教育勅語 と 基本的人権

2017年 4月3日(月)

最近「教育勅語」という用語を耳にする機会が急に増えました。ご存知のとおり、明治政府が教育の根本理念として掲げたものです。
なにかと話題の事件のことからちょっと離れて、あらためて「教育勅語」と「基本的人権」について考えてみたいと思います。


そもそも 教育勅語 とは?

教育勅語とはどのようにしてできたのでしょうか?

鎖国を解いて海外からさまざまな情報が入ってくるようになった明治時代、諸外国に負けない強い国づくりをすすめるべく、西欧(とくにドイツ)に視察団を派遣したそうです。
ドイツをはじめとする西欧諸国では、法律やあらゆる社会規範の根底に、キリスト教の思想・理念が強くあることに日本人は驚いたことでしょう。

日本にはキリスト教の理念はもちろん、それに代わるべく日本人全体に共通する理念や心のよりどころとなるものが見当たらなかった。そこで「天皇」を中心に日本国民の規範となり教育理念の中心となるべきものとして、1890年(明治23年)10月に発布されたのが「教育勅語」です。

「教育勅語」の中には、江戸時代に普及した儒教の教えに基づくことも書かれています。すなわち、親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼して…といったことです。

しかしもっとも重要なのは「朕(天皇)の臣民」という考え方。つまり「主権」は国民ではなく「天皇」にあり、国民は「臣民」と表現され、国のため天皇のために尽くせということです。

教育勅語
教育勅語(口語訳)

この中でとくに重要なのは…、

「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(口語訳=万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」というくだりです。

国民は国のため、天皇のために命をも投げ出せ、というのです(←キリスト教の教えにも、西欧のどの国にも、このような「国のために命を差し出せ」などというものはありません)。


いわば「教育勅語」は、日本が諸外国と戦っても勝てるよう、科学技術はもちろん、日本人全体の精神力・士気を高めるためにつくられたのです。

教育勅語は全国の学校に配布され、天皇の肖像と並んで大切に掲げられ、火災などの際には校長は是が非でもそれを守らなくてはなりませんでした。実際、燃え盛る火の中に飛び込んで命をなくされた方もいたそうですね。

この「天皇のため・国のため…」という理念が、国家総動員法治安維持法ともつながり、戦争への道をまっしぐらに進ませ、「一億玉砕」を唱える原動力ともなっていったのです。
靖国の資料館に残る、若くして命を散らせていった特攻隊員の親にあてた手紙を見ると、まさしくこの教育勅語の教えそのままだな…と。

そして敗戦後の1948年(昭和23年)、衆・参両議院の合意のもとに、この教育勅語は廃止されました。

新憲法下においては、主権は天皇ではなく「国民」であり、国のために命を差し出せなどという理念は「基本的人権」に反している(→後述)からです。



この話、私も昨今あらためて検索して調べたこととも重なりますが、じつはきのう(4月2日)、私の通う教会の礼拝で、牧師先生のお話しの中で出た話題を引用させていただきました。

もちろん礼拝は、現政権を批判する場ではありません。具体的な名指しでの批判はありませんでした。

しかし、今日なおこのような「教育勅語」を暗唱させる幼稚園があり、それを推奨するかのごとく発言をする政治家が現に少なからず存在することを覚え、日本が戦前の過ちの道を再びくりかえすことのないように、世界の平和について心から祈れるように…と。

4月のイースター(キリストの復活)の前のこの時期は「受難節」、わたしたち人間の罪・過ちについてさまざまな角度から考えさせられます。
はるか昔のイスラエルやエジプトで起こった話だけを例にするのでなく、今まさに私たちの生きる社会で起きているさまざまな問題にも目を向け、人間が愚かな過ちを繰り返さないように…

一歩踏み込んだ内容だな、と思いつつ大きくうなづいて聞いていたのは私だけではありませんでした。


◆なぜいま、教育勅語が…?

先述のとおり「教育勅語」の中には、儒教の教えに基づく「親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼し」といった人としての生き方についての記述もあります。そこだけを見ればたしかに間違っていません。

今日、家族間で殺人事件が起きたり、「自分さえよければ人のことなんて関係ない」といった動機で、信じられないような悲惨な事件が多発しています。

競争社会に疲れ、人の心が渇いて、人の痛みを理解する想像力や思いやりの心が枯れ、自分の目先の悩みや欲望のためなら手段を選ばない、短絡的でわがままな犯罪に…

そうした心の渇いた時代だからこそ、なにか「世のため人のため」「献身的な精神」「国のため」…といったことを「美徳」として掲げたくなるのかもしれません。

私もこのブログの中でしばしば、「経済=カネ儲け至上主義」、「自分のことだけでいっぱいいっぱい」、「社会にも目を向けよう」、「思いやり・想像力の大切さを」…といったことも色々と書いてきました。

しかしそれが、なぜよりによって「教育勅語」なのでしょうか?


宗教はタブーだから?

仏教でも儒教でもキリスト教でもイスラム教でも、「人としての道」の教えには大きな違い・誤まりはないと私は考えています。人を犯し、人から奪い取り、人と争うことをすすめるような教えはありません。

どんな神を信じようが、健全な宗教であればおよそ世界中の宗教は「人としての正しい道」を求めてきたはずで、人として敬うべきものを敬い、隣人と仲良く…ということは共通しているはずです。

アメリカで9.11のテロが起きたあと、イスラム教徒全体が「悪の根源」ように誤解されて差別・偏見が生まれました。アメリカ国内で、なんとキリスト教の牧者がイスラム教の経典であるコーランを燃やす…といった愚かな行動もありました。イスラムの経典のどこにも、自爆テロの薦めなど書かれていません。

人類が宗教の違いを理由に偏見をもち、争い憎み合うことは、本当に愚かなことです。


一方、今日の日本では、憲法のもとで「宗教の自由」が保障されています。宗教は人それぞれの心の内にあるもので、決して強制すべきものではありません。

そのことが、日本においてはある特定の宗教について口にすることそのものをタブーとするような風潮にもなっているように思います。
何を信じ、何を敬ってもよいのですが、なんの信仰心も敬う心もない状態で、心が枯渇してしまって、自分の目先の快楽追求だけに…それが今日の日本ではないでしょうか?


その点「教育勅語」なら「宗教」ではないし「いいことも書いてあるから」…?

…もしそのレベルで、政権の中心にいる人たちが「教育勅語には親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼し、など良いことも書かれており、それ自体否定されるものではない」として、たとえどんな形であれふたたび教育の現場に復活させようとするならば、あまりにも歴史認識に欠ける、無知ゆえの危険極まりない考えだと言わざるを得ません。

それは、次の「基本的人権」と根本的に矛盾するからです。


◆(基本的)人権とは?

冒頭の、明治に西欧に派遣された視察団たちが見たこと、およびその報告を受けて「日本の国づくり」をすすめた人たちが、なぜ「基本的人権」について考えを深めなかったのだろう、というのが私の大きな疑問です。

私は仮にも法学部出身ですが、学生時代から漠然とながら「権利って何だろう?」ということを考えさせられてきました。逆に言うと、それまであらためて「権利」について考える機会がなかったのです。

「選挙権」に代表されるように、一定の年齢に達し、一定期間その土地に居住し、住民税を払い…一定の条件を満たし、伴う義務を果たしている者に対して与えられる「権利」。
法律や条例で定められた条件を満たせば、国や自治体から「認められ」「与えられる」権利。その種の権利はたくさんあります。法律で定められた「〇〇権」と呼ばれるものはほとんどこの類です。

一方、わたしたち日常においてしばしば口にする「権利」は…?

*「私には~~する権利がある(=当然でしょ!)」
*「あなたにそんな権利はない(=誰の許しを得て~?、あんたいったい何様?)」

自分がもつことは当然で、人(相手)がもつことはけしからん…まるで核兵器みたいなものですか?(笑)



江戸時代まで、日本人にはあまり「権利」という概念そのものがなかったのではないかと思います。それが明治時代になって、明治憲法ができて選挙権が与えられ、長年の苦労を経て勝ち取ったものではなく、気づいたら「民主主義」や「権利」を手にすることとなった…
ですから私と同様、「権利」についてあらためて深く考える機会がなかったのかもしれません。

さて、あらためて「(基本的)人権」とは何でしょうか?

一定条件を満たして、人から認められ、国から「与えられる」権利でしょうか?
違いますよね。

「人権=人として生きる権利」とは、命を授かったときからみな平等に与えられているもので、国から認められて与えられるものではありません。

命はなにものにも代えがたい重いもので、授かったものを大切に活かして天寿を全うすべきもの。それが人の尊厳にもつながるわけですね。

それを国のために差し出せなどとは決して言えないはずです。
そこがまさに、教育勅語が基本的人権と大きく反するところなのです。



さらに言えば、「生きる権利」はヒトだけでなく、生きとし生けるものすべてに授かったものです。

と言うと、「じゃ、あなたは動物・魚などの肉を一切食べるな」と言われそうですね。たしかに戒律の厳しい宗教の中には、一切の殺生を禁じ、肉類は一切食べてはいけない、というものもあります。

しかし、そこを突き詰めていくと、地球上の肉食動物はすべて「悪」で否定されてしまいます。
また、菜食主義なら問題ないのか?、植物だって、痛いと叫びはしないが生き物じゃないか…etc.
そうした不毛の極論をここでするつもりはありません。

要は、生きるためにいただいている命に感謝する、必要以上の無駄な殺生はしない(=肉食動物と同じく)、食べ物に限らず私利私欲はほどほどに、与えられていることに感謝を…それで良いと私は思っています。

ナマケモノ

むしろ、1日にわずか8gの葉っぱを食べれば生きていける平和な生き物さえ絶滅の危機に追い込んでいる…そのことを深刻に受け止めるべきではないでしょうか?

なお人権については、ここに書いたこととも重複しますが、以前詳しく書いた記事があります。
→ 権利=授かったものへの感謝から(2015年7月)


★ 追 記

政府は、「教育勅語を教材として用いてもよい」との閣議決定をしました!

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松野文部科学大臣によれば「歴史の理解を深める観点から、社会科の教材として使う分には…」、つまり私がここまで書いてきたような、過去の誤ちの道を伝える一環として取り上げるならば…という意味に解釈できます。

しかし、菅官房長官の会見によると…

「親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信じる、といった内容が含まれており、そこは否定されるものではない」→「道徳の観点からも学ぶべき点がある」…つまり稲田防衛大臣とまったく同じ考えです!

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そもそも教育勅語のどこが問題なのか?
なぜ戦後の衆参両院で教育勅語が廃止されたのか?基本的人権との関係は…?
その本質をまったくわかっていない輩たちが自民党内(しかも政権の中心)に少なからずいるということです。

そんな教育勅語を、たとえどんな形であれ、なぜ今ふたたび教育の現場に登場させようとするのか?
しかも、たった1度の閣議決定で決めて良いのか…?
3日(月)のテレ朝「報道ステーション」ではそのあたりに一歩踏み込んだコメントをしていました。

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天の目的

尊い天与の生命を戦争や生産や商売や欲望などの犠牲にする。これは日本だけ、また国家レベルだけ、さらに過去だけのことではないですね。天(創造の主)を悲しませるそれら所業は、おそらく人類が生存し始めて以来、そして予測不能な遠い未来までも連綿と続けられていくのでしょう。超え出た精神の高い境地から、貪らず、憐れみと相互愛に生きる少数の者たちが数千数万年を経て大多数になるまで天の目的は未完のままなのでしょう。

Re: 天の目的

市松さん

コメントありがとうございます。
はい、いかなる命も天寿を全うするべき。いかに愚かなものを作り上げたことでしょうね。

blog本文にも書きましたが、せっかく西欧(ドイツなど)まで視察に行って、向こうでは憲法・法律のほかさまざまな社会規範の根底にキリスト教の精神が生きていることに気づいたのなら、なぜ「基本的人権」についてもっと掘り下げて考えなかったのかが不思議でなりません。
そっちではなく、「国家をひとつにまとめる精神的なよりどころをつくらなくては」という目的の方がが優先され、明治以降の戦争への道への原動力となっていった…

戦後72年続いた平和な国家で、その愚かな過ちを繰り返させてはいけません!
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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