71年目の終戦の日に…

8月16日(火)

◆日韓 「未来志向的な関係」へ?

戦後71年目を迎えた「終戦記念日」、韓国では「解放記念日」、韓国のパク・クネ大統領は演説で日韓関係について「未来志向的な関係を作っていかねばならない」と述べました。またこれまでで初めて、日本による従軍慰安婦問題に触れませんでした。

「未来志向的な関係」という表現は、昨年安倍総理も口にしていました。

安倍総理や新しく就任した稲田防衛大臣が今年の終戦記念日に靖国神社に公式参拝しなかったこと(配慮)も関係があるのか…?
あるいは昨年末の12月28日に外務大臣が韓国を訪問し、過去の従軍慰安婦問題に対して「心からの謝罪」が伝えられたことも影響しているのか…?
今は北朝鮮のミサイルや核開発の脅威もある中で、日・米と協調していかなくてはいけない時だという認識も当然あるでしょう。

一方、韓国の要人たちが竹島に上陸。しかし韓国のメディアはこれを「せっかく日韓関係を改善に向かわせようというこの時期に、好ましくない」と報じました。
日韓関係にやや明るい兆しが見えてきているのではないか、という希望は持ちたいと思います。

しかし、これら韓国側の動向が何を意味するのかは、あくまで憶測の域を出ません。
韓国の動向に憶測で一喜一憂したり、予想屋のような見方で政局を論じるよりも、私たち日本人は、日本の過去にきちんと向き合い「あの戦争は何だったのか?」を問いかける必要があると思います。それなくして「未来志向」はあり得ないと思います。

これまで数年にわたって、とくに夏のこの時期にこの「★アジアの中の日本の過去」というカテゴリーに書いてきた記事をあらためて振り返りつつ、総括してみたいと思います。


過去の罪は消えない

パク・クネ大統領はきのうの式典とは違う場で「加害者と被害者との関係は千年たっても変わらない」とも述べています。
決して過去のことを許しているわけではなく、罪の赦しはそんなに簡単なものではないのです。
昨年末、12月28日に岸田外務大臣が韓国を訪問し、過去の従軍慰安婦問題について「心からのお詫び」を伝え、慰安婦支援団体に10億円の資金提供を申し出ました。
→ 年末の日韓外相会談に思う

しかし、それで直ちに「慰安婦の像」を撤去できるものではありません。過去の傷はそう簡単には癒えない現実があることを知るべきでしょう。戦争の歴史とはそういうものなのです。


靖国神社とはどういう場所か?

靖国神社を閣僚が参拝するたびに、中国や韓国は激しく抗議します。
それはなぜなのでしょうか?

多くの日本人は「(靖国神社には)A級戦犯も一緒に祀られているから問題なのだ」という認識を持っているのではないでしょうか?
政府関係者の間でも、靖国神社からA級戦犯だけを分離すべきではないか、という議論もあるぐらいです。

しかし私は、問題の本質はそこではないと思っています。過去のブログ記事でも何度となく書いてきました。

靖国神社は、戊辰戦争で皇軍として戦った人たちの霊や、明治以降の戦争に出征して散っていった軍人たちの霊が「英霊」として祀られている場所です。
つまり「お国のため」に戦って亡くなった日本人の軍人だけが「神様」として祀られているのです。

きのうも多くの閣僚が靖国を参拝し、「今日の発展の犠牲となった人たちに敬意を表する」と口をそろえます。

しかし戦争で犠牲になったのは日本の軍人だけではありません。
子どもやお年寄りなどの非戦闘員(民間人)、さらに朝鮮半島(今日のような北・南の境はない)から強制的に連れてこられ、日本のために戦わされ、犠牲となった多くの方たち…

そういうすべての戦争の犠牲者の霊は靖国神社には祀られていないのです。

千鳥ヶ淵にある「無名戦没者の慰霊碑」や、東京大空襲の犠牲者の慰霊碑、あるいは朝鮮半島から日本に連れてこられて犠牲となった人たちの慰霊碑(広島や沖縄にある)に花をたむけ、手を合わせ、「あの戦争の過ちを二度と繰り返してはいけない」と黙とうをささげるなら、アジアの人たちも怒るはずないのです。

それをこともあろうに、日本の軍人だけが「英霊」として祀られている靖国に閣僚が公式に参拝するから問題になるのです。
見方によってはかつての軍国主義、ひいては戦争を美化しているとも受け取られるわけです。

また、過去の戦争を「やむを得なかった」ととらえるとき、「日本を守るための戦い」に導いたA級戦犯も一般の軍人も同じく「英霊」となってしまうのです。そこが問題の根本だと私は思うのです。

その根本を認識することなく、参拝が公式なものか私的なものかを弁解したり、かつての小泉首相のように「心の問題だ」とか「内政干渉だ」などと発言するに至っては、アジアの人たちの逆鱗に触れるのです。


「靖国で会おう」を合言葉に…

靖国の桜

私の知人にも、親族が靖国に祀られている人がいらっしゃいます。
「靖国で会おう」を合言葉に散っていった若い特攻隊員たちの遺族、戦友たちが、しずかに靖国神社を参拝して手を合わせること自体は問題ありません。

桜も美しい場所です。また夏の御霊祭(みたままつり)も幻想的で美しいです。一般人が靖国を訪れることについて外国からとやかく言われる必要はありません。

私は、アメリカから知人が来日した時、ご本人の意向もあって靖国神社と資料館にご一緒したこともあります。戦争についてあらためて感じ、考える場所だと私は思っています。


御霊祭

2013年4月のブログ記事をあらためて
→ 閣僚が靖国参拝 またしても日韓・日中に亀裂


そもそもA級戦犯とは何か?

私の認識は上記の通りですが、閣僚の中にも「靖国にA級戦犯が合祀されているのが問題だ」「A級戦犯は分けてはどうか」といったことを真剣に口にする人たちがいます。

ではお聞きしたいのですが、A級戦犯とはそもそも何なんでしょうか?
 
戦後GHQによって東京裁判が行われ、「平和を乱した罪」に問われた「戦犯」のうち、とくに重い罪に問われ処刑された人たちですね。

しかし、東京裁判の場で、アメリカ人の弁護人から「そもそも戦勝国が敗戦国の戦犯を裁くことが妥当なのか?」という動議が出されていたという事実をご存じでしょうか?

戦勝国も敗戦国も、戦時下においては非人道的なことを行うのは戦争の常です。国際法において「戦争」そのものを「有罪」とは定めていないのです。そもそも「戦犯」とは何なのでしょうか?

2013年8月のブログ記事
→ あの戦争は何だったのか?(1)A級戦犯とは


「あの戦争は何だったのか?」を日本人自らがきちんと検証し、反省すべきことを反省し、その後の教育を通じて歴史を正しく伝えてきたといえるでしょうか?

軍部のみならず、教育の場においても、一般社会の中でも、戦争反対を唱えたり、命を大切にしよう、文化を守ろうなどと口にしようものなら「非国民」と呼ばれたあの時代、あの流れは何だったのか…?

GHQ(アメリカ)によって裁かれたごく一部の者だけを「悪者」にして幕を引き、戦後の復興、経済成長に向けてひた走ってきた。その延長にあるのが今の日本ではないでしょうか?

何か起きても「ことの本質」を見ようとしない、誰も追及しない、誰も責任を取らない、無責任大国ニッポン。そしてまた同じ過ちの歴史を繰り返すのではないか、という危惧へ…

同じく2013年8月の記事の「つづき」
→ あの戦争は何だったのか?(2)誰も責任をとらない



原爆はなぜ投下されたのか?

昨年の8月には「原爆はなぜ投下されたのか?」という記事をアップしました。

今日でもアメリカ国内には「戦争を早く終結させるために、原爆はやむを得なかった」とする世論が根強くあります。
しかし現実はそうではないのです!悪魔のシナリオがすでにできていたのです!

核分裂反応のしくみが分かり、それを活用すれば恐ろしい大量破壊兵器ができるということは、日本が真珠湾攻撃を決行して太平洋戦争がはじまる前に分かっていました。
原爆を最初に作り、完成させ、日本に投下したのはアメリカでしたが、もしかしたらドイツあるいは日本が先に原爆を開発していたかもしれないのです。

マンハッタン計画はいつ始まったのか、太平洋戦争はどう深みにはまっていったのか?
ヤルタ会談において話し合われた戦争の終結と戦後処理、8月にはソ連が参戦するという情報。それと並行して、原爆の最初の実験、投下への計画。

間もなく完成する原爆をアメリカの手によって実戦で使用し、人体実験も兼ねてその脅威を世界に知らしめて戦争を終結させたい、ソ連より優位に立ちたい、というアメリカの思惑。
ドイツがすでに降伏しているため、それが実施できるのは日本しかありません。原爆が完成するまで日本には戦争状態を続けさせておく必要があったのです。

ポツダムの会議室

そのために日本が絶対に受け入れないであろう「無条件降伏」をポツダム宣言に掲げ、最初の原爆の実験の成功を見定め、ソ連が参戦する日もにらんで投下する日を決め…その綿密なタイムスケジュールによって起こるべくして起こったヒロシマ・ナガサキの悲劇

本当に「あの戦争はいったい何だったのか?」を根底から考えさせられます。
→ 原爆はなぜ投下されたのか?



若い女優・石原さとみさんが、ドキュメント番組のインタビューを通じて元日本兵の小野田さんや被爆者らと会う機会があったそうで、 「戦争をくりかえさないために日本は…」 という思いを書かれていました(15日朝日新聞デジタル)★注)

戦争体験のない世代が圧倒的多数を占める今日ですが、間接的にでも戦争体験者の話を耳にしたり、戦争の記録などのドキュメント番組を見たり、本を読んで、何かを感じ、考えるきっかけとすることはできるはずです。

「平和を守ろう」「平和憲法を守ろう」「戦争には絶対反対」…それらを「政治的な発言」として口をつぐんではいけないと思います。

一人一人がちょっとした想像力をもって「あの戦争は何だったのか?」を考えることの大切さをあらためて思います。


★注)
石原さんのようにしっかりした人もいらっしゃる一方で、同じぐらいの年齢(29歳)の方の中には、「お寺」「神社」の区別もつかない人や、ナチスヒットラーの名前すら知らない人も現実にいることを知っています。
そういう人に、「靖国神社にはお墓はないんだよ、死者が埋葬されてるんじゃなくて、祀られてるんだよ」といっても話は通じません。日本とともに同盟国として戦っていたドイツとの戦後の比較の話もできません。困ったものです。

小学校・中学校レベルの「情報としての知識」の問題ではなく、そういうことをふだん考えたことがない、口にしたことがない、思考回路に痕跡がまったくない ことに問題があると思います。

特定の誰かの批判ではありません。でも現実にその程度の人もいらっしゃるという前提で、情報はなるべくわかりやすく「考える材料」として提供していかなくてはいけないと痛感します。


長崎平和宣言(全文) 2016年

8月9日(火)

長崎の田上市長の平和宣言、毎年とても分かりやすく、かつ重みのある内容を発しておられると思います。
この言葉・内容を忘れないように、私もこのブログに全文を紹介して、今年で何年目でしょうか…?

今年はとくに、わが国のとるべき道、世界に向けての提案がより具体的に語られていたと思います。

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平成28年 長崎平和宣言

長 崎 平 和 宣 言

 核兵器は人間を壊す残酷な兵器です。

 1945年8月9日午前11時2分、米軍機が投下した一発の原子爆弾が、上空でさく裂した瞬間、 長崎の街に猛烈な爆風と熱線が襲いかかりました。あとには、黒焦げの亡骸、全身が焼けただれた人、内臓が飛び出した人、無数のガラス片が体に刺さり苦しむ人があふれ、長崎は地獄と化しました。

 原爆から放たれた放射線は人々の体を貫き、そのために引き起こされる病気や障害は、辛うじて生き残った人たちを今も苦しめています。

 核兵器は人間を壊し続ける残酷な兵器なのです。

 今年5月、アメリカの現職大統領として初めて、オバマ大統領が被爆地・広島を訪問しました。大統領は、その行動によって、自分の目と、耳と、心で感じることの大切さを世界に示しました。

 核兵器保有国をはじめとする各国のリーダーの皆さん、そして世界中の皆さん。長崎や広島に来てください。原子雲の下で人間に何が起きたのかを知ってください。事実を知ること、それこそが核兵器のない未来を考えるスタートラインです。


 今年、ジュネーブの国連欧州本部で、核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みについて話し合う会議が開かれています。法的な議論を行う場ができたことは、大きな前進です。しかし、まもなく結果がまとめられるこの会議に、核兵器保有国は出席していません。そして、会議の中では、核兵器の抑止力に依存する国々と、核兵器禁止の交渉開始を主張する国々との対立が続いています。このままでは、核兵器廃絶への道筋を示すことができないまま、会議が閉会してしまいます。

 核兵器保有国のリーダーの皆さん、今からでも遅くはありません。この会議に出席し、議論に参加してください。

 国連、各国政府及び国会、NGOを含む市民社会に訴えます。核兵器廃絶に向けて、法的な議論を行う場を決して絶やしてはなりません。今年秋の国連総会で、核兵器のない世界の実現に向けた法的な枠組みに関する協議と交渉の場を設けてください。そして、人類社会の一員として、解決策を見出す努力を続けてください。

 核兵器保有国では、より高性能の核兵器に置き換える計画が進行中です。このままでは核兵器のない世界の実現がさらに遠のいてしまいます。

 今こそ、人類の未来を壊さないために、持てる限りの「英知」を結集してください。

 日本政府は、核兵器廃絶を訴えながらも、一方では核抑止力に依存する立場をとっています。この矛盾を超える方法として、非核三原則の法制化とともに、核抑止力に頼らない安全保障の枠組みである「北東アジア非核兵器地帯」の創設を検討してください。

核兵器の非人道性をよく知る唯一の戦争被爆国として、非核兵器地帯という人類のひとつの「英知」を行動に移すリーダーシップを発揮してください。



 核兵器の歴史は、不信感の歴史です。

 国同士の不信の中で、より威力のある、より遠くに飛ぶ核兵器が開発されてきました。世界には未だに1万5千発以上もの核兵器が存在し、戦争、事故、テロなどにより、使われる危険が続いています。

 この流れを断ち切り、不信のサイクルを信頼のサイクルに転換するためにできることのひとつは、粘り強く信頼を生み続けることです。

 我が国は日本国憲法の平和の理念に基づき、人道支援など、世界に貢献することで信頼を広げようと努力してきました。ふたたび戦争をしないために、平和国家としての道をこれからも歩み続けなければなりません。

 市民社会の一員である私たち一人ひとりにも、できることがあります。国を越えて人と交わることで、言葉や文化、考え方の違いを理解し合い、身近に信頼を生み出すことです。オバマ大統領を温かく迎えた広島市民の姿もそれを表しています。市民社会の行動は、一つひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を築くための、強くかけがえのない礎となります。



 被爆から71年がたち、被爆者の平均年齢は80歳を越えました。世界が「被爆者のいない時代」を迎える日が少しずつ近づいています。戦争、そして戦争が生んだ被爆の体験をどう受け継いでいくかが、今、問われています。

 若い世代の皆さん、あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、お父さんの温かいまなざし、友だちとの会話、好きな人の笑顔…。そのすべてを奪い去ってしまうのが戦争です。

 戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度耳を傾けてみてください。つらい経験を語ることは苦しいことです。それでも語ってくれるのは、未来の人たちを守りたいからだということを知ってください。

 長崎では、被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まっています。焼け残った城山小学校の校舎などを国の史跡として後世に残す活動も進んでいます。

 若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を踏み出してみませんか。



 福島での原発事故から5年が経過しました。長崎は、放射能による苦しみを体験したまちとして、福島を応援し続けます。

 日本政府には、今なお原爆の後遺症に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、被爆地域の拡大をはじめとする被爆体験者の一日も早い救済を強く求めます。

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、世界の人々とともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くすことをここに宣言します。
                

2016年(平成28年)8月9日

長崎市長  田上 富久


★引用内の太字は私が表記しました。


<参考>


2015年 長崎平和宣言(田上市長)

2014年 被爆者代表のことば



年末の日韓外相会談に想う

12月29日(火)


きのう28日夕方、日本の岸田外務大臣が韓国を訪問し、従軍慰安婦をめぐる問題に関して外相会談が行われました。

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日本側としては安倍総理からも「心からのお詫び」の表明がなされました。

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安倍総理大臣は、日韓外相会談を受けて、韓国のパク・クネ大統領と28日夕方、およそ15分間、電話で会談しました。
この中で、安倍総理大臣は「元慰安婦の方々の筆舌に尽くしがたい苦しみを思うと心が痛む。日本国の内閣総理大臣として、改めて、慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒やし難い傷を負われたすべての方々に、心からおわびと反省の気持ちを表明する」と述べました(NHKニュースより)。



これまでも、過去の村山談話や河野談話を引き継ぐのかどうかなど、折に触れて「日本の過去の過ち」に対する見解を求められた場面で、きちんと日本の過ちを明言することを避けてきた安倍政権、いやこれまでの自民党政権としては、政府見解を覆すコペルニクス的展開だとする見方、それをめぐる賛否もさまざまなようです。

また、韓国や中国に圧力をかけたいアメリカの意向が背後にあり、日本はアメリカへの対面もあって、あえてこの冬休みに入って国会も動いてない時期に駆け込みで動いたのでは、といった憶測もあるようです。

しかしそのような国際間の駆け引きはさておき、今回安倍総理の口から戦後70年を経てようやく「心からのお詫び」の意向が直接韓国に対して表明されたことは評価されてよいと私は思います。
まずは自分たち(日本)の過去の過ちを認め、謝意をきちんと伝えることがあらたな関係を築く第一歩だからです。

これを機に、両国の首脳会談が実現し、冷え切った日韓関係の改善へとつながることを期待します。
国民同士は文化交流など仲良くやってるんですから、政府としても戦後の区切りをきちんとつけ、友好関係を快復すべきでしょう。


過ちを認めることは人としての基本

歴史上の事実と向き合い、日本の過ちをきちんと認めることは「人」として大切なことだと私もこれまでブログ等で繰り返し書いてきたことです。

戦後の清算・保障はすでに和平条約や国交正常化で解決済みだ、過去の解決済みの問題をいつまでも蒸し返してくる相手国(韓国や中国)が非常識だ、相手につけ込むすきを与えてはいけない、過ちを認めて謝ることは外交上安易にすべきではない、さらに、日本の過去の過ちを認めることは「自虐的だ」…などといった見解には私はこれまでずっと反対してきました。

従軍慰安婦だけではありません。日韓併合のもと、日本に強制的に連れてこられた人、働かされた人、日本の軍人として闘わされた人…
沖縄では、韓国(朝鮮半島)の兵士たちが1万人以上も犠牲になったと言われています。

今年9月に訪れた沖縄平和公園にて
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★クリックすると大きな画像になります

やられた側(国)は、お金や条約だけで「済んだこと」「解決済みのこと」として片づけられるものではないでしょう。
また日本はいまだに過去の過ちに関する教科書の記述を検定で削除しています。政府の高官が靖国神社に参拝しています。
日本は本当に過去の過ちを認めて反省しているのか?…といった感情が相手側に残るのは当然です。
その根底の認識を変えない限り、平和国家としての再出発はありえない、と。

「ここまで譲歩して謝ってやったんだから、今後二度とこの話を蒸し返すんじゃないぞ」ではなく、ようやくこれで「人と人」として対等に話せるスタートラインに立てたかな、と私は認識します。ようやくこれで韓国の友人にも顔向けできると。

今回の外相会談に先駆けて「近代史を学び直す」研究会を政府内に設けたというニュースも報道されました。政治家がまずきちんと過去の歴史を知ることは、大切なことだと思います。


中国に対しても

一方、日本はまだ中国に対して行った非人道的な数々の行為についてはきちんとした謝罪をしているとは言えない、という思いがあります。

「南京大虐殺」に関して、殺害された人数や中国側の発表の矛盾を指摘する見解もあることは存じています。
日本軍が南京城を占拠した時点で、やがて市内に日本軍がやってくることを察知した中国の人民軍が撤退するのに足手まといになる民衆を殺した、という証言もあるようですし、公開された写真はまったく違う場所で撮影されたまったく無関係のものである等、中国側のでっち上げだという説も。

しかし、南京に限らず、日本の軍人が無抵抗の老人や子供たちを殺害したことや、捕虜を使って人体実験を行ったことなど、中国各地で繰り広げた人間にあるまじき蛮行の数々があったことは事実です。当時まだ若かった日本の兵士たちの証言集もあります。

そうした証言集を、「俳優座」の若者たちが毎年夏に朗読している会があり、私も何度かお邪魔し、その元となった資料をいくつか購入して読んでいます。

戦争体験・証言


戦争に関するドキュメント番組でも、私が子供の頃は、アメリカ軍によって撮影されたフィルムが初めて公開されるものなど、悲惨な現場をとらえた映像が多かったですが、近年では「証言もの」が多くなってきています。

なぜ戦後何十年もたってから、こうした証言が出てくるのでしょう?

おそらく、20歳前後で出兵した若き兵士たちは、戦場で見たこと、体験したことは、戦後ずっと心の中に封印し、記憶から消し去るように必死に生きてこられたのではないでしょうか? 

上からの命令でしかたなくやったこと、それが過ちであったことを認め、あの戦争は無意味なものだったとしたら、死んでいった戦友たちの魂は浮かばれない。
いまわしい過去の記憶を封印して消し去らなければ戦後を生き抜くことはできなかったのではないでしょうか?

しかし、そうした人たちも高齢となるにつれ、やはり自分たちが見たこと・行ったことは誤ちであり、それを世の中に伝えずに死ぬわけにはいかない、と。

生きるか死ぬかの極限状況に追い込まれると、人間はこんなにも残酷になれるのか…
戦争とはかくも無残なもので、人間が人間でなくなるものだ、ということを認識すべきです。


◆平和国家としての第一歩

今の中国や韓国にも問題がないわけではありません。でも、まずは日本が過去の過ちをきちんと認めて謝る姿勢を示すことが先だと、私はずっと思ってきました。くりかえしますが「人」として大切なことだからです。

その上で、中国がいま南シナ海で展開していること、大気汚染のこと、チベット問題…といった中国側の問題に対しても、国際社会の一員として日本からもものが言える立場になれると。

また韓国に対しても、日本が過去に行った過ちが消えるわけではないけれど、ベトナム戦争の時に韓国兵たちがベトナムで行った蛮行についても、きちんとベトナムの人たちに謝るべきである、と進言することができるかと。



国際間の政府レベルには、冒頭にも少し触れたような高度な駆け引きは当然あるでしょうが、軍事力バランスとか抑止効果といったことよりも、私は常に「人」としてのモラルに関する部分こそもっとも根底になくてはならない、と思います。

いつまでも過去の負の遺産にしばられることなく、将来に向けた新しい関係を築いていくことはもちろん大切です。

でも、過去の話をなかったことのようにごまかしたり葬り去るのではなく、きちんと向き合うこと。
そして自分に直接責任があるかどうか、謝ることで責任がどうとかに関わらず、責任問題になるから触れないように避けるのではなく、人として「お詫び」の気持ちを持つことは大切なことです。

外相会談を受けてわずか15分安倍総理が電話でパク・クネ大統領に謝意を伝えたからと言って、元従軍慰安婦たちが直ちに許してくれるとか、少女の像を撤去してくれるかどうかは分かりません。

私たち民間レベルでも、決して私自身が戦争体験者でもなく、父や祖父も戦争には無関係だったとはいえ、同じ日本人として過去の悲しい歴史に「本当に申し訳なかった、ごめんなさい」という気持ちがあるかどうか。その気持ちが相手に伝わり、相手が「もういいんですよ、あなたが悪いわけじゃない。あなたのお気持ちは分りましたから、どうか頭を上げてください」となってこそ、お互いが信頼できるスタートラインに立てるのではないでしょうか?

そして、あらためて肝に銘じておきたいのは、国と国との戦争は、それほどまでに後世に爪痕を残すということです。過ちをふたたび繰り返さないためにも。

琉球・沖縄の悲劇の歴史

9月4日(金)

戦後70年の2015年夏、沖縄の悲劇の現場を訪ねたのを機会に、私なりにまとめておきます。

★悲惨な状況を示す画像も現地でたくさん見ましたが、あえてここには載せません。参考となる図表と旅の画像にとどめますので、皆さんの想像力で補ってください。

沖縄戦といえば、終戦の年1945(昭和20)年4月~6月を思い浮かべますが、じつはその前年1944年10月10日に沖縄空襲がありました。空を覆い尽くすほどのおびただしい米軍機による空爆を受け、民家の大半が焼かれています。

戦局はアメリカに有利に展開し、南の島では次々に玉砕が繰り返され、制空権を奪ったアメリカは南の島を基地に日本への空襲を実施。沖縄は真っ先にその犠牲となっているのです。

沖縄という地理的な条件ももちろんありますが、かつては中国との交易の地であった琉球王国は、明治の廃藩置県によって日本の一部となり(↓ 後述)、日本は沖縄にいくつかの飛行場を作り、中国への爆撃を行う拠点としていたのです。

その日本軍の拠点である飛行場をアメリカは真っ先に占領して、アメリカ軍が日本を攻撃する拠点にしようとします。
基地や飛行場などの軍事施設は、守りと攻めの拠点であると同時に、真っ先に攻撃目標となり住民も巻き込んで悲劇の舞台となる、ということです。これはいわば戦争の常識といえるでしょう。 


いわゆる沖縄戦(1945年4~6月)の悲劇はなぜ広がったのか?


沖縄戦概要

1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍は沖縄本島の西、北谷(チャタン)から上陸を開始します。
ここは当時の日本軍の北飛行場・中飛行場にも近い場所です。

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★日本軍は上陸するアメリカ軍に対してほとんど攻撃を加えず、米軍を無血上陸させて島内で迎え撃つゲリラ作戦をとります。上陸地にほど近い西原(にしばる)地区がまず最初の激戦地となります。

北谷から島の東部までを一気に制圧したアメリカ軍によって、沖縄本島は北と南に大きく分断された形となります。北へ逃げて早い段階で捕虜となった民間人はまだよかったのですが(学校教育も受けたという)、南へと逃げた人たちには地獄の悲劇が待ち構えていました。

圧倒的な火力をもつアメリカ軍に対して、★「切り込み」と言われる奇襲攻撃をかける作戦がとられ、住民たちに★「防衛召集」がかけられます。まったく軍事訓練をしていない民間人が、爆弾をもってアメリカ軍の戦車に立ち向かうという、人命を道具としかみない無謀極まりない愚かな戦法です。

また日本軍は、住民の衣服を借りて、喋り方も服装も住民になりきって戦うよう命令が下されます。
民間人を偽装する作戦です。この計画は、アメリカ軍の手に渡って直ちに翻訳されました。その資料が、米・メリーランドの国立公文書館に残っています。これによって米軍は、軍人も民間人も区別なく無差別に殺戮を重ねることになります。

西原を突破したアメリカ軍は、日本軍の司令部のある首里に到達。
しかしここで、★司令部は降伏することなく、南へと移動して戦いを続行します。これによって住民も日本軍とともに島の南へと追い詰められていくことになります。

「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃(下記)が日夜を問わず行われます。島の北からは米兵が迫り、空からは戦闘機の機銃掃射。逃げ場を失った人々は「壕(がま)」へと。

しかし、もともと住民らが潜んでいた壕(がま)に、北から逃れてきた日本軍も合流して人が密集。

アメリカ軍としても、いつどこから住民に変装したゲリラ部隊が出てくるかわからず、穴という穴に火炎放射を浴びせ手榴弾を投げ込んでいきます。
敵国アメリカだけでなく、日本人の軍人と民間人らも、追い詰められた劣悪な環境の中で、人間が人間でなくなる惨劇も…

< 南風原(はえばる)旧陸軍病院壕>

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火炎放射で焼かれた壁面と、地中に埋められた医薬品の瓶
*クリックすると大きな画像でご覧になれます


「デーテコーイ」「ダイジョウブデスカラ」…日本語で呼びかける米兵。
しかし住民らは、★「鬼畜米兵」と教育され、捕虜となれば女性は強姦され、男性は戦車にひき殺される。死んで生き恥をさらすより自決することを強要されていました。これによって、投降することなく自爆する者、集団自決する者、断崖から身を投じる者が続出しました。


<島の最南端 喜屋武(きゃん)岬>
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乳飲み子をまず放り投げ、自ら断崖から身を投じる母親の動画が撮影されたのはサイパンですが、ここでも同じような悲劇が繰り広げられました。

ついに6月23日、日本の第32部隊の牛島満司令官がまぶにの丘で自決すると、組織的な戦闘は終わりを迎えますが、悲劇はその後も続きました。
「ひめゆり」の中にも、解散命令が出されてだいぶ経ってから命を落とした人も多数いました。

★6月23日で「組織的な戦闘は終わり」という表現は何を意味するのか?
国としての「降伏」でないまでも、戦闘の終了を示す告知がどこまできちんとなされたのか…?



もうお気づきでしょうが、ここまで文中に★印をつけた箇所は、日本軍の決めた方針・とった行動によって犠牲が拡大したといえる部分です。こうした記述は教科書からは一切削除されています。


負け戦であることは明らかだったにもかかわらず、日本本土を守るための「時間稼ぎ」のために、沖縄で犠牲となった人たちは推定で25万人

そのうち本来は非戦闘員である住民の犠牲は20万人を超えると言われています。その中にはまだ少女だった従軍衛生婦「ひめゆり隊」250名以上いたことは有名ですが、朝鮮半島から連れてこられた若い戦闘員も1万人以上いました。


<平和記念公園に立つ韓国人犠牲者の慰霊碑>
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*クリックすると大きな画像でご覧になれます

<旧海軍司令壕>
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幕僚室には、手榴弾で自決した痕が生々しく残る。


鉄の暴風

♪「ざわわ ざわわ~」と歌われる♪『サトウキビ畑』の3番の歌詞に、「あの日鉄の雨にうたれ、父は死んでいった」とあります。でも、それがどういうものなのか、私も正直よく判っていませんでした。

南風原文化センターで実際に手に取った砲弾の破片です。

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片手で持てる大きさでも2キロ近くあります。今こんなものが1つでもビルから落下して通行人が死傷したらそれこそ大問題でしょう。
それが、昼夜問わず海上のアメリカ艦船から発射された砲弾が暴風のごとく浴びせられたのです。

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琉球王国から沖縄県へ

さらに長~い琉球王国の歴史をごく大ざっぱに…

7世紀ごろ、中国は隋の時代に台湾から沖縄・奄美諸島あたりの島は「流求」と言われたようで、それが「リュウチュークク=琉球国」の起源とも言われます。

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろ草紙』では、12世紀に源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄に逃れ、その子が琉球王家の始祖「舜天」になったと言われますが真偽は不明。

16世紀のはじめに東方について著したポルトガル人のトメ・ピレスは、琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について次のように記しています。

「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。 彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」。


*日本と琉球王国

16世紀後半、豊臣秀吉が明と李氏朝鮮を征服しようとした際に、琉球王国に助勢を命じましたが、と親交の深い琉球の国王は拒否します。

しかし、文禄・慶長の役で豊臣軍が朝鮮出兵をした際には、琉球は日本軍に食料を提供するなど兵站の一部を担いました。

江戸時代に入って間もなく1609年、薩摩藩(島津氏)は3000名の兵を率いて薩摩を出発、当時は琉球王国の領土であった奄美大島へ進軍。そして沖縄本島へと進み首里城まで迫りました。
琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗しますが敗れ、尚寧王が和睦を申し入れて首里城を開城。

これ以降、琉球国は薩摩藩の属国のような形で貢納を義務付けられます。その一方、明に代わって中国を統一したに対しても朝貢を続け、薩摩(日本)と清(中国)の2つの国からの支配を受けることになります。

建築や文化の面で、中国と日本の両方の影響を受けて独自の文化を築いてきたように見えるのはこのためです。

首里13 首里12 首里11
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幕末、黒船のペリーも琉球を訪れ、日本と同じように開港を迫ったと言われています。

明治政府が1871年に廃藩置県を行った際に、琉球王国の領土を薩摩藩の所属下にいったん置きますが、翌1872年に「琉球藩」を新たに設置し、琉球王の尚泰を琉球藩王として華族の扱いとしました。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号を使用し、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫りましたが、琉球は従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて琉球へ渡り、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じます(=いわゆる琉球処分)。そして同年4月4日に琉球藩を廃止し「沖縄県」を設置しました。

こうして日本の一部となった沖縄が、先の大戦では日本を防衛するための時間稼ぎの場となって多大な犠牲を強いられたのです。戦後、アメリカ領となり、1972年にふたたび日本へ復帰して今日に至っています。

2015年夏、沖縄を訪ねた3泊4日の旅の画像はこちら…

→ 「
沖縄 ~戦後70年を訪ねる旅~


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70年目の終戦記念日 ~戦争しない、戦争させない国へ~

8月15日(土)

戦後70年の談話が、14日夕方、安倍総理から発表されました。

懸案だったキイワードをうまく散りばめ、一応は「お詫び」という言葉も入り、韓国や中国への配慮をしたという点は評価できるが、総理自身の思いというよりは、これまでの経緯を踏まえた作文と言う感じで、何をどう詫びているのかが見えにくく、一般論としての域を出ない、など評価は分かれるところのようです。

明治以降の日本の国際関係の中で戦争へと向かっていった経緯にまで触れ、全体として非常に長い談話となっている割には、国連から脱退した昭和8年から終戦の昭和20年までのことが飛ばされており、朝鮮半島や中国に対して行った侵略の内容がまったく具体的に示されていない点。国の内外へのさまざまな配慮から、具体的な表現を避けて包括的にうまくまとめた、とも言えますが、総論で逃げたという感もぬぐえません。

また、いつまでも過去の悲しい歴史をひきずることなく「未来志向」の発想で、「次世代にまで謝罪を負わせない」ということ自体は悪くないのですが、ならば過去の歴史をしっかり語り継いでいくことを飛ばしてはいけないと思います。

そして何より、談話は談話として、これからの日本のあり方を考えるうえで、懸案の集団的自衛権や安保法案はどうなのか?
言葉として言っていることと、実際に進めようとしていることとの矛盾はないのか?、という点です。



70年目の終戦記念日、私なりに中学生でも理解できるレベルで、これまでの日本、これからの日本について考えてみたいと思います。今年のテーマは「同盟」「外交」です。



黒船は「脅威」? それとも「外交」への誘い?

少し時代をさかのぼって幕末に想いをはせてみましょう。
黒船がやってきたとき、「外国が日本に攻めてきた」と思い込み、外国とは徹底的に戦い日本を守るべきだという「尊王攘夷派」と、日本も鎖国を解いて、外国と交流して近代化を進めるべきだとする「開国派」とに大きく分かれました。

外国との関係を長らく絶ってきた日本としては、いまの安保法案への賛成・反対以上に、黒船(外国)にどう対処するかは国を二分する大論争だったに違いありません。

しかしこの違いの原点も、外国を「脅威」と見るか、「友好」の対象と見るかの違いに他ならないでしょう。


◆「同盟」関係がもたらすもの

日本が開港に踏み切って早々に、江戸幕府がアメリカと結んだのが日米和親条約。その後、日米修好通称条約…などと中学校で学びました。日本の港を開き、アメリカ船が立ち寄ることを認め、水などの補給を約束し…という中に「最恵国待遇」という言葉があったのをご記憶でしょうか? 分りやすく言えば「あなたは特別な国です」という関係をもつことです。

これがいわゆる「同盟」の発想の原点といってよいでしょう。この「同盟」に基づいて、何かあったら持ちつ持たれつの関係になる、ということです。

同盟としてまず思い浮かぶのは明治時代の日英同盟です。この日英同盟によって、日本はアジアの中である程度の力をつけて中国などを手中におさめ、英米に対してよき協力者として大国ロシアと対峙することを求められました。その典型的な例が日露戦争だと思います。

この絵もすでに何回かご紹介してますが、イギリスやその背後にいるアメリカが日本を後押しして、ロシアが炒っている火中の栗(=中国)を拾わせようとしている、という当時の風刺画です。

風刺画 
★韓国や中国の人にとってこの絵は、日本が戦争への道を突き進んだのも「やむを得なかった」とする言い訳のように映るので、扱いには注意してください。

でも、こういう流れが「同盟」関係によって生まれることは残念ながら事実です。

さらに時代は下って、昭和8年に日本は国連から脱退し、ドイツ・イタリアと同盟を結びます(=日独伊三国同盟)。ナチスがポーランドに侵攻したのをきっかけに第二次世界大戦ははじまり、中国と戦っていた日本もまたアメリカとの闘いへと突入していくことになります。

同盟関係は、その国と持ちつ持たれつの深い関係になることですから、いまのような平和憲法のない時代であれば集団的自衛権の行使へと直結するのです。相手の地位・立場を保障、同盟国とともに行うことは「正義」となっていくのです。
そう言う意味では「同盟」「集団的自衛権」とは表裏一体の関係にあるといっても良いでしょう。


◆同盟を一切もたない国 インド

ところで、何年か前にインドの首相が来日し、麻生外務大臣と会談した様子をテレビで観ました。
そのとき麻生外務大臣が会見で述べた言葉が印象に残っています。

「日本と中国は2000年以上の付き合いがある。でもうまくいかない。でもインドは中国と地続きだ」
(私が記憶するところ、そんな内容だったと思います。)

私は「麻生さん、いったい何を言ってるんだろう?」と思いました。

おそらく「日本と中国の関係はなかなか難しいんですよ。そこで地続きのインドさん、何かあったらよろしくお願いしますよ」…という意味かと私は解釈しました。

ところが、インドという国は、いかなる国とも「同盟関係」を結ばない外交をしてきた国なんです。
インドに限っては、「外交」はあくまでその相手国との1対1の関係でしかないのです。中国とはあくまで中国と、日本とはあくまで日本と、そういう外交姿勢をずっと貫いてきた国なんですね。

だから麻生さんには申し訳ないけど、その思惑はまったく的外れで、日本と中国との間をインドに取り持ってもらおうとか、「なにかあったら日本をよろしく」はあり得ないのです。


◆「同盟」 と 「外交」


これまで見てきたように、「同盟」とは「あなたとは特別な関係です。何かあったら持ちつ持たれつ、よろしくお願いします」という特別な関係を結ぶことです。

個人の友達と同様、ある国と特別な関係で仲良くなることは、それ自体悪いことではありません。
でも、そういう関係は「グループ」をつくり、「特別な関係」を維持するために、ときに「お付き合い」の義務も伴います。

そこで私が「同盟」とは別に大切だと思うのは、「外交」です。

もちろん同盟国との間にも「外交」はありますが、私がここで言いたいのは、同盟関係にある国以外のさまざまな国々とも平等に付き合い、その国との問題は直接話し合いによって解決していく手段としての「外交」です。

とかく「同盟」を重視するあまり、何かあったら同盟国に泣きついて守ってもらおうと「外交」がおろそかになりがちです。今の日本を見てもそれを感じます。中国などの「脅威」に対して、アメリカとの「同盟」関係を強化して臨もう、ということですからね。

「同盟」を裏付けるものとして条約、協定などがあります。これらはすべて「約束事」を定めたものです。
法律と同じく、文言でできていて、その解釈によってできる・できない・期限などがきっちりと定められています。
それに対して「外交」は、人対人の間で交わされるもの。もちろん外交の延長に協定や条約が結ばれたりするわけですが、そのような「形」のない国とも広範囲に柔軟にできるのが広義の「外交」でしょう。



「外交」という面で見るならば、北朝鮮の拉致被害者問題は、ちゃんと対話が進んでいるでしょうか? 

北朝鮮には関しては、正式な国交(=外交ルート)がない、まともに話が通じる相手じゃない、といった特殊な問題はたしかにあります。
よその国民を勝手に拉致したり、4か国協議を進めよう、経済援助など友好の手を差し伸べようとしている時になぜかミサイルを飛ばしたり…とんでもない国です!

でも、相手の異常さはともかく、ちょっと冷静に時代をさかのぼって見てみると…

太平洋戦争当時は、まだ北も南も分断されていませんでした。朝鮮半島全土から日本に連れてこられ、日本人と同じように兵士として闘わされた者もいました。また広島で被爆して亡くなった方も多くいたはずです。そういう方たちへの補償やお詫びはどうなのでしょう…?


朝鮮半島の原爆犠牲者の碑

<外国人被爆者の慰霊碑(広島)>
この外国人慰霊碑も、建てられた当初は平和公園の外側の川向うにあったといいます。

戦後、朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカを支援する形で南から、中国やソ連は北から、ひとつの民族を分断する戦いを繰り広げ、北緯38度の軍事境界線が生まれました。

日本はあの戦争を足掛かりに戦後の高度成長を遂げ、経済的・物質的な豊かさを手に入れました。
そして、国交のない北朝鮮に対しては、戦後の保障もお詫びも、どこまでできたのでしょうか?(詳しいことは申し訳ありませんが判りません)

そうした経緯を考えれば、北朝鮮がアメリカや日本を恨み敵対視するのも無理ありません。

もちろん、だからといって戦時下でもないのに、日本の国民を勝手に拉致するような行為は決して許されることではありませんし、調査をすると約束しておいてその後いったい何年が経過しているのでしょう?
拉致被害者の家族も高齢化が進み、一日千秋の思いで政府の対応を待ち望んでいます。

そういう意味でも、日本政府の「外交」の力が問われているのではないでしょうか?

北朝鮮だけでなく、歴史への認識などで大きな溝のある韓国や中国に対しても、日本は外交努力を充分してきたと言えるでしょうか? 

南シナ海で中国のやっていることや、日本の領海内で行っている行為が「脅威」と映るのも当然ですが、まずは中国とどこまで直接対話ができるか、日本政府は本気で取り組んできたと言えるでしょうか?

「脅威」を理由に安保法案を急ぐ前に、まずは外交努力をどこまでやってきたのか?、です。



際限なき軍拡への道

アメリカの軍事予算は日本の防衛費の何倍でしょう?
いま話題の、急速に拡大の進む中国の軍事予算は、日本の何倍でしょう?
軍事予算はそのまま「戦力」となります。戦艦の数は、潜水艦の数は、戦闘機の数は、ミサイルの数は…etc.

マニアックな軍事シミュレーションをするまでもなく、各国の軍事力に日本はとうていかなわないことは明らかです。
日本をとりまく状況は厳しさを増し、いまやあらゆる弾道ミサイルの射程距離内に日本はすっぽり入ってしまいます。これら「脅威」に対して、今の自衛隊の力ではとうてい太刀打できません。

私が中学生のころから、「相手がもってるんだから、こちらも持たなくてはいけない」「防衛は大切だ」「日本の自衛隊ももっと力を持たなくては」…といった論法で語る友人はいました。

しかし、もし日本が単独で対応できるようにするには、今の防衛費を100倍に増やしても決して充分とは言えないでしょう。

そこで、アメリカとの同盟関係をあらためて強化し、日本だけではとうてい不可能な日本の防衛をアメリカにお願いしなくてはならない。
そのためには、アメリカに一方的に守ってもらうだけでなく、日本もある程度積極的にアメリカに協力できるよう、自衛隊の活動範囲も広げなくてはならない。同盟関係にある国とは、ある程度ギブ・アンド・テイクの関係も築かなくては国際的な平和貢献とはいえない。

…これが集団的自衛権の行使容認や安保法案に賛成する方の論理の骨子ではないでしょうか?
(多少ニュアンスは違っているかもしれませんが、私にも賛成論がまったく理解できないわけではありません。)


問題は、その範囲です。「脅威」に備えるには、相手の「脅威以上」の軍事力が必要になります。お互いが「脅威」と認識することで、どんどんエスカレートしていきます。それが軍拡の連鎖です。

世界中のどの国も、まさか他国へ侵略するために軍備拡大している国はないはず。どの国も、他国の脅威から自国を守るために、という理由で軍備拡大をしているのではないでしょうか?


お花畑は攻撃目標にならないが、軍事施設は攻撃目標になる

あらゆる国が一斉に武器を捨てたら、それはもう「♪ IMAGINE」の素晴らしい世界が実現します。
でも現実には不可能な「お花畑の夢」なのでしょうか?

でも現実論でお互いが軍拡をすすめていったら、お互いの緊張は際限なく高まり、お互いが相手を「脅威」と認識し、過去のあらゆる戦争がそうだったように、自国や同盟国は「正義」であるという理由で戦争になります。実際に戦争までいかないまでも、かつての米ソの冷戦時代のように、お互いが莫大な軍事費をつぎ込んで危険な兵器を保有する世界になっていくでしょう。

集団的自衛権や安保法案に賛成の方たちは、持つことが抑止効果につながると言うでしょう。
しかし、持つことによって、かえって相手を刺激し、緊張を増す、とも言えます。抑止効果が本当に効くのかどうかは実際になってみなければわかりません。

たとえば沖縄の基地も、「備え」、「威嚇」、「抑止」の効果があると期待もされますが、逆に有事の際には、基地が真っ先に「標的」にされる危険があることも確かでしょう。

お花畑は攻撃を受けませんが、軍事施設は攻撃目標となるのです。

また、軍事基地のみならず、日本にはいま稼働していない原発が50基以上あります。もしそこにミサイル攻撃でも受けたら、日本は簡単に壊滅です。



いまの戦闘技術は70年前とは比較にならないほど進化しています。数十メートルからせいぜい100メートル先の見える範囲で機関銃を撃ち合ったり、火炎放射をしたり、手りゅう弾や大砲で攻撃する…といった、第二次大戦のような戦闘風景とはまったく異なるハイテク技術です。それこそ何百キロも離れたところからボタンひとつで、大量殺戮もできてしまうのです。

そのような状況において、もはや「後方支援」だの「必要最小限の」などという概念そのものが通用するのかさえ私には疑問です。

いまもし一発撃ったら最後、全面戦争となり、これまでの想像を超える大量殺戮が繰り広げられ、日本だけでなくお互いの国が、いや世界が「終わり」を迎えるかもしれません。
「同盟」をベースとした際限ない集団的自衛権の延長にあるのは地獄絵しかありません。


外交による平和貢献こそ

戦後70年間平和を守ってきた日本が、世界の「脅威」に対して提言できること。
それは、日本は決して集団的自衛権を持たない、他国のために戦争する国には二度とならない。そう決断した平和憲法を貫き、あらためて世界に発信すること。

そしてあらゆる「脅威」に対して、「同盟」以上に「外交」に全力を注ぐべきだと私は思います。


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もしも日本が戦争に勝っていても、戦争反対を唱えただろうか…?

8月13日(木)


安保法案が議論される中、戦争反対を訴え続ける私に、先日フェイスブック上である方から「もし日本が戦争に勝っていても、同じように戦争反対を唱えていますか?」という真に迫るご質問をいただきました。

その「答え」になるかどうか分かりませんが、私には一つ思い当たることがあります。

中学時代の広島での体験から

私は中学生のころ父の転勤で広島に住んだことがあり、多感なときに原爆史料館を何度か訪れました。
今よりもおどろおどろしい展示もあり、正直なところ「怖いもの見たさ」のようなところもありました。

そして慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という言葉を知りました。

当時の広島市長は荒木市長だったと記憶していますが、平和記念式典の言葉を聞いていて、広島の人たちは「アメリカの被害者」という認識ではなく、「戦争の犠牲者」という認識なんだな、と感じました。
敵とか味方とか、どっちが勝ったかではなく、日本も戦争の当事国だったということ。つまり「人類の過ち」としてとらえていることを知り、素晴らしい発想だと感じました。



年月は流れ、私がこのブログを始めたのは2010年、その何年か前に、長崎出身の久間防衛大臣「原爆はしょうがなかった」と発言したことが長崎・広島のみならず多くの国民から批判を浴び、すぐに辞任したことをご記憶でしょうか?

あの時私は、「久間防衛大臣は本当は何を言いたかったんだろう?」と思いました。
しかし、そうした追及も検証も報じられないまま、秋の総選挙に響くからと早々に辞任して幕引きでした。

原爆を投下したのは確かにアメリカで、日本は被害国なわけですが、悪いのはアメリカだけなのか?、そこに至るまでの日本に問題は無かったのか?、戦争では被害者であると同時に加害者でもある、それが戦争というものではないのか…?

もしかして、久間防衛大臣も、その辺りのことに言及するつもりだったのではないか、と。
あの頃は、自衛隊のサマワへの派兵が話題になっていた頃でした。もし防衛大臣として「戦争の過ちを繰り返してはならない」ということにまで言及しようとしていたのなら、あまりにも言葉足らず、口下手過ぎるな、と。

今年の長崎原爆の式典で長崎市長から出された「平和宣言」の中で「原爆は戦争の中で使われた」という言葉がありました。まさにそういうことだと思います。


◆被害者としての立場から一歩踏み出して…

広島や長崎の原爆史料館には、これまで多くの外国人も訪れてきました。
日本が唯一の被爆国として、原爆の恐ろしさを世界に伝える役割はある程度果たして来たと言えるのではないでしょうか?

しかし、日本が唯一の被爆国だから核兵器に反対だというだけでは、ちょうどイジメで暴力を受けた者が「暴力反対」と叫んでいるようなもので、いまひとつ説得力に欠けるのではないでしょうか?

日本が過去にアジアに侵略して行ってきたことも含めて、日本の過ちについても認め、戦争とはそういうものである、勝ち負けに関係なく、こんなにも人道から外れたことが現実に起こるのだ、→だから二度と戦争はしてはならないんだ、ということを世界に向けて発信してこそ、真の平和国家。これからの日本に課された大切なテーマではないか、と。

日本の閣僚たちが、過去の戦争を日本の「恥部」のように隠し、教科書から削除させたり、事実をなかったなどと主張したり、さまざまな公式の場で問題発言をして海外から批難されたり…、これではいけないと思うのです。しっかり日本の過ちも含めて語り継いでいかなくてはいけないと。

そんな思いをいまから5年前の2010年8月7日に綴った記事がこちらです。
 「ヒロシマ・ナガサキに思う」

この記事が、この「アジアの中の日本の過去」というカテゴリーを設けることになったきっかけです。
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原爆はなぜ投下されたのか? ~70年目の原爆の日に~

2015年 8月9日(日)


原爆投下までの悪魔のシナリオ

「戦争を早く終わらせるために、原爆はやむを得なかった」…とするアメリカの論理は以前からある。
そのことを今さらのように知って激怒していたお笑い芸人がいたが、戦争とはそういうもの。武器があれば使用する。使用した側にはそれなりの「しかたなかった」という論理もあるのが常だ。

しかし、原爆に関して言えば「たまたまあったから、やむを得ず使った」とは言えない。

原爆の開発はじつはもっと前から密かに進められていて、人類初の原爆が完成して初の実験に成功したのは1945年の7月16日。ヒロシマ・ナガサキのわずか半月前である。

これは何を意味するだろうか…?

アメリカとしては、莫大な国費を投入して長年かけて完成させた世界初の原子爆弾。
その威力を実戦で用いて威力を試し、人体実験を行い、その脅威を世界に知らしめて、なによりソ連よりも先に、いかに有利な立場で日本を終戦に追い込み、その後の占領統治を有利にすすめるか…?

そのためには、原爆が完成するまで、日本に戦争を続けさせておく必要があった。

昨年の8月に「原爆投下までの悪夢のシナリオ」という記事を書いたが、前後関係を時系列に見てみると、その恐ろしいシナリオが着々と進められていく過程がいっそう明確に浮かび上がってくる。


ヤルタ会談

1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われた、アメリカ(ルーズベルト大統領)・イギリス(チャーチル)・ソ連(スターリン)による会談。この中でもとくに「極東密約(ヤルタ協定)」と呼ばれるものが、日本に関する内容である。

ソ連と日本の間には、1946年までが有効期限の「日ソ中立条約」があったので、日本は最終的な終戦のための調整はソ連に依頼できるだろうと信頼していた。
しかしソ連はこのヤルタ協定で、日ソ中立条約を一方的に破棄して、夏ごろには日本を相手に参戦する意思を表明。その条件として、樺太の南と千島列島をソ連に渡してほしい、という密約を交わす。これによって、アメリカとしては戦後の日本を占領するライバルが出現したことになる。


ポツダム宣言

日本を最終的には無条件降伏に応じさせるための要求をまとめたもの。当初イギリスのチャーチルからは6月ごろにポツダム宣言について話し合う提案がなされていたが、アメリカでは就任したばかりのトルーマン大統領が、どうしても7月半ば以降にと提案。7月半ばといのは、世界初の原爆が完成し、最初の実験が行われる予定の時期である。

ポツダム宣言の草案の中には当初、日本に対して「天皇制の存続は保障する」という条項があった。
これを掲げれば、戦局の悪化した日本は受け入れる公算が高くなるだろうと。

しかし、7月に開かれたポツダム宣言の会議ではその条項が削除され、日本に対してあくまで「無条件降伏」を要求する形となった。

ただ、この宣言を日本に向けて発するにあたって、アメリカ(トルーマン)とイギリス(チャーチル)とならんで中華民国(蒋介石)の署名はあるが、なぜかソ連の署名がない。

もしソ連もそこにサインをしたら、ソ連が中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告をすることが日本に知れてしまい、あきらめた日本は受諾する可能性が高まる。

つまり、トルーマン大統領は、日本が絶対に受け入れない無条件降伏を掲げ、ソ連が参戦する情報も隠し、日本がそうそう簡単にはポツダム宣言を受け入れないであろうという公算のもとに提示した。

案の定トルーマンの思惑通り、日本の鈴木貫太郎内閣はこれを黙殺。
これによって、一応日本に対してポツダム宣言受諾を奨めたが日本が拒否した、という既成事実は出来上がり、最終手段として原爆を使用することの名目が確保される。

トルーマンの頭には、原爆の完成・実験・使用可能となる日程までの秒読みがあり、その中でポツダム宣言の草案・提示・ソ連参戦のタイミングなどとをにらみながらギリギリのタイムスケジュールが出来上がったのだ。

ポツダム会談

1945年7月17日~8月2日、ドイツベルリン郊外にあるツェツィリエンホーフ宮殿内のこの部屋に、イギリスのチャーチル・アメリカのトルーマン・ソ連のスターリンらが集まって、日本の無条件降伏に向けた会談が行われた。
(画像は実際にこの部屋を訪問した友人のM.Oさんがfacebookにアップされたものを借用)。


マンハッタン計画

話は少しさかのぼる。日本が真珠湾攻撃を仕掛ける1941年よりも前から、原爆の開発は密かに始まっていた。

ドイツが先行して核爆弾を誕生させることを恐れたユダヤ系の亡命物理学者レオ・シラードが1939年にアメリカのルーズベルト大統領に核兵器の可能性を提言している。
このとき同じユダヤ系の物理学者アイン・シュタインも名を連ねているが、アイン・シュタインはその後の核開発には実際にはかかわっていない。

研究開発の年月を経て、実際に原爆の製造に着手したのは1942年10月ごろとされている。
つまり日本が真珠湾を攻撃してから10か月後。ミッドウエイ海戦で戦局がアメリカに有利に転じたのが1942年の6月。10月にはガダルカナル島で日本軍が大敗している。そのころすでに原爆の製造は具体的に着手されたことになる。

そして人類初の原子爆弾が誕生するのが、それからおよそ3年後の1945年7月。7月の半ばに初の核実験が行われ成功し、そのすぐ後にヒロシマ・ナガサキへ。


◆悪夢のシナリオの完成

ここまで見てきた前後関係の中で、昨年書いた「悪魔のシナリオ」とも見事につながるのである。
ヤルタ会談でイギリス・ソ連と戦後に向けたお互いの思惑を確認。

1945年5月に、国連憲章を作成する名目で4名がサンフランシスコに集まった。
アメリカの呼びかけ人であるエドワード・ステテュニアス、大統領補佐官にしてソ連のスパイでもあったアルジャー・ヒス、サリバン&クロムウェル法律事務所のジョン・フォスター・ダレス、それに特命全権大使としてモスクワに2年間スターリンの戦争を指揮していたW・アヴェリル・ハリマン、合計4名による密約である。

5月にはドイツがすでに無条件降伏をしていたので、莫大な予算をつぎ込んで開発した原爆の威力を試し、その威力を世界に知らしめるために使用できるのは日本しかない。もし日本が降伏してしまえば、そのチャンスは永久になくなる。

日本との和平交渉などには一切応じず、むしろ日本が絶対に受け入れない無条件降伏をつきつけて戦争を長引かせ、その間に原爆を完成させる。そしてソ連が参戦してくる前に原爆を使用する必要があった。

原爆の実験が7月半ばに成功すれば8月には投下が可能。そしてソ連が参戦してくる見通しが8月の半ば。となると、原爆を投下するのは8月の初旬、という運命が決まる。

広島・小倉・長崎・新潟、の4都市を攻撃目標とし、天候の許す範囲で運命の日はやってきた。

「戦争を早く終わらせるために原爆はやむを得なかった」というのは国内外への弁解にすぎず、実際には「是が非でも原爆を使うために」すべてのシナリオが仕組まれていったことになる。



◆日本にとって 引き返せたラストチャンスは…?

日清日露戦争のころは、ロシアが中国や朝鮮半島にまで勢力を広げていたので、英・米としては日本にも少し力をつけてもらい、ロシアに対向できることを期待した。日本がイギリスと同様に帝国主義の道をすすんで植民地政策をとることにも後押ししてくれていた(→日露戦争の講和条約は、アメリカのポーツマスで結ばれている)。

しかし、日本がアジア圏に勢力をどんどん拡大し、大東亜共栄圏を築くにいたると、今度はイギリス・オランダ・アメリカなどは日本を警戒し、日本の力を削ごうと働きかけてくる。

★幕末に黒船でペリーがやってきたとき、アメリカが日本に求めたことを思い出してみると、アメリカは日本に「極東のよき協力者」であることを求めているのではないかと思う。日本がそれ以上の力を持ちすぎると、英米は日本に圧力をかけてくるのだろう。

「日清戦争前の日本固有の領土に戻れ」など、日本が絶対に受け入れない要求を掲げて経済制裁を課してきたアメリカ(→通称「ハル・ノート」)。

そんなアメリカと戦うべきだと参戦論を主張する軍部。軍部のみならず、明治以来負け知らずで来た日本全体のムードが、「和平交渉なんて弱腰だ」という空気を作っていたのではないだろうか?

しかし軍部もさすがに国力の差が歴然とあることは心得ていたので、なるべく短期決戦で決着をつけるべく、1941年12月8日未明、真珠湾攻撃をしかけた。日本は世界の大国を敵に回して泥沼の戦いに突入したのである。

だが、真珠湾攻撃は国際条約に違反する「奇襲攻撃」ではなく、ちゃんと宣戦布告の打電を打ったことを確認してから攻撃に入ったとされている(→山本五十六の記録等)。
にもかかわらず、アメリカ側が発表を遅らせて最初の一発を日本に叩かせ、「パールハーバーを忘れるな」を合言葉に、アメリカ全土に日本と戦う戦意を高めたともいわれる。

いわばアメリカの筋書きによって突入し、アメリカの筋書きによって原爆を落とされて終結したあの戦争。
あらためて日本にとって、あの戦争は何だったのだろうか…?



外交には常に他国の事情も複雑に絡んでくるので「やむを得ない」部分は常にあるとしても、いつの時点だったら、引き返せる道がまだ残されていたのだろうか…?

開戦からわずか1年足らずのうちに、南の島々、マレー半島からシンガポールまで一気に制圧した日本だったが、翌1942年の6月のミッドウエー海戦でアメリカに戦局は有利に傾き、10月にはガダルカナル島で大敗。

さらに絶対国防圏と言われたフィリピン、レイテ沖の開戦で日本の海軍が事実上壊滅するのは1944年(昭和19年)の10月。体当たり攻撃の「特攻」が行われたのもちょうどその頃だ。

パイロットの命と引き換えに敵艦を撃沈させるなどという、自爆テロのような戦法が「作戦」と言えるのだろうか?
この時点で、天皇陛下自らが「よくぞ戦果をあげてくれた」ではなく、「そうまでして闘わなくてはいけない状況なら、戦いはやめるべきだ」と判断されていたら…?

さらに最後の1945年(昭和20年)に入ると、フィリピン、マニラ、テニアンなどを手中に収めた米軍のB29が日本本土へ爆撃できる状況となる。

3月1日に、近衛文麿が天皇と接見して戦況を伝え、終戦を急ぐことを進言。
しかし天皇からの答えは「一撃講和」、すなわちいちど戦局を有利にもっていってからでないと終戦を有利には進められないと。なんとか一発逆転で戦局を打開すべく、特攻も拡大されていくことになる。

そして3月10日は東京大空襲(約10万人死亡)、4月には沖縄にアメリカ軍が上陸、戦艦大和を中心とする最後の艦隊が特攻作戦で出撃して撃沈(約3000人が死亡)、沖縄戦では6月までの激戦で軍人・民間人合わせて24万人が死亡、全国の各都市への空襲…



とくに終戦までの半年間、すでに戦局は明らかだった中でどれだけの命が犠牲になっただろう?
しかし ここに至る道のりの中で、日本に引き返せる機会がいつあっただろうか?

マンハッタン計画も終盤に入り、実際に原爆の製造に入ったのが開戦からわずか1年後。ちょうどミッドウエイ開戦で戦局が逆転したころ。

もし仮にこの時点で日本が本気で終戦を申し出ても、巨額の国費を投じて4年越しに開発してきた原爆が間もなく完成するアメリカが、日本の降伏を受け入れただろうか…?

さらに時間を巻き戻して、真珠湾攻撃から半年ほどの間に、マレー半島の先端シンガポールまで日本が占領した段階で「終戦」(=アメリカが敗戦国となる)なんてことが考えられただろうか?

たしかにその後の戦局悪化による多大な犠牲はなかったかもしれない。しかし、戦艦大和をはじめとする大型戦艦も、日本は明治以降「負け知らず」できたという驕りも持ち続けたまま、ずっと平和が続いただろうか?
日本が占領した各地のどこかでまた衝突が起こり、何らかの因果でふたたび日米の戦争へと突入し、やはり原爆は日本に投下される運命にあったのではないだろうか?

いろいろ考えさせられるが、武力行使に「必要最小限」などということはあり得ないのではなかろうか?

わが国の存立危機、他に手段がない…、いかなるもっともらしい理由があろうと、いったん武力公使という手段に出て突き進んでしまったら、そうそう簡単には引き返せる道はないということだ。だから、本当に不当な侵略に備える防衛(個別的自衛権)以外、いかなる戦争も肯定されてはならない、というのが私なりの結論である。


    
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長崎被爆70年 田上市長の平和宣言(全文)

平成27年 長崎平和宣言

長 崎 平 和 宣 言


 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを1日たりとも忘れることはできません。



 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省のなかから生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。



 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、そして核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障を核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。


 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔き続けます。

また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。
                

2015年(平成27年)8月9日

長崎市長  田上 富久


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プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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