「現代のベートーヴェン」は実在しなかった! ~佐村河内守&新垣隆~

2月6日(木) <予約投稿> →6日午後の会見および週刊文春の記事を読んで追記(文中に赤で表記した部分)


「障がいを乗り越えて音楽を」…その素晴らしい感動の世界に、あまりにも残念な事件が起きてしまいました。

広島出身の被爆二世、聴力を失った作曲家で「現代のベートーベン」と呼ばれる佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏(50)が、実際は曲作りをしていなかった、というもの。
桐朋学園大非常勤講師の新垣隆氏(43)が「佐村河内氏のゴーストライターを18年間にわたってやっていた」と公表した問題がニュースを賑わせています。

音楽関係者だけでなく、広島市民や東北の被災地の女の子など、彼の音楽作品に勇気づけられてきた多くの人たちにも大きな衝撃が走っています。

以前彼の特集番組をいくつか放送したNHKも謝罪コメントを発表しました。
また、ソチ五輪で彼の作品を使ってショートプログラムを滑る予定の高橋大輔選手も、今さら曲を変えるわけにはいかず、そのまま演技することを表明。
各地で予定されていたコンサートの中止やCD販売の中止、料金の返還など、各方面に大きな波紋を呼んでいます。

私もアマチュアの端くれながら「障がいのある人も音楽の力を通じて…」という趣旨に感銘を覚え、そういう活動にも参加してきた一人として、非常に残念であり、憤りを感じています。

「影武者」として実際に曲づくりをしてきた新垣氏の会見記事をはじめ、これまでの経緯について今後明らかになっていくでしょうが、今の時点で言えることを私なりに整理しておくと…



◆「物語性」への神話

クラシック音楽の世界で、これだけ「物語性」に満ちて話題になるのは漂泊のピアニスト・フジコヘミング以来ではないでしょうか?被爆二世で耳の聞こえない作曲家、という「肩書」が世間の注目を集めた。
とくにわが国ではメディアも一般社会も、作品そのものの芸術的な価値や素晴らしさよりも、それを生み出した「人」にまつわる「物語性」を求める土壌があることは確かだ。その土壌がなければ、彼が「偽りの作曲家」を18年も演じ続けることも起きえなかったのではないだろうか?


作曲・編曲における「分業」

一口に「作曲」と言っても、自分だけのオリジナルのメロディ(音の並び)を生み出すだけなら簡単だが、それをピアノ用の楽譜(右手と左手)に書き表す、さらにオーケストラのフルスコアに書き記す、という作業は大変である。
各楽器の音域や記譜について熟知していなくてはならないし、各楽器の音色や特性を考えて曲の中の役割に割り振っていく作業(=オーケストレーション)。それは天才と言われる作曲家にとっても決して簡単なことではない。

曲のモチーフとなる主題を生み出す「原作者」と、ピアノ用・弦楽合奏用・オーケストラ用に「編曲」する人が「分業」するという例は実際にある。

過去のクラシックの名曲の中でも、たとえばムソルグスキー「展覧会の絵」は2台のピアノ用にしか書かれておらず、オーケストラ用に編曲したのはM・ラベル(ストコフスキーも別の編曲をしているが、今日よく演奏される有名なのはラベル編曲のもの)。

また組曲「大峡谷(グランドキャニオン)」を作曲したグローフェにはオーケストレーションの技術を持ち合わせていなかったためピアノ譜しか残していないが、「ラプソディー・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」などで知られるジョージ・ガーシュインの手によってオーケストラに編曲されたことでこの組曲は世に出て有名になった。

それこそ宮崎アニメの世界のように、知名度のある有名な作家のもとで何人ものスタッフが「工房」のような中で分業して作品を生み出すようなこともあってよい。もっとも多くの作曲家は孤独の中で作品を生み出しているようだが…

ともかく初めから「共作」、あるいは「佐村河内氏の着想による交響曲…(作曲:新垣隆)」とありのまま発表していたらまったく問題なかったのだ。


佐村河内氏にどこまで作品のオリジナリティがあるのか?

しかし今回、「共作」と言えるほどのオリジナリティを佐村河内氏が本当に生み出したと言えるのだろうか?
彼はどうも楽譜を書くことが苦手だったようだし、どこまで音楽の骨格となる原案イメージを生み出したと言えるのだろうか?

思い浮かんだ動機となるフレーズを、せめてピアノ譜ぐらいに書いて、それを別の人がオーケストラ用に編曲したのならば「作曲」&「編曲」という「分担」とも言えるだろう。
しかし、今回報じられている佐村河内氏の「原案」は単なる「図形」によるイメージだけ。時間の経過とともに盛り上がる箇所や回数を示している。

私も障がいのある人たちと、オーケストラと共演する和太鼓セッションの部分を、これに似た図形で示してパート練習に臨んだことがある。楽譜が読めなくても、図によって音の盛り上がるタイミングやイメージをある程度伝えることはできるとは思う。

しかし、このような図形だけではとうてい「音楽作品」とは言えない。このイメージからオーケストラの個々の楽器の音を生み出し、交響曲として作り上げたのは「影武者」。
つまり佐村河内氏は単にイメージを伝えて作曲を「委託」しただけ、という印象を受ける。


作品としての芸術性・魅力

誰の作品であろうと、その楽曲の素晴らしさが感動を呼んだとしたら、芸術としての価値は変わらないのではないか?
その楽曲そのものに魅かれ、感動を味わったとすれば、それは変わらざる事実である。
作曲者そのものが「偽装」であっても、その音楽的な価値そのものは変わらない。だからその作品を愛する人はいてもいいと私は思う。

有名な「おもちゃのシンフォニー」も、私が子供のころはハイドンが作曲したとされていた。それが後にLeopold Mozart(レオポルド・モーツァルト)、有名な神童モーツァルトのお父さんの作品であることが分かった。でもあの曲の価値が変わったわけではなく、今日でも愛されている。


別の楽曲から「HIROSHIMA」への転用について

また今回、佐村河内氏の代表作とも言われてきた交響曲「HIROSHIMA」が、当初はまったく別の楽曲として作られたもので、当初から原爆投下直後のヒロシマをイメージして作曲されたものではないことが問題になっている。
しかしこれに関しては、別のエビを「クルマエビ」とか「イセエビ」と偽って提供するような「偽装」とは根本的に違うと私は思っている。

1オクターブ内に12しかない音を使って、長さや強さや音の並びによって作られるのが音楽。その音楽が何をテーマとして書かれたか、その曲から何をイメージしてどう聴くかはきわめて曖昧なもの。曲につけられた標題によってかなり左右される部分もある。

ベートーヴェンもオペラ「フィデリオ」のための序曲「レオノーレ」を何曲も書いているし、ある作品のある場面のために作られたはずの曲を、作曲者みずからまったく別の作品の中に「転用」することもある。
有名なビゼーの「カルメン」でも、第4幕の前奏曲は「アラゴネーズ」という曲だが、代案として同じビゼーの作品「アルルの女」の中の「ファランドーレ」を演奏してもいいように併記されたオーケストラの楽譜を見つけて驚いたことがある。

交響曲「HIROSHIMA」も、実際に曲を作った新垣氏、あるいは佐村河内氏が、すでに完成したこの曲のイメージを「被爆後のヒロシマ」に重ねてそう名付けて発表したとしても、それ自体はあまり大きな問題ではないのではないかと私個人としては思っている。

…と書きましたが、それはあくまで音楽の世界での一般論。6日午後の新垣氏の会見および週刊文春の記事によれば、前にゲーム用に作られた曲の評判がよかったため、それをオーケストラの楽曲として新たに作るよう依頼された。03年に完成した「現代典礼」という曲がそれ。その曲を「HIROSHIMA」として発表されたことに新垣氏は「驚いた」と述べています。つまり原作者に無断で発表したのです。さらにそれを「被爆後の広島をイメージして作った」と佐村河内氏が述べているのは明らかに「虚偽」です。作者自身が「転用」するのとはまったく別の話です。


魅力ある作品かどうか?

問題はその曲が魅力ある優れた作品であるかどうかだ。
私も全曲通してではないが、問題の交響曲「HIROSHIMA」をNHKの特集番組の中で聴いたことがあるが、私個人としてはさほど感銘を受けるものではなかった。

家族と一緒に観はじめたその特集番組で、耳の聞こえない身でありながらどうやって音を紡ぎだすかについて彼が話すのを聞いたが、私はその特集番組を終わりまで観ることなくテレビの前を離れた。
障がいを乗り越えて活動する演奏家の話題はこれまでにもあり、たいてい惹きつけられて観はじめた特集番組を途中で離れることはないはずの私が、なぜかその時は「そういう人もいるんだな~」程度でテレビの前を離れたのだ。

私にとっては交響曲「HIROSHIMA」にも、彼自身の話しにも、「他の予定をさしおいてもこの番組は終わりまで観たい!」とか「この人の名前は絶対に覚えておこう!」といった魅かれるものをあまり感じなかったのかもしれない。

だがそれはあくまで私自身の感想であり、彼の作品とされている曲(新垣氏による作品)をいいなと思って聴く方はいて当然だし、今回の「偽装」判明によってその作品まですべて葬り去られる必要はまったくないと考えている。

ただ、もしこの曲をどこかのオーケストラで演奏しようということになった場合、私がすすんで演奏に参加したいかと聞かれたら微妙であるが。


◆「嘘」の動機・意図は?

さまざまな障がいを乗り越えて音楽活動(作曲や演奏)をすることは素晴らしい。人に勇気を与えることであることは私も実感している。そういう人もたくさんいらっしゃる。

そういう中で、最初に書いたように「広島出身・被爆二世・耳の聞こえないハンディをもちつつ…」といった世間受けするようなシナリオを最初に考えたのは誰なのか?

たまたま発見された作品を、マスコミが大きく報じて話題がどんどん広まってしまい、本人としても真実を語りそびれたまま18年も経ってしまったのか…?

どうもそうではない気がする。先ほどのNHKの特集番組では、彼自身が「耳鳴りに耐えて音を探し出す」ことや「(聴力を失って)外からの音に頼れないから、内にあるオーケストラの響きをイメージして」など、いかにも自分自身で音を生み出しているかのようなプロセスまで語っているのだ。

本当に聴力を完全に失っているのか、と疑いたくなるほど流暢に話していることにも私はちょっと違和感も感じていた。

これも会見および文春の記事によれば、新垣氏はこの18年間にわたる彼との付き合いを通じて、聴覚が全くないという感覚は持ったことがない、つまり彼には聴覚があったと証言しています。伝えられたイメージで作曲し、その音源を佐村河内氏本人に「聴かせ」て確認したことは何度もあったというのだ。

2級の障がい者手帳を持っていることは事実だとしても、聴覚をまったく失っているというのは「嘘」ということになる。
仮になんらかの手当を公的に受けていたとしたら「詐欺」にあたるという見解もあるが、障がい者としての認定にもさまざまな段階があり、必ずしも100%「詐欺」に当たるかどうかは微妙だ。
しかし、人を騙して金品を奪う刑法上の「詐欺」であるか否かという以上に、「偽物の感動」を世に出したことの裏切りと責任はあまりにも重いと思う。




ある報道によると、作曲を依頼されていた新垣氏は、これまで何度となく「いつまでもこんなことをしていても、いつかは真相が明らかになり、取り返しのつかないことになる」と進言してきたという。
しかしそれに対して佐村河内氏は「作品を書いてくれなかったら妻と自殺する」とまで言ったり、「あと2年はこのまま傑作を生み出したい」というようなことを言っていたとも言われる。

もし彼自身が、「広島出身・被爆二世・耳の聞こえないハンディをもちつつ…」という世間受けするシナリオを考え、自らがすべて書いているように偽りを「演じて」きたのだとしたら、これは明らかに意図的で悪質な「嘘」を佐村河内氏みずから発していたことになる。

それは芸術に対する冒涜であると同時に、被爆者や被災地の人たち、さらに音楽を愛する多くの人を傷つける許されざる行為だと思う。

芸術の世界、こと美術や陶芸の世界には少なからず「本物かニセものか」という議論もあるが、あまりにも商業主義ともいうべき作者自らの「いつわりの物語」によって18年にもわたって音楽が生み出されてきたことへのショックは大きい。音楽の世界でこういうことは二度とあってほしくないものだ。

<追記>

6日午後の新垣氏の会見では、冒頭から「告発」ではなく「私も共犯です。申し訳ありません」という真摯な態度。作品についても完全に「自分の作品」と言い切ることにためらいを覚えながら「彼との関係において生まれた作品」と言っているあたり、とても謙虚で誠実な方だという印象を受けました。
言葉を選びながらの静かな会見は、あくまで“真実を明かすための会見”という印象が強く、どの言葉にも一貫性と信憑性がある点、どこかの政治家や悪徳企業トップの“言いのがれ会見”とは根本的な違いを感じました。

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Re: No title

鍵コメさま

さっそくお読みいただいてありがとうございます。
モーツァルトの父の名前、ご指摘の通りです。訂正させていただきます。

ご無沙汰してました

こんにちは、ご無沙汰していました。

ぼくは完璧に騙されました。CD聞いて涙出ましたから 苦笑)

ただ、今回の騒動が、かつての生活保護の不正受給バッシングのように、障害者手帳の不正取得バッシングへと突き進みやしないか、一抹の不安を感じています。なにしろ、現代日本は驚くほど不寛容な社会になってしまいましたから。

単なる個人攻撃

 この騒動はフルトヴェングラー・マニア、野口剛夫の個人攻撃です。きっかけとなった「全聾の天才作曲家 佐村河内守は本物か」、「佐村河内問題とは何だったのか」、「佐村河内問題とフルトヴェングラー」、金曜日から出した電子書籍「もてあそばれる『真実』」にせよ、文章を読んでも個人攻撃のレヴェルで、内容は子どもの作文でした。
 こんなものに「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を出すようでは、日本のジャーナリズムの恥です。ましてや、こんなものでギャーギャー騒ぐ音楽ファン、マスコミもバカバカしい限りです。多くの人たちは相手にしていませんし、無視しています。
 多くの人たちは、野口剛夫をプロだと思っているものの、音楽大学受験に失敗して中央大学で哲学を専攻、大学院修了となっていても、専攻の哲学ですら基礎知識ができていないし、桐朋学園大学研究科修了といっても箔付けで、音楽の基礎知識もありません。フルトヴェングラー・マニアというもので、たちの悪いものです。その上、日本音楽舞踊会議の機関誌「音楽の世界」編集長の地位を利用して私物化した挙句、日本音楽舞踊会議から追放になった人物です。
 
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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