ドヴォルザーク交響曲8番 ~標題と音楽~

今月20日、ある楽団の演奏会にエキストラで参加させていただきます。
昨年の暮れにお話しをいただき、年明け早々に楽譜が届き、13日(日)に打楽器類をレンタルしてただ1回の合わせリハーサルがあり、翌週20日(日)が本番!

私がティンパニを担当させていただく曲は、ヴェルディの「ナブッコ序曲」(約7分)と、メインはドヴォルザークの交響曲8番です。


ドヴォルザーク交響曲8番

ドヴォルザークは、「わが祖国」を作曲したスメタナとならんで「国民楽派」と呼ばれるほど祖国チェコを愛した作曲家です。またドヴォルザークは鉄道好きだったことでも有名で親近感を覚えます(笑)。

ドヴォルザークで皆さんがよくご存じの曲といえば、なんといっても最後の交響曲9番「新世界より」でしょう。新天地アメリカから祖国チェコへの思いを描いたので「新世界より」と題されていて、「より」までが正式なタイトルです。私が子どものころ誤解したように、本当はもっともっと長~い「新世界」という曲があって、その一部だから「より」ではありません(笑)。

その「新世界より」のひとつ前に書かれたこの交響曲8番は、ドヴォルザークがチェコで書き上げた最後の交響曲で、私も大好きな交響曲のひとつです。
とくに、学生時代にFM放送をたまたま録音したジョージ・セル指揮&クリーブランド管弦楽団による演奏(1970年録音)が大のお気に入り!

ジョージセル指揮クリーブランド管弦楽団

私は元来「この曲は誰の演奏による、いつの録音でなきゃだめ!」とこだわる方ではないのですが、その後30年あまり色んな演奏を耳にしてきましたが、3楽章のバイオリンの旋律へのむせび泣くような入り方・随所で決める場面での微妙な間の取り方・ティンパニのメリハリや表情など、この演奏が一番しっくりくるのです。でも当時のカセットテープはもう聴くことはできませんでした。

昨年末に今回のエキストラ出演のお話をいただいてすぐに渋谷のタワーレコードへ行ったところ、たまたまそのG・セル指揮&クリーブランドの1970年録音のCD盤が1枚だけ在庫していたのです!
音楽の不思議な力を感じるのはこういう時ですね。
 

* 1970年4月 G・セル最後の集大成
 
太平洋戦争直後の1946年、ジョージ・セルが音楽監督に就任した当時のクリーブランドはアメリカで二流のオーケストラだったという。それをストコフスキーばりの独裁ぶりで徹底したオーケストラ美学を叩き込み、一流のオーケストラに育て上げた。
日本では大阪万博が開催された1970年4月、私が中学1年になる頃にこの名盤は録音された。その翌5月に、クリーブランド管弦楽団が初来日をして、73歳のセルの指揮の下で磨きぬかれた名演奏を披露したが、日本公演からわずか2ヶ月後の7月、G・セルは帰らぬ人となった。

今日の演奏家の中では、やはり尊敬するマエストロ・小林研一郎先生がチェコフィルとも親交が深く、一番のお気に入りの演奏を奏でて下さる。プラハ城を臨むヴァルタヴァ(モルダウ川)のほとりにドボルザークを記念して建てられたドヴォルザークホールで、伝統のチェコフィルを相手にスメタナやドヴォルザークの名曲を指揮されている。
チェコの地で、もしアマチュアとプロの共演がかなったら…という家族にも呆れられるような途方もない無謀な夢を抱きつつ…


国名のついた交響曲

ところで、この交響曲8番は「イギリス」という副題で呼ばれることがあります。
でも決してドヴォルザークがイギリスという国をモチーフに書いたわけではなく、2階建てバスもバッキンガム宮殿も出てきません。

たまたま最初の楽譜がイギリスの出版社から出されたことから、誰が呼んだのか「イギリス」という副題がつけられてしまった…。音楽を味わう上でいささか紛らわしい、邪魔になるどうでもいい題名ですね(笑)。

これとは別に、交響曲の中には国名が副題に冠されたものがいくつかあります。
メンデルスゾーンの交響曲4番(出版順として4番目だが実質は最初の交響曲)には「イタリア」、交響曲3番には「スコットランド(スコッチ)」という副題がつけられています。

最初の交響曲はメンデルスゾーンがイタリアを、3番はスコットランドを旅していた時にそれぞれ着想を得て作曲にとりかかったことからその題名で呼ばれるようですね。
とくに「イタリア」は、24歳のメンデルスゾーンが旅先ローマで謝肉祭やグレゴリウス教皇の就任式を目にした頃に着想され、全体に明るい旋律と躍動感があるほか、最終楽章にはイタリア舞曲のサルタレロの要素も取り入れられています。

でもイタリアという国を描いた標題音楽(→後述)ではないというのが通説です。


楽曲と題名

楽曲につけられる題名は、作曲者みずからが命名する(=そういうテーマで曲を書く)場合もありますが、その音楽を聴いた人によって後に命名されることもしばしばあります。

ベートーヴェンの交響曲5番「運命」も、ベートーヴェン自身が題名を付けたわけではありません。ただ「運命はかくのごとく扉をたたく」と注釈しているように、耳の聞こえなくなる病いに悩み、苦しみの中から生まれた曲であることは確かです。ピアノソナタ「悲愴」と同じハ短調で書かれているのも暗示的ですね。

次の交響曲6番「田園」(ヘ長調)とほぼ同時期に並行して書かれたようですが、6番の「やすらぎ」に満ちた詩集のような田園風景とは対照的に、まさに自分自身の闇の世界を第1楽章の冒頭からぶつけています。第3楽章ではその第1楽章のモチーフを変形させて展開させ、長い苦しみのトンネルを抜けて明るいハ長調の第4楽章に突入していきます。まさにベートーヴェン自身の「運命=人生」そのものを象徴しているように私には感じられます。

またピアノソナタ「月光」は、ベートーヴェンが30歳の時に自分の半分ほどの年齢の15歳の少女に恋をして書いた曲。通常のソナタ形式では、第1楽章の冒頭部分はゆっくりはじまって途中でアレグロに変わって第一主題が出てくるのが一般的ですが、このソナタでは1楽章全体がスローテンポのまま色彩が変化するように移ろいゆくという型破りなもので、ベートーヴェン自身は「幻想的なソナタ」と名付けました。
しかしこの曲を聴いたある人が、「まるで湖面に映る月の光のようだ」と評したことから「月光のソナタ」と呼ばれるようになりました。素晴らしい形容だと思います(2・3楽章は月の光とは全く関係ないように思いますが)。

このように、必ずしも本人が命名した訳ではなくても、作曲された経緯や描写がまさに的確に一致している例もあります。

しかし、そうでない例も多々あります。「未完成交響曲」などはまさにその典型的な例ですね。シューベルト自身が「未完成」というテーマで交響曲を書いた訳ではありませんから(笑)。

ただ、日本ではなぜか題名の付けられた曲の方が有名になりやすく、「名曲」として親しまれやすい傾向があるように思います。


イメージをわかせやすい「標題音楽」

小学生のころ、まったく初めての音楽を題名も知らされずに聴かされて「どんな情景を思い浮かべましたか?」といったクイズ(アンケート?)がよくありました。
森に朝がやってきて、鳥がさえずり、水車が回り、鍛冶屋さんがトンテンカンと仕事を始め、カッコウが鳴き、夕方になり… 

曲の題名を聞いて「なるほど、そういう情景を描写した音楽なのか」と納得してすんなり入ってくる音楽、絵画を見るように景色が目に浮かぶ音楽のことを標題音楽(英語: program music, ドイツ語: Programmmusik, フランス語: musique à programme)といいます。

グローフェの組曲「大峡谷・グランドキャニオン」やR・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ホルストの組曲「惑星」など、壮大な風景が浮かんでくる音楽は私も大好きです。

単なる音の高低差・配置・リズムの組み合わせだけではきわめて抽象的なものですが、ある情景・状況をイメージとして重ね合わせることで、演奏する側も聴く側もその曲への理解が深まり、すんなりその世界に入りやすくなります。

言葉のある歌曲、あるいはオペラやバレエなど「物語」のために書かれた音楽は、いつ・どこで・どんな主人公が・どんな状況で…というシチュエーションが設定されています。ですから演奏する側も聴く側も、曲のイメージをふくらませやすいですね。

アマチュアオーケストラでは、抽象的な交響曲や宗教音楽もいいけど、物語性のある(ストーリーはけっこう俗っぽい=わかりやすい)オペラやバレエの組曲などを演奏することで、音楽的な表現力が豊かになる、と言う指導者もいます。たしかにそういう面はあると私も思います。

でも逆に、音楽から受ける印象や表現を、必ずしも具体的な固定観念で限定してとらえる必要はないのではないか、という思いも一方にはあります。
何も考えないで、イメージももたずに無表情に演奏するという意味ではありません。必ずしも作曲者が意図して描いた世界と完全に一致していなくてもいい、という意味です。


それぞれのイメージの世界を旅すればいい

標題音楽でなくても、楽曲に副題があってもなくても、音楽から美しい風景を思い浮かべたりイメージの世界を膨らませることはとても大切です。なんのイメージももたないまま無表情に音符に書かれた音を並べても音楽とはいえません。

北欧フィンランドの作曲家シベリウスは、南イタリアを旅した時に見た水が生き生きと飛び跳ねる様子に感動して交響曲2番を構想したと言われています。
でも私はなぜかあの1楽章を聴いていると、ロンドン郊外のワイト島ののどかな牧草地、遠くに海の見える丘陵の風景が浮かんできます。あるいは、まだ行ったことのないロシア北部の遅い春、ラベンダーの花が咲き乱れる草原の風景が浮かんだりします。

ドヴォルザークの交響曲8番に話を戻しましょう。とくに私が大好きなのは第3楽章のむせび泣くような弦楽器の美しいメロディと、それを追いかけるピッチカート、そこに轟くようなティンパニのトレモロ・アクセント… 
チェコに行ったこと・住んだことのある人なら、ヴァルタヴァ(モルダウ)の流れる晩秋のプラハの街を思い浮かべるかもしれませんね。

でも同じ3楽章から、テムズ河の流れるロンドン、あるいはセーヌ川の流れるパリ、あるいは身近な多摩川の秋の夕暮れを思い浮かべてもちっとも悪くないと思うのです。


作曲家の人物像や作曲の経緯・背景を知ることはもちろん大切ですが、必ずしもそれに縛られることなく、いまの私たちなりに想像の世界を思い描くことは自由です。

逆に、今から何百年も前に作曲家自身が見た原風景と出会うことは難しいでしょう。
そこは我々に与えられた想像力を大いに働かせてタイムスリップの旅に出るもよし、現代に生きる我々が実際に出会ったどこか違う国の風景でもよし、もっと身近な風景と重ね合わせてイメージをふくらませてもいいのではないかと私は思うのです。

みなさんは、ドヴォルザークの交響曲8番から、どんな風景を思い描きますか?

★「私にとってのドヴォ8への思い」は別稿に移行しました。

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ドヴォルザーク交響曲8番

あけましておめでとうございます
この曲は私も好きです。順番をつければ9番の「新世界より」よりも、この8番や7番の方ををよく聴きます。また、ドヴォルザークは沢山の表題のついた管弦楽曲もありますが、これらも好きです。そのような次第でこの交響曲第8番はよく聴くのですが、演奏会で接したのはまだ一回限りなので見過ごしてしまい?なことがあります。この曲の最後に太鼓の音が一発はいりますが、これは大太鼓かティンパニか。たぶん大太鼓と思うのですが。そしてこの一発演奏者によって軽く入れる人とかなり強く入れる人があるのも面白いですね。楽譜にはどんな指定があるのでしょうか。たとえ楽譜があってもえも読めない残念な私です。
ところで、新年早々マーラーの7番を聴きにいきます。近年はマーラーにも嵌まっています。

追伸

書き忘れました。ジョージ・セルのCD探して聴いて見ます。

Re: ドヴォルザーク交響曲8番

ひもブレーキ様

明けましておめでとうございます
鉄道とクラシック音楽、いい組み合わせですね。今年もよろしくお願いいたします。

ドヴォルザーク8番の最後の一発ですが、この曲はティンパニだけで他の打楽器は入っていません。最後の一発のためだけにバスドラムを用意させるという例は、少なくとも私はまだ聞いたことがありません。
最終楽章のいちばん最後、ティンパニはほぼ叩きっぱなしの状態で、オーケストラ全体が「ダダダダダダダダダダダダ ダッダダン!」と決まります(ティンパニだけは「トレモロ~ダッダダン!」です)。
たまたまお聴きになった演奏で最後の一発だけが勃発してたのではないでしょうか…?

楽譜には、最後の打ち止めにとくにアクセント記号もありません。「ダッダダン」と均等に叩くか、頭をやや強く打つか、最後をやや強く打つか、それは解釈によって異なるところですね。



私は、主にベートーヴェンやモーツァルトなどの古典ものの時は、とくに指定のある場合を除いて、あまり最後の打ち止めだけが強くならないように気をつけています。最後に「どっこいしょ」とアクセントがつくと曲全体がダサくなってしまうんです(笑)。むしろ頭にちょっとアクセントを置いて入りをしっかり叩いたほうがオケ全体が引きしまって聞こえます。

もちろんベートーベンでも交響曲1番の最終楽章のように「タカタカターン」の最後の「ターン」にアクセント記号がついている場合は別です。また曲・場面によっては最後の打ち止めにアクセントをつけた方が決まる場合もあります。
でも「第九」の一楽章にたくさん出てくる「ダンダッダダン、ダンダッダダン」という音形(ティンパニだけでなく管楽器・弦楽器も)は、とくにアクセント記号はついていませんが、最後ではなくむしろ頭にアクセントを置いた方が理にかなっています。それをことごとく最後にアクセントを置いて「どっこいしょ!どっこいしょ!」と演奏しているようなオーケストラはあまり好みません(たいてい2流オケです…笑)。

このドヴォ8の場合どうでしょうね? 
1楽章の前半、アレグロに入って早々にティンパニが合いの手のように「ダカダン!」と入れるところが2箇所あります。あそこにはいずれも「<」と、後の方にクレッシェンドするように記されています。決めの打ち止めですね。
でもそれ以外は、トレモロの最後で一気に盛り上げていって次の頭に重きを置く、あるいは均等にひとつのまとまったリズムとして決める場面が多いですね。
そういう意味では、一番最後の「ダッダダン」も、私としては最後だけに突出したアクセントをつけることなく、“ひとかたまり”として均等に決めたい気がします。むしろ符点のついた短い音が軽く飛んでしまいがちになるので、そこに意識を置いてしっかりと。
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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