「刷り込み」からの脱却

「刷り込み」という言葉をご存知でしょうか?印刷のお話ではありません。

卵からかえったばかりのヒナが最初に目にした動くものを「お母さん」と思う現象を「刷り込み」といいますが、それだけでなく、何らかの情報作用によって「そう思い込んでしまうこと」を広く「刷り込み」と言います。
心理学で、あることを認識するのに、なんらかの情報が外部から与えられることによって、実際に自分の目・耳(五感)で得た情報や記憶がゆがめられ、あたかもそうであるかのように認識してしまうことです。

人は情報を得て処理する際に、全く白紙の状態で視覚や聴覚から得た情報を処理しているのではなく、前に見ていた情報、「これはこうであるはずだ」という常識、こうあってほしいと思う願望…といったさまざまな要素(=「構え」という)をもちながら情報を処理しているのです。

たとえば…
dog.gif

上の図はゲシュタルト心理学でも有名な一例ですが、視覚でとらえただけではただの黒と白のマダラ模様です。でもそこに「犬」という概念が浮かんでいると…
dog_2.gif
この絵を見る前に犬の画像をたくさん見ていたり、もともと犬が好きな人だったり… これが「構え」です。

前後関係や常識が、情報を処理する助けとなり、より深い判断ができることもあれば、先入観による「思い込み」から、見落とし・聞き洩らし、見まちがえ・聞き間違えなどのミスにつながることもあります。人間の不思議なところ、面白いところ、危険なところですね。

このような記憶や認識の曖昧さは、推理小説や刑事ドラマの証言などにもよく登場します。

また「くりかえし効果」によって、好みや価値観は人それぞれのはずなのに、気づかないうちに思い込みが生じることもあります。最近よく言われる「洗脳」も「刷り込み」のひとつでしょう。

国やマスコミがある意図をもって流す情報、あるいは情報を流さないことで、社会の多くの人を「洗脳」してしまう危険も指摘されていますし、歴史上の数々の事例でも明らかです。

しかしわれわれは実験室のサルではありません。そう思いたいですよね。
ならば、いかに自分の目と耳で得た情報を、自分なりに処理できるか…?


まわりの意見に流されやすい

昔(もう今から40年ぐらい前)、NHKで「生活の知恵」という番組がありました。身近なテーマを取り上げ、ちょっとした実験も取り入れながら司会とゲストがすすめる科学バラエティ、のちの「ウルトラアイ」や「ためしてがってん」の前身ともいえるような番組で、1957年4月18日から1971年3月24日まで、水曜日の夜7時半~8時に放送されていました。 私が幼少のころ~中学生までつづいた長寿番組です。

NHKアーカイブスより 「生活の知恵」
生活の知恵 

ある時その番組の中で、スタジオに集まったゲストたちにある絵を見せて覚えてもらう実験をやりました。覚えてもらったらその絵を伏せて、「さて、ポストはどっちに描かれてたでしょう?」と問いかけるんです。

最初に答えるサクラの何人かに「右だったと思います」と答えさせると、それに続くほかのゲスト(被験者)の多くが「右だと思う」と答えるんです。つぎに別のグループに同じ実験をやって、今度は最初のサクラに「左だったと思う」と答えさせると…

もともとその絵にはポストなんて描かれてないんです(何か赤いものが画面の片隅に描かれていたかもしれません)。 番組の中でただ一人、「ポストは本当にあったんですか?」と問うゲストがいたことを記憶しています。
いかに記憶は曖昧なものか、そしていかに周りに意見に流されやすいか…
なにせ小学生のころ観たテレビ番組ですが、印象深かったので鮮明に覚えています。


社会のあらゆる場面で

小学校の学級会でも、自分が違うと思っても、周りの多数(とくにリーダー的存在の人)がある意見を言ってまわりが「そうだそうだ」と同意すると、たとえそれが間違っていて自分は違うと思っていてもなかなか意見が出しづらいのではないでしょうか?

不条理ないじめが起きても、いじめられている子をかばうと自分がいじめられるから、見て見ぬふりをしたり、いじめる側に加担してしまう。よくある話です。

大人になっても、自分の意見を出すより前に「ほかの人たちはどう思ってるんだろう」が気になり過ぎる。それは気配りでも思いやりでもありません。自分の意見を持たない、出すのが怖いだけではないでしょうか?

それは今のネット社会にもそのまま表れているように思います。ある意見をもっともだと思っても、あまり多くが反応していない記事に「いいね」をつける勇気がない、など。

会社組織に属する人が、業務上知りえたことをネットで暴露することは道義的にもちろん許されることではありません。また所属する会社組織の方向に反対する(たとえば電力会社の社員が原発に反対するなど)はいくら個人的な意見とはいえまずいかもしれません。
でも、ひとりの社会の一員として、人として当たり前のことを表現する、社会で起きている不条理なことに対してなんらかの意見を述べる、ということがそんなに危険なことでしょうか?

リタイアした身でなければ社会に対して何も意見を出せない(→出さない→やがて感じない・考えないにもつながっていくでしょう)というのでは、いったい誰のための社会なんでしょうか?


少数派への思いやりこそ本当の民主主義

たとえ少数派でも見捨てたり潰しにかかるのではなく、「どうしてそう思うの?」と問いかけて皆で考えてみるようなことが教育の場で行われていたらどうでしょう?
なんでもかんでも多数決で決めてしまうことが民主主義だとは思いません。

多数派がある方向に流れているときこそ、少数派の声に耳を傾けることは重要ではないかと私は思います。 多数の意見、力のある人の意見に対しても、自分は違うと思ったら自分なりに表現できるように。

そういうしくみこそが、思いやりの気持ちも育てるでしょうし、自分自身の考えを構築する力、物事の本質を追及する目も育てるのではないでしょうか?

→ 「日本を、いや民主主義を取り戻す!」

 

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
このすぐ下の「カテゴリ」から興味のあるテーマごとにクリックして覗いてみてください。
一部パスワードをご存じのメンバーの方のみ閲覧できるページを含みます。

カテゴリ
カウント開始 2011.1.14~
リンク
最新記事
最新コメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR