内観 Q&A

人間は頭のいい生き物です。ほかの動物の中には、生まれてすぐに歩けたり自分でエサを食べられるものもいます。なのに、人間は他の動物よりもはるかに長い、10か月もの期間母親の胎内にいながら、生まれてすぐには自分で立つことさえできません。10ヶ月もの長い間胎内にいて、いったい何をしてるんでしょう?…それは脳を作るのに大変な時間をかけていたんです。

かくして人間は、ついつい余計なことを考えてしまうのかも知れません。「これをやったらどうなるの?」「どういう効果があるの?」と。

単純にたった3つのテーマで考える「内観」でも、そこにどんな意味があるのか?、とつい考えてしまいます。
自分が思っていた以上に、親にいろいろと世話になり、迷惑をかけてきた、という事実と向き合うことで、かえって落ち込むんじゃないか?
自分の過去と向き合い、自分の影の部分やマイナス面をさらけ出すことで、いったいどうなるんだろう、といった不安や疑問もいろいろと出てくることでしょう。

そこで、よくある質問をもとに、Q&A風に…


Q. 自分は人に迷惑をかけないように頑張ってきた。なのに、迷惑をかけてきたことを探して見つかってしまったら、ショックで立ち直れなくなって落ち込むんじゃないの?

A. たしかに、ある意味ショックかもしれませんね。こと「迷惑をかけないように」頑張って生きてこられた方というのは、ある意味とても真面目で誠実な方なのでしょう。

でも、「迷惑をかけないように、頑張って」生きてこられた結果、何らかのストレスがたまり、おかしくなったとすれば、かえって事実を事実として受け入れることができた方が自然体になれるはず。
前にも書いたように、人間は生きている以上、親をはじめ色んな人のお世話になり、迷惑も当然かけてきたはず…という大前提にたって、まずはその事実を素直な気持ちで見つめませんか?

事実を事実として認めず、見ないようにしてきたから、それを見るのが怖い、ということが多いのです。まるでドラキュラが太陽の光を怖がるように。
でも、そうやって事実を見ないで、頑張ってきた、ということは、自分が受けてきた愛を見失っている、見ようとしていないということではありませんか?だから怖いのです。心の中のドラキュラがそうさせているのです。

相手からしていただいたことや、相手に迷惑をかけてきたこと(=許されてきたこと)を重ね合わせ、「愛されていた事実」に気付いて余計な力が抜けたとき、それが「不幸」や「落ち込み」の原因になると思いますか?
むしろ、そういう事実から目をそむけ、あるいは忘れ去り、封印し、考えないようにしてきたことで、愛されてきた事実を見失い、ひいては自分自身を見失ってきた、とすれば…?
 
自分が人からどう見えているか、人からどう思われているかを知らされるのは怖いですね。
でも、自分自身が人との関係を客観的に正しく見ることが少しでもできれば、その怖さは軽減されるはずです。想像で思っているよりも、事実を事実として見つめることは怖いことでもなんでもないはずです。
 

Q,何のためですか?どうしてそういう面を見て、自分と向き合わなければいけないんですか?

A.その目的は人それぞれ違います。私の場合は、大学のゼミでたまたま犯罪学を専攻していて、「人間」に、ひいては「自分を見つめる」というテーマに単に興味があったからやってみたのです。
でも中には自殺願望があったから、登校拒否や問題行動、あるいは人間関係に疲れて…など、さまざまな理由で壁にぶつかり、どこかで内観のことを聞いて研修を受けに来られた方もいらっしゃいました。
あるいは、忙しい毎日の中で自分自身の原点に帰りたい、あるいは人生の節目で自分を見つめ、今までの自分と向き合い、これから進むべき道について考えるために、という方も大勢いらっしゃいます。

「なぜ?」「何のために?」は人それぞれ違います。ソクラテスも「何をするにも、まずは己を知れ」と言っています。自分の原点にかえって、今までの自分ときちんと向き合い、自分自身について正しく知る…それは、目的はどうであれ、とても大切なことではないでしょうか?


Q.私は自分の親に対してあまり感謝したくありません。親にいろいろ問題があり、私にとっていい親だったとはお世辞にも言えないからです。それに親が子のために 最低限の世話をするのは当然の義務でしょう。
なのに、親に「していただいたこと」を探して、わざわざ「感謝」しなければいけないのでしょうか?


A.前にも書いたとおり、何のために自分を見つめるのか、その目的は人それぞれ違いますし、必ずしも親に感謝しなければいけない、ということが目的ではありません。
  
たしかに親や家庭に問題があり、暴力を振るわれたことが大きなトラウマとなってしまっている気の毒な方もいらっしゃいます。そういう方にとっては、親から多大な迷惑をかけられたことが巨大な怪物のように過去の中にドカッと居座っていて、とても開けてみることなんかできないと思われてるのかもしれません。

でも、あなた自身がまずそういうトラウマに支配されている状態から脱することが必要です。そこは親の問題ではなくあなた自身の問題です。そして、巨大に膨れ上がった怪物しか見えていなかった足元にも、なにか小さな花が咲いていたかもしれません。

こんな例を聞いたことがあります。 

ある方のお父さんはひどいアル中で、家庭内では暴力も振るう、とんでもないお父さんでした。子どもの頃から父親が帰ってくるとおびえていました。だから大きくなってからもお父さんのことを思い出すのはいやで、幼いころの記憶の中からもお父さんに関する記憶を消すように生きてきました。

でも内観によって、小学校の運動会にお父さんが来てくれて「がんばれ!」と応援してくれていたことを思い出します。
ふつうのお父さん、アル中でないお父さんだったら、それぐらいのことは当たり前ですね。でも、そのお父さんは「アル中だったにもかかわらず」来てくれたんです。そのことに気づいたんですね。

それから急に、幼いころお父さんに肩ぐるましてもらったことや、一緒に遊んでもらったことなど、今まで見ないように思い出さないようにずっと封印してきたお父さんとの出来事が走馬灯のように浮かんできたそうです。
お父さんの問題は問題としてあるにせよ、その子にとっての「お父さん」とあらためて再会することができたのですね。

許す・許さないはともかく、まず事実を事実として見つめることができたことで、父親への恐怖は消えたそうです。そしてやがて、お父さんにはお父さんの苦しみがあり、悩んでたこともあったんだなとも思えるようになったそうです。
 

Q. 内観をすることで、人はどんな風に変わりますか?

A.これも人それぞれです。映画を1本見ても、音楽を1曲聴いても、その感じ方や表現は人それぞれ違うように。

ただ一般的に、皆さん“あるがままの自分”と向き合い、余計な力が抜け、明るく元気になります。今まで「愛されてない」と不満に思い、自暴自棄と恨みの中をさまよってこられた方が、「愛されてきた事実」をたくさん発見し、自分の感情や都合からだけでは気付かなかった幸せに気づく…。

それを「幸せの落ち穂拾い」という表現でおっしゃった先生がいます。恨みが消え、自己否定が和らぎ、熱い涙を流される方も多いです。それは決して悔し涙じゃない、悲しい涙でもない、温かい「気づき」の涙なのです。

心の病のほとんどは、解決の糸口が見つかって治ってしまうことが多いようです。
自分が迷惑をかけたことや、していただいたことを発見したことで、かえって落ち込んで暗くなったり、身心の具合が悪くなった…という例は今まで聞いたことがありません。
自分の本当の姿を見て落ち込むことよりも、受けてきた幸せ・生かされてきたことの実感の方がはるかに大きかった、ということではないでしょうか。
あるいは、今まで見ないようにしてきたことに目を向けることができた、気づいたという喜び・安心・解放感のような部分も大きいのかも知れません。

また、人の心というのは、ある意味とてもわがままなもの。自分が今まで気付かなかった自分自身にちょっとショックを受けることはあるにせよ、そうそう簡単に我(エゴ)はなくなったりはしませんから、大丈夫なんです(笑)。
自分の本当の姿を垣間見て一時的にショックを受けるとすれば、それはむしろ、どこかで自分をよく見せたい・崩されたくないと思う、まだ心の中に潜んでいる鬼が、行き場所を失いかけてもがき苦しんでいるのかも知れません。

ちょっと話はそれますが、実際にあったケースでこんな話があります。

自分は1週間すごくいい内観ができて、嬉しい気持ちになれて身も心も晴ればれとした。しかし、座談会に出て、他の人の体験談を聞いていたら、自分よりももっと深い内観をされたように見える人がいた。
前科6犯だった犯罪者が内観によって素晴らしい自己発見をし、立ち直るどころか、今では人を教え導くほどの講演をなさっています。また薬物中毒から立ち直った方もいらっしゃいます。
そういう人たちの内観体験からすれば、凡人の自分が内観で得たものなんて大したものじゃないように思えてきたんですね。いっそ自分が前科6犯の犯罪者か薬物中毒だったら、もっと深い内観ができて、劇的な変化を味わえたのに…と。笑ってはいけません。ご本人は大まじめで深刻なんです。

でも、人はとかくこのようにどんなことでも他人と自分とを比べながら「幸せ」だの「不幸」だのを測りがちです。かえって前科6犯の犯罪者だった人や薬物中毒だった人の方が、より大きな果実を手にしたように見えて、羨ましくなるわけです。人と比較して、自分の得たものが大きいか小さいかで一喜一憂し、それがまた「不幸」の原因になり…。

人の心というのは、こんなにもコロコロと変わるからココロというのだそうです。それほどに曖昧で弱いものなのかも知れませんね。


Q.人格者になれますか?

これ、実はとっても困る質問なんです。よく内観をやったことがあるとか、内観のことを口にすると、なにか特別の人格者でなくてはいけないような過大な期待をされたりします。「内観をやってもその程度の人格?だから内観なんてうさん臭いんだ」などと…(笑)。

とくに身内からご覧になればしょせんその程度の人格で申し訳ありません(笑)。
でも、大いなる誤解がひとつあります。

べつに立派な人格者になることを目的に内観をやる訳ではありません。また内観をちょっとやったからといって人間の欲やワガママや怒りがそうそう簡単に消えるわけもありません。内観にそんな特効薬のような力を期待されても困ります。

あくまで本人の心の問題として、ある時ふと自分を冷静に見つめ、感謝の気持ちを思い起こせるすべを知っているかどうか? 
内観(=真実の自分)を知らないまま(感謝の気持ちを持てないまま)生きていくのと比べたら、そこは大きいと思いますよ。


腹がたったり人を憎んだりすることがなくなり、欲がなくなり、仙人のようになるわけではありません。
むしろ自分が生かされていることや与えられていることを粗末にしたり、やろうと思えばできることをいつまでもやらなかったり、時間を無駄に過ごしたり、自分勝手に人のものを奪う卑劣な行為・犯罪などに対しては「許せない」という感情は強く働くようになります。

柔らかくなる部分と強くなる部分、それは人によって異なるでしょうが、物事の本質をしっかり見つめたいと思う願望は強くなり、感情にメリハリが出てくるような気がします。

(下の記事につづく)
→ 内観は宗教? (完)


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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