「命」の重さについての教育を!


約40年前に、いちおう法学部を卒業した私。
私はもともと厳罰主義ではありません。むしろ刑罰の目的は「応報」ではなく、社会復帰のための「教育」「気づき」の機会であるべきだ、などと主張してきた人間です。

しかし最近のニュース報道にはいたたまれなくなることが多いです。とくに私が許せないのは、人の「命」を何だと思ってるのか!、という事案です。


◆危険な運転、悪意による悪質運転

なかなか適用されない危険運転致死傷罪

通常の交通事故は、安全運転を心がけることが大前提での「過失」です。
しかし、明らかに悪意による危険な運転が後を絶たず、被害者が浮かばれない、一般の「過失運転」とのバランスから「危険運転罪」が国会で議論されたときは、当然だと思って見ていました。

しかしふたを開けてみたら、「致死傷罪」というのが最後についていた。「結果」を出して初めて適用されるもので、しかもなかなかこれが狭き門で適用されるケースがきわめて少ない!

*「飲酒または薬物を摂取して正常な運転ができない状態で」という条文の意味は、「酒を飲んだり薬物を摂取したら正常な運転はできませんよね」という大前提(=すでに科学的に立証済み)を書いてると見るべきでしょう。

条文に色々ごちゃごちゃ並べ過ぎてる感もありますが、これを裁判所の判事の多くは「酒は飲んでいたが、正常な運転ができない状態だったとは言えない」などと、じつに奇妙な解釈をしてなかなか適用しません!(アホか!?)

548077_pcl.jpg

最近よく話題になる「あおり運転」など、人を死傷させるなどの「結果」が出ていなくても「危険な運転」「悪意による運転」「迷惑な運転」は、もはや通常の安全運転を心がけていたけど「うっかり」という「過失」の域を超えた、悪意による「犯罪」と見るべきです。

飲酒運転やスピード違反の常習者など、そういう危険な運転をしたら人を死傷させるかもしれないことを十分予見できるはずですから、「未必の故意」があったとして「殺人罪」も視野に入れていいはずだと私は長年思ってきました!

立法(条文づくり)の愚と、運用する司法の愚。それゆえの「悪」への生ぬるい対応に歯がゆい思いです。


◆子殺し・虐待

先日、マンガ喫茶で出産してすぐに子どもを殺し、コインロッカーに隠した女のニュース。頭ごなしにバカ呼ばわりはせず、こういう事件が起こる背景としての「社会の責任」と、加害者本人の認識・それまでに形成してきた人格など「個人の責任」という、私が中学生のころ夏の自由研修で触れたテーマに立ち返ってFBに投稿しました。

★私が中学3年の夏休み、1970年代の前半は、連合赤軍派による事件があったり、当時できたばかりのコインロッカーに乳幼児を遺棄するという事件もありました。
夏休みに新聞の社説をいくつか切り抜き、感想を添えて自由研究にしたんですが、そういう事件が起こる社会的な背景(=社会の責任)と、加害者本人の問題(=個人の責任)ということを書いたのです。


そうしたら、「女性ひとりで生きて行くのも精一杯の人もいる、個人の責任とはいえない」…などという、情に熱い優しい方からのコメントをいただきました。

たしかに私もニュースの当事者を知ってるわけでもなく、どんな事情があったのかは存じません。
しかし、生活困窮などどんな事情があったにせよ、望まない妊娠であったにせよ、妊娠が分かってから出産までに10か月という時間があったわけですよね。誰にも相談できなかった、なんの手立ても考えられなかった…?
マンガ喫茶で出産して、殺してコインロッカーに隠す…それしか選択できる行動がなかった?

それまでの人格形成、命に対する認識、だれかに相談するなど問題を解決する能力は…?
じゃあこの女性に対して、社会が、行政が、いったい何をしてあげたらよかったというのでしょうか?



子どもをつくるのに国家資格はありませんが、子どもができれば少しは「人」としての自覚をもち、「命」の大切さを学ぶべき。なのに「人」としての基本がなっていない大人が現にいるということです。

きょう(6月7日)のニュースでは、目黒区在住の両親(父33歳、母25歳)が、幼い子供に食事もろくに与えず部屋に軟禁しつづけ、虐待がバレるのを恐れて病院にも連れて行かず、死に至らせた…という事件が報じられています。
朝4時から勉強させたり、真冬にベランダに放置したり、幼子が一生懸命「反省文」を書いて「ゆるしてください」と乞うていた…など、関連する報道内容には本当に心が痛みます。

このケースに限らず、自分の子どもに食事を与えない、自分のイライラから子どもに暴力をふるう…といったとんでもない事件は後を絶ちません。

<相次ぐ子どもの虐待に関連する記事>
1453874272.jpg img_0.jpg


人命より企業の利益優先

過労による疲れが原因のバス事故をはじめ、企業が起こす事件の多くに、安全管理よりも効率・企業の利益が優先した結果というケースは非常に多いです。過労死問題も含めて、企業の絡む事件のほとんどの根本にこの問題があると言っても過言ではないでしょう。

私のブログにもここ数年何度となく書いてますが、
「人の命よりも、地球よりも、経済(企業の利益)は重い」のか!?
(基本的人権=「人の命は地球より重い」のおきかえです)



いまの日本の教育にとっての急務は、「命の大切さ」を徹底的に教えることではないでしょうか?

漢字がまともに読めなくても国会議員になれるんですから(笑)、多少一般常識がなくても教養がなくても、まあ生きていくうえでさほど支障はないと言ってもいいでしょう。

でも、どんな状況であれ「命」の大切さを分かっているかどうか?
一時的な快楽追及・身勝手な欲があったとしても、人の命を奪うところでは一線を踏みとどまれる必要があります。

一国の為政者が「弱い立場」を思いやる政策を打ち出すことも含めて、人としてのやさしさ・思いやり・想像力をもつこと。
その一番根底に必要なことが「命の大切さ」ではないでしょうか?

「ムラ社会」から「カイシャ社会」へ

2018.4.15(日)

社会問題政治に絡む話題を出すと、友達が遠ざかる?、職場やグループで居づらくなる?
…なんとも不思議な日本社会です。

政治の話=私たち社会の話、日本の将来にかかわる話、公平忠実・公共とはどういうことかを考える話だと思うのですが、そういう話題を避ける傾向が強いのはなぜでしょう…?

単に「考えることが嫌」なのではなく、そういう話題を出しづらい社会、「個」を出しづらい社会なのではないか?
また「人と同じであること」を良しとし、人と「違う」ことを恐れ、違う意見の人と議論を交わすことが苦手で、何かが違うことで「いじめ」にもつながりやすい…それはなぜ?

かつて学生時代に学んだ「社会学」的な視点で、こんな風に考えてみました。

*私もかつて(学生時代)そうでしたが、「日本人は~~だ」という視点でとらえる「日本人論」に対して、「必ずしも全員がそうではないはず!」という反発を覚える方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、民俗学・文化人類学・社会学…といったマクロの視点で、ある集団・社会・国民のもつ特性について歴史文化から考察することは、現代の私たち社会を考える上で重要なヒントにもつながると思います。そこから「われわれはどう生きるか」を考えればよいのです。


ムラ社会

人と同じで安心する、人と違うことを避ける、違う人をいじめる、違いを認めて議論するのが下手…
それらは、日本は長年「ムラ社会」だったことと大いに関係がありそうです。

ムラ社会では、皆と同じ時に同じことを協力してやらないといけません。田植え・刈り取り・屋根のふきかえ…
そこに「寄合い」「溝」「結」といった助け合いの仕組が生まれました。とても素晴らしい文化です。

田植え1 結2
飛騨高山の合掌造りの里では、1軒の屋根の葺き替えを地域総出で行う「(ゆい)」が今も生きている


騎馬民族や遊牧民族は、どこに行ったら獲物がいるか、羊の群れを連れてどこへ行くか…天候を見ながらひとりで判断して行動しなくてはいけません。いわば主体性がなかったら生きていけないのです。

しかし農耕民族はみなで協力し合っていくことが求められます。騎馬民族や遊牧民族のような主体性をもつことよりも、「ムラ社会」の中では調和・協調性がもっとも優先します。

ムラ社会では、人と違うことをやると秩序を乱すとされ「村八分」となります。それは「生きていけない」ことを意味します。

かくして、日本では「和」を重んじ「協調性」が美学とされてきました。それはそれで素晴らしい日本の文化だと私は思っています。

しかし日本も近代国家となり、政党政治・議会制民主主義による政治が行われるようになって100年以上。都会では個人主義が進んでいる今、いつまでも「ムラ社会」の意識のままではいけない面もあるはずです。

その辺りの意識変革はどうでしょうか?
小学校時代からクラスの運営において、学級委員を「選挙」で決めたり、物事を決めるときに「多数決」を採用してきましたが、本当の意味での「民主主義とはなにか?」を考える機会が十分にあったといえるでしょうか?


「ムラ社会」→「カイシャ社会」へ

かつての「ムラ社会」にとって代わったのが、いうまでもありません「会社(カイシャ)」です。

健保・厚生年金など基本的な福利厚生の他、社員食堂・社宅・保養所、運動会・慰安旅行…etc.
家族で社宅に住むと、近隣住民もみな会社の人たち。ゴミの出し方・掃除・建物の管理も「会社」のコミュニティ。

会社は本来「利益社会(アソシエーション)」ですが、限りなく「共同社会(コミュニティ)」に近いのが日本の「カイシャ」。(★マッキーヴァー「コミュニティとアソシエーション」)

会社

良くも悪くも、終身雇用・帰属意識・年功序列…といった流れの中に身を置くことで安心する。

若者の「就職」という概念も、自分が大人になって「社会に対してどんな仕事を提供したいか」よりも「どの会社に入れるか(=所属)」が最大関心事で、仕事の内容は二の次…?


名刺を見ても、なんの会社なのか?、「〇〇事業本部 第〇営業部」ってどういう部署なのか?…その会社組織内の識別標のようで、外の人がその名刺を見ただけでは「その人がどういう仕事をしているのか」がいまひとつよく分かりません。そこに書かれているのは「所属」しかないのです。

名刺・所属


自分の意見をもたない・出さない?

組織に入り、その中でやっていくのは大変。
個人の思いは捨てて会社・組織のために行動することが求められる場面は多いでしょう。
「組織にいられるようにふるまうこと=仕事」。個人が優れていても、上の立場の人のメンツをつぶさないように、という配慮も大切。とにかく組織の中ではみ出し者にならないように…

そういう中では、社会に目を向け、社会の一員として、ひとりの「人」としての価値観をもつ、さらにそれを「表現」する、といったことは極力避けたいと思うようになるのでしょう。

さらに、趣味のサークルでも、「カイシャ」にいる感覚に近くなる…
団体・会の運営も、会社組織の運営形態になぞらえた形になり、年功序列、周りに合わせてはみ出さないように、あまり自分の意見を言わない…いわば社会全体が「カイシャ」的になっているような気がします。

しかし…

いくらムラ社会の良き伝統として、またカイシャ組織の中でうまくやっていくために「協調性」が重んじられる社会とはいえ、社会の一員として、ひとりの「人」としての面はどうでしょうか?

いまから3年前、学生時代からの想いをつづった記事をあらためて…
→ 「考えること・表現することの大切さ」


古き良き日本人としての素晴らしい文化、協調性を大切にしつつも、現代の社会の一員として生きていく価値観をしっかり持って生きる…そこを考えてみる必要があるように思います。

<追記>
つい先ほど、Facebook上である方の言葉に共感したので、ここにご紹介させていただきます。

「『職務に忠実である』ということが『正しい』とは限らないこと、そして『正しさ』って何なのか?ってことを、いつも自分の心と頭で考えてほしいと願います」

日本では、個人の犯罪には厳しい反面、組織ぐるみの犯罪・組織のためにやった(やらされた)罪にはあまりにも寛容。
原発事故しかり、鉄道などの重大事故しかり、最近の文書管理をめぐる刑事責任しかり…
組織のトップの責任も、実際に手掛けた担当者の認識も問われないまま。組織のため、上からの命令でやられされたことが、本当に「正しい」のかどうかの検証があまりにも甘いように思います。

行政の中立が歪められている!?

4月10日(火) 朝日新聞一面トップ

1_201804101719405fd.jpg

加計学園の設立をめぐる政府と地元との会談の記録が見つかった…!
秘書官がこれまで「会った記憶はない」と答弁してきた事実に反して、「これは首相案件だ」と伝えたという記録も…
森友問題につづいて、いよいよ政府の疑惑追及の第二幕の開幕でしょうか!

それにしても…

あったはずのものが消えた!、なかったはずのものが出てきた!

最近の政治がらみのニュースは、まるでマジック(手品)でしょうか!?


誰が、何のために?

3月初め、朝日新聞のスクープで明らかになった森友学園への用地売却に関する公文書が書き変えられていた問題。
はじめの文書に明記されていた政治家や総理夫人の名前、用地の貸付・売却に関する具体的な経緯がすべて消されていた!

麻生財務大臣は、会見ですぐさま財務省内の一部の手によって書き変えられたと断定し、安倍総理は「行政の長としての責任を痛感」と言っているが、私は大いに違和感を覚えています。

果たして財務省が勝手に改ざんをした、政府は単に「監督責任」に「落ち度があった」というレベルの問題なのでしょうか?


野党からの要求に応じてようやく実現した佐川氏の証人喚問。

予想はしていたが、「刑事訴追の対象となるのでお答えは差し控えさせていただく」を連発。
書き変え前の文書を見たのかどうかさえ答えず、これでは証人喚問の意味がない、と憤りを感じた国民は多いはず。

4_20180410171942ceb.jpg

しかし、自民党の丸川議員からの「書き換えに、総理・財務大臣・昭恵夫人からの指示はなかったんです『ね』」と念を押すような誘導尋問には、即座に「ありません」と明言。経緯も何も答えられないのに、なぜそこだけ明言できるのだろうか…?

けっきょく政権側のシナリオ通り、佐川氏は国会喚問を乗り切り、政権および政権を信じる一部の人たちは「これで政権側の関与はなかったことが明確になった」などと、あたかも政権の疑いは晴れたかのように言うが、果たして多くの国民はそう見ているのだろうか?


◆直接手を下して「指示」はしてないでしょうが…

そりゃ、安倍総理や麻生財務大臣が直接「文書を書き変えろ」「ここの記述を削除せよ」などと具体的に指示するはずはないでしょう。そんなことが明らかになったらさすがにまずいことぐらい分かるでしょうから。

しかし、書き換えを直接「指示」はしていなくても、1省庁である財務省がなぜ公文書を書き変えるという違法行為を危険を冒してまでやらなければならなかったのか…?

連日の国会での追求で財務省は「捜査中につき答えられない」「調査中」を繰り返す中で、日本共産党の小池議員から「何をもって『特殊な案件』と認識したのか、昭恵夫人の名前をどうとらえたのか?」との質問に対して、太田理財局長は「総理夫人だからです」と答えた。小池議員はすかさず「これは重大な発言ですよ」と言った。ここがまさに本質ではないだろうか?

すなわち、政治のトップの意向であるかのように受け取られる表現そのものが「強い圧力」であったということ!
加計学園の設立をめぐる「会談」で、「これは首相案件だ」という呈示があったのも同様。

行政(中央省庁・都道府県・市町村、その他公共のあらゆる機関)は、本来国民生活のために中立な立場で公正に業務をしなくてはならないはず。
しかし「大きな政治の力」には逆らえないというジレンマがある。良くも悪くも「親方日の丸」という言葉が示す通り。

安倍政権が発足するよりもっともっと前から、行政は現場の仕事をしてきたはず。
それが、なぜここに来て急に、文書を書き変えたり隠蔽したり…という問題が次々に起きるのか?
ここ数年で行政のモラルが急激に低下したのか?、はたまた、これまでバレなかっただけで、ずっとこういうことは行われてきたのか…?

私はそのいずれでもないと見る。ずばり、安倍政権の進めようとしていることに都合の悪い事実は、表に出たらまずいという判断が働いているのではないでしょうか?
言い換えれば、「明るみに出たらまずい」ことの上に築かれた砂上の楼閣のようなもの…?


◆イラク日報が見つかった!

つい2~3日前には、イラクでの日報の存在が明らかになったとの報道。
しかし、その日報に何が書かれていたのかはまだ明らかにされていない。

3_20180410171941511.jpg 

自衛隊や防衛省の文書管理の問題、シビリアンコントロール(=かつての軍部による支配への反省から、国民が選んだ「政治」が監視する、という大原則)が効いていないのでは、という問題ももちろんあるでしょう。
「存在しない」「破棄した」とされてきた日報が、なぜ今になって出てきたのか、誰がなぜ隠していたのかももちろん追及されるべき重大問題。

しかし、私は何よりも「その日報には、いったいどんなことがつづられていたのか?」を早く知りたい!

今の段階ではまだ仮定での話ですが…

自衛隊がイラクに派遣されたのは、まだ安保法制(集団的自衛権、自衛のための武力行使等)が決定される前のこと。
安保法制をめぐる国会審議においても、イラク派遣の実態についてはさんざん質問が飛び交っていたが、政府側は一貫して「非戦闘地域である」としてきた。

安保法制が通り(強引に通され)、後方支援活動・自衛のための最小限の武器使用は可能になったが、政府はなお自衛隊が派遣される先(南スーダン等)で「戦闘」は行われていないとしている。
(「武力による衝突はあったが、戦闘ではない」など意味不明な表現も含めて、「戦闘はない」ことになっている。)

bbgvvfeerr.jpg

しかし、実態はどうだったのか? 本当に戦闘行為はなかったのか?

DaBvOs3U8AcMdIJ.jpg

これまで「ない」とされてきた日報には、いったい何が書かれているのか?
自殺した自衛隊員にはいったい何があったのか?
「自殺」とされているが、もしかしたら「戦死」だったのではないか?

…憶測は限りなく広がります。

安保法制を通した政府、憲法に自衛隊を明記しようなどという政府は、事実をすべて包み隠さず国民に示す義務と責任があるはずです!


行政が政治によって歪められている?

元・文部科学事務次官の前川氏の言葉です。
天下り問題や、援助交際とのかかわりなどが表沙汰になって辞任に至った前川氏ですが、彼にはもはや「失うもの」がないだけに真実が語れるのではないかと私は見ています。
名古屋の学校における講演内容も、彼を講演に招いた学校の校長の話す内容も、とてもまともに思えるのです。

ここ最近あちこちで発覚する問題は、これまでの「一般的な隠蔽」とは根本的に異なるように思えてなりません。
「一般的な隠蔽」とは、たとえば病院での医療ミスを隠蔽していた、学校内でいじめの事実はなかったとするような、その組織内部の不祥事を表沙汰にしたくなくて隠されるケースがほとんどでした。

しかし、ここ一連の文書書き換えや、なかったとされる文書の存在は根本的に違うような気がします。
政権が進めようとしていることに都合の悪い事実を、行政側が「忖度」して隠蔽していたとすれば…?

日本人の素晴らしい文化でもある「忖度」を悪用して、政権が無理を通してきた。つまり政治の力によって行政の公正中立が歪められてきた、ということではないでしょうか?
それが今つぎつぎに明るみに出ている事象の根本なんじゃないでしょうか?

(2018.4.10現在の私的見解です)

五輪に想う… 

2018.2.21

◆平昌五輪も中盤を過ぎました

ウィンタースポーツにほとんどご縁がなく、ただでさえ運動音痴の私にとって、モーグル・ジャンプ・フィギュア…すべての競技の選手を尊敬します。

中でもあのハーフパイプ!スノボやスキーでほぼ垂直にそそり立った壁から宙を舞い4回転×4回転してちゃんとまた着地してすべり続ける…とても人間技とは思えません!

でも私が好きなのは、技だけでなく音楽の解釈まで含めた「美」「芸術点」が問われるフィギュア。怪我から復帰した羽生結弦選手の演技には本当に感動をいただきました。

A_20180217174954b85.jpg
*17日(土)、デイホームで見ていた羽生結弦選手の演技

また、集中力とチームワークが勝負のカーリングも面白いですね。ビリヤードのような物理的な考察と、狙ったとおりにもっていくあの集中力…球技や格闘技にあまり興奮しない私ですが、こういう競技はけっこう好きです。

個人で参加する選手も、団体で参加する選手も、「ここ一番」という場面で見せる真剣な表情、結果を受け止めて見せる笑顔、ともに闘った他の国のアスリートと笑顔を交わし相手をたたえてハグする姿…どれも素晴らしいです!

ただ、そんな五輪の中でふと思うところをつづらせていただきます。


マスコミは 「メダルの数」に大騒ぎしすぎ!

今回に限らないのですが、メディアはやたら「メダルの数」に発狂しすぎです!

4年に一度、世界最高レベルの選手が世界から集まる中で、金・銀・銅のメダルを獲得するのは大変なこと。
称えられるのは大いに賛同しますが、これまでのオリンピックでの日本のメダル獲得数と比較したり、アスリートの動向を追いかけるたびに「メダルは期待できるでしょうか?」とどの局のアナウンサーも絶叫するのは正直うんざりです。「あなたたちのためのオリンピックじゃないでしょう」と言いたくなります。

音楽コンクールと同様、4年に一度、世界の最高レベルの人が技を競う場。そこで頂点を目指して日々努力を重ねてきたアスリートたちが主役。

上にも書いたようにどの競技も「人間技とは思えない」私としては、どのアスリートも素晴らしい。もちろん日本の選手たちの活躍にも手に汗を握って見守ります。
でも、さらにその上を行く素晴らしい選手が世界にはいます。金・銀・銅のメダルに輝く選手たちは、たとえどの国の選手でも「素晴らしい」と思いますし、感動をいただいている私です。

日本を代表して参加しているアスリートたちが、国民的にメダルを期待されるプレッシャーたるやいかばかりでしょう。
もっともそれが励みともなり、自分との闘いを乗り越える力にもなっていることは確かでしょう。表彰台に上がるアスリートたちは「みなさんの応援のおかげで」と口を揃えます。とっても人間もよく出来てるんだと思います。

でも、何もしないでサッカーWカップや五輪の時だけ「ニッポン・ニッポン」と、変な国民意識(集団心理?)で騒ぐのには正直違和感を覚えてしまう私です。


「日の丸・君が代に違和感を感じる」という方へ

表彰台で流れる「日の丸」、掲げられる「君が代」に違和感を覚えるという方がいらっしゃいます。

ともすると過去の悲しい歴史を彷彿とさせるとか、右翼のような印象を持たれる方も…。
少なくとも、そうした問題意識を持たれることは素晴らしいと思います。

でも、「日の丸=国旗」であり「君が代=国歌」ですよね。それに違和感を覚える国民がこんなにいる国って、他にあるでしょうか?

入学式や卒業式をはじめとする公式の行事でステージに「日の丸」が掲げられていたり、国家としての「君が代」を歌ったり演奏することに私は抵抗はありません。
(後述のように、音楽的な面・歌詞の内容面で「君が代」よりもっといい「国歌」はできないのか、という議論はあってよいと思いますが、今のところ「君が代=国歌」です。)


◆国旗や国歌を、自分に都合よく間違った使い方をしてきた人たち

ここにつづることはあくまで私個人の意見です。

日の丸(=国旗)や君が代(=国歌)が悪いわけじゃないのです!

侵略したアジアの諸国で、日本(軍)が現地の人たちに強制的に「天皇」をあがめさせ「君が代」を歌わせた皇民政策が間違っていたのです。日の丸のハチマキをして特攻に出ていったあの時代(=時の為政者・軍の上層部)が間違っていたのです。

また、いつの時代も自らを「国家」の代表のようにふるまう者は現れます。薩長の戦いでも戊辰戦争でも、古くは南北朝の足利尊氏も「天皇の命を受けて」という大義名分をもって「皇軍」として戦ってきました。いわば天皇を担ぎ出して自らの正当性を主張するわけです。国旗や国歌がそういう場面で利用されてきたのです。

最近、私がとても違和感を覚えたのは、先の総選挙前に安倍総理が自民党候補者の応援演説をした際に、街頭に集まった人たちに「日の丸」の旗を配布して、応援のために振らせていたことです。

政府専用機の尾翼に大きく日の丸がマーキングされているのは良いんです。総理大臣や外務大臣が「日本国の代表」として海外に出かけるんですから。
250px-Japanese-Airforce-002-02.jpg

でも、選挙で自民党の応援演説をするときに「日の丸」の旗を民衆に配って振らせるのはまったく意味が違うでしょう!?
日の丸で応援される安倍さん
「日の丸」は「自民党の旗」じゃありません! 
今のところ政権与党だからといって、まだ選挙前に自分たちが日本の代表でもあるかのように「日の丸」を私物化しないでいただきたい!

それに対して、五輪に「国」を代表して参加したアスリートが、世界の舞台で頂点に立ち、表彰台で流れる「国歌」、掲げられる「国旗」は、世界の常識から見て「正しい使われ方」だと思います。

一部に間違って使う人のお陰で、「国家」や「国旗」そのものに抵抗を感じてしまう国民がいるというのは本末転倒だと思います。


◆「君が代」について

題名からして分かるように、「君=天皇」のことですね。「君が(の)代が未来永劫続きますように」という意味の歌です。

今日、天皇制をどうとらえるかですが、主権在民の民主国家において天皇は「象徴」です。いまの天皇・皇后陛下も、皇太子も、平和主義者で人間的にも魅力のある方ですが、少なくも「天皇のために国がある」という状況ではありません。そこであの題名・歌詞が果たして「日本の国歌」としてふさわしいのかどうか…?

また、「君が代」のあのメロディは、音楽的に見ると「雅楽」の旋律です。古代から続く日本文化ではありますが、果たして現代の日本においてあのメロディが国歌としてふさわしいのかどうか…?

戦後70年以上経ち、そろそろ時代に合った国歌を考え直してはどうかという議論があっても良いのではないでしょうか…?
憲法九条を見直すことより、議論に値するのではないかと私は思うのですが…

*くりかえしますが、ここに記したことは、あくまで私の個人的なものです。

2018年頭 「ニュース串刺し」

2018年頭 「ニュース串刺し」

世の中の出来事あまたある中で、どんなニュースを拾ってどう並べるかによって、見え方は大きく変わるものです。
単品として出来事を見るだけでなく「こんなことが起きている、なのに一方では…」という面も見えてきます。名付けて「ニュース串刺し」!

「偏見」はなくとも「主観」はどうしても入ってきますが、それで良いと思います。新聞・放送局などマスコミ各社も、それぞれの「主観」による「ニュース串刺し」があっても良いのではないでしょうか?
昨年後半から年始にかけて、目についた主なニュース(主に見出し)を私なりに拾い集めてみました。


*「北九州・豪雨災害から半年 いまだ避難生活1200人」
*「熊本地震から1年半、いまだ軒先避難生活が45世帯も」
 (2017.12.16)

自然災害は仕方ないとして、なぜこんなに行政(地方・国)の支援は遅いのか?
北九州や熊本だけでなく、東日本大震災の被災地、原発事故で避難生活を余儀なくされてる人たちの生活は元に戻ったのか?
国民、とくに被災者というもっとも「弱い立場」の人のための施策はなぜこんなに遅いのか?

なかなか進まない復興の要因として、建築・土木業界の深刻な人手不足があると言います。
安倍総理は求人倍率をもって「雇用が増えた」と豪語してますが、まだまだ仕事を求めている人はいるはずなのに、なぜ人手不足…?本当に必要なところに手が届くような社会の仕組みになっていない、ということではないでしょうか…?

これに関して「就労の機会=仕事」「経済=お金の流れ」の2つの側面から見てみましょう。

就労の機会(=仕事)

熊本に関しては、壊れた住宅を建て替え・修理するための「補助」を受けた者は仮設住宅に入る申請枠から外される…という行政のルールがあり、仮設住宅にさえ入れないため震災から1年半たって2回目の冬もこの寒空の中テント暮らし。おかしいでしょ!?

たしかに自宅を建替え・修繕できて住むところがあるのに仮設住宅に居座られたら、仮設を必要とする人が入れなくなる…はい、通常の常識ではそうですね。しかし1年半たっても一向に建替え・修理は遅々として進んでいないばかりか、着工のめどすら立っていないと言います。建築・土木の人手が足りないのです

*「世田谷でも、保育園の着工が軒並み遅れ」 (2017.夏ごろのニュース)

地方でも都内でも、土木・建築関係はどこも人手不足が深刻なようです。
企業の業績は伸び、「有効求人倍率が…」「雇用の機会が増えた」などと政権の手柄のように言われますが、まだまだ仕事を求める人は多いはずのに…なんで?

一方…

*「リニア工事をめぐり、大手ゼネコン4社が談合の疑い」

民間であるJRからの発注だから問題ない?…いえいえ、国からも莫大なお金がつぎ込まれている巨大な国家プロジェクト。専門的技術面が高いとはいえ、大手が横で結託して落札値段を一定以上に引き上げている=無駄なお金でゼネコンだけが肥えている、ということです。

*「東京では、2020年に向けてオリンピック関連施設の建設・インフラ整備が急ピッチ」
*「オリンピック景気に大いなる期待」


はい、たった2週間のイベント(お祭り)のために大フィーバー。あちこちでまだ使える愛着のある建物がどんどん取り壊され、地面が掘り返されてます。
いくら「レガシー(=遺産)」としてオリンピック後も使うとはいえ、けっこう無駄なものも多いのでは…?

要するに、巨大なお金が動くところにだけ土木・建築関係が寄ってたかっている…言葉は悪いですが、そういうことなんでしょう。

クルットル
歴史上の人物とは一切関係ありません(ネット画像より)


その「働き」「お金」の一部でも、北九州・熊本・福島に回せないのか…??
世の中に必要とされる「仕事」が現実にあるのに、働き手がいない…?
なぜ…???? 

この寒空のもと、いまだに不自由な暮らしを強いられている被災者のために、どこのゼネコンでも住宅メーカーでもいいから「よし、われこそは!」と名乗り出て、まずは着工してあげようというところはないのか?

へたなCM制作に何千万もかけより、被災者に住宅をプレゼントしたら、おそらく企業イメージもかなり良くなるのではないでしょうか?
でもそこは強制はできません。「企業」ですからね。でも、すべてを「無料奉仕」でやれとは言いませんが賄いきれない分は、それこそ「国としての復興予算」として国に請求する、国も個別に見てそれを認める…という仕組みがあっても良いのではないでしょうか?

私がかねがね「豊かさとは…?」というカテゴリーでも書いてきたように、世の中に本当に必要とされる仕事、誰かがやらなくてはいけない仕事にこそ、ちゃんとお金が回っていくような仕組みが必要。

なのに、今の日本は、バブリーなお金にばかり支配され、役所の打ち出す策やルールはいかにも机上でタテマエとタテ割りで作ったような形式的なものばかりで、本当に必要・大切な仕事を最優先して回せる機動力のある仕組みになっていない…


◆経済(=お金)

*「日銀、景気は緩やかな回復傾向にあるとして、引き続き金融緩和を続ける」
*「年明けの株式市場、500円以上の高値で取引開始」
*「戦後のいざなぎ景気以来の長期的株価上昇」


経済、経済って、財界・大企業だけを優遇して内部留保を増やし、「景気がよい」と答える企業が増えれば「豊か」になったといえるのでしょうか?

歴代首相の中でも群を抜いて海外へ出かける機会の多い安倍総理。そのたびに海外にばらまかれるお金は公金(=国民が納めた血税)。国会での承認など一切なし…?

そしてそのばらまきが「投資」として巡り巡って還元されるのは海外でインフラ整備をしたりモノを売る大手の日本企業…
しかし、日本企業にビジネスチャンスをトップセールスしてもらった挙句、法人税も大幅に緩められる復興税も廃止されるなど、どこまでも企業を優遇しても、働く人たちの所得(給与)は一向に増えないのか?

*企業の内部留保は、現在400兆円(=国家予算のほぼ4倍)
*給与が上がらず物価が上がることで、豊かさとは実感は逆に
*人がる貧困・格差が広がっている!


株価の上昇は、アメリカ経済をはじめとする見通しの期待感から株が買われたことによるところが大きい。投資家たちのきわめて気まぐれな行動が数字になって現れたもの。そんなバブリーな数字と、大企業の景気判断だけで「アベノミクスの効果だ」なんて豪語しないでいただきたい!



お金のあるところに寡頭な競争がひしめき合い、過度な低価格でのサービス競争で「働き方」も大いに問題になっています。人の命と健康にも直結する緊急の課題ですが…

*「働き方改革、実行は先延ばしへ」…企業側の条件がなかなか整わないのが理由。
*「生活保護の支給額が、最低賃金を上回っている。→生活保護を引き下げる」

違うでしょう!!
生活保護費が定められたのはかなり以前のはず。そのころに比べて物価も消費税も上がっていて、生活はギリギリ以下。とくに窮地に立たされている人たちの貧困は深刻です。なのにその生活保護費をさらに削る…?
真逆でしょう。生活保護費よりも低い最低賃金があるということが大問題なのです!

そんな「実態経済」の矛盾や現実問題を尻目に(尻目にでも入ってるのか?)…

*「安倍総理、正月明けは経団連関係者とゴルフ」

のんきなもんですね。経団連関係者との絆を深める方が、ご自身の政治生命にも影響力ありますからね…。国民、とくに被災者という弱い人のことなんか、どうでもいいんですか!?
それでよく「国民の命と安全を守る」などと決まり文句のように言えますね!

エーカゲン 
「二世」まで声に出して読んで下さいね!



「国民の命と安全」の話題が出たついでに、この問題にも触れないわけにはいかないでしょう。

◆北朝鮮は本当に「脅威」なの…?

はい、北朝鮮の度重なるミサイル発射や核実験は、国際的にも非難されるべき挑発行動です。そこは間違いありません。
しかし、北朝鮮のあの「挑発」の狙いはどこにあるのか…?

北朝鮮がどうしてあんな国になったのか?
それは今から70年前の朝鮮戦争によって北緯38度線ができたことに発していることは明らかです。
同じ民族が南北で寸断され、行き来もできなくなった。南は、アメリカや日本の力を受けて豊かになった。しかし一方の北は…

北は、同じ民族である南(=韓国)に対してではなく、列強・アメリカの横暴、世界支配に対して大いに怒っているわけです。
そして、そのアメリカとべったりの体制をとる日本・韓国・中国といったアジアの動向を逐一見守っているのです。
アメリカへの敵意・反発がすべての根源にあり、国民洗脳、核開発、対外的な暴言へ…

国際ルールを無視した核開発やミサイル発射はもちろん許されませんが、それを言うなら、なぜアメリカはあんなに核を持っていて良いのか?

そして日本も、核保有国の顔色を窺って、「核廃絶」の国連決議に賛成できない!

*「核廃絶に向けた国連決議に、日本は反対の立場」
*「広島・長崎 被爆者たちの怒りと涙」
*「なぜ唯一の被爆国・日本が核廃絶に賛成しない!?」


そんな日本も含めたアジア諸国の動きを「北」は逐一見て、自分たちの国を守るため(=安倍総理と同じ根拠)で防衛のために核開発や大陸間弾道ミサイルの開発をすすめているのです。

*「米韓の合同軍事演習に、北は強い怒り」

当然でしょう。それに対してアメリカはじめ国際社会が「けしからん」と言って「制裁」を強化すれば、北はますます意固地になり、自らの防衛を正当化して核開発をすすめ、挑発行動を繰り返すでしょう。

*「トランプ大統領 (北に対して)あらゆる手段がテーブルにある」
*「安倍総理 トランプとの会談で完全に意見の一致」


北をますます刺激し、意固地にさせる…はたしてこの方向でよいのでしょうか?

*「拉致被害者の家族 高齢化が進む」
*「いっこうに進まない拉致問題」


「挑発」に対して「制裁強化」だけを掲げ、「対話」を否定したら、拉致問題の解決はますます遠のくのではないでしょうか?


◆「北の脅威」は、天から降ってきた好機…?

そんな北朝鮮ですが…

*「金総書記、平昌五輪への参加を表明」
*「北朝鮮、南北通信チャンネルを再開、数回もやりとり」
*「来年(2018年)から、対南対話に入る見通し?」


ほう、やはり北も、世界を相手に戦争をしたくて仕方ないわけではなく、本当は「対話」をして国際社会への仲間入りをしたい、それが本音でしょう。

もし本当にアメリカに対して戦いを挑むつもりなら、「発射実験」ではなくとっくにアメリカ本土に核ミサイルを撃ち込んでいるでしょう。

なのに…

*「Jアラート発動 列車の運転も一時見合わせ」
*「Jアラートを受けて、全国の学校でちらしを配布」
*「頭をかくしてうずくまる 頑丈な建物に避難するなどマニュアル化」

じつにくだらない!ほんとうにバカじゃないのか…?
72年前の大戦で、「敵が上陸してきたら竹槍で戦え、焼夷弾の空襲を受けたらバケツリレーで消せ」の方がまだましだったのでは…?

核ミサイルに、「頭をかくしてうずくまる」「丈夫な建物に避難」「列車を停止」で身を守れるんでしょうかね…(笑)
そもそも、大陸間弾道ミサイルの高度は4000メートル?その高さなら人工衛星が日々日本の上空を通過してますよね。

ところが…

*「日米でアンケート実施 『北を脅威と感じる』が過半数」
*「ミサイル防衛に一基1000億を投入」
*「相手国の基地への先制攻撃も可能に? 国会で議論へ」


はい、政府・安倍総理の本当の狙いはここでは?

「北を脅威」として国民の意識を高め、防衛費の拡大、ひいては憲法改正への道筋につなげたい…それが安倍総理の本音ではないでしょうか?

*「安倍総理 今回の解散は国難解散」 (2017年9月)
*「安倍総理 憲法改正の議論に向けて意欲を示す」


安倍総理が2~3か月ぶりに首相官邸に泊まった時に、なぜか北はミサイルを発射する…サイト上でけっこう話題になっています。ここにはあえて掲載しませんが、キム総書記が電話している画像と、安倍総理が電話してる画像を並べて「そろそろ1発お願いね」なんていうコラボ画像に思わず笑ってしまいましたが、冗談だけにしておいてほしいです。


最後にひとこと…

◆「憲法」とは?

憲法は国家のあるべき姿を定め、あらゆる法規の上位に位置するもので、一政権の暴走に歯止めをかけ、日本の平和主義を恒久的に貫くものです(とくに9条)。

一般の法律や条令・規則のように、時代が変わったら時代に合わせて変えてもいいなどという論理は、法(憲法)をちゃんと理解していないから出てくるものです。

教育の無償化、緊急事態法、皇位継承…などといったテーマは、なにも憲法そのものを変えなくても、他の法律・規則で十分対応できることです。→教育基本法、一般法規や自衛隊法への「緊急事態」に関する記述の追記、緊急事態特別措置法(仮名)、皇室典範などで時代の変化に対応することはできるのです。
国民がもっともらしく「うん、それは重要だよね」と思うようなテーマを出してきて憲法改正に結び付けよう、という姑息な手に騙されないでいただきたい。

そもそも「20歳をもって成人とみなす」などという定義だって、憲法のどこにも書かれてません。公職選挙法や民法といった個別の法律の中に詳細が書かれているのです。

憲法は、そんな個々のことを決めるためにあるのではなく、もっと大きなテーマ、こと過去の戦争で犯した過ち・過大なる犠牲への反省にたって、日本人の頭脳を結集して(=最初の草案はたしかにGHQが作っているが、その後の項目の加除・文言の精査には日本人の叡智が集められている)作られたものです。

それを、時代の変化・世界情勢の変化・一政権の思惑で改正を議論すべきではありません

20160204003407e2a_20180105192009485.jpg 20160204003407ec5_201801051920091d4.jpg
2015年に政府自民党が配布したマンガによる「憲法改正ってなに?」という文献。こんなものに洗脳されてはいけません!

もし本当に憲法改正を議論するのであれば、根本的な「国の在り方」について学識経験者や法律の専門家も交えて、国会・国民とともに客観的な議論を尽くして文言を精査する必要があります。

少なくとも今の自民党案のような改正案は納得できませんし、これまでの集団的自衛権を含む安保法制・秘密保護法・テロ等準備罪…といった重要法案の時のような国会運営では「きっちりした議論がなされた」とはとうてい言えません。

質問には正面から答えず、論点をすり替えられ、ごまかされ、質疑を繰り返せば繰り返すほど矛盾が明らかになり、「このような状況で採決なんかすべきではない」という声を強引に封じ込めてだまし討ちのように採決してしまう…そんな政権に憲法改正の議論を託してはいけないと思います。

憲法改正に関しては、最終的には国民投票があるから、決めるのは国民だ、と言われても、正直いまのような政権の言うことにころっと騙されて、「ほかよりマシだから」で自民党に圧倒的な「数の力」を与えてしまうような国民有権者が多い中、果たして正しい判断ができるのかどうか…?

「憲法改正」に関しては、一昨年(2016年)2月に詳しく書いたこちらの記事をご参照ください。
→ 「憲法改正は必要…?」


*長文をご精読、ありがとうございました。
今年も、音楽の話題や身近な楽しい話題だけでなく、たまにはこんな社会的テーマについても私なりにつづっていきますので、どうかよろしくお願いします。シェア歓迎。賛同・反論はコメント欄にご遠慮なく。



「赤と白のバラ」の想い出(2000年の元旦)

早いもので、もう18年も前の話… 当時の懐かしい個人的な記録写真を公開させていただきます。

◆元日恒例の「ウィーンフィル ニューイヤーコンサート」

ウィーンの音楽の殿堂、学友協会のムジークフェラインで元日のお昼に行われるニューイヤーコンサートを生中継で受ける番組です。私も以前、この番組の美術担当として何年か関わらせていただいたのです。

こちらは2000年 元旦のスタジオセット
2000年ニューイヤー2
(コンパクトなフィルムカメラで撮影)

元旦から出勤ですが、朝からスタジオをセッティングしたら、本番は夜の19時~。スタジオ内でゲストトークの生収録が前後にありますが、ウィーンからの中継画像をモニターで観られる、音楽好きには天職のようなお仕事。

しかし、じつはこの年、ちょっとした忘れられないエピソードがあったんです。

前年の暮れに、ウィーンの会場ではどんな花が飾られるのかという情報が番組担当者から来るので、できれば中継を受ける東京のスタジオも同じ花で飾りたい…この時は赤と白のポインセチアだったんです。

ところが、花屋さんの業界では、クリスマスを過ぎると市場からいっさいがっさいポインセチアが消えてなくなるんです

 ★ウィーンからの情報が入ったのはクリスマスを過ぎてからでした。
  前に分かってたら花屋さんに発注して確保しておけたんでしょうが、そこは仕方ない。



◆あまりの商業主義に怒り!

そんなバカな! 自然界では2~3月ごろまで鑑賞できる植物ですよ。私は局内の花屋さんに思わず文句を言いました。「せめてスタジオ内のテーブルに並べる数鉢だけでもなんとかならないのか」と。しかし市場に聞いても、他の花屋さんに聞いても答えは同じ。わずか数鉢がどこにもない!

デパートでもどこでも、季節を先取りした商戦が盛んですが、あまりにも酷いと思いませんか?

正月明けると正月飾りは消えて早々に節分・まめまき、それが過ぎるとひな祭り、つぎは入学式、そして端午の節句…夏の海山の季節が過ぎると秋も早々にハロウィン、それが過ぎるとクリスマス…
どんどん季節を先取りして、売れ筋のものだけを並べる。過ぎたものは一切姿を消す。

たしかに季節外れの売れないものを年中店頭に並べておけとは言いません。しかし中には季節イベントに関係なく欲しい基本的なものだってあるでしょう。 

たとえば、正月飾りの松はなくなっても、松の盆栽がいっさい姿を消してどこでも手に入らなくなるでしょうか?、ひな祭りを過ぎたら、赤い毛氈が一切手に入らなくなるでしょうか?…etc.
デパートの店頭には並んでなくても、せめて注文したら手に入る状態であってしかるべきでは?

しかも、真冬にスイカを要求してるわけじゃない。自然界には春まであるはずのポインセチアが、クリスマスを過ぎたらわずか数鉢すら手に入らなくなる…あまりにも商業主義が過ぎるんじゃないか!?

 ★生産者と直接コネクションをもつ、という知恵が当時の私にはありませんでした。
 ★その季節に売れそうなものを売るだけ売って姿を消す…次の年にはもう同じものはない。
  モデルチェンジして部品もない、修理もきかない。また新しいものを買わせる…!


「売れないものを並べてもしょうがないじゃん。向こうは商売なんだから」…
はい~?(右京さん風に)、単に私が理不尽なクレイマーなんでしょうかね~?

…18年たった今でも正直私の中でくすぶっています(泣・笑)


バラの香りで埋め尽くされたスタジオ

たしかに文句だけ言って喧嘩別れで終わったのなら単なるクレイマーですね。
でも私は花屋さんに対して怒ったのではなく、あまりにも酷い市場の商業主義について怒ったのです。花屋さんも「たしかに」と同情的でした。
そして気を取り直して、その花屋さんに真っ赤なバラと真っ白なバラを大量に発注し、いいお仕事をしていただきました。

当時収録が行われていた「N響アワー」・「芸術劇場」共通のスタジオセットをそのまま使ったので、大道具を新規に作る予算はゼロ。番組美術にかけられる予算の大半を「バラの花」につぎ込んだのです!

2000年ニューイヤー1 2000年ニューイヤー3

元旦の朝からスタジオ内はバラの香りでいっぱい。
ただ、スタンドにかためて置くだけでは、まるでパチンコ屋さんの開店祝いみたいなので(笑)、適度にばらして、テーブルの上やセットにも少し並べ…

2000年ニューイヤー5 2000年ニューイヤー4

本番終了後、ゲストの方はもちろん、番組南東者や照明・カメラのスタッフさんたちも花を少しずつ紙に包んで持ち帰られました。災い転じてなんとやら、いいお正月になりました。 

以上、まだ髪もそれなりにあったころの18年前の私がお伝えしました。

2017 衆議院選結果に思う

10月23日

「期日前投票が伸びている」とのニュースに、さすがにここに来て安倍政権の是非を問うことに国民的な関心も高まってきたのかな、と少々期待したのですが…


◆またしてもこんなに「数の力」を!?

投開票のあった翌月曜日の朝、無表情なサラリーマンを見るだに怒りがこみあげてくる私ですが、今朝は大型の台風21号が関東を直撃していた早朝に出勤だったため、アドレナリンの分泌が分散されたようです(笑)

はじめに断っておきますが、私は「自民党政権を打倒せよ!」とまで過激なことを申し上げるつもりはありません。

ただ、あまりにも国民の声をないがしろにし、憲法を軽んじ、国会を軽視し、見かけの数字だけの「経済」だけをエサに「投資」にまい進し、国民(とくに弱い立場)を追い詰める政策を推し進め、それらを「数の力」に任せて強引に決めていく…安倍一強体制をなんとか止めたい、そのために野党にももっと頑張ってほしい、口先だけでなく本当に「丁寧な説明」・「しっかりした議論」を尽くして、国民や野党も納得できるようなものの決め方をする=「民主主義を取り戻す」こと。

国民有権者も「どっちが勝つか」の勝ち馬レースではなく、なにより投票率をもっと上げ、どこを支持するにしても物事の本質を見極めて一票を投じてほしい…それを切に願ってきました。

その結果がこれですか…?

PK2017102302100269_size0.jpg

今回の衆議院選で、ここまで自民が全国的に票を伸ばした要因について、すでにメディアでも色々言われてますが、私なりに冷静に考えてみました。

結論として、これまであまりにも野党がだらしなさ過ぎた。それが今回「希望の党」の出現によって露呈し、結果として野党共闘をひっかき回されてマイナスに作用した、と見ます。

その辺りをあらためて振り返ってみたいと思います。


◆「希望」の失速

都議選で自民党に圧勝した小池都知事ひきいる「都民ファースト」。そのうち国政にも撃って出るのではないか、との予想どおり、安倍総理が冒頭解散をするタイミングに見事あわせて「希望の党」を立ち上げ自ら「代表」に。

女性なのに政治的な戦術に長けた凄腕、都議会選の旋風を国政にも吹かせてくれるのか、と正直期待しました。自民党も正直なところ予想外の展開に焦ったのではないでしょうか?

都議会選での大敗に焦った自民党、森友・加計問題の追及の迫る中、新たな改造内閣人事を発表し「仕事人内閣」…?
笑わせていただいたと思ったら、まだ何も仕事はおろか、国会での所信表明もしないままいきなり冒頭解散。
「いまなら勝てる」と打って出た安倍総理の賭けに、野党が一丸となって受けて立つ選挙。NHKでも投票前日のニュースで何度なく表現していたように、「5年つづいた安倍内閣の存続を問う選挙」。

「政治を変えるのは地方から」が私の持論です。まして東京都は「巨大な地方」です。
東京都議選で起こった風は、必ずや国政にも吹くだろう…と。

しかし、その後の「希望」があまりにも酷く失速して自滅してしまったのです!

民進党から移ってこようとする議員にいわゆる「踏み絵」をつきつけ、「排除します」と明言してしまった(9月28日)。

「誰でもかれでも無条件に受け入れるわけではありません、党の目指す方向に合う人かどうかはきちんと見極めるつもりです」ぐらいに言っておけばよかった。党としてのポリシーが強調されて良いイメージにもなったでしょうに。「排除します」の一言が大きくマイナスになった。

小池氏は、会見でも歯に衣着せずものを言う姿勢は立派ですが、やたらカタカナ英語を使うなど上から目線を感じたり、やや人を馬鹿にしたような発言が鼻につく、とおっしゃる人も多いようです。

さらにその後出してきたマニュフェストに「スギ花粉ゼロ」など、現実的に考えてどうやって実現するのか、というようなことを書いてしまったことで、中高生からも「なに、あれ?」と笑われてしまいました。そんなことも失速の一因でしょう。

また、憲法改正に賛成であるなど、自民党と本質的には変わらず、裏で自民党と結託してるんじゃないか、小池氏は「都知事」として期待を浴びて就任したばかりなのに二足の草鞋を履くつもりか、築地問題や東京五輪はどうなるんだ…といった不信感へ。戦略はたしかに上手いけど腹の底でしたたかに何を考えているのか…「緑のたぬき」なる汚名も。


◆もともと野党がだらしなさすぎた!

「希望の党」の問題はそれとして、その出現によってここまで野党(とくに民進党)が大揺れに揺れたことは、いかにそれまでだらしなかったかを露呈してくれました。
小池新党「希望」の誕生が、民進党を事実上解体させ、野党共闘をひっかき回し、弱体化させることに貢献しただけで終わってしまった感がぬぐえません。

しっかりした理念をもち、自民党の出してくる法案や政策に論理的に一貫して反対していたのは「共産」「社民」ぐらいでしょうか?

野党第一党でかつて政権にも就いたことのある「民進党」があまりにもだらしなかった。何をどうしたいのかが見えなかった。
解散の少し前に、民進党の代表選びがありましたが、あそこで前原氏が代表になった時点で「だめだ、こりゃ」だったと私は見ています。

代表になったばかりの前原氏から発せられる言葉のあちこちに「?」が感じられ、「この人大丈夫?」と思っていた矢先、「希望」が立ち上がったとたんに自ら民進党を裏切って寝返りました!

さらに元代表だった岡田氏も、さっさと民進を捨てて「無所属」で立候補!しょせん民進党のポリシーなんてなかったのでしょうか? 民進党はその程度の野党だったということでしょうか?

あそこでもし枝野氏が代表になって、「上からの政治ではなく、国民目線での政治、草の根の政治で民主主義を取り戻す!」というメインテーマ(=「立憲民主党」を立ち上げたのと同じポリシー)で民進党内を結束させ、さらに共産や社民などとも連携して野党共闘体制を固めていたら、おそらくまったく違う結果になったのではないか…と。自民党(与党)もそれを最大に恐れていたはずです。

後になって「もし~~だったら」は言っても仕方ないですが、枝野氏も、かつて総理までなった菅直人氏も、けっきょく古い「民進党」の中では頭角を現すことができなかったのでしょうか…? 「立憲民進党」という新しい星のもと当選を果たしました。


今回の注目はなんといっても「立憲民主党」の急成長!

枝野氏の街頭演説には日に日に人垣が増え、枝野氏の口から発せられるメッセージのひとつひとつに「そうだ!」という聴衆の声があがり、わずか1か月足らずで人気は急上昇、今回「野党第一党」になりました!

枝野氏をはじめ、菅直人氏など立憲民主党から立候補した多くの候補者が当選、もしくは小選挙区において自民党候補者と接戦になりました。
国民が求めていた「自民以外の受け皿=託してみたい野党」はまさにこれだったのです!

もう少し早くこの体制ができていて、共産や社民などとの連携も強化されていたら…と思っても虚しいですが、逆に事実上「民進」が解体したことで、新しいものが生まれた、そのためのプロセスだったと思って、今後に期待したいところです!


それにしても「他よりマシだから」の自民が多すぎないか?

立憲民進党に期待を託して一票を投じた人は多かったはず。その分、「ぶれない野党」として前回の総選挙で22議席まで伸ばしていた共産党への支持票がこちらに流れたともいえるでしょう。

「希望」に希望が持てないから、民進があまりにも酷くて見捨てられたから、今のところ他に政権を任せられそうな政党がないから…で、結局「他よりマシだから」で自民党に一票された方が、全国津々浦々にこれだけいた…?

さらに、長い歴史に支えられた動員力・組織力によって、自民党には組織票という強みがあります。
無党派層が政治に関心・疑問をもち、投票に足を運んで野党に一票を投じなければそれだけ有利なのです。

日本列島北から南まで津々浦々、よくもまあ自民党候補者の「万歳三唱」が響き渡ったことか!?
あれだけ問題視されて辞任した疑惑の閣僚の面々が見事に当選を果たしています。

これで安倍総理はじめ自民党政権は「国民からこれだけ信を得た」とばかり、森友・加計問題はさっさと葬り去り、憲法改正や消費税増税、その他国民(とくに弱い立場)の人たちを切り捨てる政策をさらに加速させることは火を見るより明らかなのに、それを想像できないのか、はたまたそれで良しとするのか…?

この国の国民は、本当に「今さえよければいい」「政治は自分たちの生活に直接関係ない」「日本は平和だ」あるいは、「北朝鮮などの脅威に対して安倍さんは守ってくれるだろう」…そんな幻想を抱いているんでしょうか?

「あ~あ、もうどうなっても知らんぞ」です!
民意がこんなレベルで、今後憲法改正の議論・国民投票で正しい判断・選択ができるのか?…と。


なぜ「野党」が必要なのか?

最後に、私は前々から言い続けているように、選挙は「どっちが優勢でしょうか、どっちが勝つと思いますか?」の勝ち馬予想のアンケートじゃないんです!

どっちが勝つか、どこに政権を取らせたらよいか、ではなく、今までの安倍・自民の一強体制で、なんでも「数の力」で国民の声も憲法もないがしろに勝手に決められてしまうことに危機感を感じないのか、という点です。

短期間で急成長した「立憲民主」と合わせて、共産党や社民党にも無党派層の人たちからの票が集まっていたら…
なにより、いかなる選挙でも投票率50%そこそこ、という意識そのものがあまりにも低すぎませんか?
それが一強体制の「数の力」を与える結果になってしまっているということに、どうして気づかないのか…と。


★おことわり

主義主張、どの政党を支持するかはあくまで個人の自由です。
ただ繰り返し申し上げてきた通り、一党一強体制による「数の力」で民主主義が捻じ曲げられてはいけない、と思うのです。

筋の通らないことには「NO」といい、税金の使われ方、私たちに大いに関係のある制度や法律の決められ方について、国民・有権者はどう考え、どういう選択・行動をすべきなのかを私なりに考えているまでです。

美しい芸術文化、自然、おいしいグルメ、楽しい話題…そんなたわいない幸せ・当たり前の平和が続くことを願えばこそ、ちょっと真面目に社会にも目を向けていたいのです。片方だけ見て、片方に目をつぶることは私にはできません。
いわば独り言だと思っていただいて構いませんが、何か多少なりとも参考になることがあれば幸いです。


真夏の辞任劇 ~本丸は国をあげての隠蔽では!?~

7月27日(木)

真夏の辞任劇が止まりません。

野党側では、民進党の野田幹事長(元首相)の辞任、つづいて蓮舫代表の辞任。
一方、南スーダンへの自衛隊派遣における「日報」の存在をめぐる隠蔽疑惑で、防衛省の部署のトップ2人の辞任につづいて、今夜突然の稲田防衛大臣の辞意表明…

一般に「辞任=何らかの責任をとって自ら身を引くこと」ですね。
「罷免」「更迭」されるよりも前に、自らの判断で「辞任」する方が、本人の今後のためにもダメージが少なく、大きな組織としても「本人の事情」として扱えます。

そういう意味で、民進党の野田幹事長および蓮舫代表の辞任は理解できます。

都議選以降、これだけ安倍政権の支持率が急降下しているにもかかわらず、野党第一党としてその「受け皿」になれていないこと、民進党の内部に統率力が欠け、支持率も低迷している…その責任をとって幹事長と代表が揃って辞任。自らの責任を感じて、自らの意思で辞任…

この大切な時期に、なにをやってるんだ、しっかりしてくれよ、とは思いますが、少なくとも「辞任」の意向そのものに違和感は感じません。


不気味なのは、稲田防衛大臣の辞任

一方、防衛省幹部の辞任と稲田防衛大臣の辞任には、大きくひっかかるものを私は感じます。
自らの責任をとっての辞任ではなく、もっと大きな力がバックにあるのではないか、と。

南スーダンに派遣された自衛隊の「日報」の存在をめぐる問題。防衛省としての隠蔽、およびその事実を稲田防衛大臣が「知っていた」のかどうか、「隠蔽を了承した」のかどうか…?
たしかにそこが焦点ですが、はたしてこれは防衛省および稲田防衛大臣だけの問題なのでしょうか?

朝日デジタル27日20時すぎ朝日デジタル 27日 20:08

街の声によると、先の都議選における応援演説での失言、軍・防衛・戦闘のことをどこまでわかっているのか…? 稲田防衛大臣の資質に問題があるのではないか、辞任は当然だ、という声が圧倒的に多いようですが、はたして防衛大臣としての資質だけの問題なのでしょうか…?

本丸は安倍政権…?

集団的自衛権を含めたあらたな安保法制の成立によって、自衛隊をPKO活動として南スーダンに派遣し、一部武力行使も含めて他国の軍への「後方支援」に当たった初めての事例。

ただし、その派遣先で「戦闘」が行われていたら速やかに「撤退」させる約束だったはずです。

今年5月に放送されたNHKスペシャルで、派遣された先で何が起きていたのか、どんな状況だったのかを派遣された自衛隊員たちが匿名で明かしました。

すぐ近くに迫撃砲が撃ち込まれ、一部の隊員たちは「死」を覚悟し、家族にあてた「遺書」まで書いたという事実が明らかになりました。そこで行われていたのは、まぎれもなく「戦闘」だったのです!

しかし、国(=政府)は「武力による衝突」と呼び、「戦闘」とはみなしませんでした。

現地隊員から報告を受けた「日報」が防衛省内に存在していたことは、政権にとって都合の悪いものだったに違いありません。
当初は「廃棄された」「存在しない」「確認できない」…と繰り返してきましたが、実際にはそれが存在したことが明らかになったわけです(どこで誰が告発したんでしょうね?)。

防衛省幹部は、稲田防衛大臣に「報告した」といい、一方の稲田防衛大臣は「報告は受けていない」「(非公開とすることを)了承したことはない」と、そこは平行線のまま。

稲田防衛大臣に責任をとって辞任する考えはなく、安倍総理も「職務を全うすることで責務を果たしていただく」と言ってきました。
その責任の内容とは「管理・監督責任」「今後このような問題が起こらないように」…と。そういう問題なのでしょうか?

それがなぜ、8月3日の内閣改造を1週間後に控えた今このタイミングで、急に「辞任」に至ったのか…???
安倍総理と40分にわたって「会談」したそうですが、総理とはどういうやりとりをしたのか…???


◆かつての大本営発表と同じでは?

ここまでお読みいただいて、お感じになりませんか?
これは稲田防衛大臣だけの問題(=大臣としての資質の問題)ではないのです!

自衛隊を派遣し、現地で「戦闘」が行われていたにもかかわらず、自衛隊をすぐに撤退させなかった…その政府の判断にかかわる重大な問題です。

自衛隊の海外派遣、武力行使も含めた後方支援という、戦後初めてのケースにおいて、「現地では戦闘が行われていた」との情報を、防衛省および国(=政府)がどう受け、どう判断・処理されたのか…?

まさにこれは、太平洋戦争における大本営発表と通じるものを感じます。
現地の状況を正しく把握し、正しく判断することなく、政府の思惑によって事実を隠蔽し、撤退させることなく駐屯を継続させ、国民にも事実を隠して嘘をつく…という図式ではないでしょうか?

そこを徹底的に究明しようとするならば、稲田防衛大臣の説明責任を継続させるべきではないでしょうか?

本丸はあくまで安倍政権と見るべきでしょう!

稲田防衛大臣も当然ながら「日報の存在」を知った時点で、どう扱うか、「非公開とする」という防衛省幹部との「合意」も、政府側との板挟みの中でやむを得なかったのではないか…?
安倍総理に相談したのかどうか(当然ながらなんらかの報告・相談はあったのではないか?)、総理からどういう指示があったのかも含めて、そこを明かさなくては問題の本丸には到達できないのではないでしょうか?

安倍政権には、これまでも資質に欠ける大臣を任命した「任命責任」があることも事実でしょうが、本質はそんな甘いものではなく、国を挙げての隠蔽体質、かつての大本営と同じ過ち を犯そうとしていることこそが本質と見るべきではないでしょうか?

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
このすぐ下の「カテゴリ」から興味のあるテーマごとにクリックして覗いてみてください。
一部パスワードをご存じのメンバーの方のみ閲覧できるページを含みます。

カテゴリ
カウント開始 2011.1.14~
リンク
最新記事
最新コメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR