「テロ等準備罪」の矛盾・問題点

6月15日(木)

ついに今朝、「中間報告」などという異例の形で「テロ等準備罪=共謀罪あらため」が参議院を通過してしまいました。またしても与党の「数の力」によって、国民や野党の強い反発・疑問に答えることなく…

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今国会の会期中になんとしてもこの法案を通したい与党と、それを阻止したい野党との攻防が頂点に達し、採決まで秒読み段階となった6月14日(水)夕方、私はFacebook上で次のような「問いかけ」をしました。

これだけ問題・危険・矛盾に満ち、多くの国民や野党が反対する法案が、またしても「数の力」で強引に通されようとしているのに、現政権を「信じ」て疑わない人たち、および政治的な話題に触れようとしないで黙認される人たちは、私のこの素朴な疑問(=反対派の不安・憤り)についてどうお考えなのか…と。


私からの問いかけ(6月14日(水)FB投稿のコピーより)>

Q1.「テロ等準備罪」の中味をよくご存じでしょうか?

Q2.では、この法案が本当にテロの防止に有効だと思われますか?
その理由もお聞かせください。


Q3.277もの行為をひとまとめに「準備罪」とみなすようですが、では現行法における殺人・殺人予備罪・殺人未遂罪、凶器準備集合罪、その他「強盗」や「放火」などの重大な刑法犯罪に付加された「未遂罪」…それらとの整合性はどうなのでしょうか?

Q4.現行の刑法では、「実行の着手」があって初めて犯罪としての構成要件が成立します。ところが「準備罪」では、なにをもってどの段階で「準備」とみなされるのでしょうか?

Q5.今の法体系にはない、まだ実行に着手されていない「意思」「話すこと」だけで捜査対象となるとすれば、憲法で定める基本的人権の侵害にはならないのでしょうか?

そして…

Q6.上にあげたような基本的なことが、国会の審議できちんと説明され、議論は尽くされたと思いますか?

どうか、私にも理解・納得できるように、明確な説明をお願いします。



「国民の多くは今の政権を支持していて、反対しているのは少数」、「野党の質問がくだらないから無駄な時間を費やすことになる」といったご意見をお持ちの方は私も知る範囲でも何人かいらっしゃいます。

しかし皆さんどこまで「テロ等準備罪=共謀罪あらため」について中身をご存知なんでしょうか?

テロ等準備罪




一夜明けて、私の問いかけに何人かの方からコメントをいただきました。みなさんありがとうございます。

ある方からは「せっかく高木さんがこのように項目別に問いかけられているのだから、〇〇さんちゃんと答えてはいかがですか?」とあり、それに促されるように賛成論の方から回答がありました。

しかしその内容は「私は法律の専門家ではないのでそこは分からない」とのこと。

また「高木さんのこれらの質問は、法律の専門家でないと分からないものなのでしょうか?」との公開の問いかけもいただきました。

私も決して法律の専門家ではありません。ただ、今からもう35年以上前ですが、いちおう法学部で学んだことのある者として、ごくごく一般的な法律の基本認識として…

新しい法案を提示するのであれば、「テロ等の重大犯罪を未然に防ぐため」という大きな目的(立法趣旨)は良いとして、ではそのために、どういう人のどういう行為を対象にするのか、その適用範囲は、今ある法律(刑法など)とのバランスは、そしてこの法案がテロを防ぐのに有効といえるかどうか…といったことを国会の場で徹底的に議論すべきだと思うのです。

国民はもちろん、国民の代表として選ばれた国会議員といえども必ずしも法律の専門家ばかりではありません。しかし、国会は立法府(=新しい法律をつくるところ)です。

もし法律の専門的知識が必要なら、専門委員に諮問してもいい。考えうるさまざまなケースを想定して、あまり具体的に書きすぎることなく包括的・普遍的に、しかも政権や司法の判断いかんによっては無制限に拡大解釈されないように条文を練り、それをもとにしっかり議論し、精査し、与野党とも理解・納得できる法案を通す必要があるはずです。

「法律の専門家ではないので…」とおっしゃる方に、Q3~Q5の回答は求めません(→それに関する私の見解は次に述べます)。

しかしせめて最後のQ6、すなわち「上にあげたような基本的なことが、国会の審議できちんと説明され、議論は尽くされたと思いますか?」…はどうでしょうか。

「ちゃんと議論されたとは言えませんね」と、そこは素直に認めてくれました。
ただし「与党も、(くだらない質問をする)野党もグダグダですね」と一言添えて。

はたしてそうでしょうか…?


野党はしっかり質問している

国会議員の中にも、弁護士の資格を持つ方や検察での実務経験のある方もいらっしゃいます。

たとえば社民党の福島みずほ氏、民進党の山尾志桜里氏、日本共産党の小池晃氏…etc.
彼らは、これまでの国会でもNHKの朝の政治討論番組でも、法律の専門家の立場から、まさに私の挙げたQ3~Q5のような質問を繰り返し投げ続けてこられました。

しかし、それに対してきちんと答えてこなかった(=答えることができない)のは安倍総理および大臣ら与党側ですよ。

安倍総理は「この法案は犯罪組織を対象とするもので、一般人を対象とするものではない(→だから心配には及ばない)」と繰り返してきました。

これは喩えるなら、薬の副作用を心配する患者に対して「この薬は本来〇〇を治療するためのものですから」と言っているのと同じレベルです。心配・質問への答えになっていません。

では組織犯罪集団と一般の団体・個人とをどうやって見分けるのか?

捜査してみなければ分からないではないか?
誰(どこ)が「疑わしい」と決めて捜査対象とするのか?

もともと表向き「犯罪目的」で設立される組織なんてどこにも実在しません。本来の設立目的は宗教団体であったり市民活動を掲げる団体であったり会社であったり…しかしある時「犯罪目的」に豹変することがありうるとすれば、どの段階でそれを「危険な犯罪組織」と見極めることができるのか?

刑事局長は「すべての人・団体が対象となりうる」と答弁しました。安倍総理の言っていることとまったく矛盾してるじゃないですか!

一般人が捜査対象になることは当然あるのです。そこをなぜ安倍総理は正直に言わないのでしょうか?



また、277もの「行為」を列挙してますが、それらが「テロ等の準備」に当たるかどうかをどうやって見極めるんでしょうか?

この議論の中で、「山菜やタケノコを不法に採って売れば、テロの資金となる可能性がある」だの、「花見にはふつうお酒と弁当をもっていくもの。もし双眼鏡や地図を持っていたら『下見』である」などというバカげた議論が出てきました。答弁する側(法務大臣)の口から出てきたのです。決して野党の質問がくだらないからじゃありません。

何をもって「テロ等の準備」とみなすのか、その定義も判断基準もあいまいな中で、そこを問いただすのは、法案を議論する上でごく当然の質問です。

山尾議員からの「では海産物はどうなんですか?」という質問をバカげてるとおっしゃいますが、あえてそういう質問をぶつけることで、「山菜やタケノコだけでなく海産物だって売ればテロの資金に流れる可能性だってありうるわけですよね?」を確認し→「そんなバカげた法案があり得ますか?」ということを国会での質問を通じて国民に示してくれたわけです。

とにかくこうした矛盾が、質疑を重ねれば重ねるほど露呈してくるわけです。だからさっさと審議を打ち切って強引に通してしまいたいのでしょう。


◆Q3~Q5は 「答えられない」が答え

私からいろいろと「問いかけ」を列挙しましたが、Q3~Q5に関してはいずれも「答えられない、答えようがない」というのが私の結論です。思わせぶりに申し訳ありません。
しかし法案を出した与党側も、法務大臣もまともに答えられないんですから、私から代弁して答えられるはずがありません。

仮にもこの法案に賛成され、いまの政権を良しとする方たちは、このあたりをどう理解してどうお答えになるんだろう…と。
それが私からの問いかけだったのです。

街でプラカードを掲げて反対していた20代の女子大生、30代とおぼしき主婦とちょっと話したことがありますが、まさに私がQ3~Q5で書いたようなことがあいまいで、「政府や司法の判断いかんによってはいかようにも適用できてしまい、国民の自由な権利を著しく犯す憲法違反ともいえるこの法案を通すわけにはいかない」と、ちゃんと本質を分かって反対してらっしゃるんです。
感情論で、自民党案になんてもかんでも「反対」してるんじゃないんですね。

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一方、安倍政権をなんとなく信じて支持(容認)してきて、表向きかかげる目的・大義名分は「ごもっとも」だから…?
それだけでなんとなく「賛成(容認)」されてるんでしょうか?
まあ、それはいいとして、ではその中身について安倍総理がいつも口にするように「ていねいに説明」され「しっかり議論」していると言えるんでしょうか?

それができていないのに、どうして「賛成(容認)」できるんでしょうか?
もし私が「賛成論に回って記事を書け」と言われたら、もうちょっともっともらしい理由をこじつけますけどね…(笑)

★例えば、私の見解ですが…

重大な犯罪を未然に防ぐためのものとして、いまも警察官による職務質問がありますね。
夜自転車に乗っているだけで、警察官に呼び止められ、根掘り葉掘りいろいろ聞かれ、住所や免許証など個人情報を提示させられ、反抗したり振り切って逃げたりすれば公務執行妨害で逮捕される…ある意味人権侵害ですよね。
しかし、もしかしたら重大犯罪の疑いがある人物かもしれない。それを警察官は職権として質問するわけです。

つまり、社会の安全を守ること(=公共の福祉)とのバランスで、多少なりとも個人の自由・権利を制限せざるを得ない場面もある…テロ等準備罪もそういう視点で必要なものである、と。
そのうえで、防ぐべき危険とのバランスにおいて、何をどの程度まで捜査対象と認めるか、基本的人権が不当に侵害されないための対策は…といった議論をしても良いのではないでしょうか?


♪金田法務大臣もお気の毒…

不信任決議案や問責決議案を突き付けられたあの金田法務大臣、ネット上ではかなり皆さんから罵倒されているようですが、私は最近、あの方は気の毒だと思うようになりました。

問責決議案を出されでも怒ることなく、「私としては一生懸命答弁してきたつもり」と答え…
仮にも一橋大学の法学部の出身で、エリート官僚の道を進んできた人物。脳梗塞の後遺症もあってか活舌が悪かったりしますが、決して頭の悪い人ではない、少なくとも悪徳政治家ではないんじゃないかと。

むしろ法律に関する一般常識があるから、あんな法案について「説明のしようがない、答えようがない」。
具体的に突っ込まれて真面目に答弁しようとすればするほど(法案の)ボロが出る、そういう法案なんだと私は見ます。

安倍政権のもとでこの時期に法務大臣に任ぜられ、なんとかこの場をしのいで法案の可決成立にもっていくように…との絶対的使命を負って針の筵のような毎日をすごした気の毒な方…そんな風にさえ思えてきます。


目的→法案のすり替え

これまでの「特定秘密保護法案」しかり、「集団的自衛権」しかり、大義名分として掲げる目的と、そのために出してくる法案の中味がまったくかみ合ってないのです。そのすり替え・トリックをどう見るのでしょう?


*特定秘密保護法


公的機関が情報の流出を防がなくてはいけないこと(=特定秘密)がある。
そのために、「国民の知る権利」や「報道の自由・表現の自由」を多少犠牲にしてもやむを得ない場合もある。

たとえば人質を取られた事件が進行中に、必ずしも捜査情報をマスコミに流さずに伏せる、など、人質の命を守り、犯人側に捜査の手の内を明かさないために…

こうした趣旨をきちんと丁寧に説明し、もしそれに類することが他の省庁においてもあるとすれば、それはどういうものが考えられるのか?といったことを具体的に出して、それを精査して検討する。そういう議論がきちんと国会でなされたといえるでしょうか?

質疑を打ち切り、強引に採決して通してから、各省庁に「どんなことを特定秘密にしますか」的なアンケートを取っている…話の順序が逆でしょう!

★いま問題となっている文科省の内部文書の存在を勇気をもって(=森裕子議員の言葉を借りれば「命がけ」で)告発した職員。
彼らを「行政の内部事情を漏洩した」として処分しようなどという不穏な話しもあるようですが、公務員による秘密漏洩にこれまで以上に厳しい罰則を与えようというのがこの「特定秘密保護法」です。

メディアからの取材に「身の上を考えると、答えるわけにはいかない」となる。それは国民が真実を知る権利、メディアの報道の自由を脅かすものです。
女優の藤原紀香さんも、あの法案が出てきたときにまさにこれを心配して「とんでもない法案」と自身のblogで訴えられていたのです。なのに安倍総理は「報道の自由を脅かすものではない」と言い続けました。



*集団的自衛権

もし「日本人の命と安全を守るため」なのだとしたら、なぜいきなり集団的自衛権なんでしょうか?
万一の大災害や他国から攻撃を受けるといった非常事態に、今の憲法の下でできうる自衛隊の活動・範囲・指揮命令系統についてしっかり議論されたでしょうか?

そして個別的自衛権の範囲内でできうることを議論したうえで、こういうケースではどうしても対応できないから、集団的自衛権も必要になるのでは、という筋道を立てた議論が国会でなされたでしょうか?

そうした議論は、まったくと言ってよいほどされてませんよね!
そして自衛隊は南スーダンへ。情勢が悪化し、迫撃砲がすぐ近くに打ち込まれ、隊員の中には「死」を覚悟して家族に遺書を書いた人も…。それでも政府は「戦闘行為」は行われていない、と。
そして「日本の発展に寄与した」って、何を言ってるんでしょうか?


*テロ等準備罪=共謀罪あらため

今回の「テロ等準備罪」も同様、目的として掲げたこと(=凶悪なテロを未然に防ぐこと、および国際的な基準に標準をあわせること)は大切なこと。世界の各地でテロが多発している昨今、誰も否定できないことですね。
でも、本当にテロを未然に防ぐ目的で法案を出すのであれば、あの法案なんでしょうか?

今は人権侵害にあたるとして禁止されている「おとり捜査」「通信傍受」といったことが捜査機関によって行われるようになるなど、運用によっては国民の人権を侵害する危険があるだけで、その割には、現実的にテロの予防にこんな法案がどれほど役立つのでしょう?

現実に起こりうるテロに対応するのであれば、交通機関や多くの人が集まる施設・街の監視カメラのチェック体制の強化、インターネットのセキュリティ強化と危険な用語のチェック、過去に犯罪歴のある者の情報を全国の都道府県の警察で共有できているか、海外に渡航中の危険な人物の情報をどこまで把握できているか…etc.

「山菜やタケノコ採り」なんかを議論してる暇に、現実のテロ対策としてやるべきことが山ほどあるでしょう。


政府(時の政権)の判断次第でいかようにも…

野党からの質問にまともに答え(られ)ず、議論になっていない…
そんな法案をなぜ今国会の会期中に何が何でも可決成立させたいんでしょうか?

都議選も近づく中、いったん出した法案を撤回したら印象が悪くなる(=いわば「引っ込みがつかない」から)でしょうか?
むしろこんなに多くの国民が反対している法案をまたしても強引に通したら、ますますイメージが悪くなると思いますが…

これまで「数の力」で通してきた法案・政策すべてに言えることですが、「政府(時の政権)の判断」でいかようにでも適用範囲を広げることができ、「力を発動できる体制」を早く作りたいのでしょう。

さまざまな「忖度」に絡む疑惑追及の手も迫ってきている中で、早く「形」をつくってしまいたかったのではないでしょうか?

だとすれば、それは完全に民主主義への冒涜です。こんなにも議会運営をないがしろにした暴挙が、はたして民主主義国家で許されるのでしょうか?

どうか心ある国民・有権者たちは、そこをしっかり見て怒るべきところは怒ってほしいと思います。まさにそれが民主主義の力=「民意」だと私は思います。

→ 民意の「民」は、民主主義の「民」


民意の「民」は、民主主義の「民」

6月14日(水)


まだ犯罪の実行に着手していない段階で、277もの行為を捜査・処罰の対象にできる「テロ等準備罪=共謀債あらため」の参議院での採決が秒読み段階に入っています。

しかしこの法案の基本的な問題はどこにあるのか、その内容とあわせてどれほどの人が正しく理解されているのでしょうか?

テロ等準備罪


一方、「政治とカネ」の疑惑は後を絶たず、政治資金規正法違反の疑いで辞任した大臣、公私混同で辞めた前東京都知事、そして今問題となっている森友や加計に代表されるさまざまな「忖度」の疑惑…
挙げたらきりがありません。

また、政権側から出されてくる政策・法案の内容についてはいかがでしょう?

本当に国民生活を守り、豊かにしてくれるものでしょうか…?
私にはどうも今の政権から出されてくる政策・法案は、大企業や政治にとって有利なもの、庶民の暮らしをますます苦しめて格差を拡大するものが圧倒的に多いように思えてなりません。

しかし日本の国民(有権者・納税者)はとっても大人しく、疑惑を追及する声も、政策や法案に反対を唱える声も全体の中では一部にとどまっているようです。

疑惑追及から辞任に追い込まれた大臣や元東京都知事などの例も記憶に新しいところですが、みな公職を「辞任」すればそれで幕引きで、その後「政治資金規正法違反」「業務上横領」などの罪で刑事告発される例はほとんどありません。なぜなのでしょう?

こうした政治家の不正・疑惑に対して、一部の人たちはネット上で「とんでもない!」と怒りますが、内閣の支持率は一向に下がることもなく、次の選挙結果へもつながらない不思議…



◆「民意」ということ


これらの現象を「民意(民度)が低い」と表現すると、「日本の国民をバカにしている」とお叱りが飛んできますが、どうも「民意(民度)」という言葉を私がこうした場面で使うのとはまったく違う意味でとらえられているのではないかと思うのです。

日本人は昔から「和」を尊び、美しいものを求める民族です。
社会的な安定・秩序、安全、順序良く並ぶなど公共マナーといった面での「民意」は世界に誇れるほど高いと思います。

また、文字を読み書きできない人はほとんどいませんね。なんだかんだ義務教育の徹底により、国民の知的水準は保たれてきました。

また、コンサートで来日した演奏家がアンコールに応えてなにかもう一曲演奏してくれる際に、英語だけではなくフランス語・ドイツ語・チェコ語などその演奏家の母国語で曲名を言うと、観客の中にはその曲名をすぐに理解して拍手する人がけっこう多いことに驚きます。そうした文化・教養レベルはとても高いのです。

ところが…

政治に対する関心・意識は?

決して知識・教養レベルが低いわけではなく、頭が悪いわけでもない。
しかし、こと政治の問題(=私たちの社会に関する問題、子どもたちの将来に関する大切な問題)になると、とたんに口をつぐんでしまう人が多いのです。

日本では宗教の話と政治の話はタブーみたいな風潮があって、あまり自分の意見・どの政党を支持するか・今の政権や政策についてどう思うか…といった話題をほとんど口にしない傾向が強いです。

お隣の韓国をはじめ、欧州(イギリス、アイルランド、ドイツなど)と比べても、選挙や国民投票などの投票率が軒並み日本よりはるかに高いです。街頭インタビューでも、若者たちが将来の国の行く末を本当に心配し、ある政治家に期待を託す声、あるいは現職の政治家を弾劾する声がかなり具体的に出てきます。

それに対して日本では国政選挙でも地方選挙でも、どこの地域でも軒並み50%そこそこの投票率。
しかも、投票に行く人の多くは「いまの与党も問題だけど、野党もねぇ」「他よりマシだから」でけっきょくなんだかんだ「現状維持」「安定政権」を支持(容認)して現政権に「数の力」を与えてしまう…

いまの政治の体質的な問題、政策論の中味がしっかり議論されることなく、なんでも「数の力」で押し切られてしまう異常ともいうべき国会運営…

安倍総理がいつも口にする「丁寧に説明」、「しっかり議論」、「理解を深めていく」ということが、国会の審議の中できちんと実行されていると言えますか?

野党の反対意見や質問をいかにはぐらかし、逃げ、ごまかして、さっさと法案を「数の力」で通してしまおう…そんな姑息な国会運営ばかりがあまりにも多すぎませんか?

国会は本来「国民のための議論の場」です。なのに、与野党の政治的な「かけひきの場」になってしまっていて、ちっとも本質的な議論、かみあう議論がなされていません。
野党の声もちゃんと聴いて、多角的な検討をしっかり積み重ねて、野党の理解・賛成も得られなくてはどんな法案も通らないようにする…そうした民主主義の基本はどうなってしまったのでしょうか?


民主主義の「民」

「数の力」への驕りから、政治家・閣僚らのとんでもない失言問題や汚職にも結び付いているのではないか、と指摘されています。
では、そもそも、なぜそのような「数の力」を与えてしまったのでしょうか?

私は思うに「優勢なのはA党かB党か」といった二者択一で、「どっちが勝つか」の勝ち馬に一票、みんな(多数)が支持してるだろうから…という意識がこういう結果を招いていしまっていると。

そもそも民主主義って何なんでしょうか?

政治家の不正が発覚すると「まあ、そういう人を選んだのはわれわれ有権者だから」などと妙に物分かりのいい大人たち。
選挙の段階では、公約・信条を信じてその人に一票投じたんですよね。その人が、公約に反することをやったり、まして違法な行為を行ったら、それは有権者に対する「裏切り」ですよね。なぜそこを厳しく追及しないんでしょうか?

投票で選ばれた私たちの「代表」のその後を見守る、われわれの声を代弁してくれてたら応援する、そして不正は追求する…そこまで見届けて次の選挙に反映させるまでがわれわれ有権者の務めではないんでしょうか?

このように、さまざまな場面で「あれ?、本当に民主主義の基本を分かってるのかな?」と思わざるを得ないような発言・行動が目につくのです。

せっかくわれわれ国民に平等に与えられた「民主主義」。その民主主義をきちんと理解し、無駄にしないで活かす、そういう意味での「民」の力、「民」の意思、それが「民意(民度)」ではないでしょうか?


日本人の深層意識

まさかここに来て、40年ちかく前の大学での一般教養の内容を思い出すとは思いませんでしたが…

日本人の「法」に対する意識(=一般教養の「法学」にて)。

法律を勉強する、あるいは司法試験を受けて弁護士・検事・裁判官になる。そういう世界は一般の人から見ると敷居の高い別世界、という意識が日本人には強いと。
一方、私人間のトラブルを話し合いで解決できず「裁判」に持ち込んだり法律の条文を持ち出したりすると、「あの人は…」と白い目で見られる風潮がある、とも。
つまり日本人の意識の中には、法律はいわば「伝家の宝刀」のように、高いところに飾られたもので、めったなことで抜くべきではない、という意識があると。

そしてもうひとつ

政治的無関心(=「社会学」大衆文化論の中で)

勤勉で、経済に敏感で、産業・技術の進歩では目覚ましい力を発揮する日本人。最近では先端産業(←1970年代の言葉です)など、いっそう専門特化した分野の発展も著しい。
ある専門分野に関してはものすごく素晴らしい能力が磨かれている一方、仕事から解放された個人の自由時間には、あまり難しいことを考えたくない、のんびり楽しくすごしたい…という欲求も当然強くなる。
そこで、政治の話などは、本当は私たち社会みんなにとって大切な話であるにもかかわらず、仕事以外ではあまり難しいことは考えたくない、自分には直接関係ないこと、という意識が少なからず生まれやすいのではないか、と。



これらはいずれも、社会学的なマクロな目から見た仮説です。
文化人類学でいう「日本人論」も、さまざまな日本人や外国人のさまざまな立場の人たちの目から、日本人という民族の歴史や自然的・社会的環境などと関連づけながら、「日本人」という大きな集団のもつ特性について研究する分野です。

たとえばその中で、日本人は農耕民族だから、みなと一緒に種を蒔き、皆と一緒に刈り取り、村の行事は総出で助け合う…それが当たり前とされてきた。村八分となることは死活問題。みなと一緒に行動し、みなと一緒に楽しみ、みなと一緒に分かち合う…そういう国民性が長年の習慣の中でも身についてきた、と。

だから、遊牧民族のように、天候や羊たちの体力などを自分で判断して行く先・行動を決める「主体性」を要求しても、民族の特性として難しいのではないかと。

こうした「日本人論」の仮説的な見方はとても興味を引くものです。

しかし中には「日本人といったって色々いる。全員がそうじゃないはずだし、私は違う、一緒にしないでくれ」などという反論が必ず出るわけです。場合によっては「日本人をバカにするのか」とも(笑)。



社会科学というのは、自然科学と違って実験装置の中にある条件だけを入れて「実験」してその結果を科学的に検証することはできません。さまざまな要素が複雑に絡み合っている中で、ある要因とある結果になんらかの因果関係があるのではないか、を考察するものです。

それを「すべてがそうとは言えない」などと反証を挙げたり、「どっちが優れてるか」みたいなニュアンスで受け取って感情論で反発していたら、意義のある考察はすべて意味のないものになってしまい、文化人類学も民俗学も社会学や集団心理学も語れなくなってしまいます。

それと同様、日本人がもし世界の先進国の中でも政治的無関心が多く「民意」が低いとすれば、それは否定できないと受け止めるのが賢明だと私は思うのです。日本人に対する偏見でもさげすんだ見方でもないのです。

そこをちゃんと認めたうえで、現代・この現状において、はたしてこれで良いのだろうか、政治的な話題(=私たち社会の話題)にどうしたら関心が高まるのだろうか、どうしたら民主主義のよりよい姿になるのだろうか…と考える必要があると思うのです。


♪関連する過去のblog記事

→ 考えること、表現することの大切さ(2015年9月)
→ 答えは風の中…?(2017年4月)


お昼時の独り言

5月8日(月)

連休になると、どうしても夜型の生活になってしまう私。今日からまた6時前に起きて出勤する日々の始まりでした。
心配していた寝過ごしもなく、午前中に久々の職場で「リハビリ」も無事に終了!

そして昼休み、お気に入りのカレー屋さん
スペシャル欧風ビーフカレー
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しかし、すぐ隣には「食べスマホ」君が…
お分かりですよね、「歩きスマホ」ならぬ「食べスマホ」!

食事中も片時も左手をスマホから放すことなく、右の片手で犬食い。しかも満席で店内に待ってる人もいるというのに、スマホときどき食事でたらたらと…。

せめて食べてる時ぐらい、食事に集中したら?
冷めないうちに美味しくいただけば?
食べ物に対して、提供しているお店に対して失礼でしょう。そんな食べ方をして家族から何も言われないんでしょうか? いったいどういう育ち方をしたんでしょうか?

でもまあ、「食べスマホ」は1席離れたところでやってる分には迷惑にはなりません。
それ以上に気になるのは、会社員たちの「会話」です。


食事中の会話

きょうも1席おいた両隣には、いかにも連休明けの会社員が、職場の人のうわさ話。
「〇〇事業部長は…、あの人は前〇〇本部にいて、それからどこに行って…、仕事ができる・できない…」そんな話を延々と。

それって「仕事の話」…?

男性サラリーマンでも女性のOLさんでも、会話のほとんどは「仕事の話」じゃなくて、会社内の狭~い世界の人のうわさ・愚痴…etc.

社員食堂で、あるいはコンビニのお弁当をデスクでいただくことが多い私ですが、たまに外食する時は、1000円札が飛んでいくちょっとした贅沢のつもりなんです。せめておいしく味わいながらいただきたのです。

お寿司屋さんのランチご膳(これで850円!)
寿司やの日替わり

そのすぐ脇で、職場内の狭~い世界のうわさ・愚痴レベルの会話を延々と展開されると…

もう何年も前のことですが、牛タン&麦とろご飯が食べたくて楽しみに出かけた馴染みの店で、すぐ隣には4人のOLさん。そこそこスタイルもよい素敵な女性かと思いきや、男性社員のうわさ話ばかり。〇〇さんは不倫してるらしいとか、この前合コンに行ったらどんな男性が来てて…といった話。ついには下ネタまで。

私は思い余って「あの~、私はあなたの会社の『給湯室』に潜り込んで食べてるわけじゃないんですが…」と一言発しました。
幸い話の分かる人たちで、「あ、すみません」と話題を変えて静かになって下さいましたが…(言われなくても少しは常識で考えろよ!)

平日の昼時に限らず、外食ではすぐ隣には食事を楽しんでいる人がいることを忘れないでいただきたいですね。入退院を繰り返す年老いたご両親と久々の食事をされていて、もしかしたらこれが最後の家族そろっての外食になるかもしれない可能性だってあるんですよ。


◆「仕事の話」って?

♪「あ~ 今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ…」
岡林信康さんの「山谷ブルース」(1968年)の冒頭の歌詞です。

1968年といえば大阪万博の2年前。高度成長を陰で支えた労働者の心情を歌った歌で、メロディも歌詞もなんとも刹那的ですが、私けっこうこの歌好きなんです(笑)。これこそまさに「仕事=生活の糧」の原点じゃないかと思います。

たとえば街路樹を剪定する植木職人さん、あるいは建築現場で働く作業員たちがラーメン・炒飯を食べながら、午前中にやった作業の話や午後からの作業の段取りについて話しているのは、まさしく「仕事の話」ですね。そういう話なら脇で聞こえてもまったく不愉快にはなりません。

でも、いわゆる「会社人間」たちのせんなき愚痴は、私に言わせれば「仕事の話」なんかじゃありません! 
本人たちはごく当たり前の日常的な「はけ口」のつもりかもしれないけど、脇で聞いてて不愉快になってきます。



そりゃ私だって、会社・組織に長年いれば嫌なことだって当然ありますよ。どうしても好きになれない「おかしな人」だっていますから(笑)。でも職場は「お友達」を作りに来る場所ではありませんよね。

最近は「就活」という表現が主流ですが、そもそも「就職=どこかの会社・組織に所属すること」なんでしょうか?
あなたにとって「仕事=職業」って、どこかの会社・組織に所属しておしまいですか?

何かをしたくて、ある生き方をしたくて、それを実現させるために、なんらかの会社・組織に所属しているわけですよね。私自身を振り返っても、「仕事=職場」は、私という人間の生き方のひとつの形=仮の姿なんじゃないでしょうか?

その会社・組織が未来永劫続くとは限りませんが、たとえ時代の流れの中で消えてしまうような会社・組織であったとしても、そこで過ごした時間、取り組んだ仕事は、その人の人生において決して無駄ではないと思います。

また、会社・組織は、個人でいくら頑張っても実現できない仕事を、そこで経験させていただける場所ですよね。そして生活の糧を得ている。
会社・組織がどうであれ、周りの人がどうであれ、自分がその「職業」を選び、ご縁あっていまの「職場」を与えられ、そこで生活の糧を得てるわけですよね?



中途半端な組織論、中途半端な個人主義はやめませんか?

とくに個人の生き方を本当に大切にするなら…

子どものころから描いてきた「大人になったらこんな仕事をしたい」という夢と現実の仕事とが完全に一致している人は幸せですが、そういう人はめったにいないでしょう。
でも、高校・専門学校・大学…前職…いろいろご縁があっていま与えられている「仕事」。
いまのあなたの職業・立場からは、世の中がどんな風に見えてますか?
どんな問題意識をもって毎日仕事してるんですか?
その仕事を通じて、ご自身はこれからどうしたいですか? 
将来的にはどんな生き方をしたいのですか?
…etc.

そういう「仕事の話」なら、朝まででも付き合えますが。

連休明けの、ちょっと踏み込んだ独り言でした。


マスコミの影響力は大きいが…

こんな世の中になったのは「マスコミのせい」…?

わがままで短絡的な犯罪が多くなった。自分のことだけでいっぱいいっぱいで政治や社会に目を向けない人も多い。芸能人のスキャンダルや娯楽にばかり目を奪われている。国の先行きを左右する一大事についてあまりにも無知・危機感がない…etc.

そういう話題になると必ずと言ってよいほど出るのが「マスコミの影響は大きい」という声です。

「視聴率」という前近代的な商業主義的な数字に振り回されて、ウケを狙って売れてる芸能人を連れてきて、旅・グルメ・クイズ・バラエティ…レベルの低いボケとツッコミ、「え~!」というわざとらしい効果音を入れ、どの局も似たような安易で低俗な番組が多すぎる…と憤りを感じる面はたしかにあります。
なので、家に帰ったらテレビのスイッチを入れ、だらだら惰性で見る習慣を断ち切って久しいです。

たしかに、放送番組も「需要と供給」のバランスで成り立っています。
マスコミがそういう番組を流すから国民の思考回路がこうなる、とも言えるし、国民が求める番組をつくるとこうなる…ニワトリとタマゴのような話になるのです(笑)。

「マスコミと社会」について…
私が学生時代のころに、ちょっとタイムスリップしてみたいと思います。



◆「全員集合」は諸悪の根源だった…?

いまからもう40年近く前の学生時代、社会学で「マスコミ論」に触れたことがあります。
そこでよく耳にしたのが「テレビで暴力や性的な表現が多いから犯罪が増える」という仮説。
テレビの影響で、そういう欲望をあおるから模倣して犯罪が増えるのだ、というのです。

かつてドリフの「8時だよ全員集合」の影響で、子どもが下品な悪ふざけをしたり先生の言うことを聞かなくなる、と目くじらを立てる教育関係者の声があったことを思い出します。

しかし、あの「全員集合」という番組が本当にいけなかったのでしょうか?

最近のお笑いのようにツッコミの勢いで笑いを取るのではなく、毎回の設定の中で5人のキャラクターそれぞれの奇想天外な展開、計算しつくされた絶妙なタイミングで「え、まさか本当にそこまでやるの?」という本気の「ボケ」の連続で、腹筋が痛くなるほど笑わせていただきました。

毎週全国各地を回りながらの生放送で、あれだけの台本を書き、それを具体化する大道具の本気度も半端ではなかった。いま思い出しても素晴らしい文化だったと思います。

たしかに学校のクラスの男子の中には、私と同様、あの番組で見たネタを学校で真似して怒られた経験のある人もいらっしゃるでしょう。
でも、本気で差別や偏見をもったり陰湿ないじめの原因になることではなく、多くは「実際にはありえない状況=仮想」を楽しんでいたのではないでしょうか?


◆「模倣」か「代償」か?

凶悪犯罪を扱う刑事ドラマでも、性的な表現の多い大人向けの深夜番組でも、見る人がちゃんとした常識と理性をもって見れば、実際にやってよいことと悪いことの区別は当然つくはず。現実にはできないことをテレビの仮想現実の中で疑似体験して楽しむ(=代償)…それが娯楽ですね。

そういう理性を持った人が多い社会なら、そのような娯楽によって潜在的な欲求が満たされること(=代償)で、むしろ現実の犯罪を抑止している、という面もあるはずです。

刺激・模倣によって犯罪が増えるのか、代償によって犯罪が抑えられるのか?
そこは、その社会を構成している人たち次第なのです。

暴力的な映画や番組を流すことで、ある町では犯罪が増え、ある町では犯罪が減った…ということが「実証」できたらよいのですが…


社会学では、科学のような「実験」はできない

化学・科学の世界では、ある因果関係を調べるために、一定の条件である要因を加えたケースと加えないケースを「実験」して「検証」することができますね。
しかし、社会学をはじめ人間の行動科学の分野では、そうした純粋な条件下での「実験」は不可能です。

とくに社会学は、社会の中のさまざまな事象が、あることに影響を与えたり影響を受けているきわめて流動的な状態。
いわば、お風呂の栓を抜いて排水しつつ、水とお湯を足し続けているような状態に近いでしょう。
ある事象とある事象の因果関係について「仮説」を立て、流動的な「社会」という巨大な装置の中で「観察」するしかありません。せいぜい「統計」をとって比べるぐらいでしょう。

…ここまで、学生時代から思っていたことをちょっとつづってみましたが、要は…


◆なんでもマスコミのせいにしない

冒頭に書いたような最近の番組の傾向には、たしかに問題もあると私も思っています。
公平な立場で伝えるべき報道が、政権の都合のいいように偏っていないか、逆に政権を批判することばかりに偏ってはいないか…?

いつの時代でもどこの国でも、多かれ少なかれテレビ各社・新聞各社によってどっち寄りの視点で報道するか、それぞれの傾向はあるものです。
私自身、なにか社会や国会で大きな動きがあった日には、夜のニュースで複数局を見比べて、どの局がどのニュースをどのような切り口で伝えたかをチェックしているぐらいですから。

そこで「〇〇局ではこのニュースをまったく取り上げなかった」「表面的に伝えただけでまったく突っ込んでいない!」「けしからん!」などと批判だけしてても仕方ないと思うのです(←たしかに、明らかに酷いときは批判もしたくなりますが)。


一人一人が情報を選び、考える力を!

いまは多くの情報源が溢れています。大手の新聞・テレビだけでなく、それこそグラビアアイドルも載せているような雑誌や日刊紙は、政治家のスクープのような記事もなんの圧力も気にすることなく出しやすい立場にあるといえるでしょう。それこそ今はネットによる情報も溢れています。

それらの中には、感情に走って誇張された情報、未確認情報、場合によってはフェイクともいえるような情報もあります。そうした情報の中から、「何が真実なのか?」を各人がしっかりと判断して取り入れる力が求められてきます。

またSNSでもしばしば見受けられることですが、記事の表の見出しだけを見て感情で反応し、投稿の趣旨から外れたコメントが続くことも…
記事に書かれている内容をちゃんと読んで理解し、「この問題のどこがどう問題なのか?」をきちんと理解する力・考える力・議論できる力が大切になってきます。

→ 考えること、表現することの大切さ(2015年9月 58歳を迎えた日につづった記事です)


大切なのはひとりひとりが自分で情報を取捨選択し、自分の頭と常識で考える力ではないでしょうか。

私も、父子二代にわたって公共放送の一角に携わった人間として、マスコミが世間に与える影響・責任はもちろん大きいと思ってきました。報道の在り方について思うことも当然あります。

しかし、国民・有権者も決して無能な受身型ロボットではないはずです。なんでもかんでも「マスコミが~~だから…」と、人のせいにしたような言い方をしてはいけないと思うのです。


週半ば深夜の独り言でした。

森友学園 アリの一穴から?…しかし本質は?

3月20日(祝・月)


このところTVでも新聞でも連日騒がれている「森友学園」をめぐる政治家(=自民党閣僚ら)との関係。

稲田防衛大臣が籠池氏と「大いに関わっていた」事実。
安倍総理夫人から籠池氏に100万円の寄付があった、という爆弾発言。
参考人招致をかたくなに拒み続けてきた自民党も、ついに23日には籠池氏の「証人喚問」へという流れに(安倍総理への侮辱だから証人喚問に、という説明にちょっと違和感を覚えますが…)。

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そのXデイを前に、いやあれは「講演料」としてもらっていたものを返しただけ…またまたそんな「言い訳」も出てきそうだという情報もあります。

言うまでもなくこの一連の問題は「政治とカネ」に関わるスキャンダル。時間を追うごとにどこまで掘ったら何が出てくるのか、どうやら埋まっているのはゴミだけではなさそうですね…(笑)
私があえて「社会的な意見」として書くまでもないことなので、これまでこの問題に関してはずっと静観してきました。

が、ある友人から「森友学園の問題について書いてほしい」という声もあり、ここらでいちど書かせていただきます。


総理の嘘は今にはじまったことではない

そもそも安倍総理は、「学園の設立や土地取得にですね、私や妻が関わっていたとするならばですよ、私は総理も議員であることも辞めるとはっきり申し上げておく」と、国会の場で宣言したんですよね。複数のテレビ局が字幕入りで映像を保存してますよね!

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昭恵夫人が学園で「講演」をし、いったんは「講演料」としてお金を受け取っていた。そのお金を返した?…それが「寄附」であろうと「返納」であろうと、「関わっていた」ことは紛れもない事実。もうそれで充分ですよ!
総理の嘘は、これまであまたあって数え切れませんが、話をすり替えて逃げ通せるのももはやここまで、と私は見ます。

しかし、ここでまた大物政治家の嘘・政治とカネのスキャンダルが暴露されました。失脚してそれでおしまいですか?

先ごろの甘利経済産業大臣しかり、舛添前東京都知事しかり、役職を辞任してしまえば政治資金規正法も、場合によっては公金横領・詐欺などの刑事責任は一切問われないんでしょうか…?

少なくとも違法性がなければ罰せられない。芸能スキャンダルと同じく、人の噂も七十五日、のど元過ぎれば熱さ忘れるんですか…?

はっきり言わせていただきます。

 ↓

◆日本の政治は、ほんとレベルが低すぎます!


安倍政権がこれまで公約をどんどん破って強引に進めてきた法案や政策の数々、戦争できる国にしてアメリカにしっぽを振る、国民とくに弱い立場を切り捨てる、大企業・経団連に甘い汁を吸わせて自分たちに還元させる、国民の血税を湯水の如く海外にばらまく…

これらすべてを「数の力」で押し通すことを許してきたんです。
それこそ、今回の嘘のなん百倍も国民に影響のある嘘を通してきて、100万にゼロをいくつ足したらいいんだというお金を使ってきたんじゃないですか!?

野党も、批判だけじゃなく政策論をもって堂々と勝負できる力をもっともっと養って(←すでに何人かの注目に値する議員さんはいます)、野党各党が足を引っ張り合ったりある党を排斥しようとするのではなく、大同小異でまとまるべきところはまとまって力を合わせるべきです。

そして国民有権者がもっともっと「誰のための政治をやってるんだ!」という意識をもって投票に行かなくては!

そうしたまともな政策論から、安倍政権が信を問われて欲しいとずっと思い続けてきました。


◆アリの一穴から?

政治家トップと民間人との癒着、政治と金…韓国も同じようなレベルの問題から政権が崩れました。しかしお隣の韓国では、あれだけ国民全体が「許せない」と立ち上がり、その国民世論の力に後押しされて悪が暴かれたのと比べ、日本人は羊のようにおとなしい傍観者たちばかり…

こんなレベルの嘘の発覚から、アリの一穴から堤が崩れるように政権が危ぶまれる…
堂々と他流試合に臨もうとしていた相手が、自らドブに滑り落ちて流されていく…そんな拍子抜けの情けなさを感じてしまうのは私だけでしょうか…?

今ネット上では、安倍政治に反対する人たち・グループ内で、安倍総理の嘘が暴かれ政権をも揺るがしかねない動きに大いに盛り上がっていますが、まだまだ国民全体でみると、政治(=私たちの社会・日本の将来にかかわる問題)に無関心で、眠れる子羊のような状態ではないでしょうか?


選挙は勝ち馬に一票の予想じゃない!

「でも野党もね~」「じゃ、どこに政権を任せたらいい?」…じゃないんですよ!そこの経済新聞もったインテリ風にも見えなくもないオジサンたち!

なにかあるとすぐ「~~するとどうなって、あれはこうだから…」「どこが強いか」「どうなりそうか」…といった、野球や競馬の予想屋・評論家のような意見が飛び交います。無責任なバラエティ番組のように…

仮に他の党が政権を取ったとしても、政権与党となったとたんに、財界や経団連、官僚らのマリオネットのようになって今の自民党と似たような政治をやろうとするんです。それはもう過去に実証済ですよね。

私がずっと思ってきたのは、仮にも自民党が最大与党であっても構わない。しかし政権与党に過半数議席=「数の力」を与えないようにすることです!

お隣の韓国の国会もそうですが、与党が何かを通そうとしても与党だけでは過半数に満たないから勝手に決めることはできません。
それこそ安倍総理のいつもの口癖のように「丁寧に説明」して「しっかりと議論」して「理解を深め」、野党側からも一定の理解が得られて賛成が得られなければ法案も通らないようにするのです。

民主主義を取り戻すための投票をすべきなんですよ。勝ち馬に一票の予想屋じゃなく。分かりますか!?

だいたい国民有権者の約半数しか選挙にも行かず(=国政選挙でも地方選挙でも投票率は軒並み50%そこそこ)、投票に行った人のうち、自民党に一票入れた人の65%が「ほかよりましだから」…?

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2014年12月の総選挙結果から 読売新聞データより


いい大人が政治の話(=われわれの社会・日本の将来に関わる話)をまったく口にしない。政治の話はタブーというのが国民的な文化なの?
昼の食堂でニュースがかかっていても会社員同士はクルマやゴルフの話をしていて、野球やサッカーのニュースの時だけ振り返る、夜の居酒屋では会社内の狭~い人間関係の愚痴、あとは下ネタ…etc

経済的には世界の先進国といわれながら、国民の意識がこんなレベルの国、こんなに政治について語れない国がどこにあるでしょう?

考えること、表現することの大切さ (2015.9.26)


性格は変わらない? ~柔軟な頑固さ~

1月13日(金)


◆性格は変わらない?


生まれながらの性格、育った環境から長年身についた習慣は、そうそう簡単には変わりませんね。

しかし…

居酒屋やファミレスで皆さんの会話の中にしばしば登場する「あの人の性格は~~」「この前なんか~~って言ったらなんて言ったと思う?」「仕事はできるんだけど、あの性格は困ったもんだよね」…etc.
そうした場面でレッテルを貼られる「性格」は、ちょっとしたものの言い方行動パターンを指していることがほとんどではないでしょうか?

ちょっとした場面で「ありがとう」や「ごめんなさい」を言わない、自分の決めたルールでマイペース、人には文句だけ言う…etc.

人と接する上で問題とされるような性格、いわば社会生活上問題となるような性格は、ちょっとしたものの言い方や行動パターンを改めることで改善されることが多いのではないでしょうか?

「俺はこういう性格なんだ」と決めつけて開き直るのではなく、ちょっとしたものの言い方や行動パターンを変えてみることで、周りの人たちとの関係や見える世界が変わるかもしれません。


◆頑固さにも2種類

なんでもかんでも人に合わせる、お客さんの好みに合わせて売れるものだけをつくる、自分の主張・ポリシーがない、優柔不断、付和雷同…etc.

最近のTV番組でも、「視聴率」という前近代的な商業主義の数字に振り回されて、どの局も同じような売れっ子芸能人を出してきて、ウケを狙った低俗なバラエティ番組ばかり、報道のポリシーはどこへやら…

そんな中にあって、昔ながらの伝統にこだわり、自分が納得するものを追求し、売れる売れないに関係なくいいものを提供し続ける…
そうした「あっぱれな頑固さ」は絶滅してほしくありません。

個人の意見でも、「こんなことを言ったらどう思われるかな?」じゃなく、自らが学んだこと・経験を積み重ねたこと・自分なりに考えたことをベースに確固たる信念をもち、揺るぎない態度でブレない人生観・価値観は大切にしたいですね。

しかし反面、ろくな経験もないのに思考パターンが凝り固まっている、いわゆる「視野の狭い頑固さ」は困ったものです。

ある物事に対してあまり中身を追求することなく思い込みで見方を決めてしまい、凝り固まって他の意見に耳を貸さず、他人を理解しようとせず、いつも同じ論法で展開する…(いわゆる「ネト〇ヨ」と呼ばれる人に多く見受けられるパターンです)

それはいい意味での頑固さとは全く違い、単に頭が固い、視野が狭い、柔軟性・協調性に欠ける、わがままな頑固さ、視野の狭い頑固さ、手に負えない頑固さですね。

人のふり見てなんとやら…(笑)

週末午後の独り言でした。

Akira

大いなる中間マージン ~「代理店」の存在意義~

30年以上前のお話し…


旅行代理店、広告代理店…「代理店」と名の付く仕事は多いです。

海外に旅行するとき、すべて自分でホテル・鉄道・バス・観劇チケットなどを手配するのは大変です。それらをトータルに代行してくれるのが旅行会社、すなわち「代理店」です。

代理店は、豊富な情報ネットワークを使って、さまざまなことを一括してやってくれる、素人にはかなわない専門職といえるでしょう。

しかし反面、なんのための「代理店」なのかわからない場合もあります。
単に複数の業者を紹介するだけで、中身を説明しても何かを相談してもちっとも「答え」が得られず、紹介された業者にまた一から説明のしなおし。いったい何のための代理店?ということも。

私は若いころ民間の小さな研究所で「まちづくり」の仕事をし、そののち放送局関連でイベントなどの企画に携わり、間に「広告代理店」が入る仕事も多く経験しました。

団体・企業・自治体などお金を出してくれるところ(=スポンサー)からの情報を持ってきてくれて、話をまとめてくれる…というプラス面もありますが、間に「代理店」が入ることによって苦労させられた経験もあり、必ずしも代理店に良い印象をもってこなかったのも事実です。

もう30年以上前のお話しですから「時効」でしょう。仕事の話はめったに書かない私ですが、その頃思ったことをちょっと書かせていただきます。とくにどこの広告代理店という話ではなく、あくまで一般論です。


まず第一印象

「第〇営業部〇〇課」…名刺を見ても、大きな組織内の識別番号みたいで、どういう仕事を専門としているのかさっぱりわからない。微妙に識別番号(所属部署)の違う人が複数でやってくることが多く、だれがキイマンなのかがわからない。

イベントや制作したいイメージをいかにもテレビ屋さん風のノリのいい喋りでまくしたてます。
しかし…
「武田信玄が今川義元を破ったあの川中島の戦いを大型映像に映し出し…」…おいおい、武田信玄が川中島で戦った相手は上杉謙信だぞ! イメージで生きていて、基本的な歴史・社会の常識がどこか抜けていたり間違っているんです。大丈夫ですか?
とにかく軽い。悪い言い方をすると口先だけで商売してきた人たち…

こちらがあくまでイメージとして出したパース(イラスト)の中で、企業のロゴの太さや色がちょっと違うとそこを指摘してくる。企画の中身よりも企業のCI(=コーポレーション・アイデンティティ。企業のロゴ、イメージやCMのキャッチフレーズなど)が何よりも重要なようです。

派手な色のスーツをばりっと決め、業界人以上に業界人っぽい風貌。
小さなアトリエのような事務所でこつこつとデータを解析し、当時はまだパソコンも普及していないので手書きの原稿を書いていた私にとって、まったく異星人のような存在に見えたものです。


代理店が間に入ることで…

たとえば地方の自治体に月曜日に行くことになっていたとすると、企画の内容をまとめてプレゼンテーションの準備は週末いっぱいまでできるのです。
ところが、間に代理店が入ることで「金曜日の午前中(もしくは木曜日の夕方)に原稿をいただきたい」と言われます。締め切り時間が大幅に早まってしまうのです。
(ほかにも仕事はあるんです。あなたのためにこちらが過労死ですか?)

さて、月曜日の朝、新幹線の車内で「おはようございます」。代理店さんは缶ビールを手にしています。
これ長年疑問なんですが、どうして出張するビジネスマンたちって新幹線に乗ると朝から缶ビールなんでしょう? 出張の移動は「勤務時間内」でしょ?

こちらは移動も貴重な時間。車窓を眺め、幼いころの旅行のことを思い出したり、これから行く先の自治体(街)のことを思ったり、プレゼンでどんな話をしようか…etc.

ところが代理店さんは漫画週刊誌を広げています。
(先週のうちに渡した資料には目を通してくださったんですか?企画の内容に関する話題はないんですか?)

さて現地でプレゼンテーション
代理店さんがまずは口火を切って、今回の企画の趣旨などを説明します。そして企画の中身については私から。
聴いている人たちは、手元の資料を誰が書いたのかはすぐわかるようですね。中身に関する質問はこちらに来ます。

代理店さんは、事前に東京で打ち合わせした筋書き通りのことを私が言うと、「そうそう」といかにも自分が仕切っているかのような様子で、逆に事前に打ち合わせしてないこと(例えば現地の歴史や文化)について私が触れると、台本にないことを言っていると思うのでしょうか、ちょっと不安そう。話はあくまで相手あってのもの。多少のアドリブは入りますよ(笑)。


大いなる中間マージン

「ピンハネ」…言葉は悪いですが、大きな仕事になりそうなところに行って、制作者とスポンサーの間にたって「分け前」をとるのが彼らの仕事です。
制作者から見ると、同じ予算でできる中身が削られるのです。お金を出すスポンサーから見ると、同じ成果を得るのに予算が膨らむのです。

大手のDやHなどの広告代理店になると、所帯も大きくなるだけ「分け前」も大きくなります。

地方イベントなどで予算も限られている中、間に大きな代理店が入ることで、実態のない大きなお金が動くことになります。それでもうまく回ればよいのでしょうが…

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1988年、北海道で展開された「国際・食の祭典」で、90億円もの赤字を出し、地元北海道の中小・零細企業の人たちに自殺者が続出したことを忘れてはなりません。


できれば直接クライアントと

冒頭に書いた旅行代理店のように、こちらがひとりですべてを手配することが大変で、どうしても代理店に入ってもらわないと困る場合はともかく、音楽でもイベントでも、間にわけのわからない人が入るよりも、直接相手(クライアント)とやりとりできたほうが、予算もフルに使えます。

こちらが主催者(クライアント)に確認したいこと、お願いしたいことを箇条書きにしてFAXしておいても、それをちゃんと伝えてくれてしかるべきタイミングで返事が返ってくればいいですが、いつまでたってもなしのつぶてで、その後どうなったのか尋ねると「は?」みたいな反応をされたり、当日現地に行ってみると何も伝わってなかったり…

音楽行事でいうと、PAやマイクの位置など一般的なことは分かっても、ピアノとキイボードの区別もついてない。「88鍵ありますか?」と聞いても「なんですか、それ?」と意味も分からない。立って演奏できる楽器もあるがチェロのように座ってしか演奏できない楽器もあることが分からない。椅子を用意するように頼むとひじ掛け付きの椅子を用意させる…etc.

むしろ主催者側や会場の人と直接やりとりした方が話が早かったりして(笑)
具体的なことをわかってなくて、伝達すら不完全、単にお金の流れの上で「上」に立つだけでは、いていただく意味がないばかりか正直申し上げて迷惑です。



限られた予算で最大の成果を求めるのであれば、行事の主催者(スポンサー)もなんでも代理店に相談するのではなく、ある程度自らの企画イメージをしっかりもって、音楽など具体的な作り手(制作側)と直接やりとりする。そして音楽などを提供する側も、イメージを伝え提案する力・営業力・交渉力をもつ。中間に代理店を入れる仕事と、直接やりとりする仕事との棲み分けが必要かもしれません。

代理店そのものを全面的に否定するつもりはありませんが、求める人(=スポンサー)と応える人(=制作者)の間にたってコーディネイトするのであれば、もっと仕事の中身・社会の一般常識を謙虚に深め、音楽イベントなら多少なりとも音楽のことや楽器のことについても勉強して、スポンサーと制作者とをうまくつなぐだけの存在価値をもっていただきたいものです。


表現 ~人として大切なことを訴える力~

8月23日(火)

かつて1968年メキシコ五輪の表彰式で、黒人の人権を訴えるポーズをとったトミー・スミス(Tommie Smith)氏とジョン・カルロス(John Carlos)氏の話は有名です。

彼らは、国際五輪委員会(International Olympic Committee、IOC)の処分を受け、米ナショナルチームから除名・追放されたほか、まともな職業につけないなど、試練の生涯を送ることになりました。

ブラックパワー・サリュート

今回のリオ五輪でも、男子マラソンで銀メダルに輝いたエチオピアの選手が人権を訴えるポーズでゴールし、「帰ったら殺されるかもしれない」とインタビューに答えました。

エチオピア・フェイサ

「オリンピックに政治的な話は持ち込んではならない」ということでしょうか?

しかし私は思います。

「人種差別をなくそう」、「人間はみな平等だ」と表現することの、どこが「政治的」なんでしょうか?

スポーツを通じて、世界中の人が、民族や国境を越えて競い合える…そういう場だからなおさら「人はみな平等である」と強く実感するはずです。

もともと差別をすること自体が間違っていますが、その「差別をなくそう」と表現した個人がさらに社会から迫害されたり命を狙われるなんていうことが許されてよいのでしょうか!?



それは他国の話だけじゃありません。命を狙われることまではないにしても、今の日本だって…

「平和を守ろう」「平和憲法を守ろう」「戦争反対」…それのどこが「政治的」なんでしょうか?

人として当たり前のことを「政治的な話」として避ける、口をつぐむ。
それを言うと捕まる?、仕事を失う?、友達を失う?…ばかばかしい!


そういう風潮が社会全体にあるように思えてなりません。
個人のSNでもちょっと社会的な話題を書くとスルーされたり、社会に向けて真実を問いかけるべくマスコミまでがそういう話題を避けることにも通じているのではないでしょうか?

もし政権が本当に「圧力」をかけてきたのなら、それこそ憲法違反で大問題にできますが、マスコミや個人が勝手に「自粛」することの方が始末が悪く、ことは深刻だと私は思います。



「人は言葉で考える生き物だ」と言われます。
考えてないわけではない、でも言わない…それではいけないと思うのです。

言葉にすることで、自分が何を考えているのかが明確に形になっていくのです。
そして文章に書いたり話したりして、人と意見を交わすことで、新しい情報も入ってきてさらに自分の考えとして構築されていくと思うのです。

考えること、表現することの大切さについて以前から思ってきたところを、昨年の誕生日につづった記事です。

→ 考えること、表現することの大切さ (2015年9月)



プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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