「火を灯されるランプ」のつぶやき

はじめに

この春から学び始めた音楽療法。 10月からの後期を前にレポート提出の時期でもあり、学んだことをベースに私なりにサブノート的にまとめたものです。
 
このカテゴリの最初にも書きましたが、これはあくまで私の個人的なサブノートのようなものです。授業で学んだことを、そのまま右から左へ流出させるものではありません。

一部に授業で登場した題材・テーマもありますが、書籍などで調べても出てくる一般的な内容であり、学校側および講師の先生個人の知的財産権を侵すものではありません。
その趣旨については教務課にもご了解をいただいております。

私なりに発見したこと、考えたことをこうしてブログにとどめ発信することで、みなさんにもこの世界を知っていただけたら、また心ある方やこの道の諸先輩から参考となるご意見も賜われれば幸いです。



◆火を灯されるべきランプ


「学生は知識を詰め込まれる瓶ではない。火を灯されるべきランプである」
(18世紀ごろのアメリカのアレキサンダーという人の言葉)

自分自身への「問いかけ」なくして「学習」はない。学問とは、いかに問ふかを学ぶこと。講師は知識を与えるのではなく、あくまで補助である、と。

需要がないところにいくら供給しても無駄。まずは需要(ニーズ)を作り出すプロセスが大切。「なぜだろう?」という疑問が生まれ「知りたい」という欲求があってこそ「なるほど」と理解できるのである。

今の日本にもっとも欠けているのは、まさにこれではないだろうか!


<大いなる私見>

今の教育のほとんどのスタイルは、まず教科書ありきで、教わるのが当たり前で、何より「覚えられるかどうか?」が最も重要視される。

小学校から大学受験まで、ほとんどの試験では「記憶力」が試される。
理解力・応用力が試される試験問題もあるが、本当に全く未知のことにその場で出会って考えるというより、学習の過程である程度パターン化して覚えてしまえばいいようなものが多い。
いや、学生時代に限らず社会人になっても、マニュアル化された仕事をいかに早く覚えるか、効率よく仕事をこなせるかで評価されることも多いのではなかろうか?

こうした教育や社会全体のしくみの中で「考える」「感じる」「思う」ことがどうしてもおろそかになりがちなように思う。

周りの人の気持ち、ひいては社会問題に至るまで、周囲のことに関心をもち、ちょっとした想像力をもつこと。「想像力=思いやり」の心がないと、自分勝手な振る舞いで周りに迷惑をかけていることにも気づかない。

また「なぜ?」という素朴な疑問をもち、論理的にものごとをとらえ、あたらしい発想で創造すること。
言われたことだけではなく自分なりのやり方・生き方を探し、嫌なことや困難に直面しても発想を転換して対処できるか、周りとうまくやっていけるかといった、いわば「問題解決能力」

また最近「コミュニケーション能力の低下」も言われるが、単にコトバを知らないから覚えれば良い、というだけの問題ではないと私は思っている。

先ほどの相手の気持ちを考える「想像力」がないとギクシャクした世の中になり、ちょっとしたことでも伝える力(=「表現力」)がないとストレスもたまりやすくなる(表現力とストレスとはマイナスの相関関係にあると私は思っている)。

「なぜ?」という素朴な疑問から「考える」習慣。自分なりに調べてみる主体性と行動力。
「なるほど」と解明して謎が解けた時に味わえる「感動」。その感動を人に伝える「伝達能力」(わかりやすく説明すること)。さらに人との会話をより楽しく活き活きとしたものにする機転の利いたユーモア…etc.

これらの極めて広い意味を含めて「コミュニケーション能力」だと私は思っている。

感動を分かち合える歓びもこれなくしてはありえない。人間にせっかく授かった様々な能力をなるべくトータルに使いたいものである。
 


◆チュートリアル法

これは主に医学系の大学などで用いられている学習プロセスだそうだが、いきなり理論・知識(=答え)を与えて覚えさせるのではなく、その前に自分たちで問題意識(=問いかけ)をもたせ、考えさせ、ディスカッションさせてから、本題に入っていくやり方である。

前期に受けた講義の中で、このチュートリアルを模した形式で行ったテーマがあったので、実例としてご紹介する。


~『高い高~い』のなぜ?~

生後10か月の女の子・エアーズちゃんが大泣きしていました。そのエアーズちゃんを父親が抱き上げて『高い高~い』をやったら、ぴたっと泣き止んで笑いました。


たったこれだけの記述から、疑問に思うことを5つ挙げよ、というものだった。

ここから何を学ぶのかという命題が見えていない段階で、私を含め教室にいた学生からはさまざまな切り口での疑問が出されたが、時間もあまりなかったためそれほど深いディスカッションには至らなかった。


そこで以下、私なりに考えた展開を記述する。

●「大泣き」ってどの程度の泣き方?
●どのぐらいの時間エアーズちゃんは放っておかれたんだろう?
●お母さんはいなかったのかな?
●お母さんじゃダメだったのかな?
●この子はいつも泣いているときに「高い高い」をしてもらってるのかな?

といった状況そのものへの「なぜ?」もあるだろう。
もう少し「音楽心理・神経学」というテーマに沿って、そこで起きた出来事について考えてみると…


●「泣き止んで笑った」ということは、喜んだということ?
●「高い高い」で喜ぶのは、世界共通なんだろうか?
●子どもは怖くないんだろうか?
●なぜ「高い高い」で喜ぶのだろうか?遠くが見えるからか?
●生後10か月で、遠くがどのくらい見えてるのだろうか?
●視覚的な楽しみだけなのだろうか?
(→あるいは視覚だけでなく何か別の刺激が快感につながっているのか…?) 


たとえば、最後に上げた「『高い高~い』は視覚的な効果だけでなく、ほかにもなんらかの刺激が快感を与えているのではないだろうか?」といった「高い高~い」の科学的検証へ。

また「子どもって、だいたい何ヶ月ぐらいで○○できるようになるんだろう?」といった発達段階との関連にもつながっていくだろう。
すなわち、「『高い高~い』を喜ぶ子どもの時期は限られているのだろうか?
それとも大人でも、もしやってもらえたら快感を覚えるのだろうか?

…しだいに学びたいテーマに近づいてきたように思う。



◆耳の構造のおさらい

ヒトの耳は大きく3つの構造でできている。
まず、音による空気の振動を受ける鼓膜までのいわゆる「外耳」。そして鼓膜の振動を伝える「中耳」は耳小骨(ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨)で構成される。そして耳小骨から伝わった振動はカタツムリのような形状をした「蝸牛(かぎゅう)」と呼ばれる「内耳」で受けられる。蝸牛(内耳)の中は濃い塩水で満たされている。

外耳までは空気の振動、鼓膜から耳小骨にかけての中耳は固体の振動、そして内耳では液体の振動、さらに聴覚神経といういわば電気信号で脳に伝えられてはじめて「音」として認識する。

この蝸牛は、魚の側線に匹敵するものだという。

「Mon Oreille est un coquillage. Qui aime lebluit de la ner.」
(私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ   ~詩人:ジャン・コクトー~)
 
鼓膜や耳小骨になんらかの異常があって耳の聞こえない人でも、内耳から聴覚神経にかけてが正常であれば、骨振動によって音を聞くことができる。

ベートーヴェンも、木の棒をピアノに押し当てて音を聴くことができたと言われている。あるいは整形の技術の発達によって、鼓膜~耳小骨の異常を治すことができたら、音のある世界に戻れる人も多いだろう。


◆内耳と三半規管

蝸牛(内耳)は、音の振動を聴覚神経に伝える役割だけでなく、平衡感覚を司る三半規管が備わっている。

地球には重力がある。内耳の中に満たされている塩水に重力が作用することによって、身体の平衡感覚を保つ重要な役割がある。いわば重力(G)を感じ取るセンサーである。この感覚に何らかの障害が起こると「めまい」が起こる。

三半規管が感じる重力は、身体をじっと平衡に保った状態で受ける地球の重力だけではない。運動によって遠心力や左右・上下の動きといったさまざまな「G」を感じ取るので、運動能力を司る重要な役割をもつ。

「高い高~い」も意図的に作り出される上下運動が伴う。これが三半規管に刺激を与えていたのだ!

あまり激しい運動は「ゆさぶられ症候群」などの障害につながる危険があるが、程良い刺激は心地よく反応する(→「感覚統合(療法)」)。


三半規管(平衡感覚)への刺激

ぶらんこ・シーソー・すべり台・バネで揺れる馬・衛星ジャングル…etc.
考えてみたら公園にある遊具のほとんどは、平衡感覚を刺激する運動を伴うものが圧倒的に多い。

また、大人でもジェットコースター、それも最近はより刺激の強いひねりや回転をともなうジェットコースターや、フリーフォールと呼ばれる一時的な自由落下を体験できる遊具に人気があり、中には病みつきになる人もいる。
いってみれば大人向けの「高い高~い」ではないだろうか?

私はあまり激しいジェットコースターは好まないが、鉄道は幼いころから大好きである。
ただし、交通博物館に展示されている実物車両や、運転見合わせでずっと停車したままの新幹線の車内にいても全く面白くない。むしろそのような中に2時間も閉じ込められたらかなり苦痛を感じるであろう。たとえ大好きな鉄道車両の中であっても。

しかし列車が動いてくれると全く違う世界に変わる。単に景色が動く(=視覚)だけでなく、列車の加速・減速、カーブでかかる遠心力、レールの継ぎ目を刻む車輪のリズムと振動…。「運動による脳への刺激」が伴うことと大いに関係があるような気がする。

飛行機の楽しさもそうだろう。列車に比べ窓も小さくキャビン内は薄暗い。窓側の席でなければ外の景色もほとんど見えない。しかし、滑走路の先端で一旦停止して一気にエンジンを吹かして加速され、離陸して宙に浮く瞬間はいくつになっても感動的である。


~結びにかえて~

◆音楽と三半規管

音楽はもちろんスポーツではない。ただ、音楽を聴いたり演奏する場合、ただじっと黙って耳だけで音の刺激を感じているだけではないように思う。

音楽の楽しみ方も人それぞれで、従来のクラシックの演奏会を客席で聴くように、ひたすらじっと静かにいい演奏に集中して、内面で音楽から受ける世界を楽しむという場合もあるだろう。
しかし、音楽に合わせて身体を揺らしたり、手を叩いたり、声を出したり…
また静かな場面ではじっと息を殺して音に集中したり…

楽器を演奏する場合、単純に叩くだけの太鼓のような打楽器でも、ピアノやヴァイオリンのように練習を積み重ねて高度なテクニックを要求される楽器でも、小手先のテクニックだけでは決して活き活きとした音楽の流れは創れない。

音楽を推進させるその時々のテンポを身体全体で感じ、音楽の流れを全身で感じること。俗にいう「ノリ」がなければリズムも乱れ、メリハリの利いた強弱も表情も生まれない。

音は単に耳だけで捉えるものではなく、身体全体で捉えるもので、そこには何らかの運動的な感覚が伴うということ。そこには三半規管への刺激をはじめ、神経や筋肉などにつながる脳の働きが大いに関係しているということだろう。

音楽を演奏している瞬間、人の脳はどんな反応をしているのか、三半規管がどう働いているのか…?
たとえばピアニスト、指揮者、打楽器奏者などで測定してみることが出来たら非常に面白いと思う。また音楽を聴く側、あるいは音楽に合わせて手を叩いたり身体を動かしている人についても。

音楽という時間軸とともに進みゆく美の世界を、身体全体で受け止めて感じること、ひいてはそこから脳(=心)に刺激を与えて活性化させること。

まさに音楽療法の原点ともいうべきテーマがここにあるような気がする。


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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