「ふるさと」…本当の「地方の時代」を考える

<初校2013年1月7日を改訂>

社会人になってから今年で32年。ひとつの節目を迎えるにあたって振り返り、私なりに思う「豊かさとは?」への発想の原点をあらためて…


◆「ふるさと」の歌詞…3番

私の行きつけの二子玉川の鉄道模型屋さんのご主人(=私にとって、模型作りだけでなく「人生の恩人」のような方)との会話から…

震災復興コンサートでもよく歌われるようになった「ふるさと」、とても素晴らしい曲ですね。
「うさぎ追いしかの山…」で始まる1番の歌詞いいですね~。情景が目に浮かびます。
つづいて「いかにいます父母…」で始まる2番も素晴らしい。育ててくれた両親や同郷で育った友達のことを思っているんですね。

ところが、3番の歌詞はどうでしょう? 
その模型屋さんのご主人いわく
「ここが嫌なんだよ。ここさえなければ素晴らしい歌なのに…」と。

3番の出だしは「志しをはたして、いつの日にか帰らん」ですね。

「ふるさとは、そんなに力んで志しを果たさなくたって、いつ帰ってもいい場所なんだよ。疲れたな~、両親や友達に会いたいな~、という時にいつでも帰ればいい。安心してくつろげる場所でいいんだ。
 
なのに、都会(東京)に出たら大成してひと旗上げて、故郷に錦を飾らなきゃいけない、そんな風潮がある。その発想が中央集権にも、勝ち負けの発想にもつながってるんだよ」というのです。



ちなみに「ふるさと」の歌詞を作詞した高野 辰之(たかの たつゆき)さんという方は、1876年(明治9年)に長野県に生まれ、長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業したのち東京へ出て、東京帝国大学で国文学を学び、国文学者となります。「近松門左衛門全集」、「日本歌謡史」、「浄瑠璃史」、「日本演劇史」などの業績があり、号は斑山(はんざん)。1910年(明治43年)には東京音楽学校教授となっています。

まさに東京で素晴らしい業績を上げて故郷に錦を飾ったわけです。「ふるさと」の3番の歌詞にも、故郷を思いながら東京で勉学に勤しんだ自分の思いが重なっていたことでしょう。

決して努力して成功することがいけないと申し上げるつもりはありません。
でも、すべての人がそうならなくてもいいじゃないか、ということです。

みな地方から出てきて東京で大成することを望み、成功してエリートの道を歩み、錦を飾ってふるさとに帰ろうとする。
かくして東京には人が集中して地方は過疎となり、「自分が成功者となること」「お金持ちになること」を目標に競争が激しくなり、ストレスがたまる社会へ。

官僚も政治家も、自分が偉いセンセイになって地元に利益をもたらして英雄になろうとする。中央の政治は足の引っ張り合いで、そこでの勝者が自分の地元に高速道路や新幹線や大企業を誘致して英雄になろうとする。地方もまた、東京の真似ばかりして、経済的なうるおいと見てくれだけの豊かさを求める。

この狭い日本で、「人の幸せ」って何なんでしょう?
そして「地方」って何なんでしょう?


◆地方の「まちづくり」を通じて

私は社会に出てから今の職場に来るまでの数年間、民間の小さな研究所で「まちづくり」のコンサルタントをしていたことがあります。
道路やビルをつくる建設関係ではありません。自治体(市町村)から委託を受け、「総合計画」という地域の10年計画づくりをお手伝いする仕事です。

自治体(市役所、町・村役場)にはたくさんの課があります。その各課の持っているさまざまな統計と計画を寄せ集めて「作文」すれば計画の形はできますが、それはホンモノの計画じゃない!そんなこだわりをもっていた研究所の所長のカバン持ちをさせていただきました。

各地の伝統文化や環境を調べ、各地区ごとに住民懇談会を開いて夢を語ってもらい、行政のタテ割りを超えてその地域のために何ができるかを考え、半年~1年なんどもその地域を訪れ、四季の移ろいを感じながら、その地域のオリジナルを探していく…
手間ヒマのかかる仕事でしたが、大切ないい仕事を手伝わせていただいたと思います。

このカテゴリ「★豊かさとは…?」につづってきた内容の根幹にも、その頃の思いがあるように思います。その頃、「地方」を見つめながら強く思ったことが大きく3つあります。

1、行政の「タテ割の弊害」
2.中央集権的(東京=偉い)な発想
3.「大企業中心の経済=金儲けの原則」です。


1、「タテ割りの弊害」

役所内の各課が競い合って「うちの課ではこんなことをやっています」と自慢されるんですが、複数の課で似たような計画が重複していることもしばしば。
教育と福祉とで似たような事業を別々に企画していたり、公園や道路を改修するにも、それぞれの課がそれぞれ違う目的で行うため、同じ箇所をなんども掘り返すことになります。

公園緑地課が公園をつくる。でも歩道と段差があって階段で上らなくてはならない。そこで福祉課と道路整備課がスロープをつける。すると暴走族が深夜バイクで乗り込んでくる。それを防ぐために鉄の柵が設けられる…etc. 
そういう場面を写真に収めて「タテ割りの作品展」などと題する写真展でもやったら面白いんじゃないでしょうか…(笑)。

いや失礼、でも笑い事ではありません。それに近いことが現実にあちこちで起きているのです。それこそ税金のムダ使い。各課はみなちゃんと真面目に仕事はしているのですが、トータルな視点が抜けています。「そもそも何のために?」という本来の目的と矛盾したことも起こるわけです。いわゆる「役所仕事」というやつです。

それに対し、市民の生活はタテ割りにはできていません。生まれたり引っ越しすれば戸籍係に届けを出し、子供が保育園に通うには児童福祉課のお世話になり、学校に上がれば教育委員会、怪我や病気をすれば医療や健康保険、親の介護が必要になれば高齢者福祉、身体にハンディが生じれば障害福祉…etc.
市民の日常生活はきわめて横断的・総合的なものです。

車で目的地まで走るのにいちいち「国道」なのか「県道」なのか「市道」なのかを意識して走ることがどれほどあるでしょうか? 日常生活では、行政の都合(=タテ割り)にはなっていないのです。

そうした日常生活で起こることを、行政は常にタテ割りで対処しようとするからギクシャクするのです。行政は、法律や規則、国・県とつながった「タテの線」には強いですが、「ヨコの線」での連携や総合的な判断に弱いのです。

横浜市が最初に作った企画調整課は、そうした行政のタテ割りを横断的にとらえて「調整」するためですが、下手をすると「調整課」という名のタテの線がまた1本増えるだけだったりする危険もあります。(←参考「都市よこはまをつくる」田村明著・1982年ごろ)


2.「中央集権的な発想」

役所(役場)の企画課に行くと、大きなグリーンボードに月ごとの予定が書かれています。各地区の行事や、庁舎内の整備点検などが書き込まれていますが、ひときわ目立つ印が付けられているのが「県の〇〇課長来庁・視察」です。
自治体(市町村)の上の組織から人がやってくる日です。それが「県」ではなく「国」の省庁や国会議員がやってくる日は大変です。赤い絨毯でも敷いて正装で出迎えるのでしょうか? (出迎えなかったことでお怒りになってすぐに辞任した復興大臣のセンセイもつい最近いらっしゃいましたね。)

先ほどの各課のタテ割りがそのまま上の県へ、そしてその先は国へ、と見事なほどタテにつながっているのです。市町村よりも県が上で、その上の国が一番「偉い」わけです。

ここには地方交付税という税の仕組みも大きなネックになっています。
地方の財政を地方だけで完結させることは難しく、地方交付税や国や県からの補助によって成り立っている財政の構造があります。
 
地方自治体(=市町村)の行政マンたちは、住民の方ではなくむしろ上(=県や国)ばかりを見るようになり、住民主体のオリジナルの地方のカラーがなかなか生まれにくい状況を作っているとも言えます。

都会のマネをしたり、隣の自治体と競い合ってハード(施設)面ばかりを追いかけるのではなく、どうしたらもっと地方がより主体的に自分たちらしくその地域の特色を打ち出して、魅力ある地域づくりができるか?
地域に暮らす一人一人の夢をはぐくみ、それを支援する行政へ…

この流れを大きく変えるための大胆な提案については後述します。
(→ この記事の最終章 ◆「取られる税金」から「納める先を選べる納税」へ)


3.「大企業中心の経済(=金儲け)の原則」 

当時「地方の時代」「地域の活性化」という言葉をどこに行っても耳にしました。一見私たちが取り組んできた地方の「まちづくり」の発想と同じ方向を向いているようにも見えるいい言葉です。
でもその中味のほとんどは、大きな事業、大きな企業を誘致して、東京と同じように便利にきれいに整備し、観光産業をおこし、巨大な遊園地をつくり、経済を活性化させようという発想です。

たしかに大きな企業を誘致すれば、従業員が増えるから飲食店は儲かる、企業が儲かれば法人税が入ってくるから町の財政はうるおうでしょう。

ただ、以前もこの「豊かさとは…?」にも書きましたが、大きな公共事業というのはたいてい東京や大阪に本社のある大手ゼネコンが仕事をとります。地方に落ちるのは工事現場の人たちの一時的な雇用と彼らの飲食にからむ「おこぼれ」程度。
国からの補助金で大きな事業をやっても、そのお金の大半は大都市の大手企業に回り、地方は場所を提供するだけ、お金は目の前をスルーするだけの構造…それが大型の公共事業の実態です。

地方に企業が進出するのも、東京などの大都市よりも安くて広大な敷地と、都会より安い労働力が確保できるからです。企業の都合による効率化のためであり、その地方の人々との交流はせいぜい飲食店程度。今では多くの企業がさらに海外へと生産拠点を広げています。

大企業中心の「経済の原則」とは、しょせん企業の都合であり、見かけの数字だけのまやかしか?と若い頃の私には映ったのです(=アベノミクスもこの発想であることはいち早く嗅ぎ分けていました)。


観光も金儲け

温泉が出たり、ドラマの舞台となったり、地元の伝統文化がたまたまブームで脚光を浴びれば観光客がどっさりやってきます。その人たちがお金を地元に落としてくれて、地域が活性化する…かくして地方はどこも「観光地」を目指します。

どこへ行っても湖には遊覧船が浮かび、土産物屋が建ち並び、滝を見るために車を駐めるにも何百円か取られます。
どっちにカメラを向けても看板だらけ。小鳥の声や滝の音を味わいたくても土産物屋さんからはスピーカーの音声がガンガン流れてきます。
すべてが「金儲け」につながった「商業ベース」。それが残念ながら日本の多くの観光地ではないでしょうか。

アメリカやカナダの国立公園では、美しい山や湖をゆったり見るのにお金は取られません。トイレと食事をする場所はなくては困りますが、余計なものは要らないのです。
山の標高や地図、そこにいる鳥や動植物の名前を案内する看板が、そこの風景を壊すことなくシックなステンレスで整備されていて小気味よく、ゴミ箱や広告などはなく、観光客はゴミをちゃんと持ち帰ります。
観光行政に携わる担当者や議員さんにも、こういうホンモノを見ていただきたいですね。


◆特急列車への憧れ

ところで、冒頭の模型屋さんのご主人とのお話しに関連して…

「特急列車が走っていくのを見て、何を思う?」…というお話しです。

新幹線ができる前の在来線の特急列車。私も子供の頃から憧れでした。スピード感あふれるあのデザインがまず「かっこいい」! 窓が開かない、ふだん乗っている通勤電車とは違う高級感もたまらない!…そんな特急列車への「憧れ」にも色々とあるというのです。

私のように転勤族だった父にくっついて各地に住み、夏休みの旅行や東京のおばあちゃんの家に来る時など限られた機会にしか乗ることのできない「憧れ」もその一つでしょう。

でも、地方に生まれ育ち「友達はみんな東京へ出て行ったけど、俺はこの田舎で農業を継がなきゃいけない」という青年が畑仕事をしている風景の中を走っていく特急列車は、自分には届かない世界への「憧れ」であり、眩しい東京での生活への「憧れ」の象徴でもあったのではないかと…。

とくに具体的に誰かの話ではありません。模型屋さんのご主人の想像の世界の中でのお話しです。それが冒頭の「ふるさと」3番の歌詞、ひいては中央集権の波とも重なるのでしょう。

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新幹線・高速道路

どこの自治体も高速道路や新幹線に対する「憧れ」があるようです。そのために政治生命をかけた議員センセイ方も過去に大勢いらっしゃいました。

「東京から〇時間で来られる!」と喜ばれ、便利になって観光客も大勢来てくれて潤う、と町をあげて期待されるんです。
でも結果は…?たいてい皮肉なことに「東京まで〇時間で行ける!」と、若者たちがますます出て行ってしまうのです。

行くのにも便利、来るのにも便利、人の流動は活発になるからそれはそれで悪いことではありません。ただ、移動する人たちがどこを向いているかの問題です。

私も「まちづくり」の仕事で地方に通っていたころ新幹線をよく使いました。
毎日・毎時、どの列車も車内にはビジネスマンがびっしり。金曜日には単身赴任らしきサラリーマンの姿も。よくもまあこれだけの人たちが毎日日本列島を移動しているんだな~と感じたものです。

ところがそのビジネスマンのほとんどは、地方に行くにしても「営業」のためであったり、自社の地方の支店・出張所への用足し。あとはゴルフなどのレジャー。
行った先の地方の歴史・文化を知り、その地域の将来を考えている人がどれほどいるんだろう?

この有り余る「民間活力」を、過疎に悩んでいる地方になんとか役立てることはできないものか…?
その思いの道半ばにして研究所は経営危機に陥り、私は転職を余儀なくされました。「経済の原則」には逆らえなかった、という思いです。


本当の「地方の時代」とは

東京で暮らしていてたまに地方に旅すると、「ああ、これぐらいの街でのんびり暮らせたらいいな~」と思います。でも、実際にその地で暮らしている方からすれば、不便だし、田舎者だし、東京の人にはかなわない、といったような言外のニュアンスを感じることがあります。

東京の真似をする地方ではない、東京と競ったり比較しての地方ではない、もっとオリジナルな本当の地方の良さをどうやったら活かせるのか?

これについては以前もこのカテゴリに書きましたが、なんでもいいから「おらがまちの一番」を探し、そこで暮らす人たちがそれを愛し、育て、誇りにし、そこから全国へ世界へ発信していく、という発想です。
競い合って立派な美術館やコンサートホールなどの「箱もの」をつくるのではなく、「人」と「中味」を育てるのです。また競い合ってどこも同じようなものを作るのではなく「たったひとつのオンリーワン」を見つけるのです。

作曲家の多くも、日常の生活の場・都会の喧騒の中でよりも、どこか離れた旅先で、あるいは湖のほとりで素晴らしい作品を生み出しています。
私の大好きなグリーグのピアノ協奏曲も、湖のほとりの小さな小屋で作曲されたといいます。
作曲家だけではなく、陶芸家でも演劇家でもいい。その地を愛してそこで素晴らしい作品を産み出し、そこで活動する。そこから全国へ・世界へと発信していく。そんな地方があっても素敵だと思います。

あともうひとつ、大企業を誘致したり、観光客に来てもらったり、国からの補助金を獲得して…という他力本願の発想を改めることです。
これについても以前書きましたが、地方交付税のしくみを見直すのです。これは地方だけではできないので、国の税制そのものを変えなくてはいけませんが、私流の大胆な提案です。


◆大提案 「取られる税金」から「納める先を選べる納税」へ!

サラリーマンから否応なく取られている税金は、国に納めるものと地方(住んでいる自治体)に納めているものに分かれます。大雑把に言えば「所得税」は所得の1割を国に納め、住民税は1年前の所得に照らして住んでいる自治体(市区町村)に納めるものですね。

自営業で自分で申告している人と違って、サラリーマンは自動的に「否応なく取られている」という感じで、額面を見るといかに税金で引かれているかをまざまざと見せつけられるから「見ないようにしている」という方も多いのではないでしょうか?

私もじつはその一人ですが、それがいけないんです! 見ないように、考えないようにしているから、自分の納めた税金がどう使われているかにも関心が薄れるのではないでしょうか?

たとえば、国に納めている所得税(所得の1割)を10等分して、半分は国へ、残る半分はどこか地方自治体へ納める、という方法です。
いまは10口をすべて国に納め、国が地方にばらまく、という方式ですね。それを国民ひとりひとりの意思で、「私は北海道が好きだから北海道に2口」「大好きな京都に一口」という具合に。市町村ごとでは大変でしょうからとりあえず都道府県ごとでもいいと思います。とくにどこも思い当たらない人は、今までどおり10口すべてを国へ、あるいは住民税にプラスして自分の住んでいる自治体へ、でもいいでしょう。

今の制度では、住民票の置かれている自治体に「住民税」を払いまずが、実際に住んでいない「ふるさと」への納税義務はありません。でも「生まれ育ったふるさと(県)に何口」という納め方があってもいいと思うのです。

なにも大企業や学校を誘致して法人税をあてにし、人口を増やさなくても、各地方ごとに自分の地域を見つめ直し、素晴らしいオリジナルと魅力ある地域づくりをしていけば、都会に暮らす人やそこから出て行った人たちも「ふるさと」に税金を納めてもらえるようになるのです。

これに近い発想でできた制度に「ふるさと納税制度」というのがあります。
正確には「納税」ではなく「寄付」です。住民税は自分がいま現在住んでいる自治体に納めますが、現在住んでいない「ふるさと」でもいいし、まったく違う地域でもいい、そこに寄付をすることで、税金の一部が控除されるという、寄付金控除を活用した制度です。

詳しくは以前に書いた
「ふるさと納税制度をご存知ですか?」という記事内にも貼りこんである総務省のページをご覧ください。
→ 
総務省 ふるさと納税制度のページ


納税にせよ寄付にせよ、人は自分がなんらかの形でお金を出したら、そのお金がどう生かされているかに関心が出てくるはずです。
その成果いかんによって「来年は2口に増やそうかな」とも「もう二度と払わない」ともなり得ます。

地方自治体も、納税(または寄付)してくれた「会員」に特典を出したり、会計報告をしたり、今までとは違った意味での広報が活発になってくるでしょう。
またメディアを通じてその地域のオリジナルを全国に世界にアピールすることで、地方からの情報発信が盛んになるでしょう。今の広告(CM)はほとんどが大企業の商品の宣伝ですが、公共性の高い自治体からの広告も増え、情報の内容・流れも変わってくるでしょう。

そうした発想をつなぎ合わせて、これまで日本が突き進んできた「中央集権的な発想」・「国と地方との上下関係」・「大企業依存型の経済」 といった古い発想を変えていくことができるかもしれない。

それこそ本当の意味での「地方の豊かさ」へ、ひいては他力本願ではない「自身の豊かさ」へとつながっていくと思うのです。

<完>

★冒頭に書いた、鉄道模型屋さんのお話しは、こちら…
「遊びから学ぶ 人生の恩人」







  
  
<追記>2016年11月19日

◆都会に納める住民税の減少…財源不足


わたしの発想での「自分の納める税金の一部を地方へ」は、国税の一部を自分の意志で地方へ、というものでした。
しかし、いまの「ふるさと納税」は、「寄付」した分が自分の住む自治体への「住民税」から控除される、というもの。
つまり、都会の住民税の一部を地方へ回す、という形になっています。

これによって、東京などの大都市の自治体(区など)の財源が「ふるさと納税」による「流出」によって減ってしまう、という悩みも出てきてるようです。
東京都中野区では、自分たちも「ふるさと納税」の対象となることを考えはじめたようです。となると、中野区の魅力ある特産品はなんだろう?、地元に住む人にも「寄付」(=自分の意志で払う)をしてもらえるために、どういう行政サービスをしたら良いのか?…を考えはじめたと言います。

「ふるさと納税」は、単に地方への財の分配、あるいは特産品目当てのブームに終わらせてはもったいない。
都会も地方も、自分たちの「地域の魅力」を見つめなおし、行政が上ばかり見ることなく「住民」・ほかの地方の人たちに「いかに魅力を感じてもらえるか?」を考え、さらに住民も自分たちが納めたお金がどう使われどう活かされるかに関心をもつようになる、良い機会ではないでしょうか。

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No title

内容が濃すぎて、とても日帰りでは読めません~
1泊くらいしないと...(笑)
でも共感できるところばかりです。
老人ホーム訪問では、最後に必ず「ふるさと」を歌いますが
基本的に1番と2番だけなので、3番の歌詞を久しぶりに
口ずさんでみました。
そういうことだったのか...と唖然とした朝です。

Re: No title

サイコさん

一泊がかりの長~い記事、恐縮です。
なにせ、大学を卒業して間もない(社会人になって初期の)多感なころの想い~その後いまの日本社会を見るにつけ重なる想いの蓄積なんで。「地方」というたったひとつのキイワードからも色々出てきてしまいます。
きのう・きょう思いついた理論なら、違う角度からの反対意見にもぐらつくかもしれませんが、私の中でそれなりにしっかり根を張っているテーマなので…。

あと「地方」のあり方を考える事って、考えてみたらわれわれ一人一人(個人)の生き方とも非常に似ていると思うんですよね。
たとえば「理想」という言葉。理想的な〇〇とよく言われるように、自分にとって都合のよい、他と比べてもっとも望ましい…といった他者に求めることのように言われることが多いですよね。でもその前に「自分はどうありたいのかを思い描くこと=理想」じゃないかと私は思うんです。
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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