グッドマザー ~和太鼓奏者・友野龍士くんとお母さま~

9月29日

BSジャパンで、土曜日の朝8:00~8:31放送の「グッドマザー」

9月17日(土)・24日(土)の放送で、「コバケンとその仲間たちオーケストラ」の仲間でもある和太鼓奏者の友野龍士くんとお母さま・眞由美さんが紹介されました。

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9月24日(土)朝の放送時刻、ちょうど私たちオーケストラは富山でのコンサートに向けて出発しなくてはならない時刻でした。予約録画しておいたものを後日拝見しました。

よくありがちな番組制作側の過度な脚色による「感動ストーリー」に歪められることなく、ご本人の言葉を忠実によく構成されていて、ご本人をよく知る人が観ても「そうそう、その通り!」と思える内容でしたので、ここにご紹介させていただきます。


◆素晴らしいプロの和太鼓奏者・龍士くん

和太鼓のソロはもちろん、ジャズとのセッションなどあらゆる場面ですぐに「音」を覚え、どんな人とも音でつながれる…それが龍士くんの素晴らしさです。

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このブログを以前からご覧の方はよくご存じでしょうが、龍士くんは私たち「コバケンとその仲間たちオーケストラ」の仲間です。

2010年3月、NHK「こころコンサート」でスペシャルメンバーとして共演されたのがきっかけでした。
→ ♪「こころコンサート

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小林研一郎先生の「夏祭り」という曲で和太鼓のインプロビゼーション(ソロ)を担当されたほか、オーケストラの打楽器にも興味を持たれ、チャイコフスキーの「1812年」で大砲役をお願いしました。この曲の大砲の音は彼の和太鼓で演じています。
世界広しといえども、「1812年」の大砲を和太鼓で演じているのはこのオーケストラだけでしょう。

その世界で一つだけの誕生秘話についてはこちら…
→ ♪特殊楽器「和大砲」


才能の開花

少し知的障害のある龍士くんは、幼いときから木の棒などを叩いて音を出すのが好きだったそうです。その叩いているリズムが、祭りの太鼓のリズムであることに気づいたのがお母さまの眞由美さんでした。

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機会あるごとに龍士くんをお祭りに連れていかれ、龍士くんは太鼓のリズムをどんどん覚えていったと言います。

横浜で知的障害のある和太鼓のグループ「あらじん」でも友野くんはなくてなならない存在。私もその合わせ練習にお邪魔したことがあります。

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障がいがあることで「できないこと」「難しいこと」もたしかにあります。でも、それはいけないことでも悪いことでも恥ずかしいことでもない…

彼らの太鼓の音と素晴らしい笑顔に触れれば、誰でもきっと一瞬でそれを理解できるでしょう。


◆天職との出会い

養護学校に3年間通われた龍士くん。やがては仕事をみつけ、お給料をもらって生活していかなくてはいけないということを聞かされます。

龍士くんは、プロの和太鼓奏者の方々に会う度に「それって会社ですか?」と聞いて回ったそうです。
和太鼓奏者の多くは「会社の仕事」としてやってません。演奏活動の他にアルバイトをされている方もいらっしゃいます。

眞由美さん(大人)からは、会う人ごとに「それって会社ですか?」とか「いくらもらえるんですか?」なんて聞けませんが(笑)、龍士くんは平気でいろんな人に聞いて回ったそうですね。屈託のない明るい龍士くんならではのキャラです。

そんな龍士くんが、浅草にある「太鼓センター」と出会います!
そこは「会社」「仕事」なんです!しかも大好きな和太鼓の。「じゃ僕ここにします」と。

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商品としての楽器やバチについて指導を受けながら覚えていきますが、「太鼓センター」代表の東宗謙さんが、誰とでも一瞬でどんな音とも合わせられる彼の才能を見出され、明るく真面目な性格が認められ、晴れて龍士くんは「太鼓センター」で働くことになったのです。

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「太鼓センター」には、私たちオーケストラの公演で使用する和太鼓を貸していただくなど、いつも大変お世話になっています。


お母さん・眞由美さんの人生も変わった

龍士くんと向き合い支えることを通じて、眞由美さんに「福祉の世界で働きたい」という気持ちが目覚めます。

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いまは横浜市の二ツ橋地域ケアプラザでケアマネージャーとしても働いてらっしゃいます.。
クライアントであるお年寄りと個別に向き合い、身近に困っていることにもきめ細かく相談に乗り、他機関と連携してつなげていく大切なお仕事。

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お年寄りたちの不安が解消されて喜ぶ笑顔を見るのがなによりで、もっと前からこの仕事をやればよかった、と。


太鼓の楽しさを次世代に

眞由美さんは、龍士くんの母校・横浜市立馬場小学校(鶴見区)の和太鼓クラブを指導もされていらっしゃいます。

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ここでは健常者の子供たちばかりですが、龍士くんが自分の世界をつかんだ場所で、子どもたちにも太鼓の魅力を伝えていけたら。
子どもたち同士で助け合い、課題を見つけ乗り越えていく場面を少し離れて見守ることもあるといいます。

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龍士くんにとって、「祭り」は太鼓と出会った原点。
いまも地域の盆踊り大会には必ず参加されています。

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若い人たちにも太鼓の楽しさを伝えていけたら…おそらくそれは龍士くんにとってライフワークでしょう。


障がいがあることが 問題でなくなる社会へ

番組の終わりでの眞由美さんの言葉がとても印象的でした。

「小さい頃には たくさん問題があったし、心配事も たくさんあったんだけど、
暮らしていく中で本人の問題とすることって、環境が整うと問題じゃなくなってくるんじゃないかな って」

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「龍士の周囲にいる人たちの理解というか 関わる姿勢、そういったことで龍士自身が困ってる状態とか社会の中で困るようなことが どんどん削ぎ取られていくような…」


私もまさにそこが大切だと思います。それがまさに「ノーマライゼーション=当たり前であること」じゃないかと。

障がいがあることを特別視(→ある意味「差別」)するのではなく、本人にどういう特性があって、何に困っているのかを周りが理解し、気持ちをひとつにして支えあうこと。

ちょっとした想像力やさしさをもって「いっしょにやろうよ」と言えること。夢をあきらめないこと
まさに「音楽の力」は、それを体感させてくれる近道なんじゃないかと。

番組をご覧になられた方はどう思われたでしょうか?


<おことわり>

★このような形でブログでご紹介させていただくことについては、放送予定をご案内くださった友野さん、および番組制作サイドのご了解をいただいております。

★なお番組の最後に「提供」としてある団体名が出ますが、この「グッドマザー」という帯番組に提供されているためです。
友野さん親子は、その団体とはなんら関わりはありません。
こういうことを気にして一筆書かなくてはいけないことも悲しいことですが、素晴らしいものは素直に認め、違う立場の人も理解し助け合える世の中になったらいいと思います。

「違い」を知り、認め合うこと

7月7日(火) 七夕の日に想う


もうかなり前ですが、 子ども向けの絵本の中にこんな文言をみつけました。

あるページをめくると、見開きページいっぱいにいろんな動物の絵が出ていて、その中にひとつだけ植物の絵があります。
「さて、この中で仲間はずれはどれでしょう?」と書いてあるのです。
それを見た瞬間ぎょっとして、これこそ「差別」を生む根本の発想につながるのではないか、と思ってしまいました。

たしかに、動植物でも岩石でも、ある点で共通することを見つけ、似たもの同士を集めて分類し、違う種類と区別するのが「分類学」。似たもの同じグループにし、他との「違い」を識別するということです。
以前インスタントコーヒーのCMで「違いが分かる男の…」というのがありましたが、違いが分かることは大切なことです。

しかしそれは決して「仲間はずれ」をつくって「偏見」「差別」をするためではありません。そこの違いが大切なんです!



私のブログ内に、「★ノーマライゼーション」というカテゴリーがあります。
障がいのある方たちとも音楽を通じて、一緒にできることは一緒にやり、「ともに生きる」こと、それが「ごく普通に」できること。
そのためには、まず「違い」を知ることが第一歩です。

視覚に障がいのある人、聴覚に障がいのある人が街でどんな不安を感じているのか、気に留めてちょっとした想像力を働かせてみる、判らなかったら「大丈夫ですか?」と一声かけて、どんな介助が必要なのかを教えていただくのです。

また、私がこの2~3年学んできた音楽療法の世界では、発達障がい・学習障がい・自閉症・痴呆症・認知症など、それぞれの病気や障がいが医学的にどういうものなのか、一応ひととおり学びました。臨床経験の豊富な先生から個別のケースもお聞きしましたが、一概に「〇〇症の人は~~できない」と決められるものではありません。
ある程度その病気や障がいの「特性」として配慮すべき点を知っておくことは大切ですが、人それぞれ「できる・できない」、「好き・嫌い」、「得意・不得意」はばらばらなのは当然です。まずは相手を知り、対話を試み、想像力をもって接するしかないのです。


もうひとつ、「★コミュニケーション」というカテゴリーにも色々書いてきました。
言葉や会話に関するテーマでいろいろ書いてますが、行き着くところはやはり「相手への理解」なんですね。単にその場のお喋りで盛り上がることや、上手に話せることだけをコミュニケーションと思いがちですが、そうではないのです。

大勢の前で話すのは緊張しますが、いかに上手に喋れるか、前もって原稿を書いて読む練習をして覚えて…ではなく、いまそこにいる人たちは何を望んでいるのか、何を知りたがっているのか、相手(聞き手)の気持ちをちょっと考えて語りかけるようにすれば、話すべきことは自然に出てくると思います。
結婚式のスピーチで祝辞を述べるのに、新郎と自分の会社の説明・仕事内容の話が延々と続いてしまったり…これも「聞き手がいま何を求めているか?」をちょっと考えればあり得ないでしょう。

また直接相手を前にしての会話だけでなく、「見ておきます」「やっておきます」「~~したら連絡します」を、その後そこそこのタイミングでフォローしてるかどうか?
せっかく情報を提供してくれた人や、次の情報を待っている人は、「どうだったのかな?」という一報を待っているのです。
長々とした経緯の説明や感想文ではなく、簡潔に「見ました」「どうだった」など、相手が期待していること、すなわち投げかけられた球はそこそこのタイミングで投げ返す。それは相手の気持ちに応えることです。
それらも含めた広い意味でのコミュニケーションが大切だと思います。

突き詰めていくと、「ノーマライゼーション」も「コミュニケーション」も、まず相手との違いを認め合い、相手の立場や気持ちを理解しようとする気持ちが基本にある、ということに行きつくと思います。



最近よく耳にする「表現の自由」「言論の自由」「思想の自由」「宗教の自由」…その背景にある「基本的人権」

それらも、とかく「権利」(=侵してはならないもの)として言われることが多いように思いますが、自分とは違う人種・国籍・生い立ち・価値観・所属・立場・男女・年齢…といったさまざまな「違い」を認め、自分とは違う相手のことを理解し、思いやり、愛し合う…ということではないでしょうか?

そこの本質が見失われると、少し前に書いたような哀しいことが起こるのです。
→ 「哀しく、時に危険な日本人」



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いっぱいいっぱい病

11月22日(金)
(2013年)

自分のことに「いっぱいいっぱい」だから周りを見る「余裕がない」んでしょうか?

じゃ、いつになったら余裕ができて、周りを見たり考えたりできるんでしょうか?

私に言わせれば、周りが見えていない(見ようとしない)から、自分のことだけで「いっぱいいっぱい」になってしまうんです。 


サンタ村への手紙

サンタさんの故郷フィンランドには「サンタ村郵便局」があり、世界中の子どもたちからサンタさんへのお手紙が届くそうです。日本の子どもからも届くそうで「勉強頑張りますから3DSがほしいです」なんて手紙が届くのかと思いきや、「世界中の子どもたちが温かく幸せなクリスマスを迎えられますように」といった手紙が届くそうです。

キリスト教の聖書の中にとくに「サンタさん」は出てきません。クリスマスはキリストの誕生日。人間の罪を一身に背負って十字架にかけられるために生まれたきたキリストは人類へのプレゼント。だから人はみなそのことに感謝する、それがクリスマスですね。
きっとその昔、すべての子どもたちが幸せにクリスマスを迎えられることを願って、プレゼントを配ったサンタさんがいたのでしょう。
いえ、今でもきっとサンタさんはいる、と私は信じています。


そんなことを3年前(2010年)のクリスマス前にもブログ記事に書きました。そして年が明けたら、施設にいる子どもたちにランドセルを寄付する「タイガーマスク運動」があちこちで展開されました。
その輪は全国に広がり、「ランドセルは贈れないけど、せめて自分にできることを」と、学用品やお菓子をこっそりと置いていく若者も現れました。 プレゼントというのは、相手のことを思い、せめて自分にできることを届けること。

「やっぱりサンタさんはいた!」と思いました。その直後に東日本大震災が襲ったのです。

震災から2日後のニュースで陸前高田の避難所から中継が入りました。両親の行方も分からない中学生たちが模造紙に大きく「命あることを感謝しましょう」と書いて避難しているお年寄りたちを勇気づけていました。その中学生たちにマイクが向けられると「じっとしていても仕方ない。せめて自分にできることを」という声が。


◆「せめて自分にできることを…」

いい言葉です。私もこれをキイワードにしたいと思っています。

駅などの身近にいるハンディのある方に「大丈夫ですか?」とひと声かけることは、自分が裕福で余裕があるからやることじゃありあません。ボランティアも同じです。お金と時間があり余っていて他にやることがないからじゃありません。

人と同じことをやる必要もありません。私は腕力に自信はありませんし、何日も仕事を休んで瓦礫撤去に駆けつけることはできませんでしたが、せめて大好きな音楽を通じてチャリティコンサートに参加することはできました。まず震災直後には東京で。そして150人ものオーケストラが被災地でコンサートを開けるまでには半年以上かかりましたが、仮設住宅にお住まいの方たちから差し入れのお菓子をいただいたり、終演後に客席が総立ちになって拍手をしてくださり、「ブラボー」ではなく「ありがとう」という言葉が飛んできました。ステージにいながらにして瞼が熱くなりました。

こちらに余裕があり余っているから何かを「してあげる」んじゃなく、むしろこちらが感動のエネルギーをたくさんいただき、「せめて自分にできること」を発信する…まさにエネルギーの循環なんですね。



今の日本には不安な材料がたくさんあります。「もし~~したらどうしよう」と自分のことばかり考えていたら焦りと不安は募る一方でしょう。
わが身の保身と金儲けに走るあさましい人たちを見ていると、こちらもストレスがたまる一方です。

でも「せめて自分にできることを」という発想をもって日常の小さな一歩から行動してみると…

もし駅のホームで白い杖をついた人を見かけたら、「大丈夫ですか?どこ行きの電車に乗られますか?」と声をかけてみてください。毎日通っていて勝手を分かっている方かもしれませんから、こちらの手助けは必要ないかもしれません。好意を押し付けるのではなく、助けを必要としているかどうかをまず尋ねるのです。

たいていは「ありがとうございます。○○まで行きます」といった返事が返ってくるでしょうから、電車がやって来たらどこ行きの電車かを静かに告げ、こちらの腕につかまっていただいて乗車口をガイドします。もし私がその電車には乗らないときは車内の乗客に「この方は○○駅で降りられるそうです」とひと声かけ、できれば席を譲ってもらいます。
いつも決まった時間の電車に乗る方なら、こちらの声を覚えていてくださり「おはようございます」なんて声も掛け合えるようになります。

「余裕があったら~~する」では永遠にできないでしょう。
秋にはコンクリートの隙間でもコオロギが鳴いています。冬晴れの澄んだ空気の朝には電車から富士山も見えます。目の前にちょっとした手助けを必要としている人がいるかもしれません。
そういう周りのことにちょっと目を向け、「せめて自分にできること」に一歩踏み出してみると、気持ちも世界も変わります。

漠然と気分・感情をつくり出したり変えることはできません。行動によって感情は作られるといいます。
「忙しい」という字は「心」を「亡くす」と書きます。余裕は待っていても生まれません。何でもいいから周りに目を向けてひとつ行動を起こすことで、見えなかった世界が広がり、余裕も生まれるのです。


◆「余裕ができたら周りを見る」のではない!

オーケストラって人生・社会の縮図のようなものだなと感じることがよくあります。
演奏するときに「余裕があったら」周りの音を聴くんでしょうか?「余裕があったら」指揮を見るんでしょうか…?

私もいろんなアマチュアオケで演奏してきましたが、本番当日の楽屋で「どうしよう、ここ難しいよ~」と自分のパート内のことだけに「いっぱいいっぱい」のメンバーの多いオーケストラって正直あまりいい演奏にならないことが多いです。

一人ひとり、各パートを単純に合体させればオーケストラの音楽が出来上がるわけではありません。音楽全体は生き物で、全体の流れや表情の中にパートとしての自分がいるのです。

モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲のように、弦楽器全員が速いパッセージを完璧に弾いて揃えばそれはそれで壮観ですが、必ずしもそういうことだけが「いい音楽」ではありません。

逆に個人的にはとくべつ難しい超絶技巧でもなんでもない所で、周りの空気を無視した無神経な音を出したり、音の切り方が雑だったり…
どうしても難しいところは飛ばしてもいいから、全体の音楽の流れをつかみ、ほかの楽器と自分の楽器の絡みをよく理解し、周りと調和したいい音を出そうと心がけることで、同じ練習量でもぐっと上手いオケの音になります。

自転車に乗り始めたころ、バランスがまだ取れなくて目の前の路面を見るだけで精一杯だったころ、少し遠くを見るようにしたら、バランスよく乗れるようになった経験はありませんか?
なんなら、いまちょっと試してみてください。路肩の白い線の上を走ってみるのです。近くの白線だけを見てもなかかな上手く乗れませんが、遠くを見ると案外すんなり白線上を走ることができるはず。

余裕があるから周りを見るのではなく、周りを見ることで全体像がつかめ、余裕も生まれるのです。



障がい者であったから…?

障がいのある方の手記を原作とする舞台が公演中止に!

濱田朝美さんとは直接の面識はありませんが、7月30日にJazzピアノの先生であるI.K先生がフェイスブックにアップされていた記事を拝見しました。
この濱田さんのアメブロの文章を拝見する限り、とてもしっかりとしていて信用に値すると思い、シェアさせていただきました。

http://ameblo.jp/sakura-smile-for-you/entry-11582675117.html


原作も舞台台本も見ていないので内容については何とも申し上げられませんが、もしここに書かれていることが事実なら、原作者に対しても土屋アンナさんに対してもとんでもない名誉毀損に当たるのではないかと思います。

双方の言い分、真相が明らかになったわけではないのでまだなんとも言えませんが、濱田さんの切実なる文面から受ける印象から察するに、その演出家や制作サイドの担当者に、番組・イベントなどのいわゆる「業界人」にしばしばありがちな、「とり上げてやってる」「使ってやってる」的な横柄な態度があったことが伺えないでしょうか?

もし社会的地位のある人の書いた原作を題材にした演目だったら同じような態度で接したでしょうか?
障がい者を題材(ネタ)にし、バカにしたような対応があったとすれば、それは断じて許せません。

そして何より濱田さん、今回はさぞ傷つかれたことでしょう。貴女の文章はしっかりしていて信用に値すると思います。
今回のような非常識な制作担当者ばかりではないと私は信じたいです。どうか人間不信に陥らずに、元気な声で世の中に幸せの種をたくさん蒔いてくださいね。土屋アンナさんと出逢えたのも何かのご縁でしょう。


その後のニュースから

濱田朝美さんの原作による舞台「誓い~奇跡のシンガー」は公演中止となり、ワイドショーでもかなり沸騰した議論になっていたんですね。
それによれば、舞台で主演することになっていた土屋アンナさんが稽古を無断で休んだことが理由とされており、土屋さんは「事実無根」と驚いておられるとのこと。

http://www.cinematoday.jp/page/N0055149

なお、先ほどの濱田さんの記事をシェアさせていただいた時点では、この話題がワイドショーなどでも大々的に取り上げられていたことはまったく知りませんでした。つまり私は、原作者である濱田さんのブログ記事だけを読んで、これがもし事実なら由々しき問題だ、という1個人の認識としてシェアしていたのです。

濱田さんのブログ記事をシェアさせていただくきっかけとなったI.K先生も、障がいを乗り越えて演奏する方たちとともに東日本大震災の被災地と音楽の力による絆活動をされているお一人です。
私自身も、8年前からオーケストラ活動を通じて 障がいのある人とも「ともに生きる」をテーマに音楽の力を信じて活動してきた一人です。

いま世の中には、障がいのある方とも同じ立場で、素晴らしい活動を展開している人も大勢いらっしゃる中で、こういう出来事が起こり、うやむやにされるのはとても悲しいことです。 



今後どんな真実が明らかになり、世論がどうとらえるかはわかりません。現時点で一方的な言い分だけを聞いて、制作側だけを責めることはできません。

ただ、私は先ほど書いたとおり、障がいがあるからといってこのような扱いを受けたのが事実なのかどうかは、きちんと究明すべきだと思います。

政治もマスコミも、民意(とくに弱い立場の人たちの声)を無視して傲慢な振る舞いに出ることは断じて許すことはできません。
それをきちんと正すのは、心あるひとりひとりの国民の目です。見て見ぬふりをしてスルーすることなく、まともなことをきちんと表現し発信すべきだと思います。

この件に関して今後もし言うべきことがあると思ったら、私は、あくまで一個人として、いかなる卑劣な圧力にも屈することなく良識ある発言をしていくつもりですので、みなさんもどうかフォローをよろしくお願いいたします。


★なおこの記事は、7月30日にフェイスブックでシェアする際の頭書きに書いた文面、およびいただいた何件かのコメントへのやりとりで書いた文面をもとに再構成したものです。

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相手の特性(ハンディ)を知ることが第一歩

7月25日(木)

「自閉症」という言葉(症状名)を聞いたことのある人は多いと思います。大きくは発達障がいのひとつです。

私がここ数年、音楽活動を通じて自閉症の人たちとも一緒に音楽をやっているという話を聞いた方から、「一緒にやってて怖くないですか?」と質問されることがあります。

質問される方にはまったく悪気はないのですよ。「なにか突発的に意味もわからず襲われるんじゃないか?」という「怖さ」ではなく、そういうハンディのある方と接するにあたって、色々と分からないこと・やってはいけないこともあるのに、不安・怖さはないですか、という意味のことが多いです。


「さまざまな障がいのある方とも一緒のオーケストラで音楽を」という世界初の試みで2010年3月にNHK厚生文化事業団50周年記念事業『こころコンサート』が行われました。このブログを立ち上げるきっかけともなったコンサートです。

その準備に入った前年の2009年秋から、打楽器パート内にも自閉症のあるメンバーを加えて私がパート練習を見させていただく機会が訪れました。

ちょうどそのころ、重度の脳障がいと視覚障がい(全盲)をもち自閉症でもある天才ピアニストのお母さんが書かれた手記 「レックス」という本(日本語訳)をかみさんが探してきてくれて読みました。
ふだんあまり読書に熱くならない私が、秋の夜長にその本を一気に読み、いよいよ初練習に臨む週末が近づいてきました。

「私は今までまったくそうしたハンディのある方と接したこともないし、音楽指導の資格もない人間。本当に私にできるのか?「一緒に音楽を感じて楽しみましょう」など気楽に接して良いのか…?
非常に不安で怖くなったのをよく覚えています。ですから、私にそう質問される方のお気持ちもよ~く分かるのです。



あれから間もなく4年。今の私なりの答えはこうです。

「ごく普通に接すれば問題ありません。恐れる必要はまったくありません。ただ、相手にちょっとハンディがあるんだということを知り、相手の“特性の一部”として受け入れて接すること。
そして音楽の現場では「一緒に音を感じる」ことに集中すること。そこではまったく対等な仲間なんです」と。

そういう方たちの集中力は素晴らしく、信じられないような才能を秘めていたりもします。

ただ、前もってインプットした予定どおりに事が運ばないと混乱したり、場合によってはパニックを起こしてしまうこともあるので、いったん決めて伝えた予定は極力守ること。どうしても変更しなくてはいけない時には、じっくりよく説明して納得してもらうことが大切です。

また、自分の手足が自分の意思でコントロールできずに勝手に動いてしまったり、意味不明の言葉を発したり、会話がぎこちなかったり…ということもあります。でも本人に悪気はないし、自分が何をしているのかという自覚もちゃんとありますから、「ふつうの人」を基準に「こいつ、おかしいんじゃない?」などと思わずに、じっくり相手の言おうとしていることを分かろうと接することが大切です。そのためにはまず相手にそういうハンディがあるということを知らなければいけませんね。

同じ言葉を何度もくり返したり、不安に思っていたことが解決した時や、緊張を乗り越えていい音が出た時には「グッチョ!」とサインを送るととても安心して笑顔を返してくれます。 彼らの反応はとても純粋で分かりやすく、癒やされますよ。
むしろハンディがない人の中に、ろくに返事もしない、嬉しいのか嬉しくないのか、分かったのか分からないのか分からない、無表情な人って最近多いですよね。そっちの方が「怖い」ですよ。一緒に音楽をやる上でそれはいけません(笑)。



さて、そんな私のはずなのに…
この春から通い始めた音楽学校のあるグループレッスンで、ややハンディのある高校生が2人ほど混じっていることに全く気づきませんでした。

先生が話している時も私のすぐ後ろで鍵盤をパタパタ叩いていたので、「先生が話してるんだから静かにしませんか」とひとこと注意したことがありました。

その人にハンディがあるということを知ったのは少したってからでした。
その授業の先生が主宰する復興支援も兼ねたコンサートにチャレンジドメンバーとして出演されていて、ひとりは自作の曲を、もうひとりは映画音楽を自分のアレンジで演奏されていました。私がまだ学びはじめたばかりのズージャな音(=ジャズのコード)を彼らは見事に使いこなして素晴らしく演奏されるのを聴いて、私は気づかずにあんな注意をしてしまったことが非常に悔やまれたと同時に、彼らの演奏に本当に感激したのです!

そして次のグループレッスンで彼らに会ったとき、「コンサート素晴らしかったよ!」という言葉が私の口から素直に出ました。そして音楽のお話や、彼らが高校生で音楽がとっても好きなんだというお話しを聞くことができました。今では、夕方私が学校に到着してロビーなどで顔を合わせると、とてもいい笑顔で私に挨拶してくれます。

ハンディがあることについて「知らない」「気づかない」ということは最大の罪ですね。
お互いに、触れてはいけない・触れられたくないと封印することが、無理解や誤解を生むのです。とても寂しいことです。

ハンディを持ちながらも明るく前向きに生きていることを恥じる必要はまったくないし、周りもそのことを恐れたり避けて通る必要はありません。自分は医学や福祉の専門的知識はありませんが、相手の「特性」を知ろう、少しでも理解しようという気持ちをもって、ごくふつうに接することができたら、音楽の力はそれ以上に応えてくれて素晴らしいプレゼントをくれるのです。


東田直樹さん「光の中へ」

音楽の世界ではありませんが、きょう(7月25日)の朝日新聞朝刊(生活欄)に、「自閉症の心 あふれる言葉」という記事が出ていました。東田直樹さんという20歳の詩人・作家の方のお話しです。

東田直樹さん詩人
★クリックすると大きな画像でご覧になれます

記事中に紹介されていた、彼のオフィシャルブログ「光の中へ」を調べてみたら、私と同じfc2のブログでした!ここにリンクで貼らせていただきます。

 ★東田直樹さん「光の中へ」


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「コミュニケーション」&「ノーマライゼイション」

今までにも書いてきたテーマを再整理!最近ある方から頂いたコメントへの返信に書いた文章を二次利用して記事にします。
「コミュニケーション」&「ノーマライゼイション」、どちらのカテゴリーに分類しようか悩んでしまいましたが(笑)、 実はこの2つ、私の中では表裏一体のものなんです。


◆「同じ」ことと「違う」こと

とかく「あ、〇〇が一緒だね~」で友達になり、お互い「違い」が見えてくると遠ざかる…そんな人間関係が日本には多いように思います。

でも、人は本来ひとりひとり違うんです。違って当然なんです。
それは何か特別な「障がい」の有無だけでなく、お年寄りと若者(年齢差)、男と女、上下関係など立場の差、何かが得意な人・苦手な人…etc. 

自分が実際に同じ経験をしなければ本当のことは分かりません。いくら勉強して知識だけで分かったふりをしても限界があります。
どんなに仲良くなっても、どちらか一方がどんなに努力しても、決して「イコール」にはなれません。

私はそもそも相手と同じである必要はないと思います。もともと皆それぞれ違って当然なのです。同じ映画を見ても、同じ音楽を聴いても、感じ方は皆それぞれ違うように。 
そういう原点に返ってみて、お互い「違い」はあることを前提に、無理な力を抜いて「あるがままを受け入れる」ことが大切ではないでしょうか?


◆「違い」を知ることは「差別」「偏見」ではない!

これも前に何度か書きましたが、ある子ども向けの絵本の見開きいっぱいに花の絵がたくさん描いてあり、その中にひとつだけ虫が描かれています。
その見開きページに「この中で仲間はずれはどれでしょう?」と書いてある!
「これこそが差別を育てる芽だ!」と思い、私はぞっとしました。

生物でも、岩石でも、似たものをまとめ、違うものを分類するということは大切な認識です。「分類学」という学問がありますが、同じものをまとめてくくり、名前をつけ、違うものと区別して認識しようとするアプローチです。違うものを識別し、同じものを同一化して「アイデンティティ」を形成する。これは「自我を形成」する上でも基本的な能力ですね。

生きていくうえでも「違い」を認識できることはとても大切です。でもそれは決して偏見をもって差別することが目的ではありません。


違いを知ることは、理解のための第一歩

わかりやすい例えで言うと、男と女の恋愛にも似ていますね。
男と女とはもともと違うから魅かれ合うのです。相手のことをもっと知りたいと思い、こちらのことも「表現」して伝え、なんとか分かってもらおうとする。
そこで生まれてくるのが本当の意味での「コミュニケーション」ではないかと思うのです。

もともと何かが一緒で、多くを語らなくても分かり合える者同士が共通の話題で盛り上がり、お喋りに夢中になるだけがコミュニケーションではありません。

男同士・女同士でいつも固まっている人は、たいてい恋愛がヘタですね(笑)。
似た者同士の「群れ」から脱却し、自分と違う相手に向き合い、心を開いて近づこうとしなければ何も始まりません!

似た者同士だけで固まり、ちょっと何かが違うものに排他的な目を向け、遠ざけたり無視したりいじわるをする…これは悪い意味での「ムラ社会」の構造です。

仲間意識・結束・助け合い・みんなと同じであることの証し・安心…それらは「ムラ社会」の秩序を守るためには大切でしょう。でも違いのあるものも受け入れ、心を開いて「ともに生きる」視点が持てなかったら、小さな閉鎖的な社会はやがて滅びていくでしょう。


コミュニケーション&ノーマライゼイション

お互いが「違い」を認め、分かり合おうとするプロセス。そこで生まれるのが本当の意味での「コミュニケーション」です。
そしてお互いの「違い」を理解し、認め合い、その上で「一緒にできることは一緒にやろうよ」とさぐる。それが「ノーマライゼイション」です。

私のこのブログのカテゴリ「コミュニケーション」では言葉や表現について色々と書いてます。そして「ノーマライゼイション」では主に音楽を通じた障がいのある方との接点について書いてきた記事が多いです。
でも実はその2つのテーマは、私の根底ではつながっているのです。

「ノーマライゼイション」、つまり「『ふつう』であること」という意味から、障がいを持っている人たちに何の手助けも要らなくなること(=みな同じになること)、と捉えられることもあるようですが、私は違うと思っています。

駅のホームにおける視覚障碍者への安全対策にしても、さまざまな知的障がいや発達障がいへの配慮にしても、決してモノと制度だけで全ては解決しません。周りの手助けが一切要らなくなること=イコールになることが「ノーマライゼイション」ではありません。

お互いの違いを認め合い、理解し合い、ちょっとした思いやりや手助けが「ごく自然に」できるようになること。「ともに生きよう」とする気持ち。つまり私たちの心の中にある問題だと思うのです。

手を差し伸べること、それは偽善でも憐みでもお飾りでもないのです。
本当は相手のためなのか自分のためなのか?…自分自身に厳しく問いかけることも大切ですが、あまり頭で過剰に意識しすぎるよりも、まずは無理なくできることから始めたらいいと思います。何もやらないよりはやった方が良いだろう、と。

一人でも多くの人がそんな気持ちを共有し、小さな力を出し合い、無理なく「せめて自分にできること」を何かしたいと思い、行動に移しながら相手のことを少しずつ分かっていく。そしてごく普通にさりげなく手を差し伸べられる…そんな世の中になってほしいと私は思っています。


   ↓ よかったらワンクリック、コメントもよろしく!

ブログも バリアフリーに!

ブログをはじめて1年ちょっとですが、もともとがアナログ人間。

最近のパソコンでも電子機器でも、マニュアル説明を頭から読んでも何のことやら…
自分がやりたいごく単純なこと「ここをこうしたい!」がいったいどこにあるのか…
パソコンに限らず、デジカメでもオーディオ機器でも、どうしてこうも基本的な機能についての説明がへたくそなんだ…!(苦笑)

そんな中、ブログの設定でやっと最近分かったことが2つあります。

●「ブロとも」さん一覧を画面表示しておくようにできたこと!

ブログ管理の画面で一生懸命探しても分からなかったのですが、「ブロとも一覧」の画面の右下にあった「ブロとも一覧の管理」からクリックしていったらなんとなくできてしまいました(笑)

これまでは特定の記事をご紹介する際に、「リンク」および本文中にその記事のURLを貼り付けることで対応してきましたが、私のブログを訪問して下さる方からブロともさんへのアクセスが良くなるのではないでしょうか?


そしてもうひとつ、これはとても大切なこと!

コメントを投稿する際に一番最後に出てくる「画像認証」をはずすことができたこと!

私のブログは「コバケンとその仲間たちオーケストラ」に参加されているメンバーなど、視覚に障がいのある方たちも音声変換でご覧になられます。

私もその音声変換というので聞かせていただいたことがありますが、とっても早口ながら(笑)、ちゃんと音読して伝えてくれるので、写真などにもなるべく注釈文を書いておくと、かなり想像力で補って「ご覧」いただけるんだな、と驚きました。
画像と並んで文章による説明もやや丁寧に加えているのもそのためです。

でも、そういう方たちが私のブログにコメントを下さる時に大きな壁になっていたのが、コメント文を書いて「投稿」する際に最後に出てくる「画像認証」というやつです。

ピカソかダリなどの近代絵画の巨匠が描いたようなひらがな・カタカナ文字で「ろく・ぜろ・きゅう・イチ」などと出てきて、その数字を判読して半角で入力しないと投稿できないという、あれです。

画像認証

いたずら投稿を防ぐセキュリティとしてはまったく役立っていません。 だって誰でもその図形のような文字を見て判別できば入力できてしまうんですから。
単に視覚に障がいのある人だけをはじくだけの、とっても優しくないバリアな機能といえるでしょう! なんでこんなものが初期設定では出るようになっているんでしょう…?

あれをどうやったら外せるんだろうか…??

既にこのブログにコメント投稿されてお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、
4月20日のチャリティコンサートの記事をご覧になった鈴木加奈子さんと画像データのやりとりをしていて、前から気になっていたこの壁をなんとか打ち破れないかと色々と設定をいじっていたら…できました!!

もし私と同じfc2のブログをやられている方は、以下ご参考までに…
(他のブログでも似たような設定変更はできるはずです)


・ブログ管理画面の「環境設定の変更」をクリック
   ↓
・環境設定の左から2番目の「ブログの設定」にカーソルを合わせる
   ↓
・薄い小枠画面のやや下にある「コメント設定」をクリック
   ↓
・コメント設定のグレー枠の下から3番目「コメントの確認の設定」
   ↓ 
・選択肢の画面右の▼マークをクリックすると、
「表示する」「表示する(画像認証あり)」「表示しない」の3つの選択肢が出てきます。

★ここで2番目の「画像認証あり」を選択しなければあのピカソ文字は出てきません。

(書いたコメントをもう一度読み返す意味で、確認画面を「表示する」にしておくのはいいでしょう。でもなぜか初期設定で「画像認証あり」の設定になってしまっている場合が多いようです)



目の見える人にとってはなんでもないことでしょうが、たったこれだけのことが大きな壁になってしまう方がいらっしゃるということです。

ちなみに、画像承認を解除してすぐ、4月20日の記事にコメントを入れてくださった第一号が鈴木加奈子さんでした!
http://resolutely.blog6.fc2.com/blog-entry-254.html

そして加奈子さんも私が撮ったナンシーの写真を貼りつけて、とてもハンディがあるとは思えない記事を書いて下さっています。
http://blogs.dion.ne.jp/kanako0902/archives/10101012.html


小さなことではありますが、まずはブログもバリアフリーに向けて…

あらためて…

ノーマライゼイションとは?

このカテゴリの名前にもなっている「ノーマライゼイション」という言葉。
「ふつう(normal)の状態にする」という意味ですね。

障がいのある人も、特別扱いや偏見を受けることなく、みなと一緒に生活できることを最終的な目標にする考え方です。
今までの記事にも書いてきたことも織りまぜながら、あらためて…


◆知らない・分からない

まだ医学や科学が今ほど進歩していなかったころ、なんらかの障がいのある人たちも“ふつうの人”たちと一緒の環境の中で生活していました。

その中では、“ふつうの人”が当たり前にできることができない、意味不明な行動をとる、ヘンな顔をしている、喋り方がヘン…といったさまざまな表面的な特性で差別・偏見を受けてきました。
今では放送禁止用語になっているような言葉で呼び捨てにされ、本人も家族も、人知れず悲しみ・悩み、辛い思いをしてきた時代がどんなに長かったことでしょう。

医学や科学の進歩は、そうしたさまざまな障がいが起こる原因・メカニズムを解明し、病名をつけ、どういうハンディがあるのかを理解できるようにしてくれました。
さまざまな専門家によるきめ細やかなサービスが受けられるようになりました。

社会福祉もきめ細やかな行政サービスを提供する方向へと発展してきたのです。

ところが…

そうしたきめ細やかなシステムが発達すればするほど、専門領域もどんどん細分化され、われわれ“ふつうの人”にとっては“壁で仕切られた向こう側の世界”になりがちで、ハンディについて知るチャンスはかえって遠くなっているようにも思うのです。

“特殊な事情”を持った人たちのことをバカにしてはいけない、偏見を持ってはいけない、電車や病院の待合室でもし見かけてもジロジロ見てはいけない、「かわいそう」などと思うのもいけない…etc.
そんな「禁止事項」ばかりの常識の壁に固められ、福祉サービスや医療などの専門家がケアしなくてはいけない世界で、われわれ“素人”がうかつに手を出してはいけない…と。

そういう見方からすると、「ノーマライゼイション」という発想は、近代の医学や福祉の発展の流れとはまったく逆行するような発想とも受け取られるかもしれませんね。

ある意味そうかもしれません。
振り子が左右・前後に揺れながらバランスを保ち、重心へと近づいていくように…。


◆違いを知る→理解する

どんな人間関係でもそうですが、違いを知ることからお互いの理解は始まります。それは皆さん頭ではお分かりのはずです。

でもともすると、なにかが一緒であることで共感・親しみを覚えて仲良くなり、自分とはちょっと違う感じ方・価値観・行動パターンに気づくとお互いに距離ができてしまう、ということが多くないでしょうか?

しかし、同じ親から生まれた兄弟姉妹だって性格や好みは違うし、同じ映画を見ても同じ音楽を聴いても感じ方はさまざまなように、ひとりひとりは違って当然なんです。

日本はとかく「みんなと同じで安心」し、似た者同士が固まりやすい傾向の強い民族なのかもしれませんが、男女の差、年代による考え方・立場・経験の違い、ハンディのある・なし…といった違いはもともとあるものだし、なくすことはできません。問題はそれを知り、理解し、助け合おうとするプロセスなんです。

相手との違いを知る、いやそれ以前に相手のことを知りたいと思う気持があって、こちらからも相手に伝えたいとも思う。その気持ちを交換することが本当の意味での「コミュニケーション」ではないかと思うのです。



今はとかく忙しい世の中だから、相手のことを思い、じっくり相手の話を聞いて、相手の特性を理解して、こちらのこともきちんと分かりやすく伝えて…ということが難しいのでしょうか…?

いいえ、そうではないと思います。

昔に比べて便利になり、交通機関の発達で移動の時間も短縮され、離れていても通信できる手段も発達し、食事のしたく・掃除・洗濯・食器洗いにかかる時間も労力も昔に比べたらはるかに短縮されて楽になってるはずです。

必ずしも時間的に忙しいからできないのではなく、自分のことで“いっぱいいっぱい”になりがちな気持の持ち方にこそ問題があるのではないでしょうか?


◆やさしさへのプレゼント

前にも書きましたが、スペシャルオリンピックスに関わっているある牧師さんの言葉です。

「どんなに医学が進歩しても、この世に人間が生まれてくる限り、およそ2%の確率で、何らかの知的障がいを持って生まれてくる子どもがいる。
でも、彼らは決して世の中にとって邪魔で迷惑な存在なんかじゃないんです。
私たちに「優しさ」について考える機会を与えるために、神様がこの世に送り出して下さっているんです。わたしたちへのプレゼントなんです」…と。


◆ノーマライゼイションへの近道

「ノーマライゼイション」という言葉が使われはじめたのは、今からもう30年も前です。

たしかにこの30年あまりの間に、文化施設などでは「バリアフリー」という言葉がよく使われるようになり、スロープが設けられるようになりました。
でも建物を一歩出たら歩道は段差だらけです。

公園の入り口にはせっかくゆるやかなスロープが作らているのに、深夜の暴走族対策で太い鉄枠がジグザグに設けられていて、車いすではとうてい入ることはできない、そんな箇所もよく見かけます。

モノやルールだけでノーマライゼイションを実現しようとするのは難しいのかもしれませんね。
それより1人1人がほんの少しずつ意識をもつことが大切です。

私がたまたま出逢ったような「音楽を通じて」というテーマももちろんですが、より日常的な身近なところにも、ちょっとしたテーマやきっかけはあるはずです。

例えば白い杖をついている人を見かけたら「大丈夫ですか?」「どちらまで行かれますか?」「○○方面の電車に乗られるんですか?」「よかったら途中までご一緒しましょうか?」…といったひと言をかけることで、どんなに社会を明るくしてくれることでしょう?



以前、毎朝の通勤で決まった時刻に見かける白い杖をついた方に私のかみさんが声をかけたことがあります。

我々の最寄駅よりひとつ渋谷寄りの駅から渋谷へ出て、JR山手線で新宿へ、ホーム向かいの中央線各駅に乗り換えて中野まで、その方は通われていました。

かみさんと私で交代しながら、その方の乗ってくる駅の改札で待合わせ、お母様から引き継ぎます。一緒に渋谷までいき、JR山手線に乗り換えてひと駅原宿まで一緒に乗り、車内にいる周囲の人に「新宿で降りられる方はいませんか?…この人が新宿駅で向かい側のホーム・中央線各駅に乗り換えるのでケアしていただけませんか?」と声をかけると、たいてい誰かが「わかりました、いいですよ」と言ってくれました。ひと声かけることの大切さを実感しました。原宿から歩いて職場まで出勤すると代々木公園からの風がとても気持ち良かったです。

その方はもう今は別の場所に引っ越されてしまいましたが、ご両親はとても喜んでくださいました。

専門家や福祉サービスに任せっきりではなく身近なところで、相手にはどんなハンディがあって、どんな手助けをしてあげたらいいのかを考える。そしてどうして欲しいのか・どういうことは逆に困るのか・必要ないのか(=相手の事情)を知る。

相手にもこちらの気持ちなどを伝えることももちろん大切でしょうし、こちらに出来る範囲のことでいいのです。

そうやって少しずつお互いが理解し合っていって、たとえ素人であっても手助けできることを見つけていく。
もしそういうハンディを持つ人が家族の中にいたら、たとえ専門家でなくても、人として当たり前に接しているはず。そういう発想をごく“ふつう”にもつきっかけを探せばいいのです。

お互いを理解し合いながら「できることは一緒にやりましょうよ」ということが“ごく自然に”できるように。そういう気持ちを社会のひとりひとりがそれぞれ身近にできることを探すことが「ノーマライゼイション」への近道ではないでしょうか?
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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