理にかなった音楽 ~「せっつかれた音楽」にならないために~

せっつかれた音楽、間延びした音楽

以前から、アマチュアオケの演奏に参加したり聴いたりしていて時々思っていたことのひとつだが、曲のテンポとしては決して速すぎるわけではないのに、なぜかお尻をつつかれたような、せわしない「せっつかれた音楽」に聞こえてしまう時がある。

有名な曲をよくある演奏よりもほんの少し速めのテンポで演奏しても、安定した感覚で心地よく聞ける場合もある。 しかし逆に、決して速すぎるテンポで演奏している訳でもないのに、なぜかせわしなく聞こえてしまうのはなぜだろう…?

音楽としての理にかなった安定感がどこかで損なわれているのではないだろうか?



ピンポン玉が床に弾むのを見て、次に落下するタイミングに合わせて手を叩いてみる。あるいはバッターがボールを打った瞬間に、ボールがどこに落下するかを予測して外野選手はひた走ってちゃんとキャッチする。
人間は不思議なもので、べつに軌道をコンピューターで正確に解析しているわけではないのに、ものが落下する位置とタイミングをじつに正確に予測しているのだ。

もしトランポリン競技をビデオ映像に撮影し、空中に浮かんでいる時間をほんのわずかカットして編集したら、見ている人はきっと不思議な感覚に陥るのではないだろうか?

音楽でも、もしそれに近い現象がどこかで起きていたら…?

速いテンポではあっても、メロディがちゃんと安定したまとまりとなって聞こえているか?
等間隔で来る頭打ちが不規則に乱れることなく、理にかなったタイミングで来てくれているか…?
ゆったり伸ばすべき音がほんのちょっと短かったり、頭打ちの音が次に来るべきタイミングよりほんのちょっとずつ早め早めに入ってきていたりすると、どことなく寸づまってお尻をつつかれたような「せっつかれた音楽」に聞こえてしまうだろう。
また逆に、次につながっていく音楽が、ひとつの楽器のフレーズだけで完結してしまうように停滞すると、音楽の流れが寸断され、「間延びした音楽」に聞こえてしまう。


◆理にかなったアンサンブル

オーケストラの音は、指揮者の棒(打点)に全員が寸分たがわずピタッと音を出しているとは限らない。指揮者に合わせて演奏するのはもちろん大原則であるが、指揮者の棒が少し先行している場合もあれば、逆にブレーキをかけているような場合もある。車の加速・減速の時にはタイヤにきしみが出るように、指揮者とオーケストラとは微妙にきしみあいながら音楽を進めていくのである。

いま実際に鳴っている音楽の流れがある中で、テンポを少し巻いたりおさえたりする場合、重低音を受け持つコントラバスやティンパニの頭打ちはとても重要な役割を持つ。

もし重低音楽器の頭打ちが、オーケストラ全体がいま奏でている音楽の流れをまったく無視して(一緒に音を感じることなく)ただひたすら指揮者の打点だけに忠誠を誓って出てしまったら、音楽の流れを壊して不自然になってしまう。
メロディを奏でるパートも、伸ばすべき音がほんのちょっとずつ短くなったり、速いパッセージを遅れまいと必死に弾かなきゃ・吹かなきゃと思い過ぎると、音楽としての安定感が損なわれてしまう。

「せっつかれたような音楽」は、そうした何かしら不自然な力がほんのちょっとずつ積み重なって起こるのではないかと思う。

また逆に、指揮者の棒よりもオーケストラがやや走り気味で前に行ってしまっているような場合、音の流れに身を任せてノリノリで行ってしまったら指揮者を完全に裏切る暴走馬になってしまう。
かといって自分だけは指揮者の棒に忠実に合わせたんだ、といくら主張しても、音楽の流れの中では結果的に遅れて聞こえてしまうこともある。指揮と音とのジレンマに立たされる場面である。

このように、指揮者とオーケストラの音楽の流れとの微妙なせめぎあいの中で、「せっつかれた音」にも「遅れた音」にもならないギリギリのところで、「理にかなった音」を出すことが重要なようだ。



メロディ(とくにソロ)は主役であり、あまりテンポを刻むタテの線だけを意識しすぎると、カラオケでただひたすらテンポに忠実に、首を縦に振りながら歌うようなつまらない音楽になってしまう。大枠から大幅にずれてしまっては困るが、大枠の中である程度自由に伸び伸びと歌っていただきたい。
そして、頭打ちや刻みを受け持つパートは、ゆったりと歌うメロディに聞きほれてまったりし過ぎることなく、ちょっとクールにテンポをキープする必要がある。
(ブラームス交響曲1番4楽章のホルンのソロと刻みのティンパニの関係など) 

ピアノなどのソロ楽器では、例えば指の都合でどうしても遅くなってしまうような箇所があっても、一人の奏者が描く音楽の流れがきちんとあれば、それは音楽として成り立つ。

しかし複数の楽器で作り上げる音楽(アンサンブル)には、「全体としての音楽の流れ」というものがあり、その中に個々の楽器のメロディやリズムの塊(フレーズ)がある。個々のフレーズもぶつ切れでは困る。何らかのまとまり感がなくてはいけないが、それがさらに大きな流れに中では統合されている。個々のフレーズが全体の流れをつくっていくのだが、その全体の流れにそぐわないと不自然に聞こえてしまう。

個々にいろいろなパターンがあるが、およそメロディラインとリズム(刻み)との関係には次のような大原則があるのではなかろうか。

メロディは大きなリズムの枠の中で自由に歌う
●細かい刻みや合いの手はメロディに合わせる 

言い換えるなら、音楽にはまず大きな枠があり、その枠の中に納まる自由で伸び伸びしたなメロディがあり、そのメロディに細かい刻みや合いの手は合わせていく…ということ。

あと、「先行した音につける」という原則もある。
メロディが先に歌い始めて、後から刻みや合いの手が入る場合、メロディに絶対服従しなくてはいけない。合いの手がちょっと早めに入ったら「せっつかれた音」に、微妙に遅れて入ったらそこで流が止まって「間延びした音楽」になってしまう。
しかし、もし1小節あるいはたとえ1拍でも「刻み」が先に入っている場合、後から入ってくるメロディは刻みにちゃんと乗っかってこなくてはおかしい。

これは指揮者とオケとの関係というよりも、オケ内部の各パート間のアンサンブルの基本だろう。
こういうアンサンブルがちゃんと理にかなっていれば、指揮者が創り出したい音楽についていくにしても、決して「せっつかれたような音楽」にも「間延びした音楽」にもならずに、ちゃんと自然に気持ちよく聞ける「理にかなった音楽」になるはずだ。


音のニュアンスづくり

前にこのカテゴリ内に「テンポのニュアンス」という記事を書いた。

アレグロとかアンダンテという表記を、必ずしもメトロノーム上で1分間に4分音符いくつの速さで…という絶対的な速度だけでとらえるのではなく、アレグロにはアレグロの、アンダンテにはアンダンテの、その曲なりのニュアンス、理にかなった音楽というものがある…ということだ。
音楽というのは本当に不思議なものだとあらためて思う。

ここでも「速い=せっつかれた音」ではないということが分かるだろう。テンポというものが絶対的にあるのではなく、あくまで音楽のニュアンスがあってこそ、ということだ。
 
テンポだけでなく、強弱のつけ方でも音楽のニュアンスは大きく変わる。
全員で一斉にピアニッシモに落とす場合、ひとりも裏切り者を出すことなく全員が完全に揃うことが望ましい。それも「なんとなく落とす」のではなく、全員一致で「完全に落とす」のである。これが決まった時は鳥肌が立つ。
 
一方、静かな中から何かが湧きあがってくるようにクレッシェンドしていく場合、どうしたらいいだろうか?
全員が同じようにじわじわと湧き上がってくるのが良いのか? あるいはある楽器がちょっと先行して湧き上がってくるのが良いのか? もしそうだとしたらどの楽器が先行するのが良いのか? 高音のメロディ楽器が先行してクレッシェンドするのが良いのか?、それとも重低音楽器から先が良いのか…?

曲の場面によってもケースバイケースだろうが、多くの場合は重低音の方から先に湧き上がってきた方が良いことが多いように思う。それもたとえばティンパニが真っ先に勃発してしまうのではなく、まずはチェロやコントラバスなどの低弦から何かが沸き起こってきてくれて、それにティンパニが少しずつ力を添え、ホルンや金管、ついにヴァイオリンなどの高音楽器が頂点に達するところで、最後にティンパニが一気に膨らませる…という形にしてみるとやはり鳥肌が立つのではなかろうか?

おそらく「鳥肌」というのは、生理的にも理にかなった形で決まった瞬間に起こるのではないだろうか?
ただ「そこにPPと書いてあるからやる」「そこにクレッシェンドと書かれているからやる」のではなく、どうせやるなら「鳥肌PP」・「鳥肌クレッシェンド」にしたいものだ。


指揮者とオーケストラのよき関係とは?

こうした演奏家としての学び・追及・試みは、決して指揮者をないがしろにするものではない。
指揮者は全体としての音楽を創り出してまとめる立場であるが、実際に音は出さない。 音を出すのはオーケストラのメンバーたちである。指揮者の掲げる理想とする音のイメージに演奏者たちがどこまで応えられるか?
 
オーケストラメンバーは、ただ受身的に指揮者から指図されたように音を出すロボットではない。
基本的な音づくりのノウハウ、オケとしてのアンサンブルはある程度分かって、音楽のタテのラインを合わせるぐらいのことは自分たちでできてこそ、指揮者としてのもっと大切な仕事をしていただきたいと思う。

演奏中ときどき指揮は見るが、ほとんど多くは自分の楽譜にしがみつき、他のパートの音を聴いたり見たりする余裕がない。指揮者に注意されたことだけは素直に聞くけど、オケ内部で音づくりに関する啓発ができないのでは困る。

「先生にこう言われたから」と指揮者に言われたことだけやっていても音楽はできない。ギャラを払ってすぐれた指揮者を呼び、その指揮者のために出席率よく集まり、すべての音づくりを指揮者に「お任せ」で1からやってもらう…ときどきそういうオケもあるようだが、いったい何のために集まっているのか?自分たちで音楽をやろうという意識はあるのか? 
 
アマチュアのオーケストラもいまや各地に星の数ほどあるが、忙しい社会人が集まっているにもかかわらず、かなり質の高い音を奏でている団体も少なくない。
忙しくてもなんとか譜読みと練習をして集まり、自分のパートのことだけでなくできればその曲について、他パートの動きも少しは把握し、自分たちである程度基本的なアンサンブルはできた上で、指揮者にはもっと違う立場での「音楽づくり」をやっていただきたい、と私は常々思っている。

指揮(棒)の見方にもちょっとしたコツがある。ただ指揮者の振り下ろす打点だけを直視してもダメである。指揮者が棒を振り下ろす姿全体から、音楽のニュアンスやエネルギーのようなものをトータルに感じ取る必要がある。
また、とかく1拍目だけを見て2拍目や4拍目を軽視しがちだが、テンポの変わり目や音楽の揺れを感じ取る上で重要なのは2拍目・4拍目の弱拍部。そこを見ることでテンポ感を確かめることができる。

ずっと指揮者だけを常にじーっと見つめている必要はなく、手元や楽譜を見ながら視界の中で動きを把握できていればいい場面もあるが、テンポの変わり目などではしっかり見なくてはいけない。経験豊富な奏者は、たいていここでは指揮を見る、というタイミングで指揮者とアイコンタクトが取れるものである。

指揮者を見ていてもヴァイオリンの最前列にいるコンサートマスターの動きは視界の中に入るはずである。オケメンバー全員に、コンサートマスターがちゃんと見える位置に座るように厳しく徹底している楽団もあるぐらいだ。
トゥッティで全員が一緒に音を出す場面では、指揮者を見て全員が一緒に息を吸って気持ちを統一すれば見事に揃うが、ゆったりした音楽の流れで、テンポが微妙に揺れていたり「ため」があったり、大きな呼吸の中で厳密な1点に合わせるのは難しいこともある。とくに打楽器だけでも鳴り物がたくさん同時に出る場合、全員が微妙にバラバラに出るとみっともない。
こういう場面では、コンサートマスターの身体と弓の動きを見れば全員が同時に音を鳴らすことも容易になる。いわば「音源同士」で合わせるのである。

曲の中でも、ここでは何の楽器がメロディ(ソロ)で、何の楽器が刻んでいるか、ここの刻みはメロディに合わせる、逆に刻みが先行していたらメロディはそれに乗ってこなくてはいけない…といった音楽の基本原則のようなものは、オーケストラ内の各パート同士である程度分かっているのが望ましい。

音楽というのは奥の深い、難しいものだとつくづく思うが、世界共通の言語のようなもので、どんな曲でも基本的な原則というものがあるように思う。
世界中どこの道でも、坂道を下る時はエンジンブレーキをかけ、街中で右左折するときは一時停止して左右を確認する、みたいな運転の原則は共通しているように、ドイツの音楽でもイタリアの音楽でもアメリカの音楽でも、それぞれの特徴はもちろんあるが、どんな音楽にも共通する大原則のようなものは必ずあるように思う。

指揮者の目指す大きな理想に向かって、オケメンバーの経験の差こそあれ、そうした音楽のもつ共通言語のようなルールをなるべく皆で共有し、曲の場面ごとに「理にかなった音」を求めてアンサンブルができたらいいと思う。 

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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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