民意の「民」は、民主主義の「民」

6月14日(水)


まだ犯罪の実行に着手していない段階で、277もの行為を捜査・処罰の対象にできる「テロ等準備罪=共謀債あらため」の参議院での採決が秒読み段階に入っています。

しかしこの法案の基本的な問題はどこにあるのか、その内容とあわせてどれほどの人が正しく理解されているのでしょうか?

テロ等準備罪


一方、「政治とカネ」の疑惑は後を絶たず、政治資金規正法違反の疑いで辞任した大臣、公私混同で辞めた前東京都知事、そして今問題となっている森友や加計に代表されるさまざまな「忖度」の疑惑…
挙げたらきりがありません。

また、政権側から出されてくる政策・法案の内容についてはいかがでしょう?

本当に国民生活を守り、豊かにしてくれるものでしょうか…?
私にはどうも今の政権から出されてくる政策・法案は、大企業や政治にとって有利なもの、庶民の暮らしをますます苦しめて格差を拡大するものが圧倒的に多いように思えてなりません。

しかし日本の国民(有権者・納税者)はとっても大人しく、疑惑を追及する声も、政策や法案に反対を唱える声も全体の中では一部にとどまっているようです。

疑惑追及から辞任に追い込まれた大臣や元東京都知事などの例も記憶に新しいところですが、みな公職を「辞任」すればそれで幕引きで、その後「政治資金規正法違反」「業務上横領」などの罪で刑事告発される例はほとんどありません。なぜなのでしょう?

こうした政治家の不正・疑惑に対して、一部の人たちはネット上で「とんでもない!」と怒りますが、内閣の支持率は一向に下がることもなく、次の選挙結果へもつながらない不思議…



◆「民意」ということ


これらの現象を「民意(民度)が低い」と表現すると、「日本の国民をバカにしている」とお叱りが飛んできますが、どうも「民意(民度)」という言葉を私がこうした場面で使うのとはまったく違う意味でとらえられているのではないかと思うのです。

日本人は昔から「和」を尊び、美しいものを求める民族です。
社会的な安定・秩序、安全、順序良く並ぶなど公共マナーといった面での「民意」は世界に誇れるほど高いと思います。

また、文字を読み書きできない人はほとんどいませんね。なんだかんだ義務教育の徹底により、国民の知的水準は保たれてきました。

また、コンサートで来日した演奏家がアンコールに応えてなにかもう一曲演奏してくれる際に、英語だけではなくフランス語・ドイツ語・チェコ語などその演奏家の母国語で曲名を言うと、観客の中にはその曲名をすぐに理解して拍手する人がけっこう多いことに驚きます。そうした文化・教養レベルはとても高いのです。

ところが…

政治に対する関心・意識は?

決して知識・教養レベルが低いわけではなく、頭が悪いわけでもない。
しかし、こと政治の問題(=私たちの社会に関する問題、子どもたちの将来に関する大切な問題)になると、とたんに口をつぐんでしまう人が多いのです。

日本では宗教の話と政治の話はタブーみたいな風潮があって、あまり自分の意見・どの政党を支持するか・今の政権や政策についてどう思うか…といった話題をほとんど口にしない傾向が強いです。

お隣の韓国をはじめ、欧州(イギリス、アイルランド、ドイツなど)と比べても、選挙や国民投票などの投票率が軒並み日本よりはるかに高いです。街頭インタビューでも、若者たちが将来の国の行く末を本当に心配し、ある政治家に期待を託す声、あるいは現職の政治家を弾劾する声がかなり具体的に出てきます。

それに対して日本では国政選挙でも地方選挙でも、どこの地域でも軒並み50%そこそこの投票率。
しかも、投票に行く人の多くは「いまの与党も問題だけど、野党もねぇ」「他よりマシだから」でけっきょくなんだかんだ「現状維持」「安定政権」を支持(容認)して現政権に「数の力」を与えてしまう…

いまの政治の体質的な問題、政策論の中味がしっかり議論されることなく、なんでも「数の力」で押し切られてしまう異常ともいうべき国会運営…

安倍総理がいつも口にする「丁寧に説明」、「しっかり議論」、「理解を深めていく」ということが、国会の審議の中できちんと実行されていると言えますか?

野党の反対意見や質問をいかにはぐらかし、逃げ、ごまかして、さっさと法案を「数の力」で通してしまおう…そんな姑息な国会運営ばかりがあまりにも多すぎませんか?

国会は本来「国民のための議論の場」です。なのに、与野党の政治的な「かけひきの場」になってしまっていて、ちっとも本質的な議論、かみあう議論がなされていません。
野党の声もちゃんと聴いて、多角的な検討をしっかり積み重ねて、野党の理解・賛成も得られなくてはどんな法案も通らないようにする…そうした民主主義の基本はどうなってしまったのでしょうか?


民主主義の「民」

「数の力」への驕りから、政治家・閣僚らのとんでもない失言問題や汚職にも結び付いているのではないか、と指摘されています。
では、そもそも、なぜそのような「数の力」を与えてしまったのでしょうか?

私は思うに「優勢なのはA党かB党か」といった二者択一で、「どっちが勝つか」の勝ち馬に一票、みんな(多数)が支持してるだろうから…という意識がこういう結果を招いていしまっていると。

そもそも民主主義って何なんでしょうか?

政治家の不正が発覚すると「まあ、そういう人を選んだのはわれわれ有権者だから」などと妙に物分かりのいい大人たち。
選挙の段階では、公約・信条を信じてその人に一票投じたんですよね。その人が、公約に反することをやったり、まして違法な行為を行ったら、それは有権者に対する「裏切り」ですよね。なぜそこを厳しく追及しないんでしょうか?

投票で選ばれた私たちの「代表」のその後を見守る、われわれの声を代弁してくれてたら応援する、そして不正は追求する…そこまで見届けて次の選挙に反映させるまでがわれわれ有権者の務めではないんでしょうか?

このように、さまざまな場面で「あれ?、本当に民主主義の基本を分かってるのかな?」と思わざるを得ないような発言・行動が目につくのです。

せっかくわれわれ国民に平等に与えられた「民主主義」。その民主主義をきちんと理解し、無駄にしないで活かす、そういう意味での「民」の力、「民」の意思、それが「民意(民度)」ではないでしょうか?


日本人の深層意識

まさかここに来て、40年ちかく前の大学での一般教養の内容を思い出すとは思いませんでしたが…

日本人の「法」に対する意識(=一般教養の「法学」にて)。

法律を勉強する、あるいは司法試験を受けて弁護士・検事・裁判官になる。そういう世界は一般の人から見ると敷居の高い別世界、という意識が日本人には強いと。
一方、私人間のトラブルを話し合いで解決できず「裁判」に持ち込んだり法律の条文を持ち出したりすると、「あの人は…」と白い目で見られる風潮がある、とも。
つまり日本人の意識の中には、法律はいわば「伝家の宝刀」のように、高いところに飾られたもので、めったなことで抜くべきではない、という意識があると。

そしてもうひとつ

政治的無関心(=「社会学」大衆文化論の中で)

勤勉で、経済に敏感で、産業・技術の進歩では目覚ましい力を発揮する日本人。最近では先端産業(←1970年代の言葉です)など、いっそう専門特化した分野の発展も著しい。
ある専門分野に関してはものすごく素晴らしい能力が磨かれている一方、仕事から解放された個人の自由時間には、あまり難しいことを考えたくない、のんびり楽しくすごしたい…という欲求も当然強くなる。
そこで、政治の話などは、本当は私たち社会みんなにとって大切な話であるにもかかわらず、仕事以外ではあまり難しいことは考えたくない、自分には直接関係ないこと、という意識が少なからず生まれやすいのではないか、と。



これらはいずれも、社会学的なマクロな目から見た仮説です。
文化人類学でいう「日本人論」も、さまざまな日本人や外国人のさまざまな立場の人たちの目から、日本人という民族の歴史や自然的・社会的環境などと関連づけながら、「日本人」という大きな集団のもつ特性について研究する分野です。

たとえばその中で、日本人は農耕民族だから、みなと一緒に種を蒔き、皆と一緒に刈り取り、村の行事は総出で助け合う…それが当たり前とされてきた。村八分となることは死活問題。みなと一緒に行動し、みなと一緒に楽しみ、みなと一緒に分かち合う…そういう国民性が長年の習慣の中でも身についてきた、と。

だから、遊牧民族のように、天候や羊たちの体力などを自分で判断して行く先・行動を決める「主体性」を要求しても、民族の特性として難しいのではないかと。

こうした「日本人論」の仮説的な見方はとても興味を引くものです。

しかし中には「日本人といったって色々いる。全員がそうじゃないはずだし、私は違う、一緒にしないでくれ」などという反論が必ず出るわけです。場合によっては「日本人をバカにするのか」とも(笑)。



社会科学というのは、自然科学と違って実験装置の中にある条件だけを入れて「実験」してその結果を科学的に検証することはできません。さまざまな要素が複雑に絡み合っている中で、ある要因とある結果になんらかの因果関係があるのではないか、を考察するものです。

それを「すべてがそうとは言えない」などと反証を挙げたり、「どっちが優れてるか」みたいなニュアンスで受け取って感情論で反発していたら、意義のある考察はすべて意味のないものになってしまい、文化人類学も民俗学も社会学や集団心理学も語れなくなってしまいます。

それと同様、日本人がもし世界の先進国の中でも政治的無関心が多く「民意」が低いとすれば、それは否定できないと受け止めるのが賢明だと私は思うのです。日本人に対する偏見でもさげすんだ見方でもないのです。

そこをちゃんと認めたうえで、現代・この現状において、はたしてこれで良いのだろうか、政治的な話題(=私たち社会の話題)にどうしたら関心が高まるのだろうか、どうしたら民主主義のよりよい姿になるのだろうか…と考える必要があると思うのです。


♪関連する過去のblog記事

→ 考えること、表現することの大切さ(2015年9月)
→ 答えは風の中…?(2017年4月)


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

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