「二人の石切り」のお話しから

10月16日(日) ~その2~


午前中、少し雲が広がりましたが、すぐに青空が戻り、さわやかな秋晴れの日曜日となりました。

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先週の日曜は朝から激しい雨、先々週の日曜は千葉で、その前の日曜は富山でコンサートだったため、3週間ぶりに教会へ。

教会・自宅・ショコラの散歩…マイルームから自転車で20分圏内をのんびり移動しながら、木漏れ日を満喫しました。

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◆「二人の石切り」の喩え話

きょう、牧師先生から「二人の石切り」というよいお話しを聞けたのでご紹介しましょう。

ボヴェーというスイスの精神科医であり、キリスト教の思想家でもあった人による喩え話です。
 
ある人が、二人の石切り職人に「あなたは何をしてるのですか?」と尋ねました。
一人は「私は石を切る仕事をしてるんです」と答えました。建材としての石を切る作業。昔は手仕事ですから大変な重労働だったはずです。

もう一人の石切り職人にも同じように尋ねると、「私は教会の聖堂を建てる仕事をしているんです」と答えました。その切った石は聖堂を建てるための建材となるのです。

いま、自分に与えられている仕事がつらく大変な仕事、単調でつまらない仕事…とみるか、その仕事が大切な大きな事業に必要欠くべからざる意義ある仕事としてとらえるか。

この話、キリスト教的に解釈すれば…

人はみなひとつの根から生えたブドウの木で、枝は四方に分かれそれぞれ実を結ぶけど、それぞれの持ち場で人は生かされていて、自分に与えられた命・才能(タラント)・機会を活かさなくてはいけない…ということになるでしょう。

でも、この「二人の石切り」の喩え話は、とくに聖書に出てくる話ではありませんし、べつにキリスト教の「教え」としてではなく、現代の私たちにもそのままヒントとして当てはまらないでしょうか?



会社・組織の中には、必ずしも人間的に尊敬できて仕事もできて、思いやりにあふれている人ばかりではないでしょう。
そういう身近な半径数メートル内の人の属性にばかり目を奪われ、人間関係に苦しみ、ただひたすら与えられた仕事をノルマとしてやったら、毎日はつまらなくてストレスのたまることばかり。
口から出るのは、「仕事の話=職場の愚痴」ばかりになってしまうのではないでしょうか。

日常の仕事、自分がやらなくてはならない仕事の一連の流れだけを見て「大変だな~」「つらいな~」ひいては「なんで私がこんな仕事をしなきゃならないんだ」と思いながら毎日を過ごすか…

それとも、その仕事が全体の中ではどういう役割で、社会にどう役立っているのかを感じながら責任とやりがいをもってやるか…


ホワイトインパルス

何年か前に、青森空港で滑走路の除雪をする作業員たちがテレビで紹介されました。
日本でも屈指の豪雪地で、あっという間に雪に覆われる滑走路を、何台もの除雪車が連なって驚くべきスピードて除雪するのです。

まるでショーのような見事なチームワーク、まさにプロフェッショナルのなせる業!
検索したら動画(青森空港公式)がありました。

→ ホワイトインパルス

飛行機にあこがれて航空関係の仕事に就きたいと思う人は多いでしょうが、こういう地味な「裏方」の仕事なしには飛行機は飛べません。そういう仕事に情熱を燃やし、日本一の空港除雪作業チームとなる…

いや~、素晴らしい話だと思いました。
こういう人たちとだったら、「仕事の話」を聞きながら美味しいお酒が飲めるでしょうね!

どんな世界でも、自分に与えられていること(才能や機会)への感謝、与えられている仕事が全体の中でどういう役割を担っているのか、それが見えているかどうか…

すでに仕事に就いている方も、これから就活という方も、人の生き方として大切なテーマではないでしょうか?


~ふだんの会話に表れる、人の生き方~

◆ハウツウ情報・知識だけの会話?

〇〇〇には、どんなカリキュラムがあって、どういう勉強が必要で、試験はどんな問題が出て、合格するには何点以上取らないといけなくて、合格したら研修があって…

こういう会話、受験生には多い会話ですね。

大学や専門学校に入るための試験、あるいは「〇〇士」の資格を取るために必要な試験も、そのための勉強が将来どんな役に立つのかは別にして、ひとつの関門を突破する経験として努力することは意義のあることだと思います。

しかし、そういう思考回路ばかり強くなりすぎて、その先の人生においても、何をするにもすべて「〇〇するためには~~が必要で、どうしなくてはいけなくて…」といったマニュアル本のような、ひたすら目の前の課題をクリアするだけの生き方って、いかがなものでしょうか?

就職にしても、就職した後の会社内での昇進にしても、さらには趣味で何かを始めるにも、結婚相手を探すにも、子どもを幼稚園や学校に入れるのも、すべて「〇〇するためには~~が必要で…」と。


けっこう真面目に将来のことを考えている人たちの会話の多くも、とかくこうしたハウツウ情報知識だけの会話に終始していることが多く、脇で聴いていて「ふ~ん、その世界もいろいろ大変なんだな~」とはじめは思うのですが、そういう話ばかりが延々と続くと、どこか虚しくなってくるのです。なぜでしょうか?

何か重要なことが抜けているように思いませんか?
以前このブログにもこんな記事を書いてます。

「いい会話」に大切な2つのこと


◆「あなた」が見えるストーリーを

山に登るには登山口があり登山道があるように、何事にもハウツウがあるのは常です。
しかし「〇〇するためには~~が必要で、〇〇は~~で、〇〇するとどうなって…」というハウツウだけの会話は、情報・知識の羅列にすぎません。

「語学をマスターするために外国に留学したい」という夢(←?、それは目標ですね)を持っている若者に「じゃ、あなたは語学をマスターして、何がしたいの?」と尋ねると答えに困ってしまう。
「〇〇士の資格を取りたい」なども同じです。

そもそもの前段、「あなたは〇〇になって、何がしたいの?」「世の中にどんなことを提供したいの?」、ひいては「あなたはどんな生き方がしたいの?」という部分は…?


「あっちには低気圧があって、こっちには高気圧があって、このあたりは気流の乱れがあって…」といった気象図を眺めてあれこれ言っているだけの、飛行計画のないパイロットたちの会話のようで、「結局あなた(私)はどうしたいのか?」が見えない会話は、聴いていても虚しいのです。


パーティ、研究会、セミナーなどに参加しても、「私は〇〇を勉強したくて~~してるんですけど、まだ経験もなくて、ここにいらっしゃる方はみなさん凄くて、私はよくわからないんですけど…」と、やたら言い訳ばかり並べたような自己紹介では「あなた」が見えません。

いまここに集まっている人との比較はどうでもいいんです。自分はこれまでどんなことをやってきて、どんなことに疑問・興味をもち、今どんなことを目指していて、何を求めて今ここに参加しているのか…といった「あなた自身の物語(ストーリー)」が伝わらないと、人との交流も始まりませんし、自分がそこで何を得たいのか、ご本人の頭の中も明確になりませんね。

とはいっても、よく結婚式のスピーチで、新郎・新婦の職場の上司が出てきて、自分のいる会社の部署のことなど仕事の細かい内容や自分の経歴をだらだらと述べる方がたまにいらっしゃいますが、そういうことではありません(笑)。

誰にでもわかりやすく、自分はどういう人間で、私はなぜ今ここにいるのか、を的確に語れること、つまり「自分自身を語れる」訓練も大切ですね。

→ 人をつなげる力「物語(ストーリー)」

そして先ほどちょっと書いた「〇〇の資格を取りたい」というのは、「夢」ではなく「目標」(課題)ですね。
その課題の先にあるご自身の「夢」をぜひ描いて欲しいです。



人の生き方はさまざま、私もまだまだ発展途上ながら、僭越にも書かせていただきました。

将来ある若い人たちも、毎日のいい会話と、自分に与えられた才能を活かしたいい生き方を目指していただきたいものです。




<追記>

◆「自分には関係ない」…無関心にも通じる?


もう35年以上前ですが、法学部のゼミの飲み会や合宿でも、ちょっと社会的な事件などの話題を出すと、みんな一瞬かたまり、「まあまあまあ、は~い、かんぱ~い」とはぐらかされたことを今でも覚えています。
35年間、ずっとそのことを恨んで生きてきたわけではありませんよ(笑)。

ただ、いまのネット上でのやり取りを見ていても、ちょっと真面目な社会的な話題を出すとみなさん引き潮のようにさ~っと引いていかれる…そんなとき、ふと思い出すのです。

私たちの学生時代に、ちょっと真面目な話題を出すと「しらける」という表現が流行りはじめました。

勉強=単位をとるため、自分が履修してる科目かそうでないか、試験に出るか出ないか…

つまりここに書いた「〇〇するためには~~をやって…」というマニュアル的な思考が強くなると、自分にとって必要なことと、必要でないこと(=関係ないこと)の線引きが知らず知らずのうちにできてしまうのではないか、と。

自分がやらなくてはいけないことで忙しい、飲み会の席では「勉強」の話は抜きでとにかく楽しく…だから真面目な話題は「しらける」んです。



「〇〇するためには~~が必要で、〇〇は~~だから…」といった、ハウツウ情報だけの会話の中に、いま社会で起きている問題に対する話題はまず出てこないように思います。そういう話題の流れになっていかないのです。つまり視野が狭くなっているのです。

自分とは直接関係ないことだけど、子どもが悲惨な事故で犠牲になった、目の不自由な人が駅のホームから転落した、貧困に苦しんでいる人たちがいる…といった悲しい事故や事件のニュースが毎日のように報じられます。

そこで「気の毒に」と思い、「もし自分の子どもがそんなことになったら…」と想像し、「なぜ、そういうことが起きてしまうのか?」「二度とそういうことが起こらないためにどうしたらいいんだろう?」と考える

不条理な法や制度に対して疑問や憤りを感じる(=私は「社会的な怒り」と呼んでいます)。

社会的な怒り…自分が並んでたのに割り込まれた、足を踏まれた→「この野郎」という怒りは、自分の都合による感情的な怒りですね。そうではなく、自分には直接被害はなくても、信号無視をしていく車、救急車が来ていても道を譲らない車、車内マナーを守らない人、さらに国民の安全平和を脅かし、弱い立場を切り捨てるような不条理な政策・法案…etc. それらに対して、疑問・憤りを感じることです。


この「思う・想像する・考える」という脳の働きは、ハウツウ情報・知識からは出てきません。自分がどういう生き方をしたいのか、いわば「生き方のビジョン」と直結しているように思います。

今はやることが多くて忙しいから、自分のことでいっぱいいっぱいだから、余裕がないから考えられないのでしょうか?

違うと思います。周りにも目を向けて「思う・考える」ということをしようとしないから、自分のことだけでいっぱいいっぱいになってしまうのです。私はそう思います。

いっぱいいっぱい病(2013年11月の記事)


フィンランドにあるサンタ村の郵便局に「世界の子どもたちが幸せにクリスマスを迎えられますように」と手紙を送るような、純粋な子どもの気持ち…

ちょっと周りのことに目を向ける、ちょっとした想像力をもって思いやる、「せめて自分にできること」を考える…

時代がどうであろうと、人として忘れてはいけない大切なことだと、私は思います。




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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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