センター試験に想う

月8日(金)

センター試験が、来週末の16(土)・17(日)に行われる。
例年、東京でも雪が降ったりすると電車が遅れ、センター試験の開始時刻を遅らせた…といったニュースも流れるが、今年は暖かいので大丈夫だろうか。

入試センター

ところでいまのセンター試験にはどんな科目があるのか、サイトで調べてみた。

●英語(リスニングを含む)
●国語
●地歴:日本史A、日本史B…Aは近現代史中心、Bは全般
      世界史A、世界史B…Aは全般、Bは地域ごとに古代・中世・近代
      地理A、地理B…Aは気候・風土・産物など、Bは人文地理系
●公民:現代社会、倫理、政治・経済
●数学:数学Ⅰ、数学A、数学Ⅱ、数学B

 *地歴、公民、数学はそれそれ1科目を選択


もしいま私が受験したら…

私が大学受験で予備校に通ったのは今からもう40年も前。しかも私立文系だったので3教科のみ。
もし今の私がセンター試験を受けたら、間違いなく「不合格」だろう。

しかし、これからあらためて大学に入りたいかどうかではなく、いまの大学に入るための基準として、何点ぐらい取れるのだろうか、という興味はある。

もちろん受験生たちは塾にも通って毎日勉強している、いわば受験のプロ。
入試に出そうな問題の傾向と対策、受験のための独特のテクニックもあるだろうし、なにより「記憶」による部分が大きいだろう。

しかし最近のセンター試験は、高校で学ぶ基礎的なことをしっかり理解し、そこで得た正しい知識で考察し処理する力を試すことに主眼が置かれ、変にひねった問題ではなく良問が多いとも聞く。
ふだん受験のための勉強などまったくしていない私のような大人が「社会経験」「社会常識」で答えられる問題は、はたしてどの程度あるのだろうか?……そんな興味がちょっと湧いてしまうのである。


なんのための受験勉強?

私も受験生だったころ、「こんなこと覚えていったい何の役に立つんだろう」と思ったことはたくさんある。

小中学校の義務教育で習った内容も、今となってみれば、その程度の知識は社会人として大切だと思えることが多いが、当時はやはり「こんなこと勉強して何の役に立つんだろう」と思ったものだ。

しかしまあ、どこかの秘境で暮らす部族でも、大人の男として村の人たちに認めてもらうためには、あることを達成しなくてはいけない「儀式」があるように、それをやることにどれほどの意味があるかどうかは別として、その社会においては通過しなくてはならない一定の審査基準のようなものとして、「しかたない」と思って乗り越えてきた。そんな気がする。

だが、受験を通過してしまえば、そんなことは全く考えなくなってしまうのが常ではないだろうか?
「いまの大学入試制度が本当にこれで良いのか?」といったことを、自分が大学に入ってから、あるいは卒業して社会に出てからも真剣に考えている人がどれほどいるだろうか?

私は、今のような大学入試は、入るための試験ばかりが厳しすぎて、そのしわ寄せが高校生だけでなく中学生や小学生にまで及んでいることに危惧を覚えてきた。

「しっかり勉強していい大学に入らないといい仕事に就けない」と、小さいころから塾に通い、常に点数で評価されることが当たり前に。

小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに、自分の頭で考える力、遊ぶ力、人との付き合い、思いやりなど、「人として大切なこと」がもっとあるはずなのに、なにをさしおいても「受験」、生きき抜くためには「競争」という風潮がどんどん低年齢化してきたことに疑問と危惧を抱いてきた。


大学に入ってしまえば…

そしていよいよ大学入試を突破して大学生になると…

学業などそっちのけで、バイトにサークルに合コンに…バラ色の4年間を過ごしている人が多い。
もちろん、ゼミや研究室で専門の勉強を深め、学術的なものの見方を養い、社会に問題意識を持っている学生もいるだろうが、とくに私立の文系などでは少数派ではないだろうか?

大学でも、いちおうテストやレポートはあるが、先輩から借りたノートの丸写し。年間の授業に出席しなくても、代理で出席カードを誰かに出してもらったり、そもそも出席を取らない科目に人気が集まる。
テスト直前になると購買部のコピー機の前に長い行列ができ、「この問題が出る」という山勘で模範解答が出回る。そんな程度で単位が取れてしまって卒業?

就職の面接でも、大学で何を学んだか、どれほど学業を修めたか、はあまり聞かれない。仮にそこであまりにも学術的な答えをすると嫌われるのが日本の多くの企業ではないだろうか?

大学はいちおう出てさえいればいい。できれば有名な、入るために偏差値の高い大学であればなおよい。でも、大学での学業の中身はあまり問われない。…そんな「学歴社会」で良いのだろうか?


◆門戸は広げ、真剣に学ばなければ卒業できない大学に

いっそ、あまりにも厳しい大学入試制度をあらためて、高校で習う一般的な常識が一定水準あると判断されれば、誰でも大学に入れるようにしてはどうか、と私はずっと以前から思ってきた。

受験戦争の熱が下がれば、おのずと小中学校の教育も変わるはず。小中学校の指導要領を小手先でころころ変えるよりも、教育改革の根本は大学入試制度を変えることにあるのではないかと。

そのかわり、大学に入った以上は、それなりに専門の学業を志さなければならないのは当然。講義に出席することはもちろん、出される課題レポートや試験をクリアしなければ単位がもらえないようにする。

いまも専門学校などは、小中学校から塾に通わなくても比較的容易に入学はできる。しかし、本気で学びたいという意思で、たとえ働きながらでも学校に通うこと、そして本当に学ばなかったら技能も身につかない。それは当たり前のことではないだろうか?

まして最高学府である4年制の大学に行くからには、それなりに学業に興味をもち、学業に励むのが当然ではないだろうか? それをやらない、できないのなら、単位はもらえない、卒業もできなくて当然。
一方、一定の単位をちゃんと取得して卒業したら、それなりに社会から認められても良い。

そういう意味での「学歴社会」なら、私はあっても良いと思う。


なんのために学ぶのか?

今は少子化の時代。大学の経営面から考えても、門戸は広く、学びたいと入ってくる学生からは広く入学金を取ればいい。そして、しっかり学業に専念して学び続ける人から授業料を取り、レベルの高い教育を授ければいい。

大学の教壇に立つ教授も、ただ教授という肩書にしがみついて毎年同じ講義を繰り返し、年度末には同じ問題を出題し、ろくに授業に出ない学生からも「あの先生は楽勝」なんて烙印を押されるようでは情けない!

みずから研究者として、若い学生らとともに探究心を燃やして成長し、若者に学問のロマンを伝える伝道者であっていただきたいものだ。

「看板教授」と言われるような優れた教授がいて、その大学に行きたい学生がやってくるのは大いに結構。しかし一方、常勤の教授ではなく、社会の一線で活躍している優れた講師、学生に人気のある講師と年間契約を結んでいる専門学校の良さも否定できないと思う。

そして大切なのは「なんのために学ぶのか?」
大学卒という肩書が欲しいのか? それとも純粋に「〇〇学を学びたいから」なのか?
純粋な興味で学ぶことはもちろん良いが、「なんのために学びたいのか?」というモチベーションがあればこそ、探究心のエネルギーになると思うのだが…

記憶力に頼った知識だけなら、コンピューターが多くを担ってくれる時代である。
人間にとって大切なのは、それらの知識を活かして考える力、そしてものごとを総合的に判断できる力。
そのための豊かなバランス感覚を身に付けることではないだろうか?


テミス
左手に天秤、右手に剣をもつギリシャ神話に登場する正義の女神・テミス
バランス(天秤)は司法・裁判の公正さの象徴として、法律書籍の表紙などでも見かけることが多い。


「欽ちゃん」こと、タレントの萩本欽一さんも、昨年「大学生」になられた。社会人になってからでも、歳をとってからでも、いつでも学びたいに人には門戸が開かれている。そしてやるからには真剣に学ぶ。そのための場を提供する。それが本来の大学の姿ではないだろうか?


♪ Akira T

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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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