徒然なるままに 己を見る

歳とともに変わっていく自分、変わりたい自分、変えようと思う自分、でもなかなか変われない自分、いつまでも変わらないでいたい自分…

無常な中で変わるべきか・変わらざるべきか…、その答えはすべて自分自身の内にある。
徒然なるままに わが身を振り返って思うところを…



♪ 人からの評価や人気は、変動する株価のごとし

自分がやったことがたまたま成功して好評を博したり、上の立場にある人から評価されたりすると、周りの見る目も変わる。いわゆる「株が上がる」と言われる。

すると、近づいてくる人も多くなり、なにかと相談を受け、発言にも皆が耳を傾けてくれ、賛同も得られやすい反面、見えないところでやっかまれて疎まれるかもしれない。

逆に上の人に叱られたりぶつかり合って憎まれたりすると、直接利害はないはずの周りの目もとたんに手のひらを返したように変わる。その変動ぶりは時におそろしいほど早く、引き潮のごとく遠ざかっていく人もいる。

こちらも周りもしょせんは「人の子」。完璧な神様でもなければ、我欲を捨てて解脱した仏でもないし、閻魔大王のように真実のすべてを見通して完全な裁きをすることもできない。
それぞれの立場や都合がある。また周りの声や気分によっても影響も受け、言うことも時として変わることだってある。時としてよしとされたことも、あるときはダメと言われることもある。状況いかんいによっては180度変わることもある。決して永遠不滅の絶対的なものではない。


♪ 人に流されず、自分自身の信念を

組織やグループのために、よかれと思ってやったことも、時に周囲の反感をかったり上の人の逆鱗に触れることもある。 
逆に自分の信念もとくになく、その場その場を立ち回っていても、たまたま上の人と相性がよくて気に入られれば、上昇気流に乗った凧のように天高く舞い上がることもあり得る。

かくして、少しでも自分に有利な情報を発し、自分に有利に立ち居振る舞い、自分に都合のいい方に影響力のありそうな人に近づき、さまざまな条件とかけひきによって自分に有利な方向へと交渉事を導こうとする動きが活発になる。

いまの政治もまさにそこに終始しているといっても過言ではない。 国民の命・生活は話のダシに使われることはあっても、しょせんは政治家同士の政権争いの駆け引きの口実となっているのが実情ではなかろうか?

いや、それは政治の世界に限ったことではない。会社組織においても、学校や地域のコミュニティにおいても、趣味のサークルにおいても、およそ人が集まるところには全てそうした思惑がうずまき、常に人の目を意識しながら人は動こうとする。

しかしそれでは、人によく思われることしかやろうとしない人間ばかりになってしまう。
自分の信念をもってやるべきこと、やらなくてはいけないこと、進むべき道がある。間違っていたら間違っていた部分を素直に認めて正せばよい。


♪ 正しいつもりが人を傷つける

では自分は何を基準に行動し、どう生きるのか? どう生きたいのか?

わがままで軽率な振る舞いは嫌われて当然だが、自分が何らかの信念と責任感をもってやったことでも、時にそれが裏目に出て人を傷つけたり反感をかうことはしばしばある。

何もしなければそれも起こらない。自分が正しいと思い、なんらかの使命感に駆られて「なんとかしなくては!」と一生懸命になった時に「空回り」や「摩擦」も起こる。
ことに自分は正しいと思っている時ほど、死角で見えない部分があったり、人を傷つけやすかったりするものかもしれない。

当初の信念、自分がやろうとしていた意図そのものまでも否定して、「やらなきゃよかった」と思う必要はない。
ただそのプロセスにおいて、こちらの意図したことがちゃんと正しく相手に伝わらなかった、人を傷つけたり、反感をかってしまった、という面があるとすれば、そこをきちんと反省して今後に活かすべきだろう。

言い方など表現の仕方やタイミングに問題はなかったか?、相手の気持ちを踏みにじっていなかったか?、自分自身のそれまでの行い、ひいては心の内はどうだったか?…etc. 


♪ 過ちを認め、謝ることの大切さ

人はみなそれぞれに感情をもち、自分自身の立場や利害もある中で生きている。誰もみな一生懸命努力したことは認められたい。

こちらも人間、相手も人間。 なるべく相手の気持ちを考えて、こちらの態度や言い方ももちろん、こちらが腹の内で思っていた面も冷静に分析してみると、自分のわがままも見えてくる。 
ついつい芽生えてしまった勘違いや思い上がりがあったかもしれない。有頂天になって初心を忘れ、見失っていたことがあるかもしれない。

自分が知らず知らずのうちに周りに与えていた影響に気づけば、相手がこちらに対して抱いた感情や相手の対応も「ごもっとも」と思える。そこに気づいて、相手に申し訳なかったと思えるなら、そこはなるべく早く伝えたい。自分の内を明かして謝るのは勇気のいることだが、素直な気持ちは「生(なま)もの」。干からびないいうちにきちんと伝えたい。


♪ 謝る表現、受け止める表現

「いじめ」は決して許されることではないが、いじめられる側にも何らかの問題がある場合も多い。 外見や生い立ちなど、本人にすればどうすることもできない偏見による「いじめ」は加害者側が100%悪いが、いじめられる側に問題がある場合もある。
その人の言動が複数の人たちになんらかの不愉快さを与えたり、周りの好意を踏みにじったり裏切ったりして反感をかい、いじめにつながるケースも多々ある。

周りの人の態度に「あれ?」と感じたら、もしかして自分に何か問題がないかチェックしてみることが大切だ。そしてもし何か思い当たる節があったら、そこはちゃんと相手に伝えて謝ること。その大切さは子供にもよく伝えている。

しかし、謝るとかえって「やっぱりお前が悪かったんだな」と相手がつけ上がり、ますます意地悪されたり無視され、状況はかえって悪くなる…という話を聞くことがある。残念ながらそれは大人の社会にもしばしばあるかもしれない。

♪ 

たしかに、いくら謝ったからといってもそうそう簡単に「気づいてくれてありがとう、こちらこそ」とすぐに笑顔が戻るのはドラマの世界だけ。実際はなかなかむずかしい。

「今さら何を!」と思われるかもしれないし、謝られること自体が迷惑でうっとうしいかもしれない。また、いくら口先で謝っても行動が伴ってなければ信じてもらえない。それどころか、謝ってる割には変わってないこちらの言動がより一層目立ってしまうかもしれない。
心象はいったん与えてしまうと、何をやってもしょせん「偽善」だと思われて敬遠されるかもしれない。 

でも、だからといって自分を顧みることもせず、間違ったままゴリ押ししたり、自分をごまかして生きるのはよくないと思う。ときどき自分をしっかり振り返って、なにか非があれば認めて相手に謝るというのは、ちょっと勇気のいることだが大切なこと。

だから、もし誰かが反省して謝ってきてくれたら、まず謝ってきてくれたことに対して「ありがとう」と返したいと私は思っている。
謝られてもどう返して良いか分からず、そのまま無視してスルーしたり、触れたくない部分を避けて通ったり逃げてはいけないと思う。

それができないと、似たもの同士(と思える相手)と何事もなければ「仲良しごっこ」はできても、自分と違う人・立場・気持ちを理解してその先の人間関係を築いていくことは難しいだろう。

「謝る=自分の非を認めること=責任を問われる」、だから謝らない。謝る勇気がない。
一方せっかく謝ってきた相手に嫌悪感を抱いて無視して遠ざかる。…これは人間関係の危機につながるような気がする。



お互い過ちも犯すし、感情もある人間同士。謝られて「ありがとう」と思えるかもしれないし、「何を今さら!」という感情がわいてくるかもしれない。だが少なくとも相手のことを認め、ちゃんと受け止めることは大切だ。

謝ることは、相手の気持ちを思って詫びること。しかしそれをどう受け止めるかは相手の問題。相手が許してくれるかどうか、信頼を回復できるかどうかはあくまで結果である。
許してもらうために謝るのではない。大切なのは、自分自身の誤り・過ちを正して改めること、人の気持ちに気づくことだ。



♪ 無視して遠ざける(遠ざかる)のは簡単だが…

こちらの真意を分かってくれない人のことを「あいつはバカだから」「あいつはどうせ違う世界の人だから」…などと言って無視して片付けることは簡単だが、それでは成長はない。

誤解やすれ違いのプロセスを経ながらも、こちらも改めるべき点は改め、お互い認めるところは認め合って、新たに再構築されていく人間関係は必ずある。その機会をこちらから破壊してしまうのは愚かなことだ。

上下線ですれ違う列車をこちらの線路に乗せ換えて同じ方向に走らせることは無理なように、いまは自分とすれ違ってしまう人を直ちにこちらの思い通りに変えることはできるはずもない。
無理な要求を相手につきつける前に、自分が変わるべき点、変えられることがあるかどうかを見極める方が早道だろう。

「去る者は追わず」ということもまた真実。 しかし決して感情論で相手を嫌ったり無視して見捨てるのではなく、自分も改めるべき点は改めてこちらが成長をしていくしかない。思いやりの気持ちを大きくもって、時の流れを味方につけよう。


♪ 「自分はどうありたいのか?」の原点にかえって

人の気持ちを察し、相手の素晴らしい面は素直に認め、こちらが悪かったと思うことは素直に謝り、変えられることは変えようと努力する。
それでもまた相手に何か失礼なことを言ってしまったり、不快感を与えてしまうこともあるかもしれない。そこはまた素直に反省しながら進んでいけばよい。

人とぶつかったり誤解を受けることを恐れて、やるべきことを「やめとこう」にしてしまったり、本来の信念そのものを捨ててしまったり、考えることもやめてしまう…というのは本意ではない。
自分の信念に基づいて「正しい」と思うこと、「やらなくてはいけない」と思うこと、現状に対して「おかしい(=正すべきだ)」と感じること、心の底から「やりたい」と思うことは貫けば良い。いや、しっかり貫くべきである。 
 
自分自身をしっかりと見据えたうえで本当にやるべきことは、周りからどう思わようと気にすることなく貫くべきだ。謙虚に、かつ毅然とした態度で。

それが自分のやってきたこと、抱いてきた信念に対する責任ではないだろうか

人の言うことに耳を貸さない単なるワガママな「頑固」と、謙虚さを兼ね備えた「信念」とは別のものだと思う。



<おことわり>

生意気に長々と申し訳ありません。
とくに何か個別の事例について書いたつもりはありません。
このカテゴリ「★己を見つめる」は、私のこれまで振り返って感じる、あくまで一般論としての雑感です。
なおこの記事はまだ書きかけです。一部手直しすることもありますが、ご了承ください。


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No title

こんにちは。

ししゃもから、ずいぶん話の内容が変わりましたね。
( あの女性はししゃもの匂いが気にならないのか、不思議でした。)

第一楽章さま、最近何かありましたか?

このお話は私のこと?を書かれたような気もしました。
第一楽章さまは私とかなり似たタイプなのかもしません。
同じ考え方です。
同じような目にあい、同じように対処しているように感じました。
根本にあるものが同じなのですね。
最近、根本にあるものが同じでも、別のほうに考えて同じように行動する人に出会いました。
根本にあるものが同じであれば、結果は同じでしょうか・・・

自分の信念を貫くこと、これはやめることはできませんね。
どんなに打たれても。
でも、この信念は必ず伝わるとも思っています。時間はかかりますけど。
これが間違っていたら、腹を切る、そんな感じでいます。
むしろなぜ、信念を持たない人がいるのか?と疑問にすら感じるこの頃です。

Re: リーさま

コメ返信がすっかり遅くなりました!

いえ、とくに何かあったわけではなく、あくまで「一般論」です。
ただ、フェイスブックで最近たまたま目にした知人の記事にからめて、また私自身の身の回りを振り返って…今まで思ってきたことをあらためて綴ったまでです。

「価値観は人それぞれ」という話から、「素直さ」「謙虚さ」と「信念」と、そして「謝ること」とそれに対する「反応」と…読み返してみるとあちこち話が広がってしまってとりとめなくなってますね。

でも、たしかにりーさんの記事を拝見していても、周りとご自身との間の葛藤のようなものと真面目に向き合ってらっしゃるように感じます。価値観が似ているとおっしゃっていただけて嬉しです。
でも、なかなか自分自身は変われないし、お互い感情もあるから難しいんですけどね。
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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