ニュース記事を串刺しにしてみると…

4月30日(日)

加古隆さんの♪「パリは燃えているか」を聴きながら、過去の愚かな過ちの歴史をl繰り返さないことを祈りつつ…

いま報じられているニュースを、単品ではなく、いくつかを串刺しにしてみると、何が真実なのかが見えてくるような気がします。

たとえば…


◆海自艦、初の米艦防護へ 四国沖まで、安保法制に基づき

2015年に成立した安全保障関連法に基づいて、平時から自衛隊が米軍の艦船などを守る「武器等防護」を実施するよう、稲田朋美防衛相が初めて自衛隊に命じたことが分かった。米海軍の補給艦が防護対象という。複数の政府関係者が明らかにした。


yjimage.jpg

【写真】長崎・壱岐の北西約20キロを航行する米海軍の原子力空母カールビンソン=29日午前10時2分、朝日新聞社機から、迫和義撮影

 米軍からのニーズが高かった任務で、自衛隊法に基づき、防護のために自衛官は必要最小限の範囲で武器を使える。昨年11月から12月にかけて南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の部隊に「駆けつけ警護」の任務が加えられたのに続き、安保法制に基づく自衛隊の任務が本格化する。

 政府関係者によると、海上自衛隊の護衛艦「いずも」が5月1日午前に横須賀基地(神奈川県)を出港。房総半島沖周辺で米海軍の補給艦と合流し、四国沖までこの補給艦を守りながら一緒に航行する計画とされる。

 この補給艦は、北朝鮮による弾道ミサイル発射への警戒をはじめ、日本近海で情報収集などをしている米太平洋艦隊の艦船に補給する見通し。29日に対馬海峡から日本海に入った米海軍原子力空母カールビンソンの艦隊に補給する可能性もあるという。カールビンソンは北朝鮮のさらなる挑発を抑えるため、同日から日本海で韓国海軍と合同訓練を始めた。訓練には韓国海軍のイージス駆逐艦「世宗大王」や哨戒機などが参加している。

(朝日新聞デジタルより) 



一方…

マレーシアでキム・ジョンナム氏を暗殺、国連決議に反して弾道ミサイル発射を繰り返すなど、常識では考えられない人道に反することを繰り返す北朝鮮ですが…

◆「金正恩の時代、確実に終わる」 北朝鮮元公使が会見

 昨年夏に韓国に亡命したテ・ヨンホ元駐英北朝鮮公使は25日、民衆蜂起による金正恩(キムジョンウン)政権の崩壊もありうるとの見方を示した。ソウル外信記者クラブでの記者会見で語った。日本人拉致問題を巡って、「北内部の指導層は日本にだまされたと考えている」と語った。

 テ氏は「北内部で政権に対する反感が高まっている」と説明。「住民は政権の宣伝運動に耳を貸さない。確実に金正恩の時代は終わる」と語った。

 背景の一つとして、外部情報の流入や不正の横行を指摘。「韓国ドラマを見て捕まっても、2千ドル(約23万円)払えば釈放される」と語った。「私が子供のころ、北の経済規模が南より大きいと学んだが、今は映画やドラマで南の生活水準が高いことを知っている」とも説明。北朝鮮も住民に対して「経済水準は南が上だが、米国の植民地に過ぎない」と説明しているという。

(朝日新聞デジタルニュースより)




どちらも朝日新聞(デジタル)。とくに政権寄りでも反政権寄りでもない記事だと思います。
しかし、同じ日に出されているたったこの2つのニュースを串刺しにしてみるだけで、

「北朝鮮は驚異だ」「きのうはミサイル発射の情報を受けて東京メトロも一時運転を見合わせたんだって」「本当にミサイルが飛んでくるかもしれないぞ」…という脅威論を前提に、

「日本はアメリカに全面的に協力していくんだ」と集団的自衛権の行使を当然のように扱い、日本も武力行使できる方向にもっていこうという政府の意図が浮き彫りになりませんか?

「ミサイルが発射されたら、頑丈なコンクリートの建物に避難せよ」とか「化学兵器が使われたら、窓を絞めよ、来ていた衣服は切り裂いて脱ぎビニール袋にいれよ…」などなど、じつにきめ細やかな注意書きが学校でも配布されてるようですが…

もし本当に北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射してくる危機が現実のものとしてあるのなら…
なぜ、ミサイル攻撃に対応するすべをなにも持たないまま原発を再稼働させ、ミサイル対策も皆無のまま放置するのか?

国会で山本太郎議員からの質問になにひとつ具体的に答えられなかった答弁は、まさに映画「シン・ゴジラ」の政府の危機管理能力そのものではありませんか。

そして、そんな危機的状況にありながら、大臣・副大臣など閣僚らがこの大型連休に海外遊説に出かけるんでしょうか?


状況をどう見るか?

これから書くことはあくまで私見ですが…

北朝鮮がかたくなになるのは、孤立への恐れの反動・強さの誇示と見ます。
朝鮮半島を二分する戦争(=70年前の朝鮮戦争。停戦状態のまま)によって民族は分断され、南を支援したアメリカや日本は大きな経済最長を遂げたのに対し、北はどうなのか?

南(=韓国)とアメリカとが共同軍事演習を強化することに反発し、自分たち(北)こそが正義であると…

しかし、中国やロシアからも見放されて世界で孤立すること、および核兵器の発射ボタンを押すことで全面核戦争になったら地球規模でどういうことになるか…それが分からないほど馬鹿ではないのではないか?

成功したミサイル発射は劇的に報じ、失敗したミサイル発射は国民に知らせない…
つまり国民に向けては「強いぞ」と誇示しつつ、国際的には孤立することが本当は怖くてしょうがない。
拉致問題も含めて、むしろ本音では対話のきっかけを探っているのでは…?

だから、ここでトランプ大統領の言う「あらゆる選択肢がテーブルにある」などと、シリアに対して行ったような武力行使も視野に入れてることを絶賛したり、まちがっても日本が先制攻撃に手を貸すようなことがあったら、それこそ歴史の過ちを繰り返す愚です。

日本が北朝鮮に向けていきなり武力行使することは今のところ考えにくいですが、トランプ率いるアメリカ軍が北朝鮮に早まった行動をとった場合、日本は当然ながらアメリカのやったことを批判することなく容認・絶賛するでしょう。そうなれば、日本も北朝鮮から真の標的にされるでしょう。

常識の通じる相手かどうか…と言う前に、国際社会が連携してあくまで平和的な解決を目指すべきです。
ひとたび挑発に乗って武力衝突となれば、もはや第二次世界大戦の比ではなく、地球滅亡への道へと進みます。

IMG_20170430_120700.jpg

…以上、私なりの見方に過ぎません。私は評論家でも預言者でもありません。
しかし、報じられていること・皆が騒いでいることを一方的に鵜呑みにして動揺することなく、自分なりに「なぜ?」を求めていきたいと考えています。

新聞・テレビ各社の報じ方・切り口もさまざまですが、国民ひとりひとりがさまざまな情報の中から「何が真実か?」「ことの本質は何か?」を考えて読み取る力が、今後ますます大切になってくるような気がします。

先日書いたこちらの記事もご参照いただけたら…
→ 「マスコミの影響力は大きいが」



加古隆「パリは燃えているか」

4月29日(土)


大型連休の初日

●早朝の北朝鮮のミサイル発射情報に東京メトロが運転見合わせをしたとか…?

●ミサイルが発射されたときの注意事項なるものがもっともらしく広報され、小中学校では配布されてるとか?

…それ自体意味のないことだとは申しませんが、空襲を受けたらバケツリレーで消せ、敵が上陸してきたら竹やりで戦え、と同レベル。国として、国際社会としてやるべきことは?


●米国内の憲法違反でたびたび停止されるような大統領令を出し続けるトランプ大統領が、シリアに対して爆撃をしかけたことを全面的に「賛同」する日本の政権

…かつてのトンキン湾襲撃事件は、北ベトナム爆撃を開始するための「ねつ造」だったことが判明しても、中東に大量破壊兵器など存在しなかったことが判明しても、過去の米国の武力行使について正当性がはたしてあったのかどうかの検証は一切していない。国会で野党から質問されても一切答えません。


●「憲法を改正した方がよい(改正してもよい)」と思っている人が43%…などという某放送局の世論調査結果が報じられたり…


「愚かな過ちの歴史」に逆戻りさせるような力・扇動がいたるところに働いているように思えてなりません。


加古隆 ♪「パリは燃えているか」


https://youtu.be/urlIxLTx300

ちなみに「パリは燃えているか」という同じタイトルで、1966年にアメリカとフランス合同で作られた戦争映画(フランス・レジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍によるパリの解放を描いたノンフィクションの原作)があるようです。


かつて「映像の世紀」のテーマ音楽ともなったこの曲を聴きながら、あらためて世界の平和を祈ります。

日本の、世界の指導者たちが、正しい民意によってを正しい方向に導かれますように!


答えは風の中…?


音楽や自然など美しいものを求めたり、ひたむきに何かに取り組んだり、美味しいものや可愛らしいものに癒されたり…

しかし、ふと社会・政治に目を向けると…

閣僚の失言・とんでもない法案、横暴な決め方、嘘とごまかし、議論になってない国会審議…etc. 「とんでもない」話題には事欠きません。見たくもないけど、放ってもおけない。

しかし、日本人はなぜこうもおとなしいのでしょう?

昼の食堂でニュースがかかっていて、どんなに重要なことが国会で決められようとしていても全く誰も見ていない! 野球やサッカー、芸能人のニュースの時だけ振り返る…
サラリーマンもOLも会社内の狭~い人間関係の話(それって「仕事の話」?)、あとは男性ならクルマやゴルフの話、女性なら女子会の話、アプローチしてくる男性のうわさ話…etc.

「政治の問題=わたしたち社会の問題」ですよね?

いつまでこんな政権に「数の力」を与えておくのでしょうか?
どこまでやりたい放題やられたら、どこまで国民が踏みにじられたら、どこまで切り捨てられたら、どこまで騙されたら、分かるんですか?、気づくんですか?、目覚めるんですか?

…ボブディランのように「答えは風の中」ですか?

SN上でシェアしたりコメントして拡散することも無意味ではありませんが、職場の人と、サークルの仲間と、個人的な友達と、飲み友・ママ友と…身近な人との間でも、たまにはちょっと社会に目を向けた話題を交わしてもよろしいのではないでしょうか?

そして選挙では各自の意思表示をしっかりしていくこと。
それが堕落した政治に対する正しいリアクションではないでしょうか?

1にも2にも「民意」を高めること。
そのために、これまで私がひっかかってきたいくつかのキイワードごとにまとめておきます。


◆「そういう人を選んだのはわれわれ有権者だから…」?

よく政治家が不正を働いたり、公約を平気で破ったり、悪事が暴露されたようなときに、「まあ、そういう人を選んでしまったのはわれわれ国民有権者だから…」などとおっしゃる方が必ずいます。
政治家だけを責めるんじゃなく、「見る目がなかったんだから…」という諦めや慰めにも似た思いなんでしょうか…?一見穏やかな大人の意見のように聞こえなくもありませんが、私は「あなた、民主主義を分かってますか?」と長年思ってきました。

小学校の学級委員、あるいは地域で長年よく知っている人を信頼して役員に推薦したら、じつはとんでもない人だった…というなら「見る目がなかった」ともいえるかもしれません。

でも、多くの犯罪者もそうですが、前々から明らかな犯罪者なんて少数です。まして立候補した候補者のことをわれわれがどこまで前もって知っていたでしょうか?
ほとんどの場合、公約に掲げたこと・所属政党・経歴などを見て「信用」するしかないんですよね。
その候補者が議員に当選して公約を守らなかったり不正を働いた場合、われわれ有権者への「裏切り」ですよね。そこは厳しく追及されてしかるべきでしょう?
しっかり見届けて、追及すべきは追求するまでが有権者の責任でしょう!

一方、私がよく、こんな政権に「数の力」を与えてしまう民意に歯がゆい思いをし、「こんな政権を良しとしているのも、有権者の民意だ」などと表現することがあります。
決して政権・とんでもない議員の暴挙を許す(?)意味で「まあ、そういう人を選んでしまったのは民意だから」なんて擁護したり諦めの意味ではなく、「これだけやりたい放題やられて、まだ黙ってるのか?民意はどうなってるんだ!?」という意味です。


与党は大多数の国民有権者によって「支持」されてるの?

私も中学生のころまででしょうかね、最大与党である自民党は、国民の大多数によって「支持」されてるんだ、と思ってました。しかし本当にそうでしょうか?

最近の国政選挙でも地方選挙でも、投票率は軒並み50%そこそこ。約半数しか投票に行ってないわけです。
そして、投票に行った人のうち3分の1~せいぜい半数が自民党に投票すれば、揺るぎない最大与党が過半数議席を獲得します。
半数の半数、つまり最大でも全有権者のせいぜい25%に過ぎません。その中にはいわゆる組織票や「ほかよりマシだから」という票を含んでいます。

2014年12月の衆議院の解散総選挙の後の調査によると、自民党に投票したのは全有権者のわずか17%だったというデータがあります(読売新聞調査)。
しかも、その自民党に投票した人のうち65%が「ほかよりマシだから」…これって本当に「支持」って言えるんでしょうか?

201412171031410fc_201704221124169a8.jpg

→ 
衆議院解散総選挙結果に思う
(2014年12月)


◆「しかし野党もね~」「他のどこに政権を任せられる?」…じゃない!

選挙になると「でも他の野党もね~」「じゃ、どこに政権を任せられる?」などと言ってなんだかんだ勝ち馬に一票で「ほかよりマシだから」で自民に一票ですか…?

あのね~、選挙は「今のところ政権を任せられるのはどこですか?」のアンケートでもなければ、「どっちが優勢ですか?どっちが勝つと思いますか?」の勝ち馬レースの予想でもない、まして「どこがほかよりマシですか」の消去法の選択でもないんです!

この後いくつかの論点で書きますが、自民党政権「一強」の「数の力」でやりたい放題にさせない、民主主義を取り戻す、そのための一票を投じるべきではないでしょうか?


自分たちの社会のこれからを考えて、おかしな法案、危険な道の選択にははっきり「ノー」と意思表示をする。「誰(どの政党)にわれわれ国民の声を託して国会で議論してほしいか?」を各自よく考えて候補者の中から選ぶ、それが選挙です!

毎朝「経済」と名の付く新聞を無表情に眺め一見インテリに見えなくもない熟年サラリーマンが真顔で「経済=企業の利益、経済界のための政策はやっぱり大切だよな」などとおっしゃいます。経済界・大企業を優遇すれば国民生活も豊かになる…アベノミクスをまだ信じるのですか?

201603060116264a9_20170423034336950.jpg


民進党の悪口にすり替えないで

あとよく聞くのが民進党(かつての民主党)の悪口ですね。
いまの安倍政権のさまざまな問題、一党強のさまざまな弊害を指摘していると、必ずと言ってよいほど「でも民主党はもっとひどかった」と口をはさんで来られる方がいます。それはそれ、これはこれ、全く違う話にすり替えないでいただきたい。
子どもが間違ったことをして叱られてるときに、「あの子はもっと悪いです」なんて言ったら親や先生からなんといわれましたか?

おそらく民進党を悪く言う人は、かつて政権を託した民主党に「裏切られた」感も人一倍強いのかもしれませんが、「自民か民主(いまの民進)か」「どっちがマシか」の2者択一の頭しかないんでしょうか?

私がここで言う「野党」とは、民進党だけを言ってません。また「〇〇か△△か」といった日本人の大好きな二者択一の話でもありません。
さまざまな野党の中にも光る議員はいらっしゃいますし、全国の地域ごとに立候補している野党さまざまな党の議員たちに頑張って議席を獲得していただきたいのです。自民一党強の体制がよくない、ということなんです。次をお読みください。


◆「数の力」を与えない!

先ごろのパククネ大統領の弾劾のニュースを見ていて、韓国では与党が過半数議席に達してないことを知りました。
また同時に、野党がすべて結束しても3分の2に達しないのです。

つまり与党側の主張にせよ、野党側の主張にせよ、党が結束するだけでは結論が出ないわけです。
これは何を意味するか?

安倍総理がいつも口先だけでは言っているように、「丁寧に説明」し、「しっかり議論」をし、「理解を深め」、野党も合意して賛成が得られなければ通らなくなるのです。それこそが本当の民主主義ではないでしょうか?

「ねじれ」大いにけっこう じゃないですか!
戦後の混乱期などには「安定した政権」も大切ですが、いまのように民主主義の根幹が危ぶまれているときに一強体制は危ういのです。


必ずしも政権交代ではなく 野党ゆえに期待できること

一強体制は危ういと申し上げましたが、いまは必ずしも政権打倒・政権交代を叫ぶ気持ちは私には正直あまりありません。「数の力」による一強体制が問題だと申し上げてるのです。

以前のように、それこそ1年おきにトップがころころ変わり、外国から見ていったい誰と交渉すればよいのか分からないような状態が良いとは決して思いません。

また、仮にどこが政権を取っても、与党となって政権の座についたとたんに、財界や官僚からのさまざまな「力」が働いて「国民の目線による、国民のための政治」からはかけ離れた方向に向かい、多かれ少なかれ今の自民党とも似たような政治になる可能性は、過去の経験から見ても十分あり得ます。

ならばなおさら、選挙で「じゃ、どこに政権を与えたらいい?」「ほかよりマシだから」…じゃないのです!

いまの野党には、残念ながら自民党政権にとって代わって日本のかじ取りを任せられる党は残念ながら見当たりません。

ただ、野党には、財界や官僚からのしがらみを受けることのない野党ゆえの役割(=国民の目線で国会で議論する使命)があるのです。その野党に1議席でも多く伸ばしていただくこと。

2014年12月の衆議院解散総選挙では、日本共産党がそれまでの9議席から21議席へと大きく伸ばしました。
議席数が増えることで、国会での質問に与えられる時間が長くなり、政府案に対して鋭く切り込んだ質問ができる時間が多くなるほか、議案提案権というものも獲得できます。より国民の視点での議論をしてもらえるようになるはずです。

日本共産党に限らず、全国の選挙区で皆がそれぞれに「この議員を応援したい」と思う候補者を国会に送り込むというのが、本来の選挙の原点のはずです。

有権者は、勝ち馬レースの予想、強そうなところに「他よりマシだから」で一票ではなく、「国民の代弁者」を応援して育てる という意識があってよいはずです。


◆議員を「見守る」視点

あと、そもそもの疑問ですが、ある党に所属しているからと言って全員が党としての意見と完全に同一である必要がありますか?

本来の議会制民主主義では、何党に所属していようと、法案や政策など個々の決議には議員ひとりひとりの意志で賛否を出すべきなのですが、実際のところ、所属政党で統一して全員が賛成に回らないと「造反」などと呼ばれますよね。

国会法にも議員運営法にもそんな規定はなく、あくまで党の規則にあるだけです。議員たちは長いものにまかれて党に所属できなくなることを恐れるんです。

ならば、われわれ有権者は、地元で当選して国会に送り込まれた議員に対して、「こんな法案に賛成するなら、二度とあなたには投票しませんよ」と言ってもよいのです。

たとえ自分が投票した候補者でなくても、「地域の代表」として国会に送り込まれた議員に、地元有権者の一人として「二度とあなたには投票しませんよ」と言うことは決してウソでも脅しでもありません。

有権者みなでそういう監視の目をもっていけば、党にいられなく以前に議員として当選できなくなるんだぞ、ということを知らしめることができるはずです。


無所属、当選したら自民党…?

最後にひとつ「無所属」というのも要注意です。
立候補の時には「無所属」なのに、当選したら「自民党」となる…これってどうなんでしょう? 
将棋の「歩」が敵陣に入って「金成り」になるような変身ぶり、しかも予測不能ですね!

小選挙区、比例代表など今の選挙制度にも問題はありますが、所属政党で候補者を選ぶ有権者にとってこれは「裏切り」ともいえるとんでもないことです。

有権者は前もって「無所属」の立候補者にその意思をしっかり問い、もし選挙後に変身したらそれは「裏切り」としてリコールの対象にすべきでしょう。

所属政党の鞍替えしかり、不正しかり…

 「センセイに なってしまえば 別の人」なんて下手な川柳が笑いにならないように!

最後に、冒頭に書いたように政治の話(=私たち社会の大切な話)をタブーのように避けるのではなく、もっと日常的に考え・表現していきませんか? 一昨年の誕生日に書いた記事です。

→ 考える・表現することの大切さ (2015年9月)


2017年4月22日 章

教育勅語 と 基本的人権

2017年 4月3日(月)

最近「教育勅語」という用語を耳にする機会が急に増えました。ご存知のとおり、明治政府が教育の根本理念として掲げたものです。
なにかと話題の事件のことからちょっと離れて、あらためて「教育勅語」と「基本的人権」について考えてみたいと思います。


そもそも 教育勅語 とは?

教育勅語とはどのようにしてできたのでしょうか?

鎖国を解いて海外からさまざまな情報が入ってくるようになった明治時代、諸外国に負けない強い国づくりをすすめるべく、西欧(とくにドイツ)に視察団を派遣したそうです。
ドイツをはじめとする西欧諸国では、法律やあらゆる社会規範の根底に、キリスト教の思想・理念が強くあることに日本人は驚いたことでしょう。

日本にはキリスト教の理念はもちろん、それに代わるべく日本人全体に共通する理念や心のよりどころとなるものが見当たらなかった。そこで「天皇」を中心に日本国民の規範となり教育理念の中心となるべきものとして、1890年(明治23年)10月に発布されたのが「教育勅語」です。

「教育勅語」の中には、江戸時代に普及した儒教の教えに基づくことも書かれています。すなわち、親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼して…といったことです。

しかしもっとも重要なのは「朕(天皇)の臣民」という考え方。つまり「主権」は国民ではなく「天皇」にあり、国民は「臣民」と表現され、国のため天皇のために尽くせということです。

教育勅語
教育勅語(口語訳)

この中でとくに重要なのは…、

「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ(口語訳=万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」というくだりです。

国民は国のため、天皇のために命をも投げ出せ、というのです(←キリスト教の教えにも、西欧のどの国にも、このような「国のために命を差し出せ」などというものはありません)。


いわば「教育勅語」は、日本が諸外国と戦っても勝てるよう、科学技術はもちろん、日本人全体の精神力・士気を高めるためにつくられたのです。

教育勅語は全国の学校に配布され、天皇の肖像と並んで大切に掲げられ、火災などの際には校長は是が非でもそれを守らなくてはなりませんでした。実際、燃え盛る火の中に飛び込んで命をなくされた方もいたそうですね。

この「天皇のため・国のため…」という理念が、国家総動員法治安維持法ともつながり、戦争への道をまっしぐらに進ませ、「一億玉砕」を唱える原動力ともなっていったのです。
靖国の資料館に残る、若くして命を散らせていった特攻隊員の親にあてた手紙を見ると、まさしくこの教育勅語の教えそのままだな…と。

そして敗戦後の1948年(昭和23年)、衆・参両議院の合意のもとに、この教育勅語は廃止されました。

新憲法下においては、主権は天皇ではなく「国民」であり、国のために命を差し出せなどという理念は「基本的人権」に反している(→後述)からです。



この話、私も昨今あらためて検索して調べたこととも重なりますが、じつはきのう(4月2日)、私の通う教会の礼拝で、牧師先生のお話しの中で出た話題を引用させていただきました。

もちろん礼拝は、現政権を批判する場ではありません。具体的な名指しでの批判はありませんでした。

しかし、今日なおこのような「教育勅語」を暗唱させる幼稚園があり、それを推奨するかのごとく発言をする政治家が現に少なからず存在することを覚え、日本が戦前の過ちの道を再びくりかえすことのないように、世界の平和について心から祈れるように…と。

4月のイースター(キリストの復活)の前のこの時期は「受難節」、わたしたち人間の罪・過ちについてさまざまな角度から考えさせられます。
はるか昔のイスラエルやエジプトで起こった話だけを例にするのでなく、今まさに私たちの生きる社会で起きているさまざまな問題にも目を向け、人間が愚かな過ちを繰り返さないように…

一歩踏み込んだ内容だな、と思いつつ大きくうなづいて聞いていたのは私だけではありませんでした。


◆なぜいま、教育勅語が…?

先述のとおり「教育勅語」の中には、儒教の教えに基づく「親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼し」といった人としての生き方についての記述もあります。そこだけを見ればたしかに間違っていません。

今日、家族間で殺人事件が起きたり、「自分さえよければ人のことなんて関係ない」といった動機で、信じられないような悲惨な事件が多発しています。

競争社会に疲れ、人の心が渇いて、人の痛みを理解する想像力や思いやりの心が枯れ、自分の目先の悩みや欲望のためなら手段を選ばない、短絡的でわがままな犯罪に…

そうした心の渇いた時代だからこそ、なにか「世のため人のため」「献身的な精神」「国のため」…といったことを「美徳」として掲げたくなるのかもしれません。

私もこのブログの中でしばしば、「経済=カネ儲け至上主義」、「自分のことだけでいっぱいいっぱい」、「社会にも目を向けよう」、「思いやり・想像力の大切さを」…といったことも色々と書いてきました。

しかしそれが、なぜよりによって「教育勅語」なのでしょうか?


宗教はタブーだから?

仏教でも儒教でもキリスト教でもイスラム教でも、「人としての道」の教えには大きな違い・誤まりはないと私は考えています。人を犯し、人から奪い取り、人と争うことをすすめるような教えはありません。

どんな神を信じようが、健全な宗教であればおよそ世界中の宗教は「人としての正しい道」を求めてきたはずで、人として敬うべきものを敬い、隣人と仲良く…ということは共通しているはずです。

アメリカで9.11のテロが起きたあと、イスラム教徒全体が「悪の根源」ように誤解されて差別・偏見が生まれました。アメリカ国内で、なんとキリスト教の牧者がイスラム教の経典であるコーランを燃やす…といった愚かな行動もありました。イスラムの経典のどこにも、自爆テロの薦めなど書かれていません。

人類が宗教の違いを理由に偏見をもち、争い憎み合うことは、本当に愚かなことです。


一方、今日の日本では、憲法のもとで「宗教の自由」が保障されています。宗教は人それぞれの心の内にあるもので、決して強制すべきものではありません。

そのことが、日本においてはある特定の宗教について口にすることそのものをタブーとするような風潮にもなっているように思います。
何を信じ、何を敬ってもよいのですが、なんの信仰心も敬う心もない状態で、心が枯渇してしまって、自分の目先の快楽追求だけに…それが今日の日本ではないでしょうか?


その点「教育勅語」なら「宗教」ではないし「いいことも書いてあるから」…?

…もしそのレベルで、政権の中心にいる人たちが「教育勅語には親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信頼し、など良いことも書かれており、それ自体否定されるものではない」として、たとえどんな形であれふたたび教育の現場に復活させようとするならば、あまりにも歴史認識に欠ける、無知ゆえの危険極まりない考えだと言わざるを得ません。

それは、次の「基本的人権」と根本的に矛盾するからです。


◆(基本的)人権とは?

冒頭の、明治に西欧に派遣された視察団たちが見たこと、およびその報告を受けて「日本の国づくり」をすすめた人たちが、なぜ「基本的人権」について考えを深めなかったのだろう、というのが私の大きな疑問です。

私は仮にも法学部出身ですが、学生時代から漠然とながら「権利って何だろう?」ということを考えさせられてきました。逆に言うと、それまであらためて「権利」について考える機会がなかったのです。

「選挙権」に代表されるように、一定の年齢に達し、一定期間その土地に居住し、住民税を払い…一定の条件を満たし、伴う義務を果たしている者に対して与えられる「権利」。
法律や条例で定められた条件を満たせば、国や自治体から「認められ」「与えられる」権利。その種の権利はたくさんあります。法律で定められた「〇〇権」と呼ばれるものはほとんどこの類です。

一方、わたしたち日常においてしばしば口にする「権利」は…?

*「私には~~する権利がある(=当然でしょ!)」
*「あなたにそんな権利はない(=誰の許しを得て~?、あんたいったい何様?)」

自分がもつことは当然で、人(相手)がもつことはけしからん…まるで核兵器みたいなものですか?(笑)



江戸時代まで、日本人にはあまり「権利」という概念そのものがなかったのではないかと思います。それが明治時代になって、明治憲法ができて選挙権が与えられ、長年の苦労を経て勝ち取ったものではなく、気づいたら「民主主義」や「権利」を手にすることとなった…
ですから私と同様、「権利」についてあらためて深く考える機会がなかったのかもしれません。

さて、あらためて「(基本的)人権」とは何でしょうか?

一定条件を満たして、人から認められ、国から「与えられる」権利でしょうか?
違いますよね。

「人権=人として生きる権利」とは、命を授かったときからみな平等に与えられているもので、国から認められて与えられるものではありません。

命はなにものにも代えがたい重いもので、授かったものを大切に活かして天寿を全うすべきもの。それが人の尊厳にもつながるわけですね。

それを国のために差し出せなどとは決して言えないはずです。
そこがまさに、教育勅語が基本的人権と大きく反するところなのです。



さらに言えば、「生きる権利」はヒトだけでなく、生きとし生けるものすべてに授かったものです。

と言うと、「じゃ、あなたは動物・魚などの肉を一切食べるな」と言われそうですね。たしかに戒律の厳しい宗教の中には、一切の殺生を禁じ、肉類は一切食べてはいけない、というものもあります。

しかし、そこを突き詰めていくと、地球上の肉食動物はすべて「悪」で否定されてしまいます。
また、菜食主義なら問題ないのか?、植物だって、痛いと叫びはしないが生き物じゃないか…etc.
そうした不毛の極論をここでするつもりはありません。

要は、生きるためにいただいている命に感謝する、必要以上の無駄な殺生はしない(=肉食動物と同じく)、食べ物に限らず私利私欲はほどほどに、与えられていることに感謝を…それで良いと私は思っています。

ナマケモノ

むしろ、1日にわずか8gの葉っぱを食べれば生きていける平和な生き物さえ絶滅の危機に追い込んでいる…そのことを深刻に受け止めるべきではないでしょうか?

なお人権については、ここに書いたこととも重複しますが、以前詳しく書いた記事があります。
→ 権利=授かったものへの感謝から(2015年7月)


★ 追 記

政府は、「教育勅語を教材として用いてもよい」との閣議決定をしました!

1_2017040323202218e.jpg 2a_20170403232023041.jpg

松野文部科学大臣によれば「歴史の理解を深める観点から、社会科の教材として使う分には…」、つまり私がここまで書いてきたような、過去の誤ちの道を伝える一環として取り上げるならば…という意味に解釈できます。

しかし、菅官房長官の会見によると…

「親を大切に、兄弟姉妹仲良く、友達を信じる、といった内容が含まれており、そこは否定されるものではない」→「道徳の観点からも学ぶべき点がある」…つまり稲田防衛大臣とまったく同じ考えです!

2b_20170403232024ecf.jpg 2c_20170403232025710.jpg

そもそも教育勅語のどこが問題なのか?
なぜ戦後の衆参両院で教育勅語が廃止されたのか?基本的人権との関係は…?
その本質をまったくわかっていない輩たちが自民党内(しかも政権の中心)に少なからずいるということです。

そんな教育勅語を、たとえどんな形であれ、なぜ今ふたたび教育の現場に登場させようとするのか?
しかも、たった1度の閣議決定で決めて良いのか…?
3日(月)のテレ朝「報道ステーション」ではそのあたりに一歩踏み込んだコメントをしていました。

「体育の日」を前に…

10月7日(金)

10月10日は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックが開幕した日を記念して「体育の日」となりました。今年はハッピーマンデーがちょうど10日に当たるので、本来の10日が「体育の日」となります。
そこで、その日を前に…


街路樹を伐採しなくてはならない必然性は…!?

千代田区・街路樹1

お上の決めることにいちいち反対する訳じゃありませんが、何でもかんでも「東京オリンピックのため」と称して巨額のお金が使われようとしています。

わずか2週間の「おもてなし」のため、仮にその後もレガシー(遺産)として公共の福祉にと言われても、本当に必要なのか疑問の多いものもたくさんあるように思えてなりません。

そのひとつ、千代田区では、オリンピックのために大規模な道路工事を計画しています。
工事に伴い、白山通り、明大通り、神田警察通りで、300本もの街路樹が伐採されてしまうというのです。


千代田区・街路樹2

220mの自転車道を作るために、2億円もの税金を費やして業者に発注しています。
区役所は伐採について、事前に区議会にも住民にも知らせることはありませんでした。

伐採当日の夜になって、住民たちの反対によって工事は一時中断されました。
伐採に反対し、木を愛する人たちからの陳情や署名が提出されていると聞きます。
→ 
千代田区の街路樹を守る会
★上記の写真・図もこのページから借用しました。



国をあげての大イベント?

担当大臣まで置いての国家重大プロジェクトのような様相ですが、トータルでいったいどれだけの予算規模になるのか?
二兆円とも三兆円ともいわれていますが、今現在どう見積もっているのか?

いま開催中の臨時国会で野党から厳しく問われても、丸川担当大臣は「主催は開催都市である東京都とIOCで、国はあくまで支援の立場だから(予算も含めて)決める立場にない」と繰り返すばかりで、最終的にいくら税金が使われるのかは不明のまま。

多くの人に親しまれているあの原宿駅も、オリンピックに合わせて新しい駅舎に建て替えようなどという話もあります。

IMG_20161014_135036.jpg

本当に必要なのか?、何が、どこまで、なぜ、必要なのか?

そのあたりを誰が最終的に判断するのでしょうか?
われわれが納めた大切な税金は「打ち出の小づち」ではありません!


国としての優先課題は?

アスリートたちにメダルへの期待を託してのお祭り騒ぎも結構ですが、「経済効果」の名のもとにどんどん勝手に進められてはたまりません。

東京都(行政区も含む)も国も、もっと他にやるべきことはないのでしょうか?

東日本大震災から5年半経つのに未だ元の生活に戻れない人たち、さらに熊本をはじめ各地での大きな災害からの復旧は?、福祉や教育など国民のための優先課題は…?


年金あれこれ

8月26日(金)

われわれから集めた年金を、国内外の株などに「投資」。
昨年度(2015年4月~2016年3月)の損失は5兆 3千億円あまり!

そして今年(2016年)4月から6月までのわずか3か月間で、またしても損失が5兆 2千億円!
昨年からの合計で10兆 5千億円あまりにのぼります!

IMG_20160826_191213.jpg IMG_20160826_191300.jpg

GPIFの森新一郎氏(広報責任者)は、「イギリスのEU脱却などの外的な要因が大きく影響」とし、「基本的な方針は変える必要はないのではないか」と発言(NHK「ニュース7」より)。



アベノミクスの目指す「デフレからの脱却」は、インフレ政策で物価を上げ、金利を低くし、お金をただ貯金して眠らせておいても価値は下がる一方だから、積極的に投資しましょう、というベクトルです。

それによってお金の動きを活発にし、見かけの数字を上げて景気を良くしようというもの。
弱者はどんどん圧迫され、救うための施策はどんどん切り捨て、大企業やお金持ち富裕層にどんどん投資を呼びかける、いばわギャンブル政策

それは、このブログ内「★豊かさとは…?」というカテゴリーにも繰り返し書いてきたことです。
→ アベノミクスは投資のすすめ 

今回発表された運用の損失について、短期的とか長期的とか、外的要因とか、見方・言い方はいろいろあるでしょうが、そもそも国民から預かっているものを国がギャンブル投資で運用するということ自体、私には非常に違和感があります。




一方において、同じ年金でも違う話題ながら…

民主党政権下の2011年6月(=東日本大震災から3か月後)に廃止された、かつての悪しき制度「地方議員年金」が、いま自民党政権のもとでひそかに復活されようとしている、という話題です。

13962564_661871943989105_2586435363567917133囲み

あえて私からはこれ以上コメントはしません。

年金って、そもそも何なんでしょうか?
みなさんどうお感じになりますか?

アマチュアスポーツの祭典 アスリートたちの夢を!

8月10日(水)

暑い夏、リオでの五輪の熱い戦いに連日沸いています。日本の選手たちもさまざまな種目で大活躍しているようですね。

とくに、体操男子の団体金メダルは素晴らしかった。怪我やスランプ、プレッシャーもあったでしょう、よくあそこまで邪念を振り切って演技に集中し、ミスのない完璧な演技で見事世界一に輝いたな、と。
あの選手たちの笑顔に感動と勇気をいただいた方も多いことでしょう。

そこに水を差すつもりはないのですが…

連日のマスコミの報道は「メダルはいくつ取れるか」ばかり騒ぎすぎてないでしょうか?
こういうときだけ「ニッポン、ニッポン」と異様な盛り上がりをして騒ぎ、メダルを「期待」することが、本当に「応援」なんでしょうか?
選手たちの素晴らしい努力や夢とややずれたところで騒ぎすぎてないだろうか?

…と、私はふと思ってしまうのです。

そういうことを口にすると誤解を受けます。
みんながお祭りとしてオリンピックを楽しみ、日本の選手を応援しているのに…と。


◆最高の試合を「楽しめる」こと

私がふとそんなことを思ってしまう背景には、実はロス五輪(←だいぶ古い話で恐縮です。調べたら1984年でしたね!)の時の、あるコラムが頭にあるからなんです。

ロス五輪の時、なんの競技だったか忘れましたが、日本の選手にインタビューしたら「思いっきりいい試合を楽しめました」というコメントが返ってきた。それに対して国内でブーイングが起きたんです。

「日本を代表して送り出され、メダルを目指すべき立場にある選手が『楽しめた』とは何事だ!、けしからん!」…と。

それに対して、元体操選手の山崎浩子さんが、とてもいいコラムを書いていたのを覚えています。

当時私の実家では東京新聞を取っていて、そのコラムを切り抜いてファイルしたのを覚えてます。
さすがに今は手元に見当たりませんが、そのコラムの骨子はこうでした。

オリンピックを目標に4年間努力してきて、世界の最高レベルの選手たちが集う大舞台。緊張もするし、プレッシャーも当然あります。

でも、そこまで努力してたどり着いた人だけが立てる世界最高峰の舞台。そこで緊張のあまり力が出せないのではなく、世界各地から選りすぐりで難関を潜り抜けてきた最高の仲間たちと、思いっきり自分の力を出し切っていい試合ができたとき、そこには他では決して味わえない最高レベルの『楽しさ』があるのです。

決していい加減な遊びレベルの「楽しみ」ではなく、「楽しみ」にもいろんなレベルがあるということなんです。

そんな内容だったと記憶しています。

どうも「楽しい」という言葉は、安易でいい加減なもの、不真面目で不謹慎、というイメージでとらえられがちですが、そこを山崎さんは批判することなく、上手な表現で伝えてくれていたんですね。

これはスポーツの世界に限らず、舞踊でも音楽でも、どの世界でもいえることではないかと思いました。


4年に一度集う、世界の最高レベルの「仲間たち」

私はどうしてもショパンコンクールチャイコフスキーコンクールなど、音楽の世界と比較してしまうのです。

オリンピックと同様、ほぼ4年に1度のペースで開催され、世界各地から若い演奏家が最高水準の演奏を披露し、優勝者が決まるのです。先だって亡くなられたピアニストの中村紘子さんをはじめ、日本人の優秀な演奏家たちもこれらのコンクールに上位入賞を果たし、ソロ活動を展開されてきました。

コンクールですから、もちろん順位が決められる「戦い」なわけです。4年後にはさらに若い人たちもどんどん出てきますから、参加する人たちにとってチャンスはそう無限にあるわけではありません。

まさにオリンピックと同じだと思うのです。

最終的に1位・2位・3位…と順位がつけられるわけですが、世界のさまざまな国の若者が、同じ作曲家の作品に挑み、技を磨いてきたわけです。他国からエントリーしてきた人たちは、決して「敵」ではなく、見方によっては同じテーマを共有するかけがえのない「仲間」ではないでしょうか?

たしかに相手国からの参加者は「ライバル」でしょうが、決して「国」を代表して「戦果」を期待された「兵士」ではありません。

努力して積み重ねた結果を思う存分に発揮し、世界最高レベルのステージに立てることを心から「楽しめ」たら、きっと幸せだろうなと想像します。



音楽とスポーツとの違いは?

しかしそうした音楽コンクールは、オリンピックのような「国民的な盛り上がり」はありません。日本人が上位入賞すれば、後日ニュースなどで紹介される程度です。
ある意味気の毒なようにも思いますが、逆に変な意味での「日本代表」的なプレッシャーはなくていいのかもしれません。

しかし、このスポーツと音楽との違いって何でしょうね?
スポーツ人口に比べて音楽人口はそんなに少ないのでしょうか?
それもあるかもしれませんが、ひとつにはスポーツの分かりやすさ があると思います。

楽器演奏、バレエ、フィギュアスケート…それぞれ、単純な技術点だけではなく、表現力、芸術性といったことが大きな評価要素になります。そこは一般の人にはわかりづらいのかもしれませんね。
(もっとも、少し見ていれば、本当に素晴らしい演技には吸い寄せられるものがあり、素晴らしいものは素晴らしいと分かると思うのですが…)

一方スポーツは一般に、ゴールにボールが入ったかどうか、持ち上がったかどうか、飛べたかどうか、得点が入ったかどうか…とにかく結果が誰の目にもはっきりと見えます。戦いぶり、精神力、集中力などもすぐに結果に表れます。

そして所属チーム「ニッポン」の結束意識を高める力も大きいのでしょう。


オリンピックには巨大なお金が動く

音楽などの芸術の世界とスポーツとを一般論で比較する以上に明らかなこと、それはオリンピックの長い歴史があること、そして開催地では巨大な経済効果をもたらす、ということがあります。

スタジアムや各競技場、選手村などの整備はもちろん、世界からアスリートを迎えることを前提に、鉄道や道路などのインフラ整備が進む…といった大きな波及効果があります。
選手たちの日頃の練習を支えたり用具や服を提供するスポンサー企業の力も大きいです。

そうしたことが、政治的な力、ひいては国の利権にまで絡んでしまうこともあります。
4年後の東京五輪に向けても、政治の世界では「東京五輪を何がなんでも成功させる!」が合言葉になってますし、そのためにすでに大きなお金が動き出しています。

新国立今日事業プラン

建築不可能ともいわれたあの奇抜なデザインによって、予算規模も当初の予算枠を大きく膨れ上がらせました。

福祉や、災害からの復興など、国内でやらなくてはならないことも山積している中で、弱いものを守るための予算はどんどん削られる一方で、4年後のわずか2週間のオリンピックに向けて使われるお金はどこまで膨らみ続けるのか?、バランス感覚、優先順位としてどうなのか?

すでにそういう声は多くの方の間で広まり、あらたに就任した都知事もそうした期待に応えてきちんと見極めていくと公言しています。


…まあ、こういうことを書くから、私はオリンピックに対して否定的だ、スポーツに理解がない、国民レベルでみんな盛り上がってるのに…と「非国民」のように言われるんでしょうね(笑)。


アスリートたちの夢の懸け橋に栄光あれ!

冒頭にも書いたように、4年間たゆまぬ努力をしてきて、世界の舞台で競い合うアスリートたちのことを、私は決して否定するつもりはありません!

芸術でもスポーツでも、世界最高レベルの舞台に立つ人たちに、大いに楽しんで実力を出し切ってほしいと願う気持ちに変わりはありません。

それだけに、あまりにもメダルの数を競うだけの熱狂になったり、妙に評論家のような分析をして勝敗を予想したり、かつてのロス五輪の時のように選手たちの「最高の試合を楽しめた」という言葉に「けしからん」などという声が飛び出したり…

アスリートたちの純粋な気持ちを逸脱して騒ぎすぎないでほしいと思うのです。


選手の家族・友人、支えてくれてきた郷里の人たち、出身校のひとたちが「メダルを期待してますよ」と言って激励・応援するのは当然です。「メダルを期待してますよ」という表現そのものを否定するつもりはありません。

ただ、画一的なメディアの扇動で、とにかくニッポンの選手たちに1つでも多くメダルを、と騒ぎすぎるのはちょっと違うのではないか、というところなんです。その微妙なニュアンスを感じていただけたら…

また、アマチュアスポーツの祭典であるオリンピックを、あまり政治・カネ・国の利権などにまみれさせてほしくない、言い換えれば素晴らしいアスリートたちの夢を「利用」しないでほしいと願うところです。

今は五輪の真っただ中、どうかこれまでの努力を最大限発揮して、自分らしく、大いに楽しんできてください、と私はエールを送ります。

参院選を前に…

7月9日(土)

参院選を間近にひかえ、私なりの雑感をつづらせていただきます。
政治向きの話はちょっと…という風潮が日本には根強いですが、社会の一員として、子どもたちに引き継ぐ日本のことを想い、これぐらいは考えておきたいと私は思います。少々長くなりますが、ご一読いだけたら幸いです。


報道に見る自民党の七不思議

★どことは言いませんが、いわゆる御用新聞・御用テレビでは「自民単独過半数」とか「改憲勢力3分の2をうかがう」といった表題がやたら目につきます。なぜ…?

★報道は連日「都知事選」フィーバー。目の前に迫っている参院選に向けての議論はほとんどない。なぜ…?

★1週間前の時点で「期日前投票」が前回の選挙の1.8倍!
政治や日本の将来をあまり真剣に考えてなくて、いわゆる勝ち馬に一票で「やっぱり自民かな?」という人がわざわざ期日前投票に行くでしょうか? 期日前投票した人たちがどの候補者・どの党に投票したかはもちろん不明ですが…

★選挙で「国民の信を問う」のに、なぜ論点隠し?
前回の選挙でも、選挙前は「経済政策」しか口にしませんでしたが、過半数議席を獲得したとたんに、派遣法の改悪・介護報酬のカット・法人税のさらなる減税など「強きを優遇し、弱きを切り捨てる」矢を次々に放ってきました。そして集団的自衛権を含む安保法制も、質問に正面から答えず、十分な議論もしたとはいえない状況で強行に採決。選挙前には一切口にしなかったけど、それこそ「粛々と」準備をしていたわけです。

「憲法改正は今回の選挙の争点ではない」と公言してます。なぜ…?
そもそも改憲を目指す自民党が、何を狙って、憲法のどこをどのように変えようとしているのか、その心は?…といったことを一切出していないから、国民有権者の間でも野党の間でも、改憲に関する議論にならないのです。議論させたいくないんでしょうね。
ならば、今回の選挙は、いったい何を問うための選挙なのか…?

★政権与党は、投票率を下げたいのか?
御用メディアにはあまり参院選を大きく取り上げさせず、おまけに選挙当日の投票締め切り時刻もなぜかいつのまにか早められている!(←ご存じでしたか?要注意です!)

★そもそも投票率が低ければ低いほど有利という政権与党って何?
自分たちと密接な関係にある経団連・大企業にばかり有利な政策をすすめ、組織票で安泰。
しかし昨今の若者のデモをはじめ、批判も高まっている。国民は怒っている、日本の将来を不安に思っている、本当に信を問うたら危険…ということを自民党自身がいちばんよく分かっているのでは…?


都知事選 「小池の乱」の意味するところは?

目の前の参院選以上にフィーバーしている「都知事選」ですが、ちょっとおもしろい展開になってきましたね。とくに私が着目しているのは「小池の乱」です。

小池百合子氏が、自民党の推薦も受けないまま立候補を表明。前後を考えもしないで無謀な出方、ずぶの素人か?
しかも掲げた公約の1番目が都議会の「冒頭解散」!?
都知事に議会解散権はないのに何を言ってるんだ?…など、小池百合子氏をさげすむ声も多いようですね。

たしかに、今現在自民党に席を置く小池氏の悪口を言うのは簡単ですが、私はちょっと違う見方をしています。


自民党に反旗を翻した意味とは?

まず、自民党の推薦を受けないで単独行動に出たこと。「私は自民党員として立候補しました」「離党は考えていません」と言ってはいますが、最悪除名処分を受ける可能性もあることは当然覚悟の上でしょう。

なにより「しがらみなく戦える」という言葉、何かを暗示しているように私には思えます。
また、「自民党は家族的ないい政党ではあるけれど、都連(自民党)は改革しなければならない」とも言っています。

これらは明らかに自民党への挑戦状です。反旗を翻し、決別する覚悟を決めたように私には見えます。


たしかに都知事になっても、都議会を解散する権利はありません。
都議会を解散するためには、不信任案を提出・決議させて、「知事の辞任」「議会の解散」かという選択肢にもっていく。もうひとつの方法は都民有権者による「リコール」です。

そんなことも知らないはずはないのに、あえて立候補に当たって「冒頭解散」という表現をしています。当選したら早々に不信任案でも出させるつもりなんでしょうか…?

どんなシナリオを描いているのか、単なる有権者へのアピールなのかは分かりませんが、少なくとも都民(国民・有権者)に訴えようとしているのは、自民党が過半数議席を占めている今の都議会そのもののあり方を問うということです。

舛添氏の疑惑追及のため百条委員会を設置しようという野党案を、自民党の過半数議席はあっさりと否決し、疑惑を不問に帰しました。

舛添氏に「辞任」を最終的に迫ったのは自民党でした。
野党からの「不信任」決議は避けられない状況になってきて、参院選も近づく中、このまま舛添氏をかばっていたら自民党への信用問題にかかわると判断したのでしょう。

「不信任決議案」が出てしまったら、「知事の辞任」か「都議会の解散」という選択となります。
自民党・都連としては、議会の解散は避けたかった、それは明らかです。



舛添氏の辞任で、連日の報道はなくなり、火は消えたように思いますが、都民・国民の政治への不信感は消えていない。そこを小池氏は突いてきたのでしょう。

3つ掲げた公約の残る2つも、目安箱のようなものを作って不正を告発させること、そして舛添問題に対して厳しい第三者機関を設置して追及していくこと。

東京五輪のこと、都政のこと…たくさん課題・テーマがあるにも拘わらず、自民党と刺し違えてでも、あえて不正疑惑の追及、政治倫理をあらためて問うところに焦点を絞ってきたわけです。



◆「パラシュートなしで飛び降りる」

ここまでトータルに見て、たしかにそれなりの覚悟が伺えます。

小池氏は、細川総理・小泉総理の時に入閣して以来、あの小沢一郎氏など「時の勢力」にじつにうまく取り入って頭角を現してきた人物。好き嫌いは別にして、時の流れを先読みしてきたとも言えます。

その小池氏が、参院選を間近に控えたこの時期に自民党に反旗を翻した…それは何を意味するのでしょう?

「小池の乱」を受けて、他の候補をどう擁立するか、自民党も野党も、ハチの巣をつついたような騒ぎになってます。見方によっては、自民党はもはや先が見えている、腐敗している、小池氏もいいかげん愛想をつかして内から反旗を翻し、決別を覚悟して勝負に出た…

それを、この参院選直前に都民だけでなく国民有権者にアピールしているようにも見えます。

以上、あくまで私の勝手な見方をつづりました。


さて、いよいよ参院選について。
これはもう、前回の選挙の前後など、これまでもしばしば書いてきたこととも重複しますが、あらためて。


勝ち馬レースの予想ではなく

私はとくに「何党を支持しましょう」「何党はダメです」と申し上げるつもりはありません。
いまの安倍政権を良しとし、きちんと明確な理由があって自民党を支持されている方に、とやかく申し上げるつもりは毛頭ありません。

ただ、私たちの社会の問題、日本の将来を考えたとき、本当に今の安倍政権の目指そうとしていることをそのまま「数の力」で押し通されて良いのか、という懸念を持っています。


「どうせ変わらないだろうから」「よくわからないから」…と投票へも行かない人が有権者の半分近くいる、そんな状況で本当に良いのでしょうか?

「いまの与党もいいとは思わないけど、しかし野党もね~」「じゃ、どこに政権を任せたらいい?」とおっしゃる方、なんだかんだ「とりあえず自民」で一票を投じている方。



前々から書いてきたように、選挙は大勢をうかがって「どっちが勝つかな、有利かな?」という勝ち馬レースの予想ではありません。
「どこに政権を取らせたらいいと思いますか?」とアンケートで聞かれてるのでもありません。ましてAKBの総選挙のような人気投票でもありません!

仮にいまの政権与党を良しとするとしても、単独過半数である必要があるのでしょうか?
自・公あわせて3分の2、なんでも「数の力」で勝手に決められてしまう政治をこのまま続けさせてよいのでしょうか?

身を投げうって国民のことを本当に思ってくれて、信頼できる政権なら、「安定政権」も望ましい姿です。
しかし今の政権が本当に国民のことを第一に考えていい政治をしてくれてると言えるでしょうか?

このまま「安定政権」という名の国民不在の「政権の暴走」を良しとするのか、それとも野党の声も高めて民主主義を取り戻すのか…?



◆「数の力」の傲慢さ・怖さ

昨年の安保法制をめぐる国会審議でも、何を・どのように・どこまで、といった法案の定義・目的・範囲がきちんと明確に示されたでしょうか?

野党や国民の不安の声に、きちんと正面から答え、十分な審議を尽くしたと言えるでしょうか?
質問にまともに答えず、時間を重ねれば重ねるほど矛盾点や危険性が暴露される法案を、時間を切って採決に踏み切りました。

しかも最後の採決は、議長の信任をめぐるどさくさに紛れて騙し撃ちのような強引な採決。
あれが本当に民主主義の姿なんでしょうか?

どんな法案にしても、政策にしても、その目的・趣旨・範囲などを明確に定義し、野党からの質問にはきちんと正面から答え、誠実に議論を尽くし、見直すべき点は見直し…政権がいつも口先では言っているとおりのことを本当にやるべきです!

そして野党も含めて全体の過半数が、きちんと納得して賛成しなければ通らない、という民主主義の本来の姿を取り戻すべきではないでしょうか?


無所属・野党だからこそできる大切なこと

かつての民主党政権を思い出してみても、どこが政権をとっても与党になったとたんに財界や官僚の力がおよび、「国民のための政治」からは遠のいていったように思います。

まさに小池百合子氏が言う「しがらみ」でしょうか?

ならば、その「しがらみ」を受けにくい野党にこそ、国民の目・弱い者の立場にたった議論をしていただいて、政権の暴走を許さない…それがいま必要なのではないでしょうか?

たしかに、長年政権の座にある自民党と比べ、経験も実績もない、バックボーンもないのは当然です。
また議員に立候補するのに、必ずしも「政治のプロ」ばかりである必要もありません。

舛添辞任をめぐって「タレント議員は信用ならない」という風潮も出てますが、宮崎県知事を務めた東国原さんもいらっしゃいます。
真剣に今の社会・これからの日本を考えて、強い意志にもとづいて立候補するなら、だれでも平等に議員を志して良いはずです。

国政を預かる一員となるには、それなりの覚悟が必要です。(元)芸能人の人気だけで、なんのために議員を志すのかも不明確なのは論外です。

野党も単なる足の引っ張り合いのレベルを超えて、きちんと政策論を示していただきたい。
そして「勝ち馬予想」ではない有権者の目で議席を伸ばし、見守られ育てられていっていただきたいです。



最後に、有権者も投票したらおしまいで、議員がその後公約違反や不正を行っても「まあ、そういう人を選んだのはわれわれだから…」ではいけません!

前々からその候補者と深い付合いがあるわけでもなく、公約を信じて大切な一票を投じるんですよね。その人が議員になって公約を破ったり不正をしたら、それは有権者への裏切り ではないでしょうか!

仮に昔からその人を知っていて信用できる(できた)人でも、権力とカネにまみれておかしくなってしまうケースは嫌というほどあります。

そこはしっかりと「NO」と意思表示して追及すべきです。「そういう人を選んだのはわれわれだから…(しょうがない)」じゃないんです!

期待されて選ばれて議員となった人の「その後」をちゃんと見守り、公約を守っているか、われわれ有権者の声を反映させる努力をしているか、間違っていたら正す、そこまでが有権者の責任だと思います。





…以上、金曜深夜の長い雑感、お付き合いいただき、ありがとうございます。

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
このすぐ下の「カテゴリ」から興味のあるテーマごとにクリックして覗いてみてください。
一部パスワードをご存じのメンバーの方のみ閲覧できるページを含みます。

カテゴリ
カウント開始 2011.1.14~
リンク
最新記事
最新コメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR