無責任社会の慣用句

トップの無責任

なにか事が起こるとトップは必ずと言っていいほど「想定できなかった、分からなかった」と言う。
本当か…?

トップに立つ者は末端の現場とまったく同じ仕事をする必要はないが、現場の声をよく吸い上げ、基本的なことは把握し、改善すべきことは改善し、問題を解決するための決断をする責任がある。

しかるべき立場にあって、分かっていたのにやらなかったとしたら責任を追求されるから「分からなかった」と言うのであろう。もし本当に分からなかったのであればあまりに「無能」である。

ごくふつうの人が特殊なことに対して「無能」であっても罪には問われない。
しかし、しかるべき立場の人間が「無能」だったとすれば、「無能であるにもかかわらずしかるべき立場に就いていた」ことに対する社会的責任が問われるべきだろう。

起きたことへの損害賠償責任はもちろん、しかるべき立場に就いていた期間の報酬(←労働者としての最低賃金分を上回る部分)は返還すべきではないだろうか?


ひやりはっと

「ひやりはっとの原則」というのをご存じだろうか?
大きな事故が起こる際、いきなり全く予測不可能にして起こることは少なく、その前に何かしら「ひやり」とした出来事や「ハッ」とした出来事がある、つまり起こりうる危険の可能性を示すサインがある場合が多いということだ。

そうした危険の可能性に最初に気づくのは、たいていトップではなく最前線の現場である。
気づいたら当然ながらすぐ対処すべきであるが、末端の担当者が判断できることは限られている。
まず上に報告・連絡・相談する。組織の「ホウレンソウ」の大原則だ。
対策には予算もかかる。組織としての方針もある。所属長、もしくは最終的にはトップの判断になる。


現場の無責任 

「ひやりはっと」の段階でしかるべき対策がとられていたら防げたであろう事故はけっこう多い。

数年前、東急電鉄の多摩川駅で、車いすの乗客がホームの傾斜のために線路に転落して亡くなるという痛ましい事故があった。しかし同駅ではそれ以前にも似た事故があり、ホームの傾斜が危険であることは分かっていたのだ。にもかかわらず、手すりひとつつけるなどの安全対策をなにもとってこなかったことが問題となり、裁判でも駅長および電鉄会社に責任が問われ過失が認定された。
これを受けて、同電鉄側は1メートルの距離に2センチ以上の高低差のある傾斜のある箇所を54駅について総点検し、危険な箇所に手すりを設置するなどの対策にようやく出た。

事が起きてから対応するのは当然だが、その前にも乗客から指摘されたり現場の駅員が気づくチャンスはなかったのだろうかと思う。

危険とまでは言えないまでも、案内サインなどが非常に分かりづらい・見にくい・紛らわしいといったことは多々あり、ほんの少しの知恵で改善できることはたくさんある。

だが最近、お店などのサービス業でも、鉄道やバスなど公共の交通機関でも、利用客が気づいたこと・改善した方が良いことを伝えても、無表情に「一応上には伝えます」でそれっきりというケースがあまりにも多い。

組織で決められたこと、上から言われたことはやる。それをやらなかったら命令を無視したことになり、大変な責任を問われる。だからそこはやる。しかし、自分が現場で感じること、利用者から言われて「なるほど、そうだな」と思うことは何もないのか?

現場で感じたことを上に提案し、改善できることは改善しよう、という気持ちはないのか…?
現場の判断でちょっと改善できそうなことでも「一応上には伝えます」とだけ、よくもまあ無表情に言えるものだなと思う。

たとえば…

わかりづらい駅のサイン類

乗り換え案内、出口の案内などの標示は、初めてそこを訪れる人に分かりやすいものでなくてはならない。お年寄りや体の不自由な人が、迷うことなく最短のルートで行けるよう案内されてなくてはならない。

改札を出た時にまず見たい出口や乗り換え案内がちょうど柱の陰になって見えない。あるサインを見て歩いて来た人が次に目にするサインと矛盾していて混乱する。こっちの方が明らかに近いのにわざわざ大回りしなくてはいけない反対方向を示す矢印がある…etc.

一つ一つの案内サインに書かれている文字に間違いはなく、おそらく机上で考えたであろうサイン計画も役所的な見方をすれば「正しい(=少なくとも「間違い」ではない)」のかもしれない。

しかし、実際に利用者の目線で、トータルに見た時にチグハグなため、分かりづらい・紛らわしい・不親切なのである。

私も時間のあるときに気づいたことはなるべく駅員さんに伝える。感情的なクレームではなく冷静に「どこがどう分かりづらいのか、どう誤解される可能性があるのか」をきちんと説明し、「こうした方が分かりやすいはず」と、簡単にできそうな提案までするようにしている。
なのに何か月・何年たっても一向に改善されない。利用するたびに「まだ改善してない!」と腹がたち、また同じことを言う。するとまた「上の方には伝えます」…!

私も行事の企画・運営にかかわることがあるが、段差があって危険・入口や進路が分かりづらいと思ったら、とりあえず白い紙にマジックで書いてテープで貼るぐらいのことは5分もあればできること。きちんとアクリルや金属製の板に印刷文字貼って新たにサインを作るには多少の予算と時間がかかるかもしれないが、それでも何か月もかかるのはどう考えても理解できない。本気でやる気がないのだと思う。

紛らわしいサインやアナウンスをちょっと改めることぐらい、とくに予算も手間もかけることなく簡単にできるはず。なぜいつまでもできないのか?
なんらかの理由があって現状の方が良いという判断があるなら、その理由をちゃんと説明してほしい。

そんな説明はできないだろう。理由は単純。「お客様からこういう意見がありました。こう改善しませんか」と上に進言するのが嫌なのだ。その上の人間もしかり。上から降りてきたことはやるが、自分たちは考えない、感じない、行動しない…無表情なゾンビロボットばかりなのである。


ただ上から言われるまま

利用者の声 → 現場の声 → 上へ、という「下から上」への提案型コミュニケーションができない世の中になってしまったのか?そういう感性をもって仕事をする人は絶滅してしまったのか?
「提案」は企画会議の場だけのもので、あとはひたすら組織で決められたこと、上から言われたことをやるだけ? 「思う」「感じる」「考える」という思考回路は退化したんでしょうか?

役所等が設ける説明会や公聴会も、いちおう趣旨は伝え住民の声を聴く場として設けてはいるが、担当者としての思いや意見を述べることはない。組織の上で決まったことだけを淡々と伝え一応話は聴くが判断はできない。「持ち帰って検討します」だけ。
組織とはそういうものだが、たとえ1担当者であっても「人」である。「人」として相手の話をちゃんと聞き、理解し、「なるほどそうだ」と思ったことはしっかり受け止めて持ち帰り、上に伝える。それを期待するのだが、どうもそういう態度が見て取れない。

その最たる例が、震災のあった2011年の7月に政府の原子力関係者らが福島を訪れて行った会見である。

住民から冒頭「まず私たち福島県民にも、憲法で定められた『健康に生きる権利』はありますよね?」という質問が出た。担当者は沈黙したあと「現在、最善を尽くして努力しております」と答弁。「答えになってない!」と会場からブーイングの声。担当者らは横と示し合わせ「私どもに、そのような権利があるかどうかはわかりません」と発言すると会場はどよめいた。

住民らは、きょうこの場に来ている担当者にすべての責任を取ってくれと言っているわけではない。ただ話し合いの大前提として「福島県民だけが憲法で定めた基本的人権の例外なんてことはありませんよね」というごくごく基本的なことを最初に確認し、話し合いをスタートさせたいだけだったはず。なのにいくら待っても答えはない。
「もちろんです。それを守るために我々もみなさんの声を聴き、そして今の状況をご説明するためにこうして来てるんです」ぐらいのことがなぜ言えないのか!?

けっきょく納得できる中身のなかった会見を終えて、せめて署名を届けてほしいと詰め寄る住民らを無視してそそくさとエレベーターに乗り込む担当者ら。
まだYoutubeの画像は削除されてないようなので、こちらのブログ記事から…
→ 「アドレナリン効果で…」

おそらく担当者たちは上から「とにかく行って話を聞いて来い。余計なことは一切言うな」と言われて来ているのだろう。人の姿はしているが単なるロボットか録音機か?
こんな輩を何人も、わざわざ公費を使って「出張」させるのは税金の無駄使いだろう。


無責任社会へ

これに近い応対ぶりが、民間の鉄道会社でも飲食店などのサービス産業でも、放送局をはじめとするマスコミでも、いたるところで本当に多くなったように感じる。

担当者もその現場の責任者も、組織の一員であるからその場で言えること・判断できることには限界もあろう。いくらトップでも公式の記者会見で個人的な思いを勝手にペラペラ喋ったらそれはそれで問題である。

しかし、いくら組織のルールの中で動いているとはいえ、一個の「人」としての感覚、仕事を通して接している目の前の人の声を受け止める気持ちを持っているのかどうか?
利用者の生の声を受け止め、本気で「なるほど、そうだ」と思い、本気でそれを上にあげて改善しようという姿勢が全く見えないのだ。

ことばの表現の端々にもそれは表れている。その代表的なのが「~となっております」

・「こちらは禁煙です」→「こちらの方、禁煙となっております
・「こちらは右側通行です」→「こちらの方、右側通行となっております

「~の方」「なっております」と文字数を増やすことで、より「ていねい」に表現しているつもりなのかもしれないが、「~です」と言い切ればいいものをわざわざ「~となっております」と言ったところで丁寧語でもなんでもない。

私は思うに、「~となっております=私が決めたんじゃないんです。上の方でそういうルールが作られ、私はただ伝えてるだけなんです。どうかご理解ください。どうか私を責めないでください。私に文句を言われてもどうしようもないんです」という、「個としての責任逃れ」「逃げ」の意識が含まれているように聞こえる。
→ 「こびへつらい語を斬る」


組織のトップも、担当者も、現場の職員も…みなさんなんだかんだ責任を取らない。取ろうとしない。
何か思うところを上にぶつけても、なかなか動いてくれない。うるさくせっつくと煙たがられる。
何かあると責任を取らされる。だから、上から命じられたこと以外は何もやらない。言われたことだけを淡々とやって、自分から積極的に提案したり動いたりせず、逃げることばかり考えている。

老いも若きも組織の中にはそういう人種がどんどん増えているように思う。
 
「思う」・「感じる」・「考える」という思考回路は邪魔になるのだろうか?
かくして「思わない」・「感じない」・「考えない」、無表情な人たちが増えていくのだろうか…?

「今」を大切に真剣に生き、「一期一会」の人とのご縁を大切に…そういう気持ちの欠片でもあったら、無表情な責任のがればかりの生き方はできないと思うのだが… 


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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