お世話になり、迷惑をかけ、生かされている

 
「生きているということは、誰かに借りをつくること
 生きていくということは、その借りを返していくこと」

放送作家の永六輔さんの言葉である。

私も50の声を聞いて、つくづく生きているということはそういうものなんだな、と実感として思えるようになってきたような気がする。
人は生きている以上、誰かのお世話になり、たくさんのものをいただいて、こちらからは迷惑をかけ続けていくことなんだな、と。

しかしながら、自分はできるだけ人様の迷惑にならないように、人の役に立ち、人に対して誠実でなくてはならない、という思いも当然ある。そのためにあらゆる努力もしてきているはずだ。
そういう目から見ると、人にお世話になっている、人に迷惑をかけている、ということは、できることなら「あってはならないこと」のようにも映るだろう。仮にまあそういう部分もあったとしても、それ以上に自分が役立つことをしなくては、と。

そのように努力する姿勢は、もちろん悪いことではないし、向上心となって素晴らしい力にもなってくれる。真面目で誠実なことの証しでもある。

しかし、その頑張りは、ともすると自分自身の守りを固めるために無理な力がかかり、ストレスとも背中合わせになっている場合がある。


◆「幸せ」を見つけ 事実に気づくひとつの方法

現代社会においてはとかく、人に対して「かけひき」的な見方をし、人に借りをつくらないように、迷惑をかけないように、いわばマイナスをつくらないように頑張って生きようとしてしまいがちである。

しかし、あまり頑張りすぎると「自分はこんなに頑張ってるのに」「(相手に)こんなにたくさんしてあげてるのに」という自負が強くなり、「なのに私は、ちっとも報われない」…と不満・不幸を感じるようになる。
自分が頑張って、たくさんのことを相手に与え、迷惑はかけないようにしてきたはず、と思い、その自分を支えるためにますます頑張ってしまう。人のお世話になり迷惑をかけている部分をあまり見つめることなく無理な頑張りを続け、いつしか素直な気持ちで心の底から「ありがとう」や「ごめんなさい」が出づらくなっていることに気づかない。

つまり、マイナスを作らないように努力する頑張りは、ストレスの元にもなりかねないのだ。

それに対し、一見あまりうれしくない、あってはならない“マイナス面”に目を向けてみることで、自分が人からしていただいたこと、自分が相手に迷惑をかけたこと、それでも許され愛されて生かされてきた事実が見えてきて、「幸せ」を発見することにつながる。


◆「内」を観る

そんな方法のひとつに、私が大学時代に法学部のゼミの先生を通じて出会った「内観(ないかん)」という方法がある。

よく建築図面などで、建物を外から見たものを「外観図」と呼び、建物の中の様子を描いたものを「内観」と呼ぶ。その名のとおり「内側をみる」ということだ。

人の心の内側を見る、というと、何か医学か心理学など、とても難しい、何やら恐ろしい扉を開けるような印象を受けるかもしれない。
また、心の問題に触れるので、もしかすると怪しい宗教か…?などと不安に思われるかもしれない。

しかし、そんな難しいことでも恐ろしいことでもなく、単に自分の小さいころの記憶をたどりながら、ある3つのテーマで、本当の自分、客観的な自分の姿を見つめてみよう、というきわめて単純な作業なのである。

その3つのテーマとは…
人に対して 「していただいたこと」、「迷惑をかけたこと」、「お返ししたこと」 の3つである。

これは、ふだん自分から人を見るときに無意識のうちにしがちな、「してあげたこと」、「迷惑をかけられたこと」、「返してもらったこと」という視点とは全く逆の視点(=すなわち相手の目に近い)である。
 
いってみれば「心の逆立ち健康法」。ふだん力んで使っている筋肉を少し休め、逆にふだん使っていない筋肉を使ってみる…そんなものだと思えばいい。

今まで見えているようでなかなか見えなかった、「相手の目から見た自分」「相手の気持にたった見方」に近い発見につながる。
かけひき勘定の目で不安に思って詮索してきた「自分がどう思われてるだろうか?」ではなく、相手の目に近い立場で、相手の気持ちになって自分を見つめてみる作業、と言ってもいい。

でも、今まで「かけひき」の対象としてきた相手(他人)に対して、いきなりこういう見方をしてみるのは、感情的な面が邪魔したりして難しい面もあるかもしれない。

そこで、一般的に入りやすいのがまずは「母親に対して」だろう。
小学校に上がる前に母に対して、小学校低学年、3・4年生、5・6年生、中学…と時間を区切りながら、3つのテーマで調べていく。

やがて現在まで来たら、次は父親に対して、兄弟や祖父母に対して…とやっていく。今現在の学校や会社などの人、あるいは友達など、いろんなしがらみやかけひきのある人に対していきなりやろうとしないで、まずは母親・父親など、お世話になったことがいわば“当たり前”と思える抵抗のない相手に対して、3つのテーマで調べていくのが入りやすい。

ある事情で、どうしても母親に対して恨みがある、母親に世話になったと思いたくない、などの事情がある人は、父親でもいいし、祖父母でもよい。
要は、何かをしていただいたり、迷惑をかけてきたことを、自分自身が納得して素直に認められる相手の目を借りて自分自身を調べるのだ。

もともと、親には世話になり迷惑をかけるのは「当然」で、それがない人はいない。親にしてもらうのは「当然」で、特別に恩義に感じたりしなくてもいい存在なのであれば、それを思い返したところで、「あら大変!親にこんなに世話になってたんだ!どうしよう!まずい!…」などと今さら慌てる必要もなく、さほど苦痛ではないだろう。

その「当たり前」のようなこと、親からすれば「見返りを期待しない愛」があったからこそ自分は生きてこられたんだ、という事実。そこに気づいて事実を事実として受け止めることがまず原点なのである。


◆記憶をなつかしくたどりながら

小さいころ住んでいた家の中、家の近所の風景、音、匂い…、懐かしい場面の数々を思い出してみよう。
普段の日常生活では忘れ去っていた懐かしい場面。毎朝学校へ行く前のごく日常的だった家でのこと、夏休みに連れて行ってもらった旅行のこと、誕生日やクリスマスなどの大切な日をどう過ごしたか、どんなプレゼントをもらって、何を食べたか…etc.
ふだんの忙しい中では記憶のかなたに埋もれていた自分自身のルーツを。

あるいは、幼少の頃に親との関係で何らかの辛いことがあり、それを封印するように記憶の中から消し去ろうとして生きてきた人もいるかもしれない。
しかしそういう方にもぜひ見つめてほしい。封印されてしまった幼少時代の中にも、何かひとつやふたつ、親からしていただいた出来事は思い出せないだろうか?

懐かしい、と素直に思える人も、忌わしい出来事が出てきてしまって思い出すことが辛い人も、とにかくこの「単純作業」にしばしつき合って、自分の育った中で現実にあったはずの「していただいたこと」「迷惑をかけたこと」を思い出し、それに対して「お返したこと」を淡々と探してみよう。そこが自分の原点を知る出発点であることは間違いない。

まずは記憶にある限りの幼少のころから小学校に上がるまでの間、つぎは小学校低学年のころ、つぎは高学年のころ…という風に、2~3年ごとに時代を区切りながら、母親に対してなら母親に対して、この3点に絞って探していく。


◆3つのテーマから外れないように

よく昔のことを思い出しながら、自分の母親はこういう人だった、こういう長所があって、こういう短所があって、と説明してしまうことがある。
「母は社交的で人と接することが得意だった」とか、「母は面倒見のいい人で、私に対してもこまめによく気づく人だったが、世間体を気にする人で…」みたいな母親像を語っても意味がない。

しかし、自分の母親がどういう人だったか、どういう性格だったか、という母親自身の性格や問題はちょっと棚に上げておこう。母親のことを調べるのは「内観」(=自分を見つめる作業)ではないのだ。

また、母親がしてくれたことが、自分にとって本当に嬉しかったか、本当はもっとこうして欲しかったのに、といった自分の側の感情や都合も、しばし棚に上げておこう。そういう見方は「自分の都合」を含んだ目で、今までにもさんざん見てきた見方だろう。

まずは淡々と3つのテーマに沿って事実を事実として思い出していくことに専念しよう。

3つめの「お返ししたこと」は、「していただいたこと」へのお返しである。しかし子供のころに親からしてもらったことにいちいち恩義を感じ、その都度「お返し」などしてないことがほとんどではないだろうか? とりあえず今調べている同じ時期に、自分から母親に何か「してあげた(お返しした)こと」はなかったかを探せば良い。どうしても思い出せなかったら「思いつくことが見当たらない」でもよい。その事実をとりあえず受け止めておけばよい。

当然ながら、「いろいろと世話になった」「実に多くの迷惑をかけてきた」などと総くくりで述べても何の意味もない。ひとつひとつ具体的な出来事を探し、自分の感情や都合ではなく、ひたすら3つの観点で調べていくことだ。


◆たとえばこんな見方・考え方で

はじめは淡々と「していただいたこと」「迷惑をかけたこと」「して返したこと」を思い出せるままに、箇条書きのように挙げていくのでもよい。

ただし、出来事だけをたくさん思い出しても、必ずしも内観が深まるとは限らない。少し思い出す作業に慣れてきたら、当時のあるひとつの出来事をじっくり見つめ、その周辺をくまなく照らし出すように調べてみる。

たとえば、「小学校の低学年の時、遠足のお弁当をつくってもらった」という出来事があったとする。当時も一応そのことは「してもらったこと」として認識はしていたはずである。ただし「クラスのみんなもそう」「親なんだからしてくれて当たり前のこと」として…

そのあたりをもう少し掘り下げて、前後のでき事や相手の状況・気持なども含め、もっと詳しく思い出してみると…。



遠足へ行く前日、たしか母は頭が痛いと言っていた。それでも、お弁当に入れる何かが足りないからといって、夕方雨の中を買い物に行ってくれた。・・・夕飯の後片付けをした後で、お弁当のおかずの下ごしらえをしてくれた。
翌日晴れるようにてるてる坊主を作っていた私が、ぶら下げる糸がないと言うと、タコ糸を出して切ってくれた。・・・・天気予報の時間を気にしてテレビをつけてくれ、「明日の朝までに雨は上がり、晴れてくる」と聞くと、まるで自分のことのように「よかったね」と喜んでくれた。・・・・寝る前には明日着ていくものを整えてくれた。行った先で寒いといけないからと、1枚上に着られるものをリュックに入れてくれた。・・・・・朝起きたら、台所からいいにおいがしていて、もうお弁当は出来あがっていた・・・・・
 
そうしたひとつひとつこそが、具体的な「していただいたこと」である。
単に「遠足のお弁当をつくってくれた」というだけではまだ漠然としていて、よく分かっていなかったことに気づかないだろうか?少しだけ相手の気持ちも見えてこないだろうか?

さて、それに対して、そんな母親に対して「迷惑をかけたこと」や「して返したこと」は?

まず、遠足ではそのお弁当を全部きれいに食べて帰ってきて、ちゃんと「ごちそうさま」や「ありがとう」を言っただろうか?
学校からもち帰った行事予定のプリントを見て、いつ遠足があるかを私以上に何日も前から気にしてくれて、前日は頭が痛かったにもかかわらず買い物や準備をしてくれた母親に対して、ちゃんとお礼やねぎらいの言葉をかけただろうか?肩でも叩いてあげたりしただろうか?・・・・ etc.

「していただいこと」の具体的なことと対応させて、自分はその当時それをどう受け止め、何をしたか、といったことも今いちど自分に問いかけてみよう。

ほかの友達と比べて、本当は母親にもっとこうしてほしいのに、などと不満を蓄積させていたことはなかっただろうか?ワガママを言って困らせたり、悲しませるようなことをしていなかっただろうか?…etc.

「迷惑をかけたこと」「して返したこと」も同様に、ただ漠然と羅列するのだけでなく、ある出来事を中心にできる限り具体的に調べてみよう。

(この下の記事に つづく)
→ 内観の具体的な進め方

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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