善意がちゃんと通じる社会を!

去る10月13日に中国で起きたひき逃げ事件。あまりの悲惨さに、もうその話題を口にすることすらためらわれるが、この出来事を決して風化させてはいけないと思っている。

女の子をひいた運転手はもちろん罪に問われることになるが、見て見ぬふりをして通り過ぎた18人の通行人への非難は国際的にも波紋を広げている。

その非難のほとんどは、「目の前に幼い女の子が倒れて苦しんでいるのに…」「人としての心は?」…という道徳的な面へ向けられたものである。 私もその大多数の良識ある意見と同じく、事件に関連して3つほどブログ記事を書いた。

ただ、その一番最後に書いた「悦悦ちゃんのご冥福をお祈りします」という記事への「追記」に、単純に18人の通行人を非難するだけでは済まされない中国社会全体の問題もあるのでは?、と投げかけた。→ http://resolutely.blog6.fc2.com/blog-entry-364.html


中国はいったいいつから…?

「もともと中国はモラルのない国だ」→「だからこういう事件が起きても当然だ」「許せない!けしからん!中国なんて嫌いだ!」と2チャンネル的に言い放つのは簡単だ。

たしかに最近は、中国からの不法入国・滞在者、犯罪グループ、違法なコピーによる知的財産権の侵害、行列に並ばないマナーの悪さ…etc. 中国に対するイメージは悪いものが多い。 

北京五輪の開催にあたり中国では「行列にはちゃんと並ぶように!」「パジャマ姿で夜間街に出歩かないように!」などといった条例(?)が出されたというから、中国人のマナーの悪さは今に始まったことではなく推して知るべしだ、と。

しかし、「中国っていう国は、もともと人と関わらないように教育してきた歴史がある。またもともとマナーの悪い民族だ。だから今回のような事件も起こるんだ!」とまで批判の声が上がっているが、それは果たしてどうだろうか…?



私は前に「我為人人、人人為我」(私はみんなのため、みんなは私のため)という素晴らしい助け合い社会を象徴するような美しい言葉が中国で生まれたことを紹介した。
もともと孔子や孟子の儒教の教えをひく4千年の歴史をもつ文化国だったはずである。

また、過去の歴史をほんの少しひもとけば…
1930年の満州事変の後に満州国ができると、そこへ日本から推定33万人とも言われる人たちが移り住んだ。そして日中戦争から太平洋戦争へ…

日中戦争では本当は日本よりも中国の方が戦意は高かったといった議論もあり、ジャーナリストの櫻井よしこさんも関連した記事を書いている。

だがここでは過去の戦争において「日本と中国、どっちがより悪かったのか?」という、両国が平行線をたどる議論には触れないでおきたい。

ただ、日本も南京大虐殺や731部隊による生体実験など、中国においてとんでもない蛮行を重ねたことは紛れもない事実である。
そして、中国残留孤児の話題にだけはちょっと触れておきたい。



日本が敗戦を迎える1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日にソ連も参戦。ソ連軍が満州国へ侵攻を開始すると、満州国をはじめ中国国内にいた日本の軍人・民間人は一斉に引き揚げへと動いた。

そのとき、乳幼児を連れていた人は、子供が泣いて敵に見つかったら全員殺されると思い、泣く泣く断腸の思いでわが子に手をかけた人もいたという。
また、多くの人たちが、駅前など人通りの多い場所にわが子を残してきた。
家族で撮った1枚の写真、その子の日本名を書いた紙を毛布にくるみ、いつか再会できる日に識別できるためだろうか、耳の後ろなどに傷痕を残し…、その胸中はいかばかりだったか。

その子たちこそが、後に日本へ肉親捜しに数多くやってきた中国残留孤児である。


パンダとともに

1972年、上野にカンカンとランラン、2頭のパンダがやってきた。その年に当時の田中角栄内閣のもとで日中友好条約が結ばれ、戦後27年ぶりに国交が正常化した。パンダは友好を記念して中国から贈られたのだ。

そのころから80年代にかけて、日本に肉親捜しにおびただしい数の中国残留孤児たちがやってきた。残留孤児は数千人にも上るといわれている。

中国人から見れば、憎き敵国が置き去りにしていった子どもたちである。
決して食料も豊かではなかった時代に、その日本人の子どもを引きとってわが子のように育ててくれた養父母がいたのである。

「中国っていう国は、もともと人と関わらないように教育してきた歴史がある」なんてどうして言えようか?
世界中に戦争の傷跡は数多くあるが、敵国の子供をわが子のように育ててくれた“人間愛”を感じるできごとではないか?

しかしその中国が、いったいどうしてこんな事件を生むまでになってしまったのだろう、という点に私は注目したい。


社会制度面の問題点

文化大革命ののち、中国は急激な都市化、経済成長を遂げ、人口も爆発的に増加。
急激な時代の変化の中で、人の命に対する価値観や道徳がどこかに置き去りにされ、人の心が病んだ… もちろんそれもあると思う。 

しかし今回の事件の後に、色々と分かってきたことがある。
それは、「人助けなどに関わると、とんでもないことに巻き込まれる」という現実だ。

せっかくバス停で倒れている人を助けたのに、「こいつが突き落とした」と加害者扱いされて訴えられ、裁判で有罪となり、損害賠償を負わされた、といったおかしな事件が多発しているという。これが善意で人を助けることを阻害している背景にもあるとも言われる。

しかし、助けてくれた人を加害者扱いして訴え、決定的な物的証拠もないまま有罪とされてしまう裁判そのものが、法治国家としておかしいのではないか?

もうひとつ、救急車にかかる料金負担の問題もあげられる。
日本では救急車は消防庁が無料サービスのように行っているが、じつは一回の出動・病院への搬送に平均4~5万円の費用が発生していて、それらはすべて税金で賄われている(=国と自治体が負担している)のである。

しかし諸外国の多くでは救急車は有料、つまり受益者負担なのである。
アメリカでも州・都市によって異なるが、だいたい1回の出動で日本円にして4~5万円、中国もほぼ同様である。

しかも、倒れている人を助けようと救急車を呼んでも、搬送された人およびその家族に支払能力がない場合、通報者に請求がいくと言われている。

もし日本もこんな制度だったら、急病人やけが人が倒れていても119番通報してくれる人は大幅に減るのではなかろうか?

中国では最近、子どもの急病で救急車を呼ぼうとした親が、搬送費用を巡って交渉しているうちに子供が亡くなってしまうという事例もあったようだ。下記の記事を参照していただきたい。


救急車の費用をめぐる 湖南省でのできごと

湖南省で、救急車の出動費用を巡って値段交渉をしている間に2歳の患者が死亡するという事件が発生した。環球網が伝えたところによると…

報道によれば、6月19日、湖南省懐化市に住む2歳の男の子が急に熱を出したため、両親が男児を病院へ連れていったところ、その日の晩になって容態が悪化、より大きな病院への転院・搬送を勧められた。小児科の医師は男児の両親に対し、搬送には救急車を出動させる必要があり、そのためには4000元(約5万2000円)必要だと告げ、値段交渉はしないと断言したという。

しかし、どれだけお金をかき集めても、男児の両親には3000元(約3万9000円)しかお金がなかったという。困り果てた両親は病院の院長に電話し、出動費用を2000元(約2万6000円)まで値引いてもらうことに成功した。

だが、小児科の医師は2000元での出動に不満を示し、「2500元」だと言って譲らなかったという。双方は30分ほど価格交渉を続け、ようやく2200元(約2万8600円)に決定したが、男児は搬送中に死亡してしまった。

湖南省での救急車出動に関する料金体系は、3キロメートル以内であれば10元(約130円)、3キロメートルを超えた場合は1キロメートルごとに2元(約26円)が加算される。また、救急車に医者や看護婦が同乗する場合は、さらに別途料金が必要だ。
死亡した男児のケースは、400キロメートル離れた大病院への搬送であったため、薬などの治療費などを含めず、交通費だけで計算すれば1610元ほどになる。救急車をめぐる不透明な料金体制に乗じ、中国では山寨(ニセ)救急車のビジネスも存在するという。

(編集担当:畠山栄)


ちなみに日本では、ちょっとした風邪やけが程度でも救急車をタクシー代わりに利用する人も多く、いま問題になっている。限られた台数の救急車が本当の急患に回せないということにもつながる。 日本でも救急車を有料サービス化しようかという議論がある。

もちろん本当の急病・けが・災害救助などには費用がかからないようにするなどの配慮は必要だろう。 ただ不整脈の発作が起き、苦しくて救急車を呼んだが、病院に搬送されるまで30分以上のうちに発作が収まってしまえば、いくら病院で心電図を取っても血液検査をしても「異常なし」と出てしまうような場合どう解釈するか、といった問題は必ず起きてくる。
原則いままでどおり無料にしておいて、悪質な場合に有料に、という決め方も非常にむずかしいだろう。

しかし今も、山岳での遭難で救助ヘリが出動すれば、けっこうな請求額が後で行くようだ。気象の注意報を無視したり、安易な登山・身勝手な行動は厳に慎まなくてはならない。
だが、自然災害で孤立した人を救助するような場合は費用は国で負担するから個別にはかからない。このような二元的な考え方はなんらかの方法で可能だと思う。


善意が反映されないような社会制度はすぐに改めるべき

さていまの中国では、救急車の料金をめぐるトラブルしかり、せっかく助けた人から加害者扱いされ、それが堂々と裁判で認められて損害賠償を請求されてしまう、という恐ろしい事例もしかり、「人の災難にかかわらない方がよい」を常識化させてしまっている背景があるとすれば、それは社会制度の問題と言わざるを得ない。

もちろん女の子が車にひかれて苦しんでいる目の前を、平然と見て見ぬふりをして通り過ぎることに対して、人間としての道義的な問題はどうなのかという問題は当然残る。

ただ、善意も道徳も、それをちゃんと認めてくれる社会のしくみがあってこそ成り立つ という大前提がある。そこを抜きに道徳の強化だけを政府が通告しても意味がない。



私も救急救命の講習を受けているが、そこで最初に言われたことがある。
「救急車が来るまでの間に善意でやっていただく人工呼吸や心臓マッサージによって、もし肋骨をつなぐ軟骨を損傷させてしまうようなことがあっても、決して皆さんの責任が追及されることはありません。だからためらわずにやって下さい」ということだった。

もしそれが保障されてなかったら、せっかく善意はあっても「もし何か間違いがあったら責任を取らされる。私は医師の資格もないんだし…」と救急救命に関心を持つ人もいなくなってしまうだろう。
またたとえ医師であっても、うっかり自分の患者以外を診て医療事故があったら責任を取らされるから、と目の前に急患がいても自分が医師であることを名乗り出ないケースも出てくるかもしれない。

また先ほども書いたように、救急車を呼んであげても、もし本人に支払能力がなければ通報者に5万円も請求されるようなことがあったら、通報率は急激に下がるだろう。

善意・道徳心がちゃんと活かされるための世の中のしくみ
が必要なのである。

そこを改善するには、よその国からとやかく言ってもどうすることもできない。
その国の国民ひとりひとりが隣人に対して、社会に対して問題意識をもち、人のために何かしてあげたいという気持ちを本気でもち、それを阻害している社会制度があるとすればそれを変えるために行動を起こさなくてはいけない。 

そのためにはまず、ひとりひとりが社会に対して問題意識と関心をもつこと。
なにか自分にできることから行動に移し、変えるべきことは変えていこうとする姿勢をもつこと。
署名に協力することでもいい。街頭インタビューを受けたらきちんと自分なりの意見が言えるように、普段から問題意識と自分なりの考えをしっかりもつことも大切。 あるいはブログなどを通じてメッセージを発信することでもいい。小さな力でも皆で出していくことがやがて世論となる。

道徳・心の問題とあわせて“民意を高めること”がまず重要ではないだろうか。

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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