「新人類」生誕30年

私が社会人になった1980年代前半、「新人類」という言葉が生まれていた。主に新社会人を中心とする20代の若者を指していたから、まさに私もその年代である。
 
流行語は、「あたりまえ~」のようにある芸人が使った言葉が流行る場合もあるが、すでに何らかの社会現象が起きていて、それが新語・造語でそう呼ばれるようになって一般化するものも多い。

年明けから書いてきたふるさと~地方の時代~」、「聞き上手から広がる世界に続いて、私が社会人駆け出しだった頃を振り返りつつの第三弾!

私は大学を卒業してから民間の小さな研究所で「まちづくり」の仕事についたが、いわゆる大きな企業のような研修期間もマニュアルもないまま、先輩について出張先でヒアリングしてノートをとったり、資料集めをしたり… 
世間よりは安いとはいえ給料をいただきながら勉強させていただいていた、なんでも吸収するしか脳のないブラックホールのような時期である。

そのころ言われた「最近の若い者は…」を今あらためて。


技は盗んで覚えろ!

かつてホテルの厨房では、新人はまず皿洗いからやらされる。料理のレシピなんか絶対に教えてくれない。新人は鍋の底にくっついたシチューをこっそり舐めて味を研究した。先輩たちはそれをさせないために、わざわざ大量の塩を鍋にかけて洗い場に出したという。そういう中で技を盗んだものだ、という話を聞かされた。

ところが今は、先輩たちが親切に「こういう勉強をしておくといいよ」と親身にアドバイスしてくれ、現場でも細かく要領を説明してくれ、「これ読んどきな」と本を貸してくれ、それこそ手取り足取り教えてくれる。なのにいつまでたっても勧められたことをやろうとしない。本気で覚えようとする気があるのかどうかわからない。

何かたずねると「ええ、まあ、~~なんでぇ」とふにゃふにゃとした曖昧な返事が返ってくる。嬉しいのか嬉しくないのか、無表情で何を考えているのかわからない。自分に直接関係のあることにしか関心がない。そういう若者たちを先人たちは「新人類」と名づけたのだ。


先輩からの誘いを断る!?

昔は大工の世界でも音楽の世界でも、先生(師匠)や先輩に「おい、今夜ちょっと飲みに行くぞ」と言われたら絶対に断らなかった。貧しい時代でろくなものが食べられなかった、というだけではなく、先生や先輩から誘ってくれるなんてこと自体がとんでもなくありがたいこと。同席させていただけるだけで吸収できるものばかりの宝庫。また、何かいま伝えたい大切なことがあるから誘われてるのかもしれない。新人からそれを断るなんて絶対にあり得なかった。
 
ところが今は、せっかく先輩が誘ってくれても新人の方から「いえ、ちょっと今日は予定があるんで~」と断る。とくに男性の先輩から後輩の女性を誘うのは、変な誤解を受けることもあり難しい。やりにくい世の中になったものだ。

たしかに新人と言えどももう社会人。仕事を終えた後は大切なプライベートな時間。いつもだらだらと先輩に付き合って“仕事の延長”の、それも職場の愚痴やあれこれ説教を延々と聞かされるなんてとんでもない、という思いは正直私にもあった。

大きな会社では運動会があったり、リクリェーション・慰安旅行があったりするが、私はあまり好まなかった。せっかくの休日、個人の大切な世界もあるのに、業務以外でまで「会社」にズルズルつながってる必要なんでないじゃないか。会社は仕事をするところであって「お友達ごっこ」をする場所じゃない、という思いは正直強い方だった。

しかし自分がまだ新人で、もらっている給料の分だけ奉仕できているとはとうてい思えない身で、ゼロから学ばなくてはならないことばかり。
昼間のこちらの仕事ぶりを見ながら、早く一人前になれるように声をかけてくれた諸先輩の気持ちをどれほど受け止めていただろうか?社会人のマナーとしてどうだったか?…今になってわが身を振り返ると、私もやはり「新人類」だったのかなと思う。


良くも悪くも個人主義

そんな1980年代、出張で行った先の岐阜県のある町で、山の上のユースホステルに泊まった。まだ早春で他の宿泊客はなく、昔ながらのユースらしくそこのペアレントと夜遅くまで食堂で談義した。

その宿の主人は「ここ10年ぐらいの間に若者の価値観・行動がガラリと変わった」とおっしゃった。その時から見て10年前といえば1970年代である。

アポロ11号で人類が月に降り立ったのが1969年、その翌1970年に大阪で万国博が開かれた。安保闘争や学園紛争、赤軍派の事件の数々、その後起きたオイルショック…etc. 日本は戦後の高度成長を上りつめ、物質的にはある程度豊かになったが、その影でさまざまな歪が出ていた時期かもしれない。

「世の中どうせ変わらない」「人は人、オレはオレ」みたいな無気力で自己中心的な考えの若者がたくさん現れ、社会の枠から外れてわが道をゆく「ヒッピー」や「フーテン」が生まれた。男でも髪を長く伸ばし、カジュアルなファッションが流行し、グループサウンズやフォークソングが流行った時代。良くも悪くも「個人主義」が主流になっていった時代だ。

フーテン(族)=新宿東口に集まる長髪にラッパズボン、(妙なデザインの)サングラス といった格好をし、定職にも就かず、ブラブラしている無気力な若者集団。1967年の夏ごろからその名がつけられた。
一方、ご存じ山田洋次監督・渥美清主演の「フーテンの寅さん」は、翌1968年にTVドラマからスタート。定職につかず、ちょっと変わった風貌ではあるが、寅さんは時におせっかいで人情味にあふれ、新宿に集まってシンナーを吸っていたような無気力な若者集団とは明らかに違うキャラクターである。



人とぶつからない →新たな感動が開けない

ユースのご主人の目に映った若者たちの「ここ10年の変化」とは…?

たとえば宿を朝出発するとき、お客さんが「タクシーを呼びたい」と言ってくる。以前だったら「こんなに天気もいいんだし、麓の駅まで歩けよ」と言ってやると「俺たちは客だぞ!なんで歩かなきゃいけないんだ」と反抗してきて、時には言い争いにもなった。
でもしぶしぶ出て行って昼を過ぎたころ、「けさはごめんなさい!梅も咲き始めててウグイスの声も聞けて、とっても気持ちよかった。失礼なことを言ってしまったけど、また来ます!」と駅から電話してきてくれ、その後文通も交わし、何度か来てくれたお客もいた。

ところが最近の若者にはそういうのがいない。同じように「タクシーを呼んでほしい」と言ってくるから「麓まで歩けよ」と言ってやると「はぁ、そうですか~」とおとなしく出て行く。
妙に素直だなと思いきや、となりの郵便局の公衆電話で無線タクシーを呼んでやがる。まったく可愛い気がないっていうか、つかみどころがないっていうか、何考えてるか分からない。

はい、おっしゃることよ~く分かります。相手(人)にぶつかってくることもない分、ウグイスの声を聴くチャンスも逃しているわけですね。自分だけの狭い世界に閉じこもっているから、新たな感動もない。人との関係が希薄で、どこに接点を見出していいかわかならい。そういう人、たしかに増えましたね、とご主人の話にいたく共感。


平気でドタキャン → 相手の気持ちが見えない

さらに、宿のご主人が話してくれて共感したのは当日キャンセル、いわゆるドタキャンについて。
5人で予約が入っている客から、到着日の夕方になって「あの~、きょう、行けなくなっちゃいましてぇ」と電話がかかってくる。
旅行を取りやめなきゃいけないようなことでも起きたのかと思って「どうしたの?」と尋ねると、「いや、こっちには来てるんですけどぉ~、友達がぁ、ペンションに泊まりたいって言いだしちゃってぇ、そっちの予約が取れちゃったもんでぇ…」

当時私も気になっていた「ちゃって言葉」である。「なっちゃって=なってしまって」、つまり自分のせいではなく、そういう流れでしかたなく、自分の意に反して…という「責任のがれ」の代表格ともいうべき、私の大嫌いな言い回しだ。

宿の主人いわく、「あのね~、こっちは予約をもらった以上ほかの客を断って開けておいたんだよ。食事の準備だってできてる。こっちに来てるんだったら、ひとり1000円ずつキャンセル料を払っていただくよ」と言うと、お金だけ払いにのこのこやってくる。
こっちはそんな1000円を欲しくて言ってるんじゃない。分かってほしいのはそういうことじゃないんだよね。

東京から何人で来て何泊していくのか、どういうお客なのか、この季節に採れる山菜を天ぷらにしてあげようか…etc. 
それなりに「心づもり」して精一杯のおもてなしをしてあげようと待っている人の気持ちがわからないのか?チェックインの時間ギリギリに電話一本かけて断りさえすればいい、という感覚しかないのか?だったらカプセルホテルにでも泊まればいいのだ。

これまたごもっとも。私も大学時代から、単にモテなかっただけでなく、さんざんドタキャンをやられた経験がある。やはり「~~になっちゃいまいしてぇ」のひとことで、せっかく開けておいた予定をどれだけパーにされたことか(泣)。



そのころ私の亡き母が近所の子供たちにピアノを教えていたが、子供たちに混じって高校生や大学生も何人か来ていた。その人たちの当日キャンセルがじつに多く、しかも時間ぎりぎりのいわゆる「ドタキャン」。
前から分かってる学校行事ならまだしも、バイト、友達との約束…よくもまあコロコロと変わる。しかも自分の都合でドタキャンしたレッスンを他の曜日に補講してほしいという。そしてその補講の日にまたしてもドタキャンなんてこともあったようだ。 

日によっては、その人ひとりしかレッスンの予定がなく、もっと早く分かっていたら1日家を開けてどこかへ出かけるなど有効に過ごせたはずの母。どこかに出かけていても生徒さんが来るはずの時間に間に合うように戻り、ストーブをつけて部屋を温め、きょうはどんなレッスンをしようか、どんな話をしようか、それなりに心づもりしてるのに、時間ぎりぎりになってからドタキャン電話。
そんな電話を私も代わって受けたことがあるが、「あの~、今日ちょっとぉ、行けなくなっちゃいましてぇ…」と、先ほどのユースのご主人が口真似していたのとそっくりの口調だ。

当時流行っていたオートテニス(機械から発射されてくるボールを打ち返すテニスの練習場)や車の教習所のように、ドタキャンであろうが無断欠席であろうが、次のキャンセル待ちを一人入れればいいシステム、「お客はあんただけじゃない世界」ならいい。

私だって、当日になって熱を出したり、急な用事でどうしても行けなくなることはある。そういう時は、本当に約束した相手に「申し訳ない」という気持ちを抱くものだ。
人と約束をした以上、相手(=人)はそれなりに心づもりをして準備し、他の予定をやりくりして時間をあけてくれ、楽しみにして待ってくれている、といった「コト」がある。そういう「人の気持ち=コト」が見えるかどうかだ。(→  「お金で買えるモノ、お金で買えないコト」参照)


個人主義の合理性の影で

自分の都合は常に優先するが、人の立場や気持ちは見えない、というのが合理的な個人主義の典型的なパターンだ。
自分はなぜそれをやらなければいけないのかが明確なことはやる。資格試験を通るために必要なことは必死でやる。ほしいチケットを手に入れるためなら徹夜ででも並ぶ。

だが「理屈抜きに、言われたことはやってみろ!」という押し付けは古いのだ。
商品でも「これは要らない、これとこれは両方ほしい」といったワガママを叶えてくれるものが売れ、、余計なもの・面倒な部分は抜いて好きなものだけを自由にチョイスできるスタイルが喜ばれる。

たくさんある中から選んだり、すでに形に出されたもの(デザインなど)に対して意見は言えるが、無から有を創り出すことが苦手。意見でも、誰かが言ったことに賛同したり反対したりするが、独創的な意見がなかなか出てこない。

人から言われたこと、マニュアルとして渡されたことしかできない、やろうとしない。自分で考えてどう行動してよいかが分からない。自分で判断して、自分の名のもとに何かをやるのが怖い。個人主義でありながら、人と違う目立つことは極度に避け、表面的にはまわりと同じであろうとする。

他人とは表面的にはうまくやろうとするが、必要以上には関わりをもたない。何か言われたらトラブルにならないようにさらりと流して避ける。

ドタキャンに見られるように、いちおう失礼はないように時間ギリギリに電話しなきゃ、という感覚はあるが、人(=相手)の気持ち、自分の行動が相手に与える影響が見えない。わからない。

人との関係が希薄で、一歩踏み込もうとしないため、相手がせっかく伝えようとしてくれていることの本質・気持ちもなかなか届かない。ウグイスや早春の梅の花が見えなかったように、自分の狭い常識を超えて視野が広がっていかない。
本当の意味でのコミュニケーションの力も当然ながら弱くなっていく。そして似たもの同士、話さなくても分かる感覚的な共感だけで仲間意識を持とうとする。個性を没した者同士が固まって群れる。

自分の都合では連絡をしてくるくせに、相手が待っている返事をなかなか返さない。相手の気持ちが分からない。

あと、向き合ってあまり表立った喧嘩をしない、喧嘩にならない、というのもひとつの特徴かもしれない。相手との関係を壊したくない親しい間柄、たとえば恋人や夫婦、グループの同士などとの間で、意見の対立があっても相手に要求したいことがあっても、あまり表立って喧嘩をしない。もし相手に怒られたり、逆に自分が怒ってしまったら気まずさをもって遠ざかる。

言いたいことを言い合って、ワガママもさらけ出し、それをあとで反省して、相手の主張も理解して認め、心の底から「ごめんなさい」という機会が少なくなったような気がする。自分をさらけ出さない分、相手のことも理解できない。これも表現力のなさ=コミュニケーション能力の低下とも無関係ではないように思える。

また喧嘩を避けることで決してストレスが元からなくなるわけではなく、むしろ後味の悪さが残る。相手に直接ぶつけられないストレスが溜まり何かあるとすぐに「キレる」という現象も起きやすくなっているのではないかと思う。

…まあ、ざっとそんなあたりが「新人類」の特徴だとしたら、1970~80年代に20代だった若者も今はもう40~50代。今の10代・20代は、すでに二代目に交代していることになる。


人として何が大切か?

ある年代以降の人すべてを「新人類」と呼ぶわけではない。
文化人類学や比較文化でも研究テーマとなる「日本人論」もそうだが、必ずしもすべての日本人が皆そうだということではない。社会心理学でいう「ある集団に見られる共通の特性」、個人のパーソナリティと同じように、「ある集団」にも共通するパーソナリティがある、という考え方。

ある時代の特徴、その時代を生きてきた年代に共通するある種の価値観のようなものがある。もちろん一人一人は違って当然だし、時代背景のせいにしてはいけない。
どんな時代になろうが何が流行ろうが、人の気持ちを分かってしっかりした生き方をし、「ごめんなさい」や「ありがとう」がきちんと言える人はちゃんといる。

ただ、最近の10代・20代の人たちの行動、新聞で取り上げられるような事件の背景、アルバイト店員の対応ぶり、ことばに表れる現象、その人生観…etc.
それらは決して一朝一夕に降って湧いたように出てきた現象ではなく、すでに70年代・80年代からの社会現象の流れの延長上にあるということだ。

その上で、

●今あらためて「人」として何を大切にしたいのか?
●自分はどういう生き方をしたいのか?
●人やものごととどう接していきたいのか?

それらはひとりひとりが考えるべきテーマだと思う。
時代を超え、国・民族・生活習慣を超え、周りの人や社会のせいにすることなく、「人」として「自分自身」の問題として。


(2013年1月 章)

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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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カウント開始 2011.1.14~
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