「知恵袋」犯罪をどう見る?(その2)


◆今回の事件は予測できない特殊な事態だったのか??


試験でのカンニングは明らかな違反行為である。
そこに携帯やサイトといった最新技術が入ってきたことで、「今まで想定もしていなかったゆゆしき事態が起きた」と大学側も文部科学大臣も深刻な顔をして頭をかかえておられるが…

私はネットや携帯という便利な道具は、一朝一夕に降って湧いたように登場したわけではなく、これまで何十年もの様々な技術革新・通信手段の発達が積み重なって、われわれの日常生活の一部になってきたものだと思ってる。

ことに今の20代前後の若者にとっては、それこそ生まれた頃から身の周りにパソコンがあり、接続すれば調べ物でも通信でもできることが“当たり前”の時代に育ってきたはずだ。

かつての古典的なカンニングは、問題を予測して覚えきれない答えを小さな紙切れ・消しゴム・下敷きなどにチマチマと書いてきて試験に臨んだ。書いてきたアンチョコ通りの問題が本当に出るとは限らず、“武器”としては原始的で力も弱かった。

ところが、分からないことはネットで簡単に調べられ、「知恵袋」に質問を投稿すればすぐに「回答」が寄せられることが“当たり前”の世の中になってくれば、試験会場で試験問題を写メに撮ったり素早く文字を打って投稿すれば答えが寄せられる、ということも技術的には充分可能な環境はできていたのだ。たまたまそれを実際にやって発覚した第一号が仙台の予備校生だった、というだけのことである。

「想定しえないことが起きた」のではなく、試験監督の監視の目も含め試験会場の管理、あるいは入試制度そのものが、時代の変化に対応しきれていなかったと言えるのではないか?

また、技術やモノの問題としてではなく、人間のモラルの問題としてとらえる必要があるのではないだろうか?


◆規制とモラルの問題

Yanooをはじめとするインターネット上のさまざまなサイトでも、便利なものほど犯罪の温床にもなりやすい。
麻薬や覚せい剤などの取引、売春、他人への誹謗中傷…etc.
やっている行為そのものが“違法”なもの、人に迷惑をかけるもの、悪質なものは、サイトの管理者の方でも削除したり、ネット上に出回っているものを利用者が「監視の目」となり「報告」して「削除」させることは可能である。

しかし今回投稿されたように、「次の英文を訳してください」とか「数学のこの問題が分からないので教えてください」という質問そのものはそれ自体「違法」とは言えないし、それを見ただけではまさか試験会場からのカンニング行為だとは判別できない。

そこが今回の事件の一番重大なポイントだと思うのだ。

公式の試験会場で、受験生本人が試験時間内にそれをやったことを監視できなかったことが重大な問題だと私は思う。少なくとも今のような大学入試制度を前提とするならば、そこはきちんと対策を講ずるべきである。


そもそも大学入試試験とは?

もっと根本的なことを言わせていただくなら、「そもそも大学入試は何のために必要なのか?」と私は長年疑問に思ってきた。
自分が受験生だった時に言っても説得力がないが、あらためて今の日本の大学生、日本の社会における「大卒」という肩書の評価のされ方を見ていて思うところがある。

今は大学に入ることが極端に難しく、「入ること=ステイタス」になってしまっている。
そしてそのステイタスを獲得してしまえば(=大学生になってしまえば)、出席を取られる授業にだけ顔を出し、先輩のノートを借りてほぼ例年出題されるお決まりの試験問題さえ心得ていれば“楽勝”で単位が取れてしまうような講義もある(私の母校もそうだった)。

もちろんすべての大学がそうではないだろうが、ことに文系の4年生大学の中には、大学に籍だけおいてバイトと男女交際に日々エネルギーを使っていればいいような、まさにユニバーシティ・パラダイスの4年間を謳歌している大学生も実際いる。

一方、そのステイタスを得るために、高校だけでなく中学校・小学校に至るまで「受験」を意識した知識詰め込み型の教育が展開している。

いくら小学校で“ゆとり教育”だの“カリキュラム数”だの“学力低下”だの…と小手先で教育方針を数年単位でころころ改定しても、大学入試制度が変わらない限り根本的な問題解決にはなっていない。

ゆとりの学校だけでは受験に必要な知識は身につかないから、塾がそれを肩代わりするような構造になっていく。
習う・習わない、知ってる・知らない、受験に関係ある・ない…といった指向で学力が計られ、カリキュラムが組まれる。先生たちも指導要領(=基準)・進学率(=実績)・親たちの目(=評価)の狭間でジレンマに立たされる…
さまざまな歪みの根源ともなっている大学入試制度を根本的に見直すことこそが、教育改革の原点ではないかとさえ思えてくる。



少子化もすすむ中、大学も“経営”を考えるなら、高卒程度の基礎が身についているかどうかだけを試す試験にして、入学したい人からは入学金・授業料をとって門戸を開放すればいい。

そのかわり、大学に入ってからはしっかり講義に出席して本気で勉強しなければついていけない、単位ももらえない、卒業もできない、という形にすればいい。欧米はその方式である。

より専門的な勉強をしたくて大学に入るのならそれは当然のこと。
いまでも医者や看護師、あるいは音楽や美術の世界を目指す人たちは、大学に入ってからも一生懸命勉強して自分を磨いている学生さんもたくさんいるはずで、それはいわば当たり前のことだと思うのだ。

大学によって難易度・レベルの差も当然あっていい。ただ“入るためのランキング”ではなく、大学で行われる研究のテーマ・目的・方向などに差と特徴をつければいい。
自分のレベルよりも高すぎる大学や目指す方向の違う大学に入ったら後で苦労するだけだから、それぞれ自分に合った大学を見極めて選べばいいのである。

学ぶときは大いに学び、夏休み・春休みは大いに遊び、旅行したりバイトをしたりして世界を広げ、本当の意味での青春を謳歌していただきたい。

そして本人が努力して晴れて卒業できたら、それなりに社会から評価されてもいいではないか。 もちろん大学を出ていなくても、その人なりに努力をして別のことで評価されてもいい。
今のように入るだけ厳しくて、入ってしまえば4年間遊びほうけていても卒業できてしまうような大学でも「大卒」の肩書だけが「学歴」として評価される風潮が問題なのだと私は思う。

大学入試制度が変わることによって、大学で学ぶべきことは大学で、高校生は高校生らしく、中学生は中学生らしく、小学生は小学生らしく…本当の意味での教育を考えることができるのではなかろうか?

受験のための知識・テクニックといった“先への準備”ではなく、それぞれの年代ごとの“今”を大切にした教育に専念できるようになるだろう。
それぞれの年代ごとに、人の気持ちを分かること、ものごとを考える力、考えて問題を解く力、人の意見も聞いて理解しながら自分の考えを組み立てる力、それを伝える表現力、意見を交わしてディベートできる力、ものごとを解決する力、生きる力…etc. 

そういう人として大切なことが抜け落ちてしまっていているから、とにかく目の前の問題が解ければいい、という安易で短絡的な発想で今回のような事件も起こるのではないか…と。


◆○○とハサミは使いよう

「どんなものでも、使い方によっては役に立つ」という本来の意味とは違い、ここでは「どんな優れたものでも使いようによっては凶器にもなる」という意味で使わせて頂く。

果物ナイフもカッターも、あらゆる刃物は犯罪に使われれば凶器となる。犯罪を防ごうと思ったら世の中のあらゆる刃物を規制しなくてはならないのか…?
刃物に限らず、つけもの石だって“鈍器”として殺人の凶器になり得る。

「有害図書」と呼ばれるような青少年の育成に害となるような書籍や映像による表現手段も世の中には溢れているが、人間の性的な欲求そのものを取り除く訳にはいかず、表現そのものに明らかな違法性がなければ法的に取り締まれない。くだらない・悪質だ・有害だ…といったことを理由にすべてを統制しようとしたら、それは憲法で定めた「表現の自由」を脅かすことにもなる。それこそ自由主義の根幹を揺るがす問題である。

ひとつのモデルとしての話だが…
たとえば暴力的なシーンや性的なシーンを見ると興奮して自分自身の行動を統制できなくなる人が多い集団(社会)があったとする。そこでそのような刺激的な映像を流せば犯罪が増える原因となるだろう。
しかし一方、誰にでも潜在的にはあるそうした欲求を、書籍や映像などの“架空の世界”で満たすことができる人が多い集団(社会)だったら、逆にそのような“娯楽”によって現実の犯罪を防げる面もあり得ると思う。 

 いずれにせよ、なんでもかんでも規制して排除すれば犯罪の防止になる、とは必ずしも言いきれないと私は考える。


結びにかえて ~モノ ではなく 人~

大自然の中にも薬になる植物もあれば毒になる植物もある。人間の役に立つものだけでこの世の万物が作られているわけではない。そういう中で人間は知恵を磨いて生きてきたのだ。

原子力や放射能を発見した科学者たちも、まさか一瞬にして何十万人もの命を奪うような原子爆弾を作ることが本来の目的ではなかったはずだ(恐ろしい武器の製造にも使えることも危惧したかもしれないが)。

どんな科学も技術も、本来は人を幸せにすることを願って発見され生まれてきたはずだ。
モノが悪いのではなく、あくまでそれを使う人間の良識・マナー・モラル・使い方の問題としてとらえなくてはいけない。

たまたま悪いことに使われたモノの危険性だけに注目し、人間は悪いこともするという前提(=性悪説)でルールをつくり、あらゆるものを規制して排除することで問題を解決しようという発想に対して、私は警鐘を鳴らしたい。

あくまで使う人間の良識・モラル・マナー・状況判断といった根本を今いちど見つめ直すことこそが、便利なモノが溢れる豊かな世の中で大切な原点ではないかと。


2011.3月5日 Akira T

コメントの投稿

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私は道徳の授業をもっと重要視すべきでは、と常々思います
現代の考える力の衰退は勿論、それを言葉にする語彙の不自由さは著しいですよね
活字離れした世代の影響は計り知れません
国語(道徳)の捉え方が変われば、何かが変わるのではないでしょうか
各々の【私】という主体の不安定さがとても怖く思います…

Re: タイトルなし

またしても初コメありがとうございます。
はい、何年も前から議論されている小学校での「道徳教育」という言葉、本文中にはあえて使いませんでしたが、(受験のための)知識よりも人として大切なこと、良識・モラル…といった表現に含ませてます。

前に孔子に関する記事も書いてますが、長い歴史の中で儒教の教えを伝えてきた中国や朝鮮半島から日本もさまざまな文化を学んだはずなんです。江戸時代には昌平坂学問所(今の湯島聖堂)もあったんです。
それが明治になって、諸外国と同盟や戦争の歴史を経て、今の憲法では「宗教の自由」が前面に。
儒教の教えも、西洋諸国の心・文化の底流にあるキリスト教の教えも、イスラムの教えも…人として大切なことを説いている「教え」の部分までどこかへ飛んで行ってしまったように思いますね。モラルは個人に任されているようなところがあります。

特定の宗教を押し付けてはいけないけど、人として大切な世界共通のものってあるような気がします。それを「道徳」という言葉で表していいのかどうか…と思うのですが、おっしゃることはよく分かります。

あともうひとつ、人の心の中のテーマですから、そこまで踏み込まれるのは…という「プライベート」というキイワードが最近では壁になっているようにも…この話はいずれ記事に書こうと思ってます。

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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