あの戦争は何だったのか? (2)誰も責任をとらない

<つづき>

あの戦争は何だったのか?

つい先ごろ、日本の閣僚による「ナチスに見習え」発言が大問題となりましたが、ドイツ人はヒットラーの過ちを認め、ユダヤ人迫害によって犠牲となった近隣諸国に謝罪し、ヒットラーという独裁者に洗脳されてついて行ってしまった群集心理の怖さをきちんと教育の場でも伝えていると聞きます。

一方、ドイツと同じ同盟国であった日本はどうでしょうか?

東京裁判によって有罪とされた人たちを国内で「犯罪者」とみなすかどうか、どう扱うか、という議論はその後なされたようですが、日本人自らが戦争責任を問い、追及するということは結局のところなかったのではないでしょうか?

軍部も国民もいけいけムードで戦争への道を突き進んだ過ちをきちんと検証し、反省し、子供たちに正しく伝えてきたと言えるでしょうか?

お国のため、天皇陛下万歳と叫んで散っていった兵士たち、本土にいて命を奪われたお年寄り・女性・幼い子どもたち…その死はいったい何だったのか? 

あの戦争への道を進んだ責任者は本当は誰だったのか?
GHQによって有罪とされた戦犯が本当に犯罪者だったのか?
A級戦犯だけが悪かったのか…?
(→ このひとつ前の「あの戦争は何だったのか?(1)A級戦犯とは?」参照)

けっきょく日本人みずからが「あの戦争は何だったのか?」をきちんと問いかけもせず、日本の戦争責任を追及することもなく、今なお教科書検定では、戦時下の日本軍や日本政府にとって都合の悪い記述は削除されます。
そういったことが、アジア諸国、とくに中国や韓国など日本の過ちの犠牲となった国から見れば、日本は歴史を正しく教えていない、過去の歴史を忘れた国民だ、と映るのでしょう。

戦後の和平交渉は、1972年の日中国交正常化などで、すでに外交上は過去の精算は済んでいるはずで、領土問題も存在しない、というのが日本の主張です。

ただ、国際法上どうかとは別に、「人」として人道的な観点から、やはり歴史はきちんと学び、相手国への敬意と謝罪の気持ちは失ってはいけないと思います。
まずそこがきちんとできた上で、相手国の筋違いの誤解、日本への不当な要求、協定違反、非道な行為等があるならきちんと話し合いで解決すべきでしょう。 
日本を嫌う相手国は嫌いだ、などと感情論で熱くなるのは危険です。またしても過去の過ちを繰り返すことにもつながります。



「一億玉砕」を掲げていた軍国主義から一転して自由主義へ、価値観が180度変わり、それまで敵国であったアメリカに公民ともども仲良くべったりとなり、自国の過ちを見つめ直すことも責任追及もきちんとなされないまま、戦後の復興さらに高度成長へと進んでいった日本。

変わり身が早いというか、人がいいというか、勤勉というか、日本人の素晴らしさでもあると思うのですが、裏を返せば…


無責任大国ニッポンへ

戦後68年たった今日の日本においても、何が起ころうが誰も責任を取らない、何をやっても国民から追及されない、嘘をついてごまかしていることが明らかであっても結局あいまいなまま幕を引いてしまう、逃げた者勝ち…そんな「無責任大国」の根本にも通じているような気がしてなりません。 

企業における営業にしばしば使われる「戦略」という言葉、個人を大切にするよりも企業の利益が優先され、会社のためにすべてを捧げることが長年「美徳」とされてきました。
企業の利益を上げるために無理をしいられ、ひどい場合は過労死、うつ病、自殺などの問題が後を絶ちません。

公害訴訟、薬害エイズ、最近では原発事故、どこを見ても、個人の命よりも企業の利益が優先されてきた構造があります。国の政策そのものが大企業に有利に向いています。

国や大企業にとって都合の悪い情報はいつもひた隠しにされ、事実をねじ曲げられ、国民にとっては命に関わることさえきちんと知らされない隠蔽体質。 その責任者は誰なのか、危機管理のなさ、その後の対応のまずさ…etc.
今日の原発問題を見ても明らかなように、「無責任大国ニッポン」はますます健在ですね。

ウソだらけの大本営発表で「精神論」で戦わされ、若い命を特攻で散らせた過ちとも重なりませんか?

国や企業の問題ばかりではありません。

国民ひとりひとりも、自分が正しいと思うかどうかより「みんなが行くから私も行く」という発想で、みんなと違うことを唱えると「非国民」と呼ぶような体質・風潮は、当時の軍国主義で一丸となるには都合が良かったのかもしれませんね。

皆と同じであることを良しとし、少しでも皆と違うとつまはじきにしたり陰湿な「いじめ」の対象にもなる、悪い意味でのムラ社会の構造があるように感じます。 

みんなで同じ行動をとってきたのであれば、何か問題が起きたり間違っていたら全員による「連帯責任」となるはずです。ところが…


*スケープゴート(=悪玉化)


「スケープゴート(scapegoat)」とは、「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ聖書由来の用語で、「贖罪(しょくざい)の山羊」等とも訳されます。

前半の記事に書いたとおり、東京裁判によって裁かれたA級戦犯という一部の人だけを「悪者」にして幕引きにしました。
誰かが「悪者」としてレッテルを貼られると、皆で寄ってたかってそいつを悪者の代表に仕立て上げて攻撃する「スケープゴート」が起きやすいのです。

それも自分の目と判断力によってではなく、人が下した判断、貼られたレッテルによって人を簡単に「悪者」に仕立て、便乗して罵倒するだけなら簡単ですね。

みんなが「あいつが悪い」と言っているから私も嫌いだ、という便乗おつきあい型のスケープゴートは会社内やグループ内など至るところにあります。

みんなから悪者にされている相手をかばったり仲良くしたりすると、次は自分が攻撃される。それが怖いから多数意見に従うのです。これは「いじめ」の構造にもそのまま当てはまる「人の目の力学」ですね。

 
◆ものごとの本質を見る目

何が真実なのか、何がいけなかったのかをひとりひとりがきちんと考え、反省することもなく、人の言うことに流され、ただ言われたことだけは真面目にやる。そういう国民性は、ひたすら勤勉に働いて効率を上げるには非常に優秀な力を発揮します。こうして日本は戦後の復興、そして高度成長をめざましく遂げたとも言えます。

しかしその勤勉さの影では…

ついこの前まで敵国だったアメリカ文化をただただ享受し、楽しい娯楽と見せかけの豊かさ追及へと身を投じていきました。考えてみたら、戦後の娯楽にはアメリカから入ってきたものが非常に多いです。  
まじめに働くけど、あまり本質を考えて問うことをしない…そんな日本人をマインドコントロールによって作り上げたのは、じつはアメリカの策略かも…?

はい、国家戦略としては大変面白い推理で、そういう面も否定できないかもしれませんね。
でもここでもまた、「こんな日本人にされたのはアメリカのせいだ」と人のせいにするのでしょうか? 日本人としての意志はどうなんでしょうか?



私のブログ内の「豊かさとは…?」のカテゴリにも今までたびたび書いてきましたが、戦後の自由主義・資本主義は、「努力すれば豊かになる」という方向で競争の原理を育んできました。

そして「勝ち組」たちの中には「努力して稼いだ『オレの金』なんだから、どう使おうが勝手、何をやってもいいんだ」という成金的な発想も生まれました。前にも書きましたが資本主義の歪んだ姿といえるでしょう。

ビジネスマンは「戦士」で、仕事の疲れを癒すのに高級クラブでお金を払い、女性にセクハラまがいの横柄な振る舞いをしてもいいんだ…と。なんか従軍慰安婦の問題も過去の話とは言い切れないような面も感じませんか?

そして競争による足の引っ張り合いは膨大なストレスを生み、勝ち組の横柄さと、負け組の惨めさと絶望、その格差を生み出します。
こういう社会では、誰もみな自分が競争に打ち勝つことに必死で、人を蹴落として這い上がろうとし、自分のことだけでいっぱいいっぱいになります。

全体を見る目が曇り、自分の目先のことにばかり関心がいき、思いやりのない社会になっていきます。 社会問題や政治に対する関心は弱くなり、仕事以外の楽しみはもっぱら低俗な娯楽へと流れやすくなります。
「人として何が大切か」、ものごとの本質はどこかが見えづらくなっていきます。表面的に「どっちが優勢か、誰が悪いのか」と短絡的な行動に走りがちになります。

自分自身の意見は、「作ら(れ)ず・言わ(え)ず・持とうとせず」の被殻(=自分の殻にこもる)3原則
仮に思うことがあっても、表立って自分の意見として出さず、よほどのことがあれば反対意見は言うにしても、賛同することは少なく、人の出したものをのぞき穴からのぞくだけ、という人が多いようです。

ちょっと真面目な話題は見て見ぬふりをして通り過ぎ、芸能人の話題などの安易でたわいもない他人ごと(ひとごと)の話題と、食欲・性欲・睡眠の三大欲へと流れる傾向は、ネット社会を見ても明らかなように見受けられます。

こういう傾向が、有権者たちの思考回路(=民意)にもよく表れているように思います。
こういう国って、政治家が選挙前に約束したことをコロっとすり替えたり、自分の利権に走って好き勝手なことをやるには、天国のような環境ですね。

また何か自分の意見があるなら直接出して相手と意見を交わせばいいものを、何かにつけて直接は言いづらいのか、自分と同じような周りの同意を求め、似た者同士でかたまり、変な噂を流したり、誰かを介して「こういうことはやめてほしい」と遠回しに言う傾向もありますね。
どこまでも自分は顔を見せないで、人の評価で人を判断し、陰で噂をしたり「ほかのみんなも言ってます」など他の人の力を借りてものを言う…なんとも陰湿な民族ですね。



こうした日本という社会が持っているパーソナリティともいうべき性格は、戦時中も戦後も今も、本質的にはあまり変わっていないように私には思えてきます。
戦争・戦後も、決して「過去の出来事」ではなく、大切な問題は置き去りにされてきたように私には思えてしかたありません。 

それは原発問題に関しても同じです。
国をあげて、アメリカと一体となって進めてきた原発。

しかし東日本大震災によってあまりにもずさんな安全対策、想定の甘さ、危機管理のなさが浮き彫りになりました。その責任はしっかり追及すべきです。

しかし、われわれ国民も、「核=大量破壊兵器」として避ける一方で、同じ科学現象である「原子力」は平和で安全なものと信じ、全国に60基ほどの原発ができていたこともよく知らないまま、電力を大量に使う生活を当たり前のこととして享受してきました。

責任をしっかり追及することと、東電だけをただ感情論で「悪者」呼ばわりすることとは別です。そこはきちんと分別しなくてはならないと思います。


◆今になって出てくる数々の証言の意味するところは?

太平洋戦争へと導いた主導者の責任、せめてもう少し早く戦争を終結して被害を防げなかったのか、その判断と交渉の誤りへの責任、そして国民ひとりひとりの問題意識と戦後の責任追及…原発事故の構造ともみごとに重なるのではないでしょうか?

今いちどあらためて、国も大企業も、そしてひとりひとりの国民も「あの戦争は何だったのか?」を戦後の日本再生の原点として真剣に問いかけてみる必要があるのではないでしょうか?

私が子どものころテレビで観た戦争ドキュメンタリーは、戦後初公開される実録フィルムによる悲惨な戦場の姿が多かったように思います。
神風特攻隊が敵艦に体当たりして炸裂する映像とか、南の島で玉砕した日本兵の遺体、東京大空襲で焼かれる街、黒焦げとなった遺体、沖縄戦、原爆投下直後の広島市街の様子…etc

戦争は、映画やテレビドラマの世界では見てきましたが、本当の戦争の現場がテレビを通じてお茶の間に流れたのは、20世紀の人類が初めて体験したことです。

しかし最近ではそうした生々しい映像よりも、「あの戦争は何だったのか?」を問いかける「証言もの」が多くなったように思います。
俳優座の若い役者さんたちも、毎年この8月の時期にさまざまな証言集を朗読する活動をもう何年も続けてこられてます。
至るところでそのような「証言もの」が増えているのはなぜでしょうか?

これは私の推測ですが…
おそらく20歳前後で戦争に赴き、数多くの惨状を目のあたりに体験した人たちは、もしあの戦争が「過ち」だったとすると、自分が命をかけて戦っていたことも、散っていった戦友や家族の死もすべて「無駄」だったことになってしまうことへの恐怖があったのではないでしょうか?
 
また、被害者としての日本だけでなく加害者としての日本、すなわち自分が戦地で見聞きしたこと・やらされたことへの罪悪感と悪夢にさいなまれ、自分が生き残ったことが申し訳なくてとても生きていけない…と。
 
そうした思いから口をつぐみ、記憶の彼方に封印するように戦後を生き抜いてきた人たちも多くいらっしゃるのではないでしょうか?

しかしそういう方たちもすでに80代とご高齢になり、若者だけでなく多くの人の記憶から戦争の体験が薄れてしまった世の中に「やはり自分が生きているうちに戦争の悲惨さを伝えなくては!」という思いに駆られてさまざまな証言をされる機会が増えてきたのではないでしょうか?
漫画家の水木しげるさんが「ゲゲゲの見た戦争」を描くに至ったのも、もしかするとそのような思いからだったのではないでしょうか?

語りはじめれば、溢れるようにくっきり鮮明に蘇る悲劇の数々…
戦争とはそこまで個人の心の奥深くまで傷つけるものなんだ、ということを私たちはまず受け止めなければいけません。

戦後、日本人自らがあまり問いかけることのなかった「あの戦争は何だったのか?」という永遠の課題を背負いながら…

<完>

みなさんはこのあたり、どうお感じになりますか?
当然ながら賛否両論ある難しいテーマだと思いますが、あえて私なりに思うところを綴りました。 特定の誰かを批判する意図はありません。忌憚のないご意見、お待ちしています。

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そういうことですね

奥深い記事ですね。前の記事からなるほどとうなづきながら読ませて頂きました。
日本は結局アメリカの属国にされ、飼い慣らされてしまったようですね。
生かすも殺すもアメリカしだいみたいなところが日本の宿命のような気もしますが、記事を読んで日本人は日本人でしっかりした考えを持たなくてはいけないと思いました。

Re: そういうことですね

パッコロさん

お返事おそくなりました。コメントありがとうございます。
「アメリカの属国」とはよく言われる表現ですよね。

ポツダム宣言を受諾する前、アメリカをはじめとする連合軍は、敗戦後の日本を分割統治するシナリオを描いていました。そこへ長崎に原爆が投下された8月9日にソ連が参戦します。
ここでもし日本がヨーロッパ大陸の中で地つづきで広大な土地と資源を持っていたら、おそらく分割統治でずたずたにされていたのではないでしょうか?

ところが日本は小さな島国で、欧米からみれば飛び地のようなところ。そこをさらに分割統治してもあまり価値はなかったでしょう。
そこでアメリカは、連合国を代表して日本を「従順な飼い犬」にする政策に出たのではないでしょうか?

幕末のペリー来港以来ずっとアメリカは日本に対して、極東の拠点として、補給をはじめアメリカの「よき協力者」であることを求めてきたとも言えるでしょう。
アメリカは戦時中から敵国・日本のことを実によく研究してきました。今でも文化人類学の日本人論を議論するには必ず話題に出るルース・ベネディクトの「菊と刀」(菊は天皇を意味します)という著書もその一例でしょう。自らの命を捨てても敵艦に体当たりしてくる日本人とはどういう民族なのか?、武士道とは何か?、日本は罪の文化ではなく恥の文化である…など。

日本人にとって大切な京都・奈良の重要文化財は爆撃の標的からはずし、天皇を処刑することなく「人間の象徴」として位置づけさせた。つまり日本人が大切にしてきた精神的な拠り所は否定さずに残し、軍国主義を徹底的に廃して非武装化をすすめ、代わりに「自由」を与えたのです。

アメリカは、日本を徹底的に滅ぼしてずたずたに分割統治する道を選ばず、日本をうまく手なづけ、自由主義を浸透させ、赤紙一枚で出征させられお国のために戦わされてきた軍国主義から日本人を「開放」した、という見方もできるかもしれません。

それと引き換えに、日本人ならではの勤勉さで産業・技術を発展させ、アメリカにとって従順なよき支援者となり、あまり日本が力を持ちすぎないように、と。
今日の沖縄をはじめとする米軍の基地問題も、日米安保条約も、日米貿易摩擦も、すべてそのライン上にあると考えることもできるのではないでしょうか?
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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