味もあってよかったですね。だんだん商業ベースになってきた感は否めません。それはちょうどオリンピックが「アマチュアスポーツ」の祭典だったはずがすっかり変わってしまったように、その進化(?)の過程を10年ほどに縮めて見るような思いです。

もともとは個人の善意で手弁当で来たものが、賛同を得てスポンサーがつく。そこまでは健全な範囲だと思います。「音楽の力」も「スポーツの力」も「善意の力」もみな、ある程度の規模の企画ともなれば当然経費も掛かりますし、人の善意(無料)にだけ頼るのもどうか、という私の持論もありますから。

でも、それが膨らんで「商業主義」になるところにどこか大きなボタンの掛け違えが起こるような気がするのです。そこに乗っかってくる企業(スポンサー)が自分のアピールのために利用するようになったり、法外なギャラが出されたり、便乗する人が現れたり…
具体的にどこがどうなって、金額がいくら以上になると、という線引きは難しいですが、私は個人的に思うところでは、善意で(儲け主義ではなく)参加した人にも支払われるギャラがその時代の労働者の平均賃金(日給もしくは自給換算で)レベルなら許容範囲ではないかと。

たとえば幼少の頃から楽器を習得してきて音大まで出たような演奏家に、ただでお願いするのが当たり前、というのは気の毒。一般のコンサート並みのギャラはスポンサーが着くことによって支払われてもいいと思います。
一方、たいして中味もなさそうなお笑いタレントに何千万ものギャラというのはおかしい、といったように感覚的にはかなり明確なんですね。

今年の「24時間テレビ」についてはとくに冷ややかな見方が強かったのか、フェイスブックでもあの黄色いギャラ一覧の表の出た記事を何人かのページで目にし、私もシェアしたところ、けっこう反響がありました。
元の記事には、さんま・ビートたけし・松本人志氏らのコメントが比較されるように出ていました。
その部分だけコピペにて…

◆明石家さんまにオファーがあった時
「チャリティーならギャラは寄付してくれ」とお願いしましたが、他の参加者の手前それはできないと言われ、
「じゃあ、ギャラが出るなら出演しない」とつっぱねた。
 
◆ビートたけし にオファーがあった時
「出演依頼がしつこく来てたんだけど全部断ってやったよ。」
あんな偽善番組は大っ嫌いだ。
誰がなんと言おうと俺は絶対出ないから。
ヨダレ垂らした芸能人どもが、めちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。
チャリティーって言うくらいなら、おまえら全員ノーギャラで出ろよ!コノヤロー!!
 
◇1992年 ダウンタウン松本人志
ギャラをもらうことにアレルギーはなかったのか質問された時、
「もちろんあったよ。こんなんやってええのかとかね。ギャラもらっていいのかっていう話にもなるんですよね。ギャラもらいましたよ。それはやっぱり仕事やから。もらったお金をどう使うかは、こっちの勝手じゃないですか。」

これらのコメントを見て、芸能人個人に対する好き嫌い、あるいは「もらったギャラを全額寄付すべきだ」といった議論にもなりそうですが、私はむしろ芸能人の個人個人がもらったギャラをどうするかという問題以前に、本来のチャリティの趣旨にこのような高いギャラが出るような仕組み(=商業主義)がいかがなものか、という点に注目したのです。
 

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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