終戦の日に思う<追記>

追記 (9月17日)

この「植民地=侵略ではない」という論理そのものが、統治する側の理論であるということです。
100のうち99が悪いことで、わずか1だけ「いいこともやった」と言っているようなもの。

はい、私もその点は充分そう認識しています。日本がアジアの国々に行ってきたことは、言葉はどうであれ「侵略」なんですね。
そこを「植民地=侵略ではない」などと言っては、侵略者の都合のいい解釈・言い訳と言われても仕方ありませんので撤回させてください(政治家ではないのでお許しを)。

ただ、この記事で私が言わんとする意図を汲んで拍手やコメントくださった方、およびモンゴルでのお話しを聞かせてくださったM先生は私にとってこのテーマへの「救い」であったことは確かです。この記事ごと誤解を生むから全削除とはせずにあえて残させていただきますが、その辺りを充分お含みの上お読みください。


◆「救い」を求めて

国境を越えて人々が移り住み、統治したりされたりする関係は、長い歴史の中で地球上のさまざまな場所で繰り広げられてきました。

その中でも、相手国の人命・文化を踏みにじらないで共存共栄できる統治もあり得たのではないか? 
融合と友愛の関係を築けるような道・方法もゼロではなかったはずなのに…、という思いがあるのです。

その例として出そうとしたのがオーストラリアなどの国旗の一部にイギリス国旗が掲げられていることだったわけですが、統治した側(イギリス人)がその地に移り住み、新天地で国家を築いたからなんですね。

アメリカやカナダなどもそうですが、もともとその「新天地」に古くから住んでいたのに追い出された先住民族がいたのです。 したがって、単純にオーストラリアやニュージーランドの国旗を引き合いに  「その統治は素晴らしかった」ということはできません。

あと、統治の中でインフラ整備や経済・技術面などで「いいこともやったはず」というのも、こちらが口にした瞬間に侵略者の都合のよい論理になってしまうということです。

先方がそういう面もあったと受け止めてくれてはじめて、侵略の悲しい歴史を反省する中でわずかながら救い”になれれば、というレベルの話として胸の内にしまっておいた方がいいでしょう。



技術援助・協力と「侵略」は全く別のこと

産業・技術・経済の進んだ国が、まだ発展途上の国に行ってそこで工場を建て、学校や病院を作り、その土地の発展に寄与しつつ、その国の豊かな国土や資源を分けていただく…
そういう発想ならば、今日のNGOの技術援助、経済支援にも近い形となるはずです。
さらに民族・国境を越えて人々の文化が交流し融合することもあるでしょう。たとえば、かつてスペイン領だったメキシコや南米のアルゼンチンにラテン音楽が伝わり融合しているように。


*台湾のダム建設


私の母方の祖父は建築土木の仕事をしていて、昭和初期に台湾でダム建設に携わったと聞いています。
私の亡き母は昭和5年生まれ、その母がまだ10歳にもならない幼少の頃ですから、まだ太平洋戦争に突入する前の話ですね。

台湾は日本の九州ぐらいの大きさの島国ですが、そのほぼ中央、台中から花蓮(ファレン)にかけてはまだまだ未開の地で、アミ族という少数民族が住んでいました。彼らと一緒に仲良く撮ったセピア色の集合写真が今も古いアルバムに残っています。

台湾はダム以外にも、鉄道の技術も日本から導入しました。台湾を旅したことのある人で鉄道にちょっと興味のある方ならすぐ気づかれると思いますが、左側通行(日本と同じイギリス方式)で、駅員の制服も、信号機や線路の保安設備の形・色も、日本の国鉄時代のものとそっくりなのに驚かれると思います。

また台北にある国内線専用の空港は「高松空港」という名前で、まるで四国にいるような錯覚に陥ります。
台湾の年配の人たちには日本語も分かる方が多いですが、彼らがそれほど反日感情を抱いてないことにほっとするのです。


*戦時下をモンゴルで過ごされた恩師の話

私が小学校1・2年の時にクラス担任だった先生と、おととし奇跡的な再会を果たしました。
その話は「出逢いに感謝して」というカテゴリの中でもご紹介しています。http://resolutely.blog6.fc2.com/blog-entry-86.html 
 
その先生がクラス担任をうけもたれたのはまだ20代半ばのころ。そのころは決して聞くこともなかった、先生が子供の頃に内モンゴルの張家口(ちょうかこう)にお住まいだったお話をお聞きすることができたのです。
先生のお父様はモンゴルで病院を作るなど現地の人たちに奉仕されていたそうで、とても慕われていたそうです。

戦時下~終戦を迎えましたが、たまたまそこに駐留していた日本軍の指導者がとても優しい人間性あふれる方だったということも大きいでしょう。引き上げに際しても軍部だけがさっさと引き上げて、民間人を置き去りにしたり見殺しにすることもなく、最後の一人が引き上げるまで軍は面倒を見てくれたそうです。だからその地区からは一人の残留孤児も出なかったそうです。

そして先生は今でも、当時一緒に住んでいた地区の方たち、つまり日本人もモンゴルの人も一緒に文化交流をなさっておられます。先生はおっしゃいます。これはひとつの「民間外交」だと。



国レベルの戦争が起きればさまざまな悲惨なことも起こりますが、どんな状況下にあっても、最後はやはり「人間性」に尽きるようにも思います。
植民地政策が必ずしもすべて間違っているのではなく、あくまで統治の仕方なんだと。

あらためて日本の軍部がかつて中国や朝鮮半島で繰り広げてきた、まさに「地獄の黙示録」の世界を思うとき、戦争の犠牲者としての日本だけでなく、加害者としての日本を思わずにはいれらません。

みなさんはこのテーマ、どうお感じになりますか?
→「終戦の日に思う」参照:http://resolutely.blog6.fc2.com/blog-entry-327.html





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M先生 ありがとうございます!

記事中でご紹介した、小学校時代の恩師の先生もこの記事をご覧くださり、メールにてメッセージをいただきました。

中国から日本へ引き揚げるときには様々な逆境もあり、子供を亡くされた方、泣く泣く生き別れとなって多くの残留孤児が生まれました。先生がまだ6歳の時に見た光景が走馬灯のようによみがえるそうです。その先生からいただいたメールより、皆さんにもご紹介したいメッセージ部分を以下に転記させていただきます。
(ちなみに先生は9月の大阪・堺市でのコンサートに友人らとご来場になられる予定です!)

<♪先生からのメールより>

人間の欲が起こす戦争は人間を決して幸せにしません。末代までその悲しみは続きます。人間の貪欲は止めるべきです。必ず別の形で天罰がおります。
誰もが平等に幸せを感じる社会、世界を作らねばなりません。使いきれないお金や財産を得た人は恵まれない人達の為にそっと寄付してください。

今回東北の地震で大災害を受けた人達が一日も早く元の生活が出来るよう、みんなで助け合いましょう。政治家や企業主の方達は先頭にたって協力すべき時です。

9月11日{日曜日}大阪府堺市泉が丘駅前ビッグアイ・ホールにて開催される東北支援チャリティ・コンサートに出向いてください。コバケンとその仲間たちがみなさんのおこしを御待ちしています。日本中の人々が可能な限り応援しましょう。

No title

台湾にちょうど行ったばかりなので、
台湾の方々の親日ぶりがうれしく、とても楽しい旅になりました。
あるお茶屋さんでは、天皇ご一家の写真が飾られていて、
日本でもこういう風景はあまり見ないので、驚きました。

私の祖父母も、戦後上海から引き上げてきたのですが、
戻ってくるとき、現地の方々に助けられた話をしていました。
祖父母には、中国は植民地ではなく、仕事に行った先で、
「バッさん(白さん)」として地元に馴染み、生きた、
という意識だったように感じました。
祖母は、亡くなる直前に意識が危うくなってきたとき、
楽しかった上海時代を思い出したのか、フランス語でしゃべっていました。
幸せな上海時代だったのでしょうし、祖父母の周りの方々も、
そうだったのだと思いたいです。
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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