「体育の日」を前に…

10月7日(金)

10月10日は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックが開幕した日を記念して「体育の日」となりました。今年はハッピーマンデーがちょうど10日に当たるので、本来の10日が「体育の日」となります。
そこで、その日を前に…


街路樹を伐採しなくてはならない必然性は…!?

千代田区・街路樹1

お上の決めることにいちいち反対する訳じゃありませんが、何でもかんでも「東京オリンピックのため」と称して巨額のお金が使われようとしています。

わずか2週間の「おもてなし」のため、仮にその後もレガシー(遺産)として公共の福祉にと言われても、本当に必要なのか疑問の多いものもたくさんあるように思えてなりません。

そのひとつ、千代田区では、オリンピックのために大規模な道路工事を計画しています。
工事に伴い、白山通り、明大通り、神田警察通りで、300本もの街路樹が伐採されてしまうというのです。


千代田区・街路樹2

220mの自転車道を作るために、2億円もの税金を費やして業者に発注しています。
区役所は伐採について、事前に区議会にも住民にも知らせることはありませんでした。

伐採当日の夜になって、住民たちの反対によって工事は一時中断されました。
伐採に反対し、木を愛する人たちからの陳情や署名が提出されていると聞きます。
→ 
千代田区の街路樹を守る会
★上記の写真・図もこのページから借用しました。



国をあげての大イベント?

担当大臣まで置いての国家重大プロジェクトのような様相ですが、トータルでいったいどれだけの予算規模になるのか?
二兆円とも三兆円ともいわれていますが、今現在どう見積もっているのか?

いま開催中の臨時国会で野党から厳しく問われても、丸川担当大臣は「主催は開催都市である東京都とIOCで、国はあくまで支援の立場だから(予算も含めて)決める立場にない」と繰り返すばかりで、最終的にいくら税金が使われるのかは不明のまま。

多くの人に親しまれているあの原宿駅も、オリンピックに合わせて新しい駅舎に建て替えようなどという話もあります。

IMG_20161014_135036.jpg

本当に必要なのか?、何が、どこまで、なぜ、必要なのか?

そのあたりを誰が最終的に判断するのでしょうか?
われわれが納めた大切な税金は「打ち出の小づち」ではありません!


国としての優先課題は?

アスリートたちにメダルへの期待を託してのお祭り騒ぎも結構ですが、「経済効果」の名のもとにどんどん勝手に進められてはたまりません。

東京都(行政区も含む)も国も、もっと他にやるべきことはないのでしょうか?

東日本大震災から5年半経つのに未だ元の生活に戻れない人たち、さらに熊本をはじめ各地での大きな災害からの復旧は?、福祉や教育など国民のための優先課題は…?


年金あれこれ

8月26日(金)

われわれから集めた年金を、国内外の株などに「投資」。
昨年度(2015年4月~2016年3月)の損失は5兆 3千億円あまり!

そして今年(2016年)4月から6月までのわずか3か月間で、またしても損失が5兆 2千億円!
昨年からの合計で10兆 5千億円あまりにのぼります!

IMG_20160826_191213.jpg IMG_20160826_191300.jpg

GPIFの森新一郎氏(広報責任者)は、「イギリスのEU脱却などの外的な要因が大きく影響」とし、「基本的な方針は変える必要はないのではないか」と発言(NHK「ニュース7」より)。



アベノミクスの目指す「デフレからの脱却」は、インフレ政策で物価を上げ、金利を低くし、お金をただ貯金して眠らせておいても価値は下がる一方だから、積極的に投資しましょう、というベクトルです。

それによってお金の動きを活発にし、見かけの数字を上げて景気を良くしようというもの。
弱者はどんどん圧迫され、救うための施策はどんどん切り捨て、大企業やお金持ち富裕層にどんどん投資を呼びかける、いばわギャンブル政策

それは、このブログ内「★豊かさとは…?」というカテゴリーにも繰り返し書いてきたことです。
→ アベノミクスは投資のすすめ 

今回発表された運用の損失について、短期的とか長期的とか、外的要因とか、見方・言い方はいろいろあるでしょうが、そもそも国民から預かっているものを国がギャンブル投資で運用するということ自体、私には非常に違和感があります。




一方において、同じ年金でも違う話題ながら…

民主党政権下の2011年6月(=東日本大震災から3か月後)に廃止された、かつての悪しき制度「地方議員年金」が、いま自民党政権のもとでひそかに復活されようとしている、という話題です。

13962564_661871943989105_2586435363567917133囲み

あえて私からはこれ以上コメントはしません。

年金って、そもそも何なんでしょうか?
みなさんどうお感じになりますか?

アマチュアスポーツの祭典 アスリートたちの夢を!

8月10日(水)

暑い夏、リオでの五輪の熱い戦いに連日沸いています。日本の選手たちもさまざまな種目で大活躍しているようですね。

とくに、体操男子の団体金メダルは素晴らしかった。怪我やスランプ、プレッシャーもあったでしょう、よくあそこまで邪念を振り切って演技に集中し、ミスのない完璧な演技で見事世界一に輝いたな、と。
あの選手たちの笑顔に感動と勇気をいただいた方も多いことでしょう。

そこに水を差すつもりはないのですが…

連日のマスコミの報道は「メダルはいくつ取れるか」ばかり騒ぎすぎてないでしょうか?
こういうときだけ「ニッポン、ニッポン」と異様な盛り上がりをして騒ぎ、メダルを「期待」することが、本当に「応援」なんでしょうか?
選手たちの素晴らしい努力や夢とややずれたところで騒ぎすぎてないだろうか?

…と、私はふと思ってしまうのです。

そういうことを口にすると誤解を受けます。
みんながお祭りとしてオリンピックを楽しみ、日本の選手を応援しているのに…と。


◆最高の試合を「楽しめる」こと

私がふとそんなことを思ってしまう背景には、実はロス五輪(←だいぶ古い話で恐縮です。調べたら1984年でしたね!)の時の、あるコラムが頭にあるからなんです。

ロス五輪の時、なんの競技だったか忘れましたが、日本の選手にインタビューしたら「思いっきりいい試合を楽しめました」というコメントが返ってきた。それに対して国内でブーイングが起きたんです。

「日本を代表して送り出され、メダルを目指すべき立場にある選手が『楽しめた』とは何事だ!、けしからん!」…と。

それに対して、元体操選手の山崎浩子さんが、とてもいいコラムを書いていたのを覚えています。

当時私の実家では東京新聞を取っていて、そのコラムを切り抜いてファイルしたのを覚えてます。
さすがに今は手元に見当たりませんが、そのコラムの骨子はこうでした。

オリンピックを目標に4年間努力してきて、世界の最高レベルの選手たちが集う大舞台。緊張もするし、プレッシャーも当然あります。

でも、そこまで努力してたどり着いた人だけが立てる世界最高峰の舞台。そこで緊張のあまり力が出せないのではなく、世界各地から選りすぐりで難関を潜り抜けてきた最高の仲間たちと、思いっきり自分の力を出し切っていい試合ができたとき、そこには他では決して味わえない最高レベルの『楽しさ』があるのです。

決していい加減な遊びレベルの「楽しみ」ではなく、「楽しみ」にもいろんなレベルがあるということなんです。

そんな内容だったと記憶しています。

どうも「楽しい」という言葉は、安易でいい加減なもの、不真面目で不謹慎、というイメージでとらえられがちですが、そこを山崎さんは批判することなく、上手な表現で伝えてくれていたんですね。

これはスポーツの世界に限らず、舞踊でも音楽でも、どの世界でもいえることではないかと思いました。


4年に一度集う、世界の最高レベルの「仲間たち」

私はどうしてもショパンコンクールチャイコフスキーコンクールなど、音楽の世界と比較してしまうのです。

オリンピックと同様、ほぼ4年に1度のペースで開催され、世界各地から若い演奏家が最高水準の演奏を披露し、優勝者が決まるのです。先だって亡くなられたピアニストの中村紘子さんをはじめ、日本人の優秀な演奏家たちもこれらのコンクールに上位入賞を果たし、ソロ活動を展開されてきました。

コンクールですから、もちろん順位が決められる「戦い」なわけです。4年後にはさらに若い人たちもどんどん出てきますから、参加する人たちにとってチャンスはそう無限にあるわけではありません。

まさにオリンピックと同じだと思うのです。

最終的に1位・2位・3位…と順位がつけられるわけですが、世界のさまざまな国の若者が、同じ作曲家の作品に挑み、技を磨いてきたわけです。他国からエントリーしてきた人たちは、決して「敵」ではなく、見方によっては同じテーマを共有するかけがえのない「仲間」ではないでしょうか?

たしかに相手国からの参加者は「ライバル」でしょうが、決して「国」を代表して「戦果」を期待された「兵士」ではありません。

努力して積み重ねた結果を思う存分に発揮し、世界最高レベルのステージに立てることを心から「楽しめ」たら、きっと幸せだろうなと想像します。



音楽とスポーツとの違いは?

しかしそうした音楽コンクールは、オリンピックのような「国民的な盛り上がり」はありません。日本人が上位入賞すれば、後日ニュースなどで紹介される程度です。
ある意味気の毒なようにも思いますが、逆に変な意味での「日本代表」的なプレッシャーはなくていいのかもしれません。

しかし、このスポーツと音楽との違いって何でしょうね?
スポーツ人口に比べて音楽人口はそんなに少ないのでしょうか?
それもあるかもしれませんが、ひとつにはスポーツの分かりやすさ があると思います。

楽器演奏、バレエ、フィギュアスケート…それぞれ、単純な技術点だけではなく、表現力、芸術性といったことが大きな評価要素になります。そこは一般の人にはわかりづらいのかもしれませんね。
(もっとも、少し見ていれば、本当に素晴らしい演技には吸い寄せられるものがあり、素晴らしいものは素晴らしいと分かると思うのですが…)

一方スポーツは一般に、ゴールにボールが入ったかどうか、持ち上がったかどうか、飛べたかどうか、得点が入ったかどうか…とにかく結果が誰の目にもはっきりと見えます。戦いぶり、精神力、集中力などもすぐに結果に表れます。

そして所属チーム「ニッポン」の結束意識を高める力も大きいのでしょう。


オリンピックには巨大なお金が動く

音楽などの芸術の世界とスポーツとを一般論で比較する以上に明らかなこと、それはオリンピックの長い歴史があること、そして開催地では巨大な経済効果をもたらす、ということがあります。

スタジアムや各競技場、選手村などの整備はもちろん、世界からアスリートを迎えることを前提に、鉄道や道路などのインフラ整備が進む…といった大きな波及効果があります。
選手たちの日頃の練習を支えたり用具や服を提供するスポンサー企業の力も大きいです。

そうしたことが、政治的な力、ひいては国の利権にまで絡んでしまうこともあります。
4年後の東京五輪に向けても、政治の世界では「東京五輪を何がなんでも成功させる!」が合言葉になってますし、そのためにすでに大きなお金が動き出しています。

新国立今日事業プラン

建築不可能ともいわれたあの奇抜なデザインによって、予算規模も当初の予算枠を大きく膨れ上がらせました。

福祉や、災害からの復興など、国内でやらなくてはならないことも山積している中で、弱いものを守るための予算はどんどん削られる一方で、4年後のわずか2週間のオリンピックに向けて使われるお金はどこまで膨らみ続けるのか?、バランス感覚、優先順位としてどうなのか?

すでにそういう声は多くの方の間で広まり、あらたに就任した都知事もそうした期待に応えてきちんと見極めていくと公言しています。


…まあ、こういうことを書くから、私はオリンピックに対して否定的だ、スポーツに理解がない、国民レベルでみんな盛り上がってるのに…と「非国民」のように言われるんでしょうね(笑)。


アスリートたちの夢の懸け橋に栄光あれ!

冒頭にも書いたように、4年間たゆまぬ努力をしてきて、世界の舞台で競い合うアスリートたちのことを、私は決して否定するつもりはありません!

芸術でもスポーツでも、世界最高レベルの舞台に立つ人たちに、大いに楽しんで実力を出し切ってほしいと願う気持ちに変わりはありません。

それだけに、あまりにもメダルの数を競うだけの熱狂になったり、妙に評論家のような分析をして勝敗を予想したり、かつてのロス五輪の時のように選手たちの「最高の試合を楽しめた」という言葉に「けしからん」などという声が飛び出したり…

アスリートたちの純粋な気持ちを逸脱して騒ぎすぎないでほしいと思うのです。


選手の家族・友人、支えてくれてきた郷里の人たち、出身校のひとたちが「メダルを期待してますよ」と言って激励・応援するのは当然です。「メダルを期待してますよ」という表現そのものを否定するつもりはありません。

ただ、画一的なメディアの扇動で、とにかくニッポンの選手たちに1つでも多くメダルを、と騒ぎすぎるのはちょっと違うのではないか、というところなんです。その微妙なニュアンスを感じていただけたら…

また、アマチュアスポーツの祭典であるオリンピックを、あまり政治・カネ・国の利権などにまみれさせてほしくない、言い換えれば素晴らしいアスリートたちの夢を「利用」しないでほしいと願うところです。

今は五輪の真っただ中、どうかこれまでの努力を最大限発揮して、自分らしく、大いに楽しんできてください、と私はエールを送ります。

参院選を前に…

7月9日(土)

参院選を間近にひかえ、私なりの雑感をつづらせていただきます。
政治向きの話はちょっと…という風潮が日本には根強いですが、社会の一員として、子どもたちに引き継ぐ日本のことを想い、これぐらいは考えておきたいと私は思います。少々長くなりますが、ご一読いだけたら幸いです。


報道に見る自民党の七不思議

★どことは言いませんが、いわゆる御用新聞・御用テレビでは「自民単独過半数」とか「改憲勢力3分の2をうかがう」といった表題がやたら目につきます。なぜ…?

★報道は連日「都知事選」フィーバー。目の前に迫っている参院選に向けての議論はほとんどない。なぜ…?

★1週間前の時点で「期日前投票」が前回の選挙の1.8倍!
政治や日本の将来をあまり真剣に考えてなくて、いわゆる勝ち馬に一票で「やっぱり自民かな?」という人がわざわざ期日前投票に行くでしょうか? 期日前投票した人たちがどの候補者・どの党に投票したかはもちろん不明ですが…

★選挙で「国民の信を問う」のに、なぜ論点隠し?
前回の選挙でも、選挙前は「経済政策」しか口にしませんでしたが、過半数議席を獲得したとたんに、派遣法の改悪・介護報酬のカット・法人税のさらなる減税など「強きを優遇し、弱きを切り捨てる」矢を次々に放ってきました。そして集団的自衛権を含む安保法制も、質問に正面から答えず、十分な議論もしたとはいえない状況で強行に採決。選挙前には一切口にしなかったけど、それこそ「粛々と」準備をしていたわけです。

「憲法改正は今回の選挙の争点ではない」と公言してます。なぜ…?
そもそも改憲を目指す自民党が、何を狙って、憲法のどこをどのように変えようとしているのか、その心は?…といったことを一切出していないから、国民有権者の間でも野党の間でも、改憲に関する議論にならないのです。議論させたいくないんでしょうね。
ならば、今回の選挙は、いったい何を問うための選挙なのか…?

★政権与党は、投票率を下げたいのか?
御用メディアにはあまり参院選を大きく取り上げさせず、おまけに選挙当日の投票締め切り時刻もなぜかいつのまにか早められている!(←ご存じでしたか?要注意です!)

★そもそも投票率が低ければ低いほど有利という政権与党って何?
自分たちと密接な関係にある経団連・大企業にばかり有利な政策をすすめ、組織票で安泰。
しかし昨今の若者のデモをはじめ、批判も高まっている。国民は怒っている、日本の将来を不安に思っている、本当に信を問うたら危険…ということを自民党自身がいちばんよく分かっているのでは…?


都知事選 「小池の乱」の意味するところは?

目の前の参院選以上にフィーバーしている「都知事選」ですが、ちょっとおもしろい展開になってきましたね。とくに私が着目しているのは「小池の乱」です。

小池百合子氏が、自民党の推薦も受けないまま立候補を表明。前後を考えもしないで無謀な出方、ずぶの素人か?
しかも掲げた公約の1番目が都議会の「冒頭解散」!?
都知事に議会解散権はないのに何を言ってるんだ?…など、小池百合子氏をさげすむ声も多いようですね。

たしかに、今現在自民党に席を置く小池氏の悪口を言うのは簡単ですが、私はちょっと違う見方をしています。


自民党に反旗を翻した意味とは?

まず、自民党の推薦を受けないで単独行動に出たこと。「私は自民党員として立候補しました」「離党は考えていません」と言ってはいますが、最悪除名処分を受ける可能性もあることは当然覚悟の上でしょう。

なにより「しがらみなく戦える」という言葉、何かを暗示しているように私には思えます。
また、「自民党は家族的ないい政党ではあるけれど、都連(自民党)は改革しなければならない」とも言っています。

これらは明らかに自民党への挑戦状です。反旗を翻し、決別する覚悟を決めたように私には見えます。


たしかに都知事になっても、都議会を解散する権利はありません。
都議会を解散するためには、不信任案を提出・決議させて、「知事の辞任」「議会の解散」かという選択肢にもっていく。もうひとつの方法は都民有権者による「リコール」です。

そんなことも知らないはずはないのに、あえて立候補に当たって「冒頭解散」という表現をしています。当選したら早々に不信任案でも出させるつもりなんでしょうか…?

どんなシナリオを描いているのか、単なる有権者へのアピールなのかは分かりませんが、少なくとも都民(国民・有権者)に訴えようとしているのは、自民党が過半数議席を占めている今の都議会そのもののあり方を問うということです。

舛添氏の疑惑追及のため百条委員会を設置しようという野党案を、自民党の過半数議席はあっさりと否決し、疑惑を不問に帰しました。

舛添氏に「辞任」を最終的に迫ったのは自民党でした。
野党からの「不信任」決議は避けられない状況になってきて、参院選も近づく中、このまま舛添氏をかばっていたら自民党への信用問題にかかわると判断したのでしょう。

「不信任決議案」が出てしまったら、「知事の辞任」か「都議会の解散」という選択となります。
自民党・都連としては、議会の解散は避けたかった、それは明らかです。



舛添氏の辞任で、連日の報道はなくなり、火は消えたように思いますが、都民・国民の政治への不信感は消えていない。そこを小池氏は突いてきたのでしょう。

3つ掲げた公約の残る2つも、目安箱のようなものを作って不正を告発させること、そして舛添問題に対して厳しい第三者機関を設置して追及していくこと。

東京五輪のこと、都政のこと…たくさん課題・テーマがあるにも拘わらず、自民党と刺し違えてでも、あえて不正疑惑の追及、政治倫理をあらためて問うところに焦点を絞ってきたわけです。



◆「パラシュートなしで飛び降りる」

ここまでトータルに見て、たしかにそれなりの覚悟が伺えます。

小池氏は、細川総理・小泉総理の時に入閣して以来、あの小沢一郎氏など「時の勢力」にじつにうまく取り入って頭角を現してきた人物。好き嫌いは別にして、時の流れを先読みしてきたとも言えます。

その小池氏が、参院選を間近に控えたこの時期に自民党に反旗を翻した…それは何を意味するのでしょう?

「小池の乱」を受けて、他の候補をどう擁立するか、自民党も野党も、ハチの巣をつついたような騒ぎになってます。見方によっては、自民党はもはや先が見えている、腐敗している、小池氏もいいかげん愛想をつかして内から反旗を翻し、決別を覚悟して勝負に出た…

それを、この参院選直前に都民だけでなく国民有権者にアピールしているようにも見えます。

以上、あくまで私の勝手な見方をつづりました。


さて、いよいよ参院選について。
これはもう、前回の選挙の前後など、これまでもしばしば書いてきたこととも重複しますが、あらためて。


勝ち馬レースの予想ではなく

私はとくに「何党を支持しましょう」「何党はダメです」と申し上げるつもりはありません。
いまの安倍政権を良しとし、きちんと明確な理由があって自民党を支持されている方に、とやかく申し上げるつもりは毛頭ありません。

ただ、私たちの社会の問題、日本の将来を考えたとき、本当に今の安倍政権の目指そうとしていることをそのまま「数の力」で押し通されて良いのか、という懸念を持っています。


「どうせ変わらないだろうから」「よくわからないから」…と投票へも行かない人が有権者の半分近くいる、そんな状況で本当に良いのでしょうか?

「いまの与党もいいとは思わないけど、しかし野党もね~」「じゃ、どこに政権を任せたらいい?」とおっしゃる方、なんだかんだ「とりあえず自民」で一票を投じている方。



前々から書いてきたように、選挙は大勢をうかがって「どっちが勝つかな、有利かな?」という勝ち馬レースの予想ではありません。
「どこに政権を取らせたらいいと思いますか?」とアンケートで聞かれてるのでもありません。ましてAKBの総選挙のような人気投票でもありません!

仮にいまの政権与党を良しとするとしても、単独過半数である必要があるのでしょうか?
自・公あわせて3分の2、なんでも「数の力」で勝手に決められてしまう政治をこのまま続けさせてよいのでしょうか?

身を投げうって国民のことを本当に思ってくれて、信頼できる政権なら、「安定政権」も望ましい姿です。
しかし今の政権が本当に国民のことを第一に考えていい政治をしてくれてると言えるでしょうか?

このまま「安定政権」という名の国民不在の「政権の暴走」を良しとするのか、それとも野党の声も高めて民主主義を取り戻すのか…?



◆「数の力」の傲慢さ・怖さ

昨年の安保法制をめぐる国会審議でも、何を・どのように・どこまで、といった法案の定義・目的・範囲がきちんと明確に示されたでしょうか?

野党や国民の不安の声に、きちんと正面から答え、十分な審議を尽くしたと言えるでしょうか?
質問にまともに答えず、時間を重ねれば重ねるほど矛盾点や危険性が暴露される法案を、時間を切って採決に踏み切りました。

しかも最後の採決は、議長の信任をめぐるどさくさに紛れて騙し撃ちのような強引な採決。
あれが本当に民主主義の姿なんでしょうか?

どんな法案にしても、政策にしても、その目的・趣旨・範囲などを明確に定義し、野党からの質問にはきちんと正面から答え、誠実に議論を尽くし、見直すべき点は見直し…政権がいつも口先では言っているとおりのことを本当にやるべきです!

そして野党も含めて全体の過半数が、きちんと納得して賛成しなければ通らない、という民主主義の本来の姿を取り戻すべきではないでしょうか?


無所属・野党だからこそできる大切なこと

かつての民主党政権を思い出してみても、どこが政権をとっても与党になったとたんに財界や官僚の力がおよび、「国民のための政治」からは遠のいていったように思います。

まさに小池百合子氏が言う「しがらみ」でしょうか?

ならば、その「しがらみ」を受けにくい野党にこそ、国民の目・弱い者の立場にたった議論をしていただいて、政権の暴走を許さない…それがいま必要なのではないでしょうか?

たしかに、長年政権の座にある自民党と比べ、経験も実績もない、バックボーンもないのは当然です。
また議員に立候補するのに、必ずしも「政治のプロ」ばかりである必要もありません。

舛添辞任をめぐって「タレント議員は信用ならない」という風潮も出てますが、宮崎県知事を務めた東国原さんもいらっしゃいます。
真剣に今の社会・これからの日本を考えて、強い意志にもとづいて立候補するなら、だれでも平等に議員を志して良いはずです。

国政を預かる一員となるには、それなりの覚悟が必要です。(元)芸能人の人気だけで、なんのために議員を志すのかも不明確なのは論外です。

野党も単なる足の引っ張り合いのレベルを超えて、きちんと政策論を示していただきたい。
そして「勝ち馬予想」ではない有権者の目で議席を伸ばし、見守られ育てられていっていただきたいです。



最後に、有権者も投票したらおしまいで、議員がその後公約違反や不正を行っても「まあ、そういう人を選んだのはわれわれだから…」ではいけません!

前々からその候補者と深い付合いがあるわけでもなく、公約を信じて大切な一票を投じるんですよね。その人が議員になって公約を破ったり不正をしたら、それは有権者への裏切り ではないでしょうか!

仮に昔からその人を知っていて信用できる(できた)人でも、権力とカネにまみれておかしくなってしまうケースは嫌というほどあります。

そこはしっかりと「NO」と意思表示して追及すべきです。「そういう人を選んだのはわれわれだから…(しょうがない)」じゃないんです!

期待されて選ばれて議員となった人の「その後」をちゃんと見守り、公約を守っているか、われわれ有権者の声を反映させる努力をしているか、間違っていたら正す、そこまでが有権者の責任だと思います。





…以上、金曜深夜の長い雑感、お付き合いいただき、ありがとうございます。

なぜ、世界から戦争がなくならないのか?

6月20日

「戦争はなぜなくならないのか?」
究極の質問です。よく子どもが大人に発する質問でもあります。「戦争はいけないこと」とみんなが言っているのに、どうしてなくならないのか?当然の疑問です。この質問に、あなたなら、どう答えますか?
(本書「はじめに~二度と戦争が起きないように、日本が戦争に巻き込まれないように~」より冒頭部分)

戦争産業120160620

NHKの「週刊こどもニュース」を担当されていたころから、難しい問題も素朴な原点にかえって子どもにもわかりやすく伝えることをモットーとしてこられた池上彰さん。


本書の内容すべてをご紹介はしませんが、いま日本の政治がどっちを向いてどういう流れを創ろうとしているのかを、あらためてこの1冊から感じ取ることができれば。

序章…「なぜ世界から戦争がなくならないのか?」という難問
第1章…戦争がなくならない理由を今気になる「最新中東情勢」から学ぶ
第2章…戦争という「ビッグビジネス」
第3章…アメリカを湾岸戦争に誘導した広告代理店
第4章…武器輸出で世界市場に乗り出す日本
第5章…戦争をなくすために人類はどんな努力をしているか?
第6章…戦争に向かわせたリーダーたちの言葉
第7章…戦争をあおったメディアの責任

だいたいどんな流れか、何を言いたいか、お分かりになるのではないでしょうか?

詳細ご興味があったらこの本を読んでいただくとして、本書内に紹介されている図表からいくつかご紹介しておきます。


戦争産業320160620
戦争産業2 20160620

日本においては、戦後の平和憲法の趣旨にのっとり、日本が戦争に巻き込まれないために、また戦争に加担しないために、過去の政権が堅く守ってきた「武器輸出三原則」というのがありました。

しかし、安倍政権のもと2014年の4月に、事実上この「武器輸出三原則」が取り崩され、武器輸出が解禁されてしまったのです。

戦争産業420160620
戦争産業520160620
戦争産業620160620



◆日本の戦争への加担は すでにはじまっている!

イスラエルがパレスチナを連日攻撃していた2014年の5月、イスラエルのネタニアフ首相と安倍総理が会見し、共同声明を出したことは、あまり大きく報じられていなかったようですが、私はその年(2014年)の七夕の前後に、こんな記事をブログに書いています。

5月にイスラエルと共同声明が
イスラエルより愛をこめて

ドイツの宇宙飛行士がはるか上空から見たきらめく光…それは、世界でもっとも悲しい光景、爆撃を受けるパレスチナの光でした。

「そろそろどこかで戦争でも起きてくれないと、日本の経済も立ち行かなくなりますなぁ」…過去にそんな発言をした財界人もいたことをこの記事内でも紹介しています。

大企業中心の「経済」「景気対策」…とくに選挙が近づくとそこに焦点が集まる傾向にあります。

しかし、地球の裏側では罪のない幼い子どもたちまでが爆撃によって殺され、白い布にくるまれている脇で、父・母・兄弟が泣き崩れている姿があります。
そこに日本も加担することになるんだ、ということをちょっと想像してみてはいかがでしょうか?

舛添知事の辞任で「幕引き」!? ~民主主義の本質とは?~

6月15日(水)


東京都の舛添知事の政治資金をめぐる疑惑問題。ついに知事の「辞任」という形で決着がつきました。

海外出張の費用があまりにも高すぎることが指摘されてから2か月以上、正月の家族旅行先に「関係者」を招いて「会議」を行ったという不自然な公費の出費、湯河原の別荘への公用車利用、美術品を「資料」として購入…次々と政治資金をめぐる疑惑が浮上し、連日の報道で舛添氏の話題が出ない日がない状況が続きました。

東京都民だけでなく国民的に怒りと批判の目は日に日に高まり、舛添氏の公私混同ぶりや答弁の曖昧さはだれの目にも明らかだったので、私はあえてこのブログで話題にすることは避けてきました。

しかし、NHKホールでのベートーヴェン「第九」のコンサートに家族同伴で来場する際に公用車を使ったことが追及されると「東京の音楽政策のため」という言葉が飛び出しました。
「音楽政策」などという言葉、初めて聞きますし、第九を2回聞いたからといって、東京の音楽政策を語れるのか…?

個人のプライベートな時間に個人のポケットマネーで楽しんだことからも、公務へのヒントを探るのが常識ではないのか? 
いくら追い詰められての苦しい答弁とはいえ、なんでもかんでも「公務」とするこの発想こそ「公私混同」であり、ひたむきに音楽に向き合っている多くの人たちへの侮辱だ、と怒りがこみあげました。

そしてついに、15日に「辞任」へ。

「舛添都知事辞任!」の号外も出ると、3万件を超える苦情が寄せられていた都庁の電話やFAXも急に静かになったそうです。

たしかに舛添氏の数々の不正、公私混同は許されるものではないと思います。
しかし、あまりにも器の小さい、せこい、ひとりの政治家の公私混同を糾弾し、辞任が決まったら「よしよし、めでたしめでたし」で幕引きにして良いのでしょうか?


◆野党が提案した「百条委員会の設置」が、過半数議席を占める自民党の反対によって否決!
不正疑惑に対する追及はけっきょくなされないまま…?


政治とカネの決着は?
舛添氏は「給与の全額を辞退しても構わないので」と条例案を出して続投を懇願していましたが、辞任が決まった段階で条例案は白紙撤回。けっきょく夏のボーナス380万円と、退職金2200万円は支払われることに…?

民間でも一般の公務員でも、不祥事を起こして懲戒免職もしくは依願退職となったら、退職金なんかもらえませんよ、ふつう!
自主的に辞退して全額返納すべきだし、今後「不祥事によって辞任する場合は退職金は支給されない」といったルール化をすべきです。


◆舛添氏の手を取って「この人しかいないじゃありませんか!」と叫んでいた安倍総理をはじめ、強く擁立してきた自民・公明の連立政権の任命責任はどうなのでしょうか?

舛添氏が最後の最後までしがみついていたリオ五輪の閉会式、「9月まで猶予をいただきたい」という言葉を受けてぎりぎりまで調整を図っていた自民党東京都連。
野党がそろって「不信任案」を出したら「ノー」とは言えない状況から、都議会の過半数を占める自民党議席の辞任勧告によって決着した形になりましたが、見え隠れするのは1か月後にせまった参院選で、有権者の批判が自民党に向かないようにすることが狙い。

不信任決議案では、知事の辞職もしくは議会の解散という2つの選択肢がある。ならば、百条委員会には反対して責任追及はこれ以上しないようにしてあげるから、ここで「辞任」してくれ、と舛添氏を説得したのではないか…?
つまるところ疑惑の真相解明=政治倫理・責任追及よりも、議席の安泰および次の選挙が大切?

マスコミが騒ぎすぎともいえるほどの舛添氏個人への怒りや批判よりも、私はむしろその背後にある力・しくみこそ「本丸」だと思うのです。


~民主主義の本質とは?~

与党だけで過半数議席を占めてしまう問題点

各党からの「不信任案」の提出→可決成立によって知事の辞任もしくは都議会の解散か、という選択肢もありましたが、結果的に知事自らが辞任する形で都議会の解散・再選挙はなくなりました。

よって、「百条委員会」設置があっさり否決されてしまったように、自民・公明で過半数議席を占めてしまっている現状は変わらないままです。私はこれこそが最大の問題だと思っています。

それは都議会に限らず、国会においても同様です。

選挙前には「経済対策」だけを表面に掲げ、政権の座を獲得したとたんに安保法制、集団的自衛権の行使容認、憲法改正、社会福祉の切り捨てや派遣法の改悪、武器輸出の解禁、法人税の減税と消費税造成…etc.

よくもまあ次々と、国民・世論の反対を無視して大企業(経団連)ばかりを優遇して弱い国民を切り捨てる政策を推し進めてきたことでしょう!
それも、国会の場でさえ民主主義的なルールを無視した、欺いてどさくさ紛れの中で採決するような強引なやり方で、「数の原理」で押し切ってきたことか!

私はこの「数の原理」こそが問題で、「決められる政治」=安定政権、とも言えますが、「なんでも(勝手に)決められてしまう政治」を許し、民主主義を危機的な状況に追い込んでいる諸悪の根源だと思っています。

なぜこのような状況を許してきてしまったのでしょうか?
わたしたちの社会・政治について、今あらためて考えてみる必要があると思います。

これまでにも、このカテゴリー内に書いてきたこととも重複しますが、参院選も近いことですし、あらためて…


最大与党でもいいが、過半数議席である必要はない!

「自民も良いとは思わないけど、他の野党もね~」「じゃ自民に代わってどの党に政権をゆだねられる?」…といった声が、けっこう社会・経済にも明るいはずの熟年層の口からしばしば聞かれます。
そのたびに私は思います。民主主義、選挙をどうお考えなんですか?、と。

最大与党は最大与党でいいとして、過半数の議席でなくても良い、いや、今の状況においては過半数の議席を与えてはいけないと思うのです。

いわゆる「ねじれ」と言われるような状態で、政局が混乱すればいいと思っているわけではありません。
通したい案があるなら、その目的・対象・範囲などを明確に示し、質問には正面から答え、丁寧に説明し、考え直して修整すべき点は修整し、野党側も納得して賛成しなければ通らない、という当たり前の民主主義を取り戻すべきだ、ということなのです。


選挙は「勝ち馬に一票」のレース予想じゃない!

これまでにも私は何度となく書いてきましたが、選挙は「どっちが優勢か」「どっちが勝つか」の勝ち馬レースの予想じゃないんです! どこに政権与党になってもらったら良いか、という話でもありません。

かつて民主党が政権交代を果たしたときのことを思い出してみてください。

民主党がまだ野党だったころ、菅直人氏は「逆さにして鼻血も出なくなるまで、消費税を上げる議論はすべきではない!」と国会で力説しておられましたね。

しかし民主党政権となって鳩山氏に次いで総理になった菅直人氏の口から「消費税増税もやむを得ない。かつての自民党案も視野に入れつつ」…とぽろっと出たのです。

何をかいわんやです。

政権与党になったとたんに、自民党と同じように、経団連・財界・大企業・官僚からの力(=しがらみ)への風見鶏となって、国民のための政治とは程遠いものになってしまうのではないでしょうか!?


野党が野党たるゆえにできること

一方、野党が野党たるがゆえにできることがあります。
それは、与党のような財界や官僚からのしがらみを受けることなく、国民の視点に立ってものが言えること。与党の暴走を止め、民主主義を守ることです!

そういう野党にしっかりしてもらい、与党だけで過半数議席を占めさせないことです。
国民の視点にたった議論をしっかりしてもらい、勝手にものごをを決められない状態をつくることになります。
レベルの低い話かもしれませんが、今の日本で民主主義を取り戻す道は今のところ残念ながらこれしか思い浮かびません。

そのためには、野党にもしっかり勉強してもらい、単なる与党への批判だけで終わらせないこと。政治的な手法としてとんちんかんな発言をせず、きちんとした政策論・政治的手腕を身に着けていただく必要があります。

われわれ有権者も、それぞれが信じる野党を育てていくんだ、ぐらいの意識があって良いと思います。


われわれ有権者の使命とは?

「政治的なことは難しくてよくわからないから」「もう少し勉強してから、考えてみたいと思います」では、いつまでたっても何もできないでしょう!

「政治の専門的な手法」ではなく、もっと単純な「私たちの身の回りの問題」「私たち社会の問題」「自分にも大いに関係のある問題」について最低限の関心をもつこと。

日本の社会風潮のように言われている「宗教と政治と野球の話はタブー」なんて言ってちゃいけません。
「私はだれのファンです、誰を応援しています」というレベルの話じゃないんです。それだと、ほとんど信念というか信仰に近いもので、それの押し付けの話になってしまいます。阪神ファンの人は巨人ファンの人と敵対するように…(笑)

そのレベルでの「政治の話」ではなく、社会の一員として、私たちの日常の問題や日本にとって重要な課題をどう考えるのか?いまのままの政治に任せておいていいのか?

そういう話題を、飲み友ママ友とできてもいいと思いませんか?

テレビ・新聞だけでなく、雑誌やネットなどいまはさまざまな情報があるのですから、与党・野党の言っていることを見聞きして、自分なりの受け止め方をすればいいのです。そして自分なりに賛同できる考え方を探していくのです。

コースに並んだ馬の中から、「どの馬が勝ちそうか?」「どっちが大勢だろう?」で勝ち馬に一票という発想は捨てるべきです。
また常にある政党だけを「信者」のようにいつも応援する必要もなく、今直面している日本の社会の課題に対して、どの党の言っていることがわれわれ国民の目線から理に適っているかな、という純粋な目を向けてみることです。

投票率が低ければ低いほど与党に有利、組織票など不動票によって与党が過半数議席を簡単に獲得してしまう、なんていうこと自体がおかしいのです。

せっかく18歳まで選挙権が引き下げられたのですから、みなさん社会の一員として、最低限の社会への関心をもって投票には行きましょう!

国民有権者ひとりひとりの信念で投票した地域の代表が国会議員=「国民の代表」となり、野党には野党のよい面で大いに頑張っていただく。有権者はそれを見守り育てていくのです。


見守る目

最後にもうひとつ…

「センセイに なってしまえば別の人」…なんて下手な川柳じゃありませんが、当選して議員になり、それなりの権限とお金を手に入れてしまうと、悲しいかな人が変わってしまうこともあります。
まさに「政治とカネ」におぼれてしまい、有権者を裏切るような言動をした場合、われわれ有権者はどうすべきでしょうか?

(議員の行為は許されないけど)まあ、そういう人を選んでしまったのはわれわれ有権者だから…」なんて物分かりのいい悠長なことを言ってはいけません!

立候補した段階ではいい公約を掲げ正しいことを言っていたはず。個人的に長い付き合いもない候補者を信じるかどうかは、公約に掲げたことで判断し信頼を託すしかありません。

信頼を受けて当選した議員が、公約を破ったり有権者を裏切る行為をした場合、有権者は厳しく糾弾すべきなのではないでしょうか?それでこそ「選んだ責任」ではないでしょうか?



ずらっと並んだ馬の中から「誰が勝ちそうか」で一票を投じたり、もしその馬がコースを逸脱したら「まあその馬を選んだのはわれわれだから」なんて諦めてるようでは、民主主義を正しく理解しているとは言えないと思います。

できれば候補者あるいは当選した議員さんとも「対話」の機会をもち、私たちの声をきちんと反映させて努力してくれてるかどうか、質疑の場面でどんな発言をしているかをきちんと見届け、納得できないことはきちんと正していく…

本来そこまでが、有権者としての務めではないかと私は思います。



憲法改正は必要…?

2月3日(火)

きょう3日午前の国会審議で、自民党の稲田朋美議員(自民党政務調査会長、安倍政権の右腕、ポスト安倍との噂もある敏腕女性議員)からの「質問」で、「憲法学者の7割以上が今の自衛隊を“違憲”だとしている。このような憲法は時代にそぐわなくなっているのでは?」と、安倍政権に誘い水を向けるような質問をしていました。

昨年の安保法制にもからめて、いまの安倍政権は憲法を変えたい、こと憲法9条を見直して自衛隊の国際的な活動の範囲を広げたい意向があることは明らかですが、現政権のうちに憲法9条の改正までは困難であると踏んでいるようです。

そこで、まずは他のところから「憲法の見直しの必要性」について、国民の理解を得ようという流れになってくるでしょう。それも、夏の総選挙に向けてはひたすら「経済」「景気」「デフレからの脱却」を前面に打ち出しつつ…


改憲に向けた論議

2015年5月のものですが、NHK解説委員室から出ている解説アーカイブスより。
憲法改正のポイント、賛否・問題点を分かりやすく解説していると思います。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/216011.html

憲法改正


文体や例示など、全体としては安倍政権のめざす改憲について「解説」する立場で書かれていて、反対意見や問題点についてはやや控えめな印象を私は受けました。

ただ、あまりにも政府に対して批判的な記事を引用して書くよりも、これぐらい客観的な見解をベースに、私なりの考えを述べる方が望ましいと思います。


環境権?
 *以下、解説アーカイブス内の解説図を引用

「環境権?」、「緊急事態?」、「財政規律?」…はい、確かにどれも重要なテーマではありますが、はたして憲法にわざわざ書く(=憲法を改正する)べきことなんでしょうか?


18歳以上に選挙権…これも憲法改正への道筋?

たとえば今年の総選挙から「18歳以上」まで選挙権の枠が広がりました。
こうしたことも、時代の変化のひとつととらえ、「日本の法律を根本から見直す必要がある」という流れに導くのでしょうか?

しかし、「20歳で大人とみなす」とか「20歳で選挙権を与える」といった文言は憲法には一切書かれていません。選挙権については「公職選挙法」で決められているのです。そこを変えればよいことです。

ほかにも、「20歳で大人とみなす」というこれまでの常識はあって、お酒やタバコは20歳を過ぎてからと基準はこれまでと変わりません。

刑法の適応で、たとえ未成年者の「犯罪」であっても、少年法を適応させることなく大人と同じ刑法を適応させる必要があるケースも最近出てきています。

また民法の規定では、一般に未成年者の行う契約などの社会的行為は、親の承諾が必要ですが、未成年者であっても結婚していれば契約などの行為は有効(=大人とみなす)というのが民法でも認められています。

このように、時代の変化とともに見直す必要のあることは多々ありますが、それらはみな一般の法律や規則、その運用面、および社会制度面で対応すれば良いことで、憲法そのものを変える必要はありません。



◆「緊急事態」を憲法に盛り込む必要があるのか…?

いま政府が前面に掲げている憲法改正の必要性は、この「緊急事態」です。

阪神淡路大震災のとき、自衛隊のヘリコプターや他県からの消防車が思うように出動できなくて初動体制に滞りが出ました。
それまでの規定では、自衛隊のヘリは国からの要請がないと飛べなかったのを、都道府県や市町村など自治体からの要請でも適宜出動できるように制度面が見直され、その後の災害では改善されつつあると認識しています。

また、消防や警察の所属官庁が自治省であることからも明らかなように、都道府県ごとに組織が編成され、その中でも細かい管轄区域が設定されています。
しかし大規模災害に限らず多府県にまたがる広域犯罪のような「緊急事態」においては、平常時のタテ割りの枠を超えた柔軟な対応、連携・協力体制が求められるのは当然です。

こうしたことに柔軟に対応できるためには、関係法令の中に「緊急事態においては~」という例外規定を加えるほか、一般の法律・規則とは別枠で「緊急時等特別措置法」のような特別法を設ければ良いのではないでしょうか。

それこそ時の総理大臣が「緊急事態」を宣言し、首相官邸内に対策本部を設けたら、関係省庁や各機関がタテ割りの枠を超えて柔軟に対応できるようにすれば良いことです。


緊急事態1 緊急事態2


この解説の中に、衆議院・参議院の解散は憲法を変えなくてはできないことも書かれていますが、それも国会運営に関係する法制度に「緊急事態」という特別条項を付加すれば良い話のようにも思いますが、いかがでしょう?


◆「国民投票」で国民:有権者の意識が問われる!

国民投票
国民投票1

憲法改正などの重要案件には、国民投票が行われることになります。
ここで問われる民意こそ、国の行く末を決定づける大切なもの。

いまの選挙のような、全国的に50%そこそこの投票率では話になりません!
また、ただ行って投票すれば良いわけではありません。噂や表面的な不安材料だけでなんとなく政府案に賛成する(=現状での、「他にいい政党がないから、とりあえず自民」みたいな発想)のではなく、賛否は人それぞれで構いませんが、少なくとも物事の本質を理解した上で、正しく判断する力が必要になるでしょう。

かつて明治憲法(=大日本帝国憲法)が発布される時、多くの国民は憲法の意味すらよく分っておらず、「絹布(けんぷ)の法被(はっぴ)が配られるんだってさ」「へ~、そりゃありがたいね」なんて噂が飛び交った…なんていう小話のような話も(笑)…これでは、民主主義も猫に小判ですね。


◆「現状にそぐわないから憲法を変える」の危険

私は現時点で、憲法改正に絶対反対の立場ではありませんが、少なくとも今の政府が憲法改正に向けて国民の「理解」を得ようとしているような内容に関しては、私は必ずしも憲法を変えなくても、一般の法律や特別法で対応できるレベルのものではないかと思います。

昨年、政府が発行した漫画による「憲法改正ってなぁに?」という冊子では、「70年前と今とでは時代は大きく変わったよね。なのに憲法はずっと昔のままでいいのかな?」といったアピールを前面に打ち出しています。

漫画1 漫画2


たしかにそれは一般の法律や規則、社会制度に対してならもっともな論理です。でもそれを憲法改正にそのまま導こうという、かなり危険な誤解を生む(=誘導する)危惧を感じざるを得ません。

憲法というのは、あらゆる法規の上位にあり、国のあり方を決める規範であり、司法や立法(=国会)そのものの位置づけを定めるものです。いわば時の政権の思い通りに国を操れないようにする重要な歯止めとなる安全装置といっても良いでしょう。



一方、今の国会議員の定数ー選挙制度において、各地の高等裁判所や最高裁でも何度となく「違憲状態」との判断が下されている「一票の格差」の問題などはどうなのでしょうか? 
違憲だといわれてもなお改めない、つまり憲法に違反した状態で当選した人たちが国会議員として高い報酬を受け取っているという現状…

これはひとつの極端な例ですが、今は憲法に違反しているものを合法化するために、どんなことでも「現状にそぐわないから憲法を変える」などといった論理がまかり通ったら、どうなるでしょう?


<参考>

冒頭に書いた、3日(水)午前中の国会審議で、「憲法学者の7割(←実際には63%)が自衛隊は憲法違反だと言っている」→「現状にそぐわない憲法9条(第2項)を変えるべきでは?」と稲田議員が質問し、政権側も憲法9条を見直す意向があることを示したのを受け、東京新聞は大きく取り上げています。

この政権は、昨年夏には憲法学者の98%が違憲だとする集団的自衛権の行使容認を含む安保法案を強引に通しました。

9条改憲に一歩
★クリックすると大きな画面でご覧になれます


時代の流れ、時の政権の都合でころころと憲法を変えられる道を開いてしまったら、日本がかつての大戦で多大な犠牲の上でようやく手にした世界に誇る平和憲法が崩れ去り、民主主義の根幹も、国民の命の保証も風前の灯となってしまう危険を秘めているのです。

そのあたりを国民・有権者はちゃんと理解した上で、夏の選挙で判断を下す必要があります。


センター試験に想う

月8日(金)

センター試験が、来週末の16(土)・17(日)に行われる。
例年、東京でも雪が降ったりすると電車が遅れ、センター試験の開始時刻を遅らせた…といったニュースも流れるが、今年は暖かいので大丈夫だろうか。

入試センター

ところでいまのセンター試験にはどんな科目があるのか、サイトで調べてみた。

●英語(リスニングを含む)
●国語
●地歴:日本史A、日本史B…Aは近現代史中心、Bは全般
      世界史A、世界史B…Aは全般、Bは地域ごとに古代・中世・近代
      地理A、地理B…Aは気候・風土・産物など、Bは人文地理系
●公民:現代社会、倫理、政治・経済
●数学:数学Ⅰ、数学A、数学Ⅱ、数学B

 *地歴、公民、数学はそれそれ1科目を選択


もしいま私が受験したら…

私が大学受験で予備校に通ったのは今からもう40年も前。しかも私立文系だったので3教科のみ。
もし今の私がセンター試験を受けたら、間違いなく「不合格」だろう。

しかし、これからあらためて大学に入りたいかどうかではなく、いまの大学に入るための基準として、何点ぐらい取れるのだろうか、という興味はある。

もちろん受験生たちは塾にも通って毎日勉強している、いわば受験のプロ。
入試に出そうな問題の傾向と対策、受験のための独特のテクニックもあるだろうし、なにより「記憶」による部分が大きいだろう。

しかし最近のセンター試験は、高校で学ぶ基礎的なことをしっかり理解し、そこで得た正しい知識で考察し処理する力を試すことに主眼が置かれ、変にひねった問題ではなく良問が多いとも聞く。
ふだん受験のための勉強などまったくしていない私のような大人が「社会経験」「社会常識」で答えられる問題は、はたしてどの程度あるのだろうか?……そんな興味がちょっと湧いてしまうのである。


なんのための受験勉強?

私も受験生だったころ、「こんなこと覚えていったい何の役に立つんだろう」と思ったことはたくさんある。

小中学校の義務教育で習った内容も、今となってみれば、その程度の知識は社会人として大切だと思えることが多いが、当時はやはり「こんなこと勉強して何の役に立つんだろう」と思ったものだ。

しかしまあ、どこかの秘境で暮らす部族でも、大人の男として村の人たちに認めてもらうためには、あることを達成しなくてはいけない「儀式」があるように、それをやることにどれほどの意味があるかどうかは別として、その社会においては通過しなくてはならない一定の審査基準のようなものとして、「しかたない」と思って乗り越えてきた。そんな気がする。

だが、受験を通過してしまえば、そんなことは全く考えなくなってしまうのが常ではないだろうか?
「いまの大学入試制度が本当にこれで良いのか?」といったことを、自分が大学に入ってから、あるいは卒業して社会に出てからも真剣に考えている人がどれほどいるだろうか?

私は、今のような大学入試は、入るための試験ばかりが厳しすぎて、そのしわ寄せが高校生だけでなく中学生や小学生にまで及んでいることに危惧を覚えてきた。

「しっかり勉強していい大学に入らないといい仕事に就けない」と、小さいころから塾に通い、常に点数で評価されることが当たり前に。

小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに、自分の頭で考える力、遊ぶ力、人との付き合い、思いやりなど、「人として大切なこと」がもっとあるはずなのに、なにをさしおいても「受験」、生きき抜くためには「競争」という風潮がどんどん低年齢化してきたことに疑問と危惧を抱いてきた。


大学に入ってしまえば…

そしていよいよ大学入試を突破して大学生になると…

学業などそっちのけで、バイトにサークルに合コンに…バラ色の4年間を過ごしている人が多い。
もちろん、ゼミや研究室で専門の勉強を深め、学術的なものの見方を養い、社会に問題意識を持っている学生もいるだろうが、とくに私立の文系などでは少数派ではないだろうか?

大学でも、いちおうテストやレポートはあるが、先輩から借りたノートの丸写し。年間の授業に出席しなくても、代理で出席カードを誰かに出してもらったり、そもそも出席を取らない科目に人気が集まる。
テスト直前になると購買部のコピー機の前に長い行列ができ、「この問題が出る」という山勘で模範解答が出回る。そんな程度で単位が取れてしまって卒業?

就職の面接でも、大学で何を学んだか、どれほど学業を修めたか、はあまり聞かれない。仮にそこであまりにも学術的な答えをすると嫌われるのが日本の多くの企業ではないだろうか?

大学はいちおう出てさえいればいい。できれば有名な、入るために偏差値の高い大学であればなおよい。でも、大学での学業の中身はあまり問われない。…そんな「学歴社会」で良いのだろうか?


◆門戸は広げ、真剣に学ばなければ卒業できない大学に

いっそ、あまりにも厳しい大学入試制度をあらためて、高校で習う一般的な常識が一定水準あると判断されれば、誰でも大学に入れるようにしてはどうか、と私はずっと以前から思ってきた。

受験戦争の熱が下がれば、おのずと小中学校の教育も変わるはず。小中学校の指導要領を小手先でころころ変えるよりも、教育改革の根本は大学入試制度を変えることにあるのではないかと。

そのかわり、大学に入った以上は、それなりに専門の学業を志さなければならないのは当然。講義に出席することはもちろん、出される課題レポートや試験をクリアしなければ単位がもらえないようにする。

いまも専門学校などは、小中学校から塾に通わなくても比較的容易に入学はできる。しかし、本気で学びたいという意思で、たとえ働きながらでも学校に通うこと、そして本当に学ばなかったら技能も身につかない。それは当たり前のことではないだろうか?

まして最高学府である4年制の大学に行くからには、それなりに学業に興味をもち、学業に励むのが当然ではないだろうか? それをやらない、できないのなら、単位はもらえない、卒業もできなくて当然。
一方、一定の単位をちゃんと取得して卒業したら、それなりに社会から認められても良い。

そういう意味での「学歴社会」なら、私はあっても良いと思う。


なんのために学ぶのか?

今は少子化の時代。大学の経営面から考えても、門戸は広く、学びたいと入ってくる学生からは広く入学金を取ればいい。そして、しっかり学業に専念して学び続ける人から授業料を取り、レベルの高い教育を授ければいい。

大学の教壇に立つ教授も、ただ教授という肩書にしがみついて毎年同じ講義を繰り返し、年度末には同じ問題を出題し、ろくに授業に出ない学生からも「あの先生は楽勝」なんて烙印を押されるようでは情けない!

みずから研究者として、若い学生らとともに探究心を燃やして成長し、若者に学問のロマンを伝える伝道者であっていただきたいものだ。

「看板教授」と言われるような優れた教授がいて、その大学に行きたい学生がやってくるのは大いに結構。しかし一方、常勤の教授ではなく、社会の一線で活躍している優れた講師、学生に人気のある講師と年間契約を結んでいる専門学校の良さも否定できないと思う。

そして大切なのは「なんのために学ぶのか?」
大学卒という肩書が欲しいのか? それとも純粋に「〇〇学を学びたいから」なのか?
純粋な興味で学ぶことはもちろん良いが、「なんのために学びたいのか?」というモチベーションがあればこそ、探究心のエネルギーになると思うのだが…

記憶力に頼った知識だけなら、コンピューターが多くを担ってくれる時代である。
人間にとって大切なのは、それらの知識を活かして考える力、そしてものごとを総合的に判断できる力。
そのための豊かなバランス感覚を身に付けることではないだろうか?


テミス
左手に天秤、右手に剣をもつギリシャ神話に登場する正義の女神・テミス
バランス(天秤)は司法・裁判の公正さの象徴として、法律書籍の表紙などでも見かけることが多い。


「欽ちゃん」こと、タレントの萩本欽一さんも、昨年「大学生」になられた。社会人になってからでも、歳をとってからでも、いつでも学びたいに人には門戸が開かれている。そしてやるからには真剣に学ぶ。そのための場を提供する。それが本来の大学の姿ではないだろうか?


♪ Akira T

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
このすぐ下の「カテゴリ」から興味のあるテーマごとにクリックして覗いてみてください。
一部パスワードをご存じのメンバーの方のみ閲覧できるページを含みます。

カテゴリ
カウント開始 2011.1.14~
リンク
最新記事
最新コメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR