内観は宗教?

Q.内観は何かの宗教(教理)ではないですか?


人の心の問題に触れるテーマなので、どこか宗教的な雰囲気をお感じになる方もいらっしゃるかもしれませんね。
でも「内観」という作業そのものは、なんら特定の宗教とは関係ありません。

またついでに申し上げると、心理学精神分析にも通じるような要素があり、「心理療法のひとつでしょうか?」という質問もあり得るでしょう。
なんらかの原因でおちいった心の病いを救い、悩みの原点を解決するという意味から、カウンセリングの一環としてこれを応用する先生がいらしても不思議ではありませんが、医師がとくに「治療」を目的に行うというよりも、あくまで本人の考え方で発見するだけのことですから、とくに「療法」とは言い難いのではないでしょうか?
 
あるいは「教育」にも密接に関係しているようにも捉えられるかもしれませんね。何かのカリキュラムに組まれたり、自己啓発の場に応用することも充分あり得るでしょう。



いずれにしても、「自分を見つめる」「己を知る」ということはあらゆる原点です。
そういう意味では、宗教の観点からも、ある教理を説くためのプロセスとして、基本理念の中に内観のような発想を取り入れていても不思議はありません。
 
たとえば「幸福の科学」という割と新しい宗教があり、とかくストレスの多い現代社会において「幸せ」について考え、若い人にも共感を与えているようですが、その出発点にまさにこの「内観」の原理が説明に用いられています。
 
そのため、「内観」の説明を聞いて「あ、それって『幸福の科学』でしょ?」と勘違いされる方もいらっしゃるようですが、内観そのものは決して特定の宗教をすすめるものではありませんから、寄付を集めたり、集会に参加したり、組織への所属を強要するようなことは一切ありません。

あくまで「内観」は単純な「自分を見つめる作業」のひとつの方法にすぎないのです。

「まずは己を知る」、それはいつの時代も人が向き合うべき心の原点でした。古今東西のあらゆる宗教がめざしてきた「人としての生き方」にも通じます。ですから、特定の宗教でなく、広く一般的に相通じるものが根底にあっても不思議ではありません。でも内観という作業そのものは宗教ではありません。

「内観」もまだいまのスタイルが確立される前は、「親」「母」「自己」…などといった紙を貼られた個室にこもって自分史を振り返る…といった時期もあったようですね。でもそれだと、どういう思考回路で何をどう思い出せば自分を見つめることになるのかがわかりづらかったでしょう。
先人たちの模索の後、これまで私が説明してきたような3つのテーマで時代を区切りながら自分を調べていく、という方法を確立されたのが吉本伊信先生の「吉本式内観法」です。
吉本先生は残念ながらもう他界されてしまいましたが、私は学生時代に奈良の大和郡山の研修所にお邪魔して、吉本先生の面接のもとに1週間の集中内観を受けさせていただきました。

この方法は、NHKをはじめマスコミも何度か取材に訪れたほか、世界の研究者の目にも止まっていたようです。
中には、親を敬い感謝するという発想から、東洋の儒教の教えに近いものを感じた方もいらっしゃるようです。でも内観は「親を敬え」ということは決して強要していません。単純に「親の眼を借りて自分自身を見る」作業にほかならず、結果として親への感謝の気持がわいてくることはあるでしょうが、「感謝しなくてはいけない」という教理や強制は内観そのものにはありません。
 

◆ 世界のあらゆる宗教の枠を超えて

この内観の発想は、親を敬う儒教の教えにも通じるやや東洋的なものではないか、ととらえる学者もいたようですが、私がかつて在籍していた大学のゼミの先生は、ドイツをはじめ外国からやってくる精神分析医や法学者などにも内観を体験していただいた結果、洋の東西に関係なく「人間としての原点」を見つめるのに役立つことが実証され、内観を研究する輪も世界に広がっています。

西洋文明の基本には当然ながらキリスト教があります。キリスト教そのものも、かつてのユダヤ教から預言者の時代・旧約聖書の時代を経て、やがてキリストが神の子としてこの世に生まれ(クリスマス)、救い主となって罪人である人間の身代りとなって十字架にかけられ、復活し…となるわけですね。

キリストの12人の弟子の中にペテロという人物がいますが、キリストが十字架にかけられる前に、「あなたは朝ニワトリが鳴く前に3度私のことを『知らない』と言うだろう」とキリストに預言されます。

「まさか私はそんな裏切りはしません」と誓っていたペテロも、実際にキリストを捉えて処刑しようとする人から問いつめられると「知らない」と言いつづけます。「いや、あの人と一緒にいるとこを見た」と言われてもまだ「知らない」と言い、ついに3度目に「いや本当に知らない」と言った瞬間、朝を告げるニワトリが鳴くのです。するとペテロも泣き崩れた、という話があります。

あるキリスト教者が内観をされて、このペテロの涙こそ、まさしく内観をして本当の自分自身を知った涙、懺悔(ざんげ)の涙だと実感されたそうです。
人間というものは罪深く弱いものだ、ということを、一般論や他人の出来事として頭で理解するのではなく、まさに自分自身の心のステージで起こった出来事として実感する、それが懺悔なのです。懺悔というと、一見悲しくて暗い面にも見えますが、その原点がなかったらおそらくその後のペテロの福音もなかったとも言えるかもしれません。



地球上のあらゆる宗教も、人間が自分の力だけを過信しておごり高ぶった生き方をして、自分たちとは違う人間を排斥し、人と人とが恨み憎しみ合い、殺し合うことを称賛するような宗教は存在しません。

にもかかわらず、宗教をめぐって思想を異にする民族同士の紛争は絶えることがありません。それは宗教がいけないのではなく、自分たちとは違う思想や民族を排除しようとしたり、誰が一番すぐれているかを競いたくなる、すべて人間の心の中に潜む災いが争いを起こすのです。

以前、9.11同時多発テロを受けて、アメリカの牧師ら多くの人々がイスラム教のコーラン(経典)を燃やしましたが、イスラム教の教えの中にテロの手ほどきなどは書かれていません。

たまたまテロを起こしたのがイスラム原理主義のメンバーだったため、アラブ世界の人たちを警戒し憎むアメリカ人の気持ちも分からないではありませんが、もとはといえばイラン・イラク戦争をはじめアラブの世界に介入していったアメリカに対する反感がテロを引き起こす根底の原因だったのではないでしょうか?
民族同士が、宗教や思想を盾にとって争うというのは本末転倒、じつに愚かなことです。

あらゆる民族が信じる神、日本の八百万(やおよろず)の神でも、とにかく人間が恐れ敬意をもって接する「神」、あるいは人間の力の及ばない大自然の力…。それらを通じて、われわれ人間は「自分だけの眼」だけではない、何かもっと大きな存在を通じて、それこそ内観に近い目で自分自身を見ることができるのではないでしょうか?

くりかえしますが、内観そのものは決して宗教ではありません。

でもある意味、人間が「自分の目から見える世界」だけを信じて、それだけを基準に行動するのではなく、神様の目や宇宙の営みを通じて、もっと大きな別の視点から自分自身を見つめてみる…ということがさまざまな宗教の根本にはあるように思います。
いいかえれば、あらゆる宗教の形や枠を超えて、そのもっとも根本にある発想が「内観」に近いとも言えるでしょう。


阿修羅のごとく…?

ところで「阿修羅」ってご存知でしょうか?
小中学校の教科書にも写真が出ていた、奈良の興福寺の阿修羅像が有名です。

最近、阿修羅像の魅力に魅かれ、ミニチュアの阿修羅像を集めたりわざわざ実物を見に京都や奈良を訪れる若い女性がいて、「アシュラー」なんて呼ばれてるそうですね。

もともと阿修羅(あしゅら)とは、ペルシャの最高神「アスラ」がインドに渡ったともいわれますが、サンスクリッド語で「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で「命を与える神」とする説もあるようです。

でも、区切りをちょっと変えてみると、「a」が否定で、「sura」が「天」、つまり「天でない」という意味になるそうです。天界に入ることのできない「阿修羅」は、憎しみ・ねたみ・争いの象徴。あの「寅さん」の舞台・柴又にいらっしゃる「帝釈天」といつも戦い、いつも負ける存在なんだそうです。

そういうことから、憎しみ・ねたみの絶えない壮絶な争いのことを「修羅場」というんですね。 素晴らしい力を発揮してくれる神や仏も、恐ろしい鬼も、じつは私たち人間の心の中に存在しているものなのかもしれませんね。



私も大学時代にゼミ活動の一環として1週間こもって内観を体験させていただきました。
でも内観をちょっとやったからといって、ちっとも変っていない、相変わらずのワガママで親不孝な自分がそこにいるわけです。それが私自身の本質なのです。そういうことに気づかされるのです。

でも、ふとそんな思いを巡らしているときは、今の自分の抱えている目先の問題・心の悩み、自分がもっと認められたいとか、もっと愛されてもいいはずなのに、あの人と比べてどっちが…といった阿修羅のような心の病いたちも、しばし暴れることを抑えておとなしくしていてくれるようです。

私は仏教徒ではありませんが、たとえどんな宗教であれ、どんな神様を信じようが信じまいが、悩みや苦しみの根本は自分自身の心の中にあり、それが暴れないように何か別の目を向けてみる…そこが自らの心と向き合う原点であることだけはたしかなような気がします。

                      <高木章 09年6月~の散文・稚文より>


★ここまでの6連の記事は、過去にそれぞれ異なる時期に書き留めてあったものを元にリライトしました。そのため文体が異なり、重複する内容もあります。

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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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