京都でまたしても暴走車が子どもの列に…

週末に夢のある工作記事を書いたばかりだが、月曜日の朝、またしても心の痛む事件が起きてしまった。

祇園で起きた車の暴走事件もまだ記憶に新しい京都で、またしても登校途中の子供の列に暴走車が突っ込み、大人・子供の死傷者が出てしまったのだ。
運転していたのは18歳の少年。無免許運転で、一晩中ドライブした末のいねむり運転だったとか! 

善良なドライバーが十分気をつけて運転していても、一瞬の不注意やうっかりミスによって車は“走る凶器”と化す。

東日本大震災のあと日本中で「命の大切さ」が叫ばれている中、社会的自覚も責任も欠如しているとしか思えない輩が、車を走る凶器とするおかしな“事件”(=あえて事故とは呼びたくない)が後を絶たない! もういい加減にしてほしい!


業務上過失(致死・傷害)罪

かつては自動車の運転による“事故”はすべて「業務上過失」で起訴されていた。
「業務上」というのは、決して「業務(仕事)として運転していて」という意味ではない。危険なもの(車)を扱う立場にある者は、歩行者などの一般の人よりも重い注意義務がある、という意味である。
ちなみに、河原や公園でラジコンのヘリコプターを(遊びで)飛ばしていて、うっかり墜落させて人を怪我させた場合も「業務上過失」にあたる。


自動車運転過失(致死・傷害)罪

無免許運転・酒気帯び運転・スピード違反など悪質な運転による悲惨な被害は後を絶たない。しかし「業務上過失~」で課すことのできる刑は最高で5年。「あまりにも軽すぎる!」という声が被害者の遺族、社会全体から高まっていた。

しかしもともと「業務上過失~」は、本来は十分な注意を払っていたにもかかわらず起きてしまった事故を対象とするためのもの。その罪だけを極端に重くし過ぎるのは他の刑法とのバランスの問題もある。

そこで、通常の「業務上過失~」よりも重く罰することのできる「自動車運転過失~」という法律が2007年に施行されたのだ。
もっともこの法律を適用しても、被害の状況や情状などを酌量して刑を軽減することもできるので、適用範囲が広がったと見てよい。

今回の18歳の少年も、この「自動車運転過失致死傷罪」で逮捕されている。
しかしかつての「業務上過失~」より重い刑を課すことが可能となったとはいえ、最高7年である。 
またここまで見た2つはいずれも「過失」、すなわち「相当の注意はしていたけれども、ついうっかり、間違って」ということが大前提である。 しかしもっと悪質で危険な運転に対しては…


危険運転致死傷罪

これも同じく2007年に新たに生まれた法律である。
「飲酒運転やスピード違反などの“危険な運転”を繰り返す者は厳しく罰することができるように」というのがそもそもの立法趣旨だったはずだが、国会で成立して蓋をあけてみたら終わりに「致死傷罪」というのが付いていた。危険な運転行為そのものを罰するのではなく、結果として重大な被害が生じてからでないと適用されないのだ。

しかも、今の日本の裁判所はめったにこれを適用しようとしない。それに合わせるかのように、検察も警察も避けて通るかのようにこの罪で起訴することをためらう。



もと福岡市職員だったI 氏が、酒を飲んだ上100キロ近い速度で一般道を“暴走”し、橋の上でワゴン車に激突、転落したワゴン車の子供たちが尊い犠牲となった。
しかし、一審の福岡地裁はI被告を「危険運転致死傷罪」とは認めなかった。I氏はそれまでも酒を飲んで運転することを常習としていたことも分かっている。しかし「事故を起こす直前も100キロ近い速度で狭い路地を運転しており、必ずしも『正常な運転が困難な状況』だったとは言えない」ということを理由に危険運転致死傷罪を認めなかったのだ。

「飲酒などによって正常な運転が困難な状態で」という部分を、「酒を飲んで、なおかつ正常な運転ができない状態で」と、なぜ2つの条件をダブルで満たさなくてはいけないような解釈をしなくてはならないのか?

「酒を飲んだら正常な運転はできない」のである。それはすでに医学的にも科学的にも立証されているはず。 
勝田にある安全運転センターで実際にビールを何杯か飲んだ被験者に運転させて反応テストなどを行った結果、判断・反応が遅れたり、行動選択に誤りが出るなど「正常な運転はできない」ということは立証され、テレビ番組でも紹介されている。

「飲酒などによって」という語句は、「正常な運転ができない状況」を作り出すひとつの例として修飾語句として頭についている、と解釈すべきだろう。
なぜそれを「酒を飲んで、なおかつ正常な運転が困難な状態で」と、2つの条件をダブルで満たさなくてはいけないような珍解釈をし、さらに「時速100キロ近いスピードで狭い路上を運転してきており、正常な運転が困難だったとは必ずしも言えない」などと変ちくりんな解釈をして、『危険運転』を否定しなくてはいけないのか?

そもそも飲酒運転を常習化し、事故当日も100キロ近い速度で狭い路上を運転してきた行為そのものを「危険運転」と呼ばずしてどうするのか? これ以上のどんな悪質な運転を「危険運転」と呼べばよいのだろうか?

しかも控訴審では高等裁判所の判事が、原告側に対して「危険運転致死傷罪で訴えても成立しない可能性が高いから、むしろ『わき見運転』で起訴した方が重い刑を科すことが可能」という異例の『助言』をしたというから、笑ってしまう。

福岡のI 被告はその後の最高裁でようやく「危険運転致死傷罪」が適用され、懲役20年の判決を受けるに至った。

しかしそれにしても、あとを絶たない『悪』を厳しく罰するために生まれたはずの新しい法律が、まるで「伝家の宝刀」のごとく「抜いてはならないお飾り」になっている感は否めない。 
せっかくの立法の趣旨が、司法(法の運用)の段階で効果を発していないということだ。

「これを危険運転と呼ばずして、いったいどこまでやれば『危険運転』と認めるのか!?」という被害者の悲痛な叫びが全国には数知れずあると聞く。


いっそ「殺人罪」も視野に

無免許で車を運転する、酒を飲んで運転する、道路環境を無視して暴走する…etc.
ちょっと考える頭のある人間なら、それがどういう結果を生み出すかもしれないかは充分予知できるはずである。

にもかかわらず危険な運転行為をするのは、もはや「過失」ではない!

ある特定の人間を「殺してやりたい」と思うような具体的・積極的な「殺意」ではないが、『未必の故意』=「これをやったら人が死ぬかもしれないな」「でも、まあいいか」…があったということだ。
そして結果として人を死に至らしめたのであれば、「殺人罪」で起訴することも十分可能なはずだと私は以前から思っている。

新しい法律を作るのもいいが、「法律が厳しくなった。酒を飲んで運転していたらまずい、捕まったらやばい」ということはバカでも知るところとなった。それも影響してか、悪質なひき逃げが以前よりも増える傾向にあるように感じる。

ひき逃げ犯の多くが口にする「怖くなって逃げた」というのも、社会性・責任感に欠ける無責任きわまりない行為だ。「このまま放置したら死ぬかもしれない」と思いつつ放置して逃げたということ自体、未必の故意があったことになる。

ちなみに殺人罪の量刑は、死刑 、または無期懲役(日本の場合、判決の段階で「刑期を定めない」という意味であって、いわゆる『終身刑』ではない) 、もしくは5年以上の有期懲役である。きわめて広い選択肢の中から罪状によって判決が下されるのである。

2年前に大阪で起きたひき逃げ事件。被害者の会社員がボンネットに乗った(フェンダー部分に挟まれていた?)状態のまま3キロにもわたってジグザグ運転を繰り返し、振り落として死亡させた運転手を、大阪府警は「殺人罪」で逮捕・起訴した。車にからむ“事件”で当初から「殺人罪」で逮捕・起訴したのは、私の記憶ではそれが初めてで画期的なことだと思った。

いずれにせよ、人の命を何とも思わない悪質な『危険運転』の背景には、人間としての道徳・社会的モラル・責任感の欠如という大問題があることは間違いない。
車の運転だけを特別視した「自動車運転過失」に縛られることなく、場合によっては「殺人罪」も視野に入れた毅然とした対応が望まれる。



~「未必の故意」とは~

「未必の故意」という法律用語が新聞記事に登場してにわかに有名になったのは、80年代前半に新宿西口のデパートから飛び降り自殺があり、下を歩いていた歩行者も巻き添えになった事件の時である。

この事件に先駆け、70年代ごろから爆破事件や通り魔事件など、特定の人を狙った殺人ではなく無差別殺人事件が急増した。また深川の通り魔事件・新宿駅西口バスターミナルでのバス放火事件など、加害者が薬物中毒や精神耗弱状態だったために責任能力の有無が問われ、結果として無罪になる事例も多発。
  
そのような犯罪に巻き込まれた被害者を国が救済すべく、「犯罪による被害者救済給付金制度」を立案。国会でも可決成立して施行された(1980年)。

その法律の適用を巡って注目されたのが、先に書いたデパートからの飛び降り事件である。
下を歩いていて巻き添えで死亡した人をこの「被害者救済制度」で救うべく、東京地裁は次のような判断をしたのである。
昼中人通りの多い場所で飛び降りたら、当然ながら下にいる人を巻き添えにすることは予見できたはずである。にもかかわらず飛び降りたという行為は、「人が死ぬかもしれない、でもまあいいや」という“未必の故意”があったといえる。 よって自殺者にはちょっと厳しい見方ながら「殺人罪」を適用することによって、巻き添えになった人を「犯罪による被害者」と認定し、被害者救済制度を適用したのである。

つまり、「人が死ぬかもしれないが、かまわない」という“未必の故意”があり、その結果人を死に至らしめた場合「殺人罪」に問える、という判例ができたわけである。

危険な運転を繰り返す悪質な行為、あるいは被害者を保護せずに放置するひき逃げ事件などには、「殺人罪」も視野に入れて厳しく対処すべきではないかと私は思う。


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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