人を幸せにする「経済」へ

7月17日(祝・月)

戦後あっという間に急速な「経済成長」を遂げた日本は、世界からも注目されました。勤勉で努力家の日本人。
しかし、昭和40年代になると、「エコノミック・アニマル」などという、あまり良い意味とはいえない呼ばれ方をした日本人。

その後の飽食の時代、バブル景気、実体のないお金の流れ、そして一部の大企業や政治家の周りに集まる巨額のお金の一方で、日々の生活にも困窮する人たちとの格差の拡大…

経済成長の陰に置き忘れてきた「人として大切なこと」はなかったでしょうか?

「経済」は人を不幸にするためのものでしょうか、それとも幸せにするためのものでしょうか?
あらためて「経済」って何…?、本当の意味での「豊かさ」って何…?


◆需要と供給

私は経済が専門ではありませんが、世の中のお金の流れ(=経済)の大きな要素に「需要=それを必要とする=ニーズ」と、それを満たす「供給=生産・販売」があって成り立っている、ということぐらいは分かります。そこに「お金」(=通貨)の流通があって経済は成り立つわけです。

戦後まだ間もないころのように、食べ物もまともにない、着るものも住むところもない…そんな時代には「需要」は無限にあったわけです。

復興して企業が活動をはじめ、そうした需要に応えるべくさまざまなモノが作られるようになります。工場や事業所ができることで「働く場」ができ、そこで働いて「賃金」をもらえば、好きなものを買うことができます。ハイカラなもの、憧れだったものが手に入り、豊かな気持ちになれる…朝のドラマ「ひよっこ」の時代ですね。

さらに、テレビ・洗濯機・冷蔵庫といった「三種の神器」に象徴されるように、モノの進化が人々の生活を変え、あらたな文化を創り出しました。「文化包丁」「文化住宅」…さまざまなものに「文化」がつくようになりました。

池田隼人内閣で言われた「所得倍増計画」で、人々の所得もどんどん増え、購買力が伸び、企業の商品開発が進み、去年より今年、今年より来年…と売り上げがどんどん伸びた。いわゆる高度経済成長ですね。

しかし、どんなことも永久には続きません。ある程度モノが満たされてくると、「需要」そのものが飽和状態になります。


◆あらたな需要を創り出す

ある程度「供給」が行き渡ってくると「需要」が低迷します。空腹だった人が満腹になってくると食べ物を欲しくなくなるのと同じです。
供給する側としては、なんとか「べつ腹」を作って食べてもらおう、となります(笑)。

そう、「ないモノを満たす」供給から、人々にとってより魅力的なもの・もっともっと欲しくなるもの…といった「あらたな需要」を生み出すことへと企業の視点にも変化が起きていきます。

一般教養の経済のレベルですが、私も「エスキモーに冷蔵庫を売るには?」という喩え話を聞いたことがあります。
もともと氷原に住んでいるエスキモーに冷蔵庫なんて必要ありませんよね。周りすべてが天然の巨大な冷蔵庫(冷凍庫)なわけですから、アザラシの肉でもなんでもそこに突っ込んおけばいいのです。
そこで、エスキモーたちに「ビール」という飲み物を教えるんだそうです。ビールを氷原に突っ込んでおいたらがちがちに凍ってしまいますね。凍らせないで適温に冷やして飲むから旨いんんだ…と。そうやって冷蔵庫を売るんだそうです。

経済を学ばれた方なら誰でもご存知の、有名な喩え話のようですが、ここには大きなキイワードがあります。ひとつはビールを美味しく飲むという「文化」を広めるということ。
そしてそれを享受するためには冷蔵庫が必要なんだという「あらたな需要」を創り出すことです。

おそらくどの企業も、これに近い発想で「あらたな需要」をどんどん創り出してきたのではないでしょうか?
モノのない(少ない)時代には、洗剤でも電球でも車でも、その基本的な「性能」を他社と比較して売る…そんなCMがほとんどでしたが、高度成長が進むにつれ、新しい商品の紹介にはなんらかの「新しい文化」をイメージさせるようなCMが多くなっていきます。

「まあ素敵」「あんなのほしい」…そんな需要がどんどん生み出されていったのです。



ウルグアイの世界一貧しい大統領といわれたムヒカ大統領はこう見ます。

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「豊かさや幸せというのは、お金で買うものではない。人々がほしいものがどんどん創り出されてそれを欲しいと思う気持ちに支配される。手に入らないと不幸だと感じる。その不幸を埋めるためにモノを買う。買ったものはすぐに古くなり、また新しいものが出るとそれが欲しくなる。不幸を埋めるためにモノを買い続ける…そこには際限がない」

「ものを買うために払っているのは『お金』ではない。お金はもともとあったものではなく、あなたが何らかの労働をして払われたものだ。つまりモノを買うためにあなたの『人生の大切な時間』を注ぎ込んでいるということだ」
(いずれも、過去に見聞きしムヒカ氏の言葉を私なりに要約しました。)


経済=企業の効率化?

人々の暮らしを守ること、より効率のよい便利なもの、安全に欠かせないもの…これまで不可能だったことが最新技術の進歩によって可能になって生み出されることも数多くあります。
技術革新があらたに創り出してくれた新たな需要(=ニーズ)によって企業も成長し、人々の暮らしを豊かにし…それは健全な経済の姿です。

しかし、先ほど見たように、企業が製品を売るために無理やり創り出された需要(=ニーズ)もけっこうあるはずです。
本来人が生きる上で必要とも言えないようなモノがどんどん創り出され、それを欲しいと思う人間の限りない欲望を生み出し、ひいては悲劇を生み出す…戦争に使われる武器を作る産業などはその最たるものと言えるかもしれません。



ともかく企業は、儲かることをやります。もっと明確に言えば「儲かることしかやらない」、「儲からないことは切り捨てていく」のです。それが世界共通の「企業の論理」であり「効率化」ということです。

時として、人々の安全のために満たされなくてはならない安全基準が破られたり、人件費を最小限に抑えるために過度の労働が課されて事故につながったり…最近とても多いですね。

*「人の命よりも、地球よりも、経済(=企業の利益)は重いのか?」

…私もこのブログ内でしばしばそんな表現をしてきました。

そうした企業の理論では成り立たない(=採算が合わない)ことの中に、人として、社会にとって大切なことはたくさんあるのではないでしょうか?
経済成長の陰に置き忘れてきた大切なことが…


ボランティア=無料奉仕が当たり前…?

これもこれまで何度となく書いてきたことですが改めて。

ボランティアという言葉のもともとの意味には「無料奉仕」なんていう意味はありませんでした。「自らの意思に基づいて行う仕事」というのが本来の意味です。

「仕事」と言うと報酬を伴う労働と受け取られがちですが、ここでは「仕事=人が手間暇をかけなくてはいけないこと」という意味で用います。

瓦礫の撤去・人命救助・災害復旧に駆けつける善意の人たちによる大変な「仕事」、子どもたちの行事、地域のお祭りなどの行事の準備・実行にかかる「仕事」、医師や看護師のような専門の資格はなくても福祉や医療の世界で必要とされるさまざまな補助的な「仕事」、お年寄りの話し相手になったり音楽を奏でて心のケアにあたる「仕事」…etc.

そうした「仕事」は、企業の論理、採算ベースで考えたら成り立たないものでしょう。
企業の効率という視点では、儲からないこととして真っ先に切り捨てられる分野でしょう。

でも、そこには本当にそれを必要としている人たちがいる(=需要が明確にある)のです。企業が儲けるために無理やり創り出された需要(=ニーズ)ではなく、誰かがやらなくてはいけないことが現実に目の前にあるのです。
それに携わる「仕事」が、なぜ無料奉仕が当たり前で良いのでしょうか?

企業の儲けのための「仕事」と、本当に必要とされていることに応える「仕事」と、どちらの「仕事」が社会にとって大切で称賛されるべきなのでしょうか?

なにも、がっぽり儲けようと思ってボランティアをする人はいないはずですが(笑)、最低限の交通費・必要経費をはじめ、それなりの「仕事」に見合った対価はどこからか支払われるような仕組みが早急に必要ではないでしょうか?


◆企業の社会貢献

一時期、企業が文化にお金を出す「企業メセナ」ということが言われ、大きな有名企業がこぞって美術館や音楽ホールを建設し、行事に企業名を冠にかかげましたが、その経費の多くは「企業の宣伝・広報」すなわち「企業イメージの向上」のために消えました。

コンサートのチケットも、本来なら企業の協賛が入ることで安くなってもいいはずなのに、むしろ高いものになり、音楽を学ぶ貧しい音大生のポケットマネーでは手の届かないものとなってしまいました。

海外の一流アーティストを呼ぶために高いギャラをはずみ、彼らは日本に来るとたくさんギャラがもらえると喜びましたが、企業がそれだけのコストを無償で出すわけもなく、莫大な広告宣伝費をかけて、クラシック音楽・世界の一流演奏家といった文化の香りを「企業イメージの向上」の広告塔としたのです。

しかしバブル崩壊後、そうした企業の協賛は引き潮が引いていくように去っていきました。
そもそも文化で企業イメージの向上を、ひいては企業の業績につなげようなどというゲスな考えが間違っていたのです!

そういう意味では、バブルが崩壊した後の今も、音楽などの芸術文化に協賛してくださっている企業は「ほんもの」といえるのかもしれませんね。


その昔、王宮が音楽家を招いて宮中で演奏させたり作曲家に曲を依頼したのは、音楽の好きな王侯貴族たちでした。また絵画や彫刻の好きな王侯貴族たちは、著名な絵描きや彫刻家に作品を作らせました。

もともと「儲かる仕事」ではない芸術文化の世界を支えるのはお金のあるスポンサーですが、そのスポンサーが「自分のイメージ向上・アピールのため」ではなく、本当に自分が好きな世界だから、ある程度理解しているからお金を出す、というのが本来の姿ではないでしょうか?

音楽などの芸術に関係する人たちも、いくら素晴らしいものを創り出そうにも生活が成り立たないのでは話になりません。よきスポンサーを見つけて、理解されるだけの技術を磨くこと。

そして、お金を持っている人たちにとって、いかにして「より儲けるか」よりも、あるお金をどう使うか、お金の使い方こそが重要ではないでしょうか?
健全な企業としては、内部留保を増やすばかりでなく、本当に社会にとって必要とされているところにお金を出すことで社会に貢献することにステイタスをもっていただきたいものです。


これも私の持論ですが、これからは社会からも音楽の必要性がさまざまな場面で求められてくるようになる。ならばプロ・アマ問わず音楽に携わる者たちも、自分の音楽や身の回りのことだけでなく、社会にも目を向けていく必要があるのではないか、と。

→ 音楽と社会との架け橋



「経済」という言葉は、人を惹き付ける大きな力を持っています。
政権が「経済」という言葉を用いることで支持率を集めることからもそれはうかがえます。

しかし、「お金の流れ」で人々の暮らす社会の仕組みを考えた時、「経済」という言葉は決して大企業中心の「儲かる原理」や、企業の業績・株価の予測だけではないはずだ、と私はずっと思ってきました。

「経済」が人々の「不幸」に結びつく社会ではなく、人々の「幸せ」に結びつく社会でなくてはいけないのではないか…と。


<追記>

◆祭り・イベントも「経済効果」


私が大学を出て間もなく民間の研究所に勤務した時期があります。そのとき最初にかかわった案件に「文化イベントの都市経営効果に関する研究」というのがありました。

青森のねぶた祭・輪島の朝市・十日町の雪まつり・京都の地蔵盆・神戸ポートピア…etc.
歴史的な伝統ある行事、日常生活から派生した行事、新たに創り出された行事など、さまざまなタイプがありますが、それぞれ地域にどんな「効果」を及ぼしているのか?

地域の伝統・文化を継承する、子どもに郷土愛をはぐくむ、地域のマイナス面(例.豪雪など)を逆に活かす、街のにぎわいを演出する、新たな出会い・交流を生み出す…etc. さまざまな仮説を立てて事例を見ていきました。

京都には祇園祭や葵祭などの大規模な伝統行事も多い中、街中の路地ごとに毎年お盆に繰り広げらえる「地蔵盆」という行事があります。この「地蔵盆」について京都大学の建築学科の研究室が調査を続けていました。

「あそこに子ども(孫)が生まれた、今年なん歳になった」など、お地蔵さんを回り持ちで守りながら、子どもを介した地域のコミュニティが守られてきたという側面があります。昔ながらの路地ごとには10~15世帯、人数にして30~40人、その規模がお互いに顔と名前が分かって行事を運営しやすいと言います。

それが、京都郊外の新興住宅地・マンションで「地蔵盆」をやろうとすると、人数が多すぎてうまくいかない…つまり伝統行事を守ることでコミュニティの適正規模が守られてきた側面があるのではないか、と。
地蔵盆を運営できる規模で地域を設計していくことで、地域のコミュニティが守られ、防犯などにも力を発揮すると。

そして、子どものころ祝ってもらったこと、地域の人たちとロウソクの灯のもとで過ごした時間…そうしたことが郷土愛、地域のアイデンティティとして形成されていく…

学生時代、「建築」というと理科系の1学部としか認識していなかった私にとって、まさに「人」「社会」「コミュニティ」という分野を研究されていて奥の深い世界だなと感じたのと合わせて、地域の行事・イベントにはじつに多面的な効果があるんだなと実感し感動を覚えたのでした。

たしかに行事・イベントには、商店街のイベントや博覧会のように大きな「経済効果」を生むもの、それを期待してつくらるイベントもあります。
しかし、最近話題になる地域イベントのほとんどは、あまりにも「経済効果」への期待ばかりに集中しすぎではないでしょうか?


◆観光地も「商売」激戦地

20年ほど前、カナダを旅したことがあり、ロッキー周辺の国立公園では本当に雄大な自然を満喫することができました。
山の名称や標高、その周辺に生息する鳥・動物・植物の案内がすっきりとしたステンレス板にレリーフされていて、余計な広告は見かけません。それがとても心地よかったのです。
トイレと食べ物を調達できる場所はなければ困りますが、過度な土産物屋や広告看板はいらないのです。

しかし日本の観光地は…

滝を見るために車をちょっと止めるにも駐車料金を何百円か徴収される。湖を眺めてしばし深呼吸したいのに、土産物屋さんのスピーカーから大音量のBGM、湖には白鳥の形をした遊覧船、あちこちに広告看板、どっちを向いても商売・商売…
温泉が出た、テレビドラマの舞台になった、地名が何らかの脚光を浴びた…みな寄ってたかって「観光誘致」の大騒ぎ!

すべてにおいて「経済=金儲け」が最優先してしまう国であることが哀しくなります。



この「★豊かさとは…?」のカテゴリーでは、ブログを開設した2010年からさまざまな切り口で書いてきましたが、今回の記事と大きく関連するのがこちらの記事(2016年3月)です。ちょっと長いですが…

 「アベノミクスは投資のすすめ~本当の豊かさとは?~」




「プレミアムフライデー」に想う

2017.2月24日(金)

「プレミアムフライデー」がスタートしました。
働くみなさんはどう受け止めてますか?

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過労死=KAROUSHIが国際語になるなんて情けない…
ブラック企業の犠牲になって若い命を絶つ…なんと悲しいことでしょうか。
そんな中、ようやく国も重い腰を上げて「働き方改革」に乗り出しました。あまりにも遅いとも言えますが「なんとかしよう」と。少なくともその大前提は評価します。

しかし、具体的なルールを国(政府)と経団連が相談して一律に決め、決まったから「さあ、やりましょう」ということなのでしょうか…?
サービス業、医療関係、交通関係、放送関係…いくら国に旗を振られても、「はい、今日はプレミアムフライデーです、15時で上がります」なんてできませんよね(笑)。

公務員や大企業など、仕事面でもお金の面でも余裕のある人は、金曜日はさっさと仕事を切り上げて、お金をどんどん使いましょう…という「消費拡大のキャンペーン」のように見えなくもありません。

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ワークバランスということ

私は大学を出て社会人となった20代のころからずっと思っていたことが大きく2つあります。

(1)「5時です、はいさようなら」で終わる仕事なんてつまらない

民間の小さな研究所で「まちづくり」の仕事をしていたころ、その後、放送関係の裏方の仕事に転じてからも、仕事にはそれなりに使命感・責任・やりがいがあってしかるべき。5時ぴったりになったらスイッチOFFなんてありえない、と。

しかしその一方で…

(2)会社だけがすべての人生なんて冗談じゃない!

仕事以外の自分の世界、文化活動、さまざまな世界に触れて見識を深めること、大いに遊んで発想力を養うこと…「会社の仕事」だけに閉じこもっていてはいけない、人生にとって大切なことは他にあるでしょう、と。
『仕事だからしょうがない』というセリフが多すぎませんか?」という記事を以前つづったこともありました。


この(1)と(2)は矛盾するように見えるかもしれませんが、仕事はしっかりやるときはやる、でも休む時はしっかり休む、要はメリハリなんですね。

翌日までに企画書をまとめなくてはいけないときは終電まで頑張る、徹夜もある。そういう時もある。
しかし、優先的な仕事が一段落して余裕のある時は外に出る。昼休みをゆっくり取ったり、まだ空の明るいうちに退勤してコンサート会場へ、平日に休みが取れたら特急列車にのって小さな旅へ…ほんのちょっといつもと違う行動をするだけで、とっても豊かな気持ちになれます。

それは、各自の仕事の段取りによって自己管理でやるべきことであって、一律に会社・組織、ましてや国から「はい、この日は休みましょう」なんて言われてやることではありません!


決められて与えられることが多すぎるニッポン

ところで、有給休暇に関する国際比較をデータで検索してみました。
このようなデータはこれまでにもいろいろと見たことがあります。


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日本では、有給休暇として与えられているのは10日ちょっと、しかもそれを半分も取得していない…そこだけを見ると、まさに日本は「働きすぎ」「休まない国民」ということになりますね。

しかし私はこの手の比較表を見るたびに思うのですが、日本にはカレンダーの赤い数字の日=「国民の祝日」が多いということです。それがこの表には反映していないのです。


1月…成人の日、2月…建国記念日、3月…春分の日、4月…昭和の日(旧天皇誕生日)、 5月…憲法記念日・みどりの日・こどもの日、6月…海の日、8月…山の日、9月…敬老の日・秋分の日、10月…体育の日、11月…文化の日・勤労感謝の日、12月…天皇誕生日。

2017年度のカレンダーで確認してみると年間の「国民の祝日」15日もあります。
さらに「年末年始」がだいたい5日、8月の「お盆」3日も加えると、年間で23日にもなります!

正社員の場合、タイムカード上にも「国民の祝日」は赤くマーキングされ、その日に出勤しなくても「欠勤」とはならず、月の給与も変わりません。いわば「強制的に与えられた有給休暇」と言えるでしょう。

お盆や年末年始は赤くマーキングされていなくても、たいていの会社・組織では「夏休み」と「年末年始」は通常の有給休暇とは別枠で設けられていますから、実質「有給」ですね。

ですから、上の表では日本がもっとも低いとされる「有給=10日ちょっと」の他に、「国民の祝日」「年末年始」「お盆休み」の23日を加えると、なんと35日になります!通常の土日とは別にです。
逆にこんなに「休む権利」だけは与えられている国は日本をおいて他にないでしょう。



そもそも、「〇〇の日」と称する「国民の祝日」がこんなに多くある国は他にあるでしょうか?
国にもよりますが、たいていは新年(ニューイヤー)とクリスマス、あとは「独立記念日」のようにその国にとって特別の祝いの日があるぐらい。

諸外国ではみな、プライベートな予定を各自で立てて、仕事をやりくりし、働く仲間とも休みをいつ取るかを調整しながら、しっかり自主的に休みを取っているのです。

とくに最近ドイツなどでは、定時に縛られることのない働き方や、職場内の調整によって男性でも育児のために堂々と休んだり、長期バカンスに出かけたり…ということがよりスムーズにできる社会になっている、という羨ましい限りの実態がテレビで紹介されていました。

それに対して日本は、年次ごとにいつでも各自が自由に取れる「有給休暇」は10日ちょっとで、「国民の祝日」として「みんな休みましょう」と決められている有給休暇がその倍以上ある、ということなんです。

*信号機が増えすぎると、赤信号を掲げられないと止まらない車が増える。状況判断や危険予測による自主的な徐行・停止をしなくなる…「命令されたことしかやらない・できない」…そんな心理とも重なってしまいます。


みんなと一緒じゃなく

私も長年、世間が祝日だからといって必ずしも休めるわけではない職種に携わってきましたから、祝日でも出勤しなくてはならないのはいわば当たり前。

それに、大型連休はどこに行っても混んでますから、そんなときにわざわざ一緒に動かず、混雑する新幹線や成田空港の様子をニュースで傍観してきた側です。

その代わり、祝日に出勤せざるを得ない場合は、しっかり振休(前後1週間)または代休(2か月以内)を取るよう、自己管理でやってきました。とくに私の場合、音楽活動を続けていたので、とくに予定のない休日出勤は拒みませんが、本番当日は確実に休めるように前もってあの手この手を使ってきました。

ただ、家族とともにどこかへ出かけるとなると、パートナーとも休みを合わせる、さらに子どもが学校に通うようになると、子どもの夏・冬・春の休みの間で休みを取る…という調整は必要になりますね。


<反論をふまえて>

「とはいっても、お盆の時期に帰省しないと、法事もできないし、離れ離れの親戚とも会えないし…」

はい、日本らしいごもっともなご意見ですね。
しかし、たとえば大晦日の除夜の鐘みたいに全国一斉にやるような法事が8月のお盆にありますか?むしろ各地のお寺さんもその時期に集中して大変(=少し分散してくれたら楽)というのが正直な声。
それに、帰省するのは法事のためというよりも、おじいちゃん・おばあちゃんと孫たちの再会、実家でのんびり過ごす、子どもたちはカブトムシを捕まえたり海で遊んだり、自然と触れ合う…という人が大半ではないでしょうか?

だったら、ご先祖様の命日に合わせて親戚の人たちが示し合わせて一緒の時期に休みを取って帰省し、みなで顔を合わせることも可能ですよね。なにも8月の第2週に通勤ラッシュ並みの新幹線や大渋滞の高速道路に集中して大移動しなくても…

後述のこととも関連しますが、むしろ会社・組織が「その時期でないと休めない」ところに問題があるのではないでしょうか?


◆休みを増やす=「商売=経済効果」?

大型連休・お盆・年末年始の時期は、新幹線も飛行機もふだんより高い値段になりますね。
これ、私も長年納得できないシステムです。ふだんよりも混雑していて、同じ自由席特急券を買っても座れない可能性だってあるんですよ。ただでさえ混雑して儲かってるときに、ふだんより高い値段にするんでしょう!?

一事が万事、みんなが休む=みんながどこかへ出かけてお金を使ってくれる…さあ商売だ、という図式が色濃くあるのです。

観光地も、滝や湖の美しい風景を眺めるのに、ちょっと車を駐めたい…そのたびに何百円かずつ取られますね。
自然のままの美しい湖を眺めてしばしたたずみたいのに、そこには白鳥の観光船が行き来し、土産物屋さんからのスピーカーの音声が…
どっちを向いても「商売」なんです。

以前旅したカナダの国立公園などでは、景観のすばらしいポイントには案内表示があり、車を止めるにもお金は取られません。国立公園内の高速道路も無料です。
ステンレスのレリーフ板に、その地域で見られる動植物の姿や名前を刻んだもの、山の標高を示すものなどのサインはありますが、余計なものは一切ありません。ゴミはみんなが持ち帰るのが常識ですから、くずかごもありません。
何か食べものを提供してくれるお店とトイレは必要ですが、商魂たくましいごちゃごちゃしたものはいらないんです。

日本列島津々浦々、すべての自治体が「観光地」になって人がたくさん来てくれることを望んでいます。
どこかを掘ったら温泉がわき出した、ドラマの舞台になった…となると大騒ぎして「観光客の誘致」「地域の活性化」という言葉で沸きかえります。

今回の「プレミアムフライデー」も、すでに「商売のチャンス」として色めきだつ業界も続々と現れているようです。この構想を進めてきたのは「政府」「経団連」ですから、妙に納得してしまいます(笑)。

とにかく、すべてが「商売=経済効果」という価値観なんですね、ニッポンって。


◆本当の意味での「働き方の見直し」を!

プレミアムフライデーとならんで、残業時間に上限を設け、違反した企業には罰則を与える、ということも検討されています。

いくら言ってもなくならないブラック企業、過労死、自殺…etc.
これを国としても放置しておけないことはよくわかります。

しかし、刑法で定める「犯罪」のように、国が一律に決めてできる性質のものではありません。あくまで個々の職場のしくみの問題だと私は思います。



以前からあった「ノー残業デイ」もそうですが、たまたま「その日」にどうしても対応しなくてはいけない仕事がある人はどうするんですか!? 

私のかつていた職場でも「ノー残業デイ」制度はできましたが、各人が担当する仕事(番組)の収録などスケジュールを見て「私は何曜日をノー残業デイにします」と定め、それでもその曜日にどうしても外せない仕事が入ったときは、週のうちで代わりにどこかをノー残業にする、という対応をしてきました。

私もかつて組合の執行部を経験しましたが、労使で「残業を減らそう」といくら協議しても、働く個人が本当に効率よく仕事を終えて、本気で休みたいと思うかどうか、にかかってるんだと実感しました。

冒頭の「仕事だからしょうがない」というセリフが多すぎるんです。会社は会社で、仕事熱心な社員に甘えている。働く側も「仕事なんだから(=残業代もつくし)」という甘えがあるんです。その甘えの相互依存を断ち切らないかぎり、本当に残業を減らすことはできません。

要は、働く現場をどう管理するか、という問題なのです。キャンペーンのように「ノー残業デイ」「プレミアムフライデイ」を一律に定めたり、守れなかったら罰則規定を設ける…といったことを国が決める前に、もっと根本的に見直すべきことがあると思うのです。

最後に私なりに思いつく範囲で、大原則を3点ほどまとめておきましょう。


(1)企業・組織の「効率主義」を見直す

5人でやってきた仕事を3人で、2人でやってきた仕事を1人で…と「効率化」を企業・組織はすすめてきました。企業の論理、経営の論理、ひいては経済最優先の論理です。

その結果、「休めない環境」を作ってきて、身体的・精神的な負担を増加させてきました。観光バスの運転手のいねむり事故の背景にも、そうした企業の効率主義があったことは否定できません。
多少効率は落ちても、安全第一、ゆとりある働き方を第一に、という方向へと修正しなくてはいけません。

(2)要員の確保でワークシェアリング

人の命にかかわる仕事をはじめ24時間待ったなしの職種もあります。救急外来を受け付ける病院などがその代表ですが、医師や看護師も3交代勤務で無理なく働ける環境ばかりではないようです。
働く一人一人に負担がかからないように余裕ある要員を確保し、無理のないシフトを組む。ちゃんと人を雇って仕事を分かち合う(=ワークシェアリング)発想が必要です。

だれも病気で倒れない、欠員が出ないことを前提に、最小限の人件費で回すことを追求してきた結果、いくら制度としての「休む権利」はあっても、実際なかなか休めない環境をつくってきたのです。
働きたくても仕事がない人、休みたくても休めない人…その格差をなくすためにも、企業は効率よりも「人」を重視すべきです。

(3)過剰なサービスの見直し

24時間対応のコンビニや、宅配業など、いつでもどんなことでも対応してくれるのが当たり前、というサービス業の過度な競争も問題ではないでしょうか?
役所のように「はい、5時になりました、さようなら、がらがらがら…」とはいかない仕事もあるでしょうが、あまりにも時間外に無理な要求をされても「ご無理ごもっとも」で対応するのが当たり前、やれば売り上げにつながるし、そうしなければ他との競争に勝ち残れないから…と、あまりにもサービス労働に対して過度な期待が寄せられ、企業の寡頭競争を激化させてきた結果ではないでしょうか?

(4)仕事から解放された時間をどう使うか?

仕事を早く終わる=会社から追い出される=行き場所・やることがない…で、結局飲みに行く…という人もけっこう多いんじゃないでしょうかね? あとは買い物、ちょっとリッチにナイトクルージング、金曜夕方~土日に旅行…etc.?
まあ、経団連が旗振り役ですから、そういった「消費拡大」が狙いなんでしょうけど…。

同じお金を使うのでも、コンサート・観劇・スポーツなど自分の好きな世界のある人、セミナーなどへの参加で何かを学んで自己研鑽を…と考える人、あるいはお金を使わない時間の過ごし方、たとえば自然とふれあう・子どもとの時間を大切にしている人は、逆にこんな「プレミアム〇〇」なんてなくても、今でも時間を上手にやりくりしてすでに何かやってると思います。
要は、「会社」以外の時間の使い方=「生き方」の問題でしょう。



いずれにしても、この「キャンペーン」をひとつのきっかけに、働く側も、組織・企業も、サービスを受ける側(=客)も、「人としての原点」→「豊かさとは何か?」をあらためて見つめ直せたらいいな、と私は思います。

<参考>

以前のblog記事 → 「仕事だからしょうがない」が多すぎませんか?(2013年6月)


「経済成長」は永遠なのか?

1月4日(水)

3が日明けの朝日新聞、1面と2面を大きく割いて「経済成長、永遠なのか?」と取り上げた。

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★クリックすると大きな画面になります


◆問題提起

いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものとなっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか?
(編集委員・原真人)

アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。
思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。
希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。(以上、一面冒頭部分より)



焼野原となってモノのない時代から復興して「去年より今年、今年より来年…」と経済成長を遂げた日本。
しかしこの「経済成長」という言葉、いったいいつまで求められるのだろうか? 物価がどんどん上がっても賃金はそれに追いつかず、修理するより買った方が安いと言われ、大量にモノを消費してお金を使わせられ、「ものを大切にする」ことは古い発想となり、毎日大量の食料を捨て…それが果たして「豊か」なのだろうか?

私がブログを始めた2010年の秋から、この「豊かさとは…?」というカテゴリーを設けてさんざん書いてきたことだ。
今の安倍政権が成立してから、アベノミクスへの疑問についてもいろいろと書いてきた。ここにきて朝日新聞もまさにその原点に触れる記事を出してくれたな、というのが正直な思いである。


安倍政権が最重要視するGDPがすべてなのか?

ふたたび記事からの引用。

ゼロ成長はそんなに「悪」なのか? 失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まったわけではない。
(中略)
若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったかを想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超…。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。
スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。

ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。
そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。

人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。



大企業ばかりを優遇し、「投資」によって金回りを活発にすることで見かけの数字を上げる政策が本当に正しいのか?
その答えは、時代が過ぎてからしか出ないかもしれない。

しかしながら、武器を売ってまで利益を上げる企業を支援することが、本当に平和主義国家のやるべきことなのか?
ある程度「投資」に回せるお金のある富裕層には良いかもしれないが、今日・明日の生活もぎりぎりの弱い立場の人はどうなるのか…?

私なりにこの「豊かさとは…?」のカテゴリーで問い続けていきたい。
2016年3月の記事ですが、ご参考まで。 
→ アベノミクスは「投資のすすめ」 ~本当の豊かさとは?~ 
 


諸行「無情」の響きあり

9月23日(金)

♪祇園精舎の鐘のこえ、諸行「無情」の響きあり…


遠く異朝をとぶらえば…♪

ニューヨークを訪問していた安倍総理は、現地の金融・ビジネス関係者を前に講演し、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の批准に向けたアメリカ政府の努力を求めました。

「安倍晋三です、マリオではありません。でもマリオのように闘い続けています。日本経済を加速させるために闘っています」(TBS電子ニュースより)

自民党って、もともとは「TPPに反対します!」を公約に掲げてませんでしたっけ?
それが、いつのまにかTPPに同意する方向へ、そして今は逆にアメリカに求める方向へ…?

農産物の輸出・輸入を自由化して、農業にも競争の原理を、アジア太平洋での連携を、といった部分で肯定的な見方もあるでしょう。

しかし、本来の「自然の恵みを育て、いただく農業」から「大企業のビジネスとしての農業」へ。
そこには効率主義や採算主義が最優先するということは大いに懸念されることです。

モンサント社などに代表される遺伝子組み換え作物や虫もつかない農薬まみれの作物など、「食の安全」はどう保障されるのか?、という指摘も多くなされています。

★モンサント社をはじめとするバイオ技術の恐ろしさは、TPPが話題に出て早々に特集番組が組まれたり、いろいろと騒がれました。こちらは2011年のブログ記事で、貼り付けておいた動画はもう見られませんが…
→ 
遺伝子組換え作物の輸入自由化の危機!

もともとTPPの推進役だった本家アメリカが、企業最優先の発想から「国民のため」を第一に考えた結果、「TPPをやめよう」と言い出しているのに、「TPP反対」を公約に掲げていたはずの日本のトップがアメリカに「批准をすすめる」とは何ごと!

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近く本朝をうかがうに…♪

民進党玉木雄一郎幹事長代理によると、この秋の臨時国会で 「年金減額強化法案」が安倍政権から提出され審議されるといいます。
物価が上昇しデフレから脱却しても、賃金が下がるのならば、年金支給額もスライドして減額する、というもの。

「ん?」…減らす?
年金の「減額」を「強化」する法案!?

私は目を疑って何度も読み返してしまいました!

物価は上がる、でも賃金は上がらない、庶民は苦しい、まして年金受給者は…
そこで年金受給額を上げて救済するんじゃなくて、逆に減らす?

いったいどんな頭で、何がどうつながって、そんな発想が出てくるのでしょうか?
弱い立場をさんざん追いつめ切り捨ててきて、さらにとどめを刺すような悪法案です!



ちょっと初歩的なところからあらためて…
そもそもインフレ政策は、物価を上げて数字上の「カネまわり」をよくしようというもの。
それと平行して進められてきたのが低金利政策(→さらに今はマイナス金利!)。
これによって「デフレからの脱却」を図ろうというのですね。

この政策の方向で、物価は上がります。で、銀行にお金を預けておいても金利はろくにつきません。つまりお金の価値はどんどん下がるんです。だからどんどん投資しましょう、お金を使いましょう、という方向ですね。

預金の一部を「投資(=ギャンブル)」につぎ込める、そこそこ余裕のある富裕層にはまあいいでしょう。

しかしそこまでの余裕のない一般の庶民には恩恵はありません。むしろ生活は厳しくなった、格差が広がった、というのが現実です。

企業が儲かれば従業員の給与も上がり、下請けも潤い、みんなが豊かになる…というトリクルダウンの嘘!

トリクルダウン


さらに一般のサラリーマン以上に深刻なのはお年寄りたちです。
いま65歳以上の老人の6人に一人は「貧困」を訴えているのです。

年金や生活保護などを受けても年間100万円以下で生活しなくてはならない「底流老人」と呼ばれる層が深刻化しています。

アベノミクスの最大の遺産、「格差の拡大」です。

ここで、物価が上がった(=インフレが成功した)、しかし賃金は上がってない…という状況を見て、年金受給額をやして貧困層を救済しよう、というのなら分かります。

ところが真逆に、「年金を減額しよう」という法案を出そうとしているのです!
弱い立場のお年寄りたちはどうやって生きていけというのでしょうか!?




あと、最近のニュースでもう一つありますね。
そう「配偶者控除の見直し」です。

妻の収入で言われた「(年収)130万円の壁」を「106万円」に引き下げ、社会保険への加入枠を広げようというもの。

「さまざまな働き方に対応」「選択肢を増やした」「一億総活躍」?…はい、これも働ける人にとってはいいかもしれませんね。
収入の上限を気にすることなく思う存分働いて、「扶養」ではなく自分で社会保険にも加入でき、自立できる。

しかし、子どもを保育園に預け、あるいは親の介護をしながら働いている人たちにとっては、今以上に働く時間を増やすことはできない人もいらっしゃいます。
そういう人たちにとっては、収入を上げることは不可能なのに、扶養として許容される限度額が引き下げられ、取られるものが増えて、ますます苦しくなる…

そこに物価の上昇、歳をとってからもらえる年金受給額の減額が追い討ちをかけるわけです。


所行「無情」の響きあり!

内外ともども、どっちを向いても アベコベクス!

国民の命・生活を見捨てて、海外に「支援」という名の「投資」をばらまいて大企業にビジネスチャンスを…

アメリカからキューバに向かった安倍総理は、首脳会談に先駆けてかつての活動家カストロと会見し、またしても13億円の援助を約束!

国民のための「援助」をどんどん切り捨てて愛のない「無情な政策」ばかり進め、海外には「援助」をばらまきまくる。

奢れるものも久しからず…♪
いったい誰のカネをばらまいているのか…!?

さらに、平和憲法を壊して他国のために戦争できる国づくり、武器輸出の道を開き…
このカテゴリーでさんざん繰り返してきたフレーズをあたらめて…

「人の命よりも、地球よりも、経済(=企業の利益)は重い」…のか?

★詳しくは、過去の記事…
→ 
「アフリカへ3兆円投資!」
→ 
「アベノミクスは投資のすすめ」(←こちらはちょっと長いです


ひとえに、風の前の塵に同じ…♪

いったいどこまで国民・庶民の生活を切り捨てたら気が済むんでしょうか?
いったいどっちを向いて、誰のための政治をやってるんでしょうか!?

こうした事実に目を向けない無関心層、自分には関係ないと思って話題にすら出さない人、なお安倍政権を良しとし支持しているのは「経済の虫」たち…?

盛者必衰の理をあらはす…♪


「(前略)…旧主先皇の政(まつりごと)に従わず、楽しみをきわめ、諫めをも思い入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の憂うるところを知らざりしかば、久しからずして亡じにしものどもなり」

~♪途中引用「平家物語」より~

昭和人の名言

9月20日(火)

「え、あの人も!」…

残念なことに、昭和を生きた名優・名作家・演奏家などが次々に天に召されています。

その中から、私にとっても思い出深いお二人の方が週刊誌で詳しく紹介されていました。
お二人が残された「名言」が掲載されていたので、ここにご紹介させていただきます。

永六輔・大橋巨泉 名言集20160920


永六輔さんといえば、作曲家の中村大さん・歌手の坂本さんとともに「六・八・九」の3羽ガラスとも言われ、♪「上を向いて歩こう」♪「見上げてごらん夜の星を」などの名曲を残されました。

それらの曲がリアルタイムで紹介されていた番組が、NHKの元祖バラエティ番組「夢で逢いましょう」*↓
私がまだ幼稚園~小学校低学年のころ、毎週土曜日の夜10時~、歯磨きなど寝る支度をすべて終えてベッドに入ってこの番組だけは観ることが許されていて、とても楽しみにしていました。

当時のNHKは内幸町にあり、日比谷のスタジオから毎週生放送。私の大先輩たちが裏方で苦労されてたことなど何も知らず、ベッドの中から観ていました。
でも途中で寝てしまうことは絶対にありませんでした。あの番組中に流れた曲やエンディングの音楽・画像は今でも鮮明に覚えています。

♪「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、♪「おさななじみ」(デュークエイセス)、♪「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)なども同時期の作品。越路吹雪さんや丸山明宏(のちの美輪明宏)さんも登場してました。

私にとっては幼いころの思い出ですが、私より1まわり先輩にとっては、まさに青春の思い出、懐メロでしょうね。

*「夢で逢いましょう」
1961(昭和36)年4月~1966(昭和41)年4月まで続き、その後番組として「夢をあなたに」(司会:フランキー堺)に代わりましたが、そちらは1年ほどで終了したように記憶しています。
♪「銀色の道」(ダークダックス)や「帰ろかな」(北島三郎)は「夢をあなたに」で登場。



そしてもうひとり、大橋巨泉さん。
こちらは「夢で逢いましょう」より少し遅れて、私が小学校高学年のころTVでよく拝見しました。

「お笑い頭の体操」「ゲバゲバ90分」にはじまり、「クイズダービー」の名司会者として名をはせ、「野球は巨人、司会は巨泉」とも言われたほど。

私は学生時代になってややテレビ離れしましたが、「11PM」で競馬やマージャンなど、いわゆる「大人の遊び」の世界をとことん追求した方という印象もあります。その後カナダにも移住(?)され、バンクバーには彼の写真が大きく飾られた店がありました。

まさに私から見ても人生を謳歌された方だと思いますが、亡くなられる直前、病ですっかりやつれた姿を見たのが、「戦争できる国にしてはいけない」という、今の日本が進もうとしている方向を危惧する遺言とも言える記事でした。




いまも若く優秀な芸能人が数多くいらして、みなさんそれぞれご自身を磨いてらっしゃることでしょうが、やはり昭和の方たちは「偉人」だと思いますね。

人をこよなく愛し、人としての生き方を、そしてこの国の行く末について真剣に考えてこられた方たちなんだな…と。もちろん長い年輪からにじみ出るのでしょうが。



渋谷に私が行きつけの床屋さんがあり、そこに永六輔さんも生前よくいらしていたようです。

上の記事にも太字で紹介されている、
「生きているということは、誰かに借りをつくること。生きていくということは、その借りを返していくこと」
と自筆で書かれた色紙がいまも飾られています。

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現代社会は、とかく人間関係が難しく、ややもすると「人に迷惑をかけないように」、「人に借りをつくらないように」、ついつい必要以上に頑張って生きようとしがちではないでしょうか?

ところが「人に借りをつくらないように」「自分はちゃんとしなきゃ」と頑張り過ぎることで無理な力がかかったり、「私はこんなに頑張ってるのに、~~さんは全然〇〇してくれない、逆に迷惑ばっかりかけてくれて…」と、相手に対する不満・ストレスになり、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が素直に出にくくなってしまったり…

永六輔さんのこの言葉を、私も50代になってようやく「そうだな~」と受け止められるような気がして、生意気にもこんなことをブログにつづったことがあります。

→ 
「お世話になり、迷惑をかけ、生かされている」 (…カテゴリー「自分を見つめる」より)


   
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アフリカへ3兆円投資!

8月28日(日)

アフリカ(ケニア)を訪問中の安倍総理は27日、「アフリカの夢を、ともに実現するニッポン」との新たな外交戦略を打ちたてました。

 「アジアで根付いた民主主義、法の支配、市場経済のもとでの成長。それらの生んだ自信と責任意識が、やさしい風とともにアフリカ全土を包むこと。それがわたしの願いです」

安倍首相は27日に開幕した第6回アフリカ開発会議(TICADVI)での基調演説でこう力を込めたのです。

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首相が示したのは「自由で開かれたインド太平洋戦略」とする新外交戦略。

アジアからインド洋を隔てアフリカの成長の実現を目指す。テコとなるのは「質」と「技術力」を誇る日本のインフラ整備。低コストを武器に売り込みをかけアフリカ大陸への影響力を拡大する中国に対抗する構え。
発展著しいアジアの成功体験と潜在力あふれるアフリカを連結させ、さらなる成長を日本主導で牽引(けんいん)する構想。

そのために「援助」を表明。その額はなんと3兆円!


海外への美辞麗句はいいが…

今回も前もってお断りしておきますが、国際的にグローバルな視点で海外援助を行うことはもちろん意義あることです。国際社会への貢献も世界規模での経済発展も大切、そこは否定しません。

ただ、前々から申し上げているように、低所得世帯の保育無料化(=年間240億でできる)を「財源がない」を理由に公約を破棄して白紙にするなど、日本国内における弱い立場の人への施策をどんどん切り捨てている一方で、大企業や富裕層ばかりを優遇し、海外にはどんどんお金をばらまくそのバランス感覚やいかに!?

しかも、その「援助」の中味は、インフラ整備をはじめとする日本企業の技術を売るためのもの。
今回のアフリカ訪問には、商社やゼネコン、食品など約80の企業・団体による経済ミッションも参加

首相のトップセールスで売り込みを図り、日本企業のビジネスチャンスを広げるもの。
「お小遣いをあげるから、日本企業から買ってくださいね、発注よろしくね」という「見返り」を期待しての「投資」なのです。

われわれが納めた税金を、国内では弱者への施策をどんどん切り捨て、海外にどんどん「投資」してばらまき、見返りで儲かった大企業からは自民党へ献金…という循環は当然あるでしょう。



◆「支援」と称する「投資」

伊勢志摩サミットに先駆けて安倍総理は、「20兆円規模の途上国支援」を表明していました。

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安倍総理が就任以来、海外に「支援」と称してばらまいてきたお金は、今年(2016年)3月の時点ですでに85兆円以上だったと記憶しています。さらに20兆円規模を援助に使うとすると、その額は100兆円を超えることになります。
昨年度の国家予算がたしか96兆円。日本国を運営する年間の予算を超える額を海外にばらまくことになります。

よくそれだけの財源がありますね!?


国民から預かった年金資金を政府主導で国内外の株などに「投資」し、その結果は?
昨年度の1年間で5兆3千億円の損失、今年4月~6月の3か月間でさらに5兆2千億円の損失。その損失の合計は10兆5千億円にも上ります。

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一昨日アップした「年金あれこれ」でもご紹介しましたが、今年の3月に書いたアベノミクスの本質について、あらためて…

→ アベノミクスは投資のすすめ ~本当の豊かさとは?~

かなり長い記事ですが、ここに集約されると思います。みなさんどうお感じになりますか?


人の命の重さとは? ~社会の病理から~

7月26日(火)

またしても今日未明に、神奈川県内でとんでもない事件が起きてしまいました。

障がい者の施設の元従業員が、深夜に施設に刃物をもって侵入し、入所者を次々に殺害!
お昼の報道の時点で、死亡した方は19名。まだこれから増える可能性もあります。朝からこのニュースばかり。まともな人たちのまともな出来事はほとんど報道されていません。

こういう事件報道ばかりを観させられていると、まるで世の中全体がおかしくなっているような、とてもすさんだ気持ちになってきます。

これを単に1個人の「犯罪」として、何人殺したから死刑だろう、いや大麻の反応も出たらしい、精神鑑定の必要も…といった法律的な見解で一時的にとらえるよりも、私はむしろ、社会の病理の一面が現れたのではないか、と思ってしまいます。

「なぜこんな事件が多発するんだろう?」「社会全体が病理におかされているんじゃないか?」「その原因は何か?」…と。



思考停止、身勝手、未成熟、短絡的…

そういう人間による犯罪が突然変異のように出てきた訳じゃなく、親も含めた大人たち、ひいては社会全体の問題だと私思います。

背景にある大きな遠因のひとつは
★「資本主義社会の歪んだ姿」じゃないかと。

子供のころから競争社会の中で育ち、自分の目的のためなら手段を選ばず、成功してお金持ちになること、お金があれば何をやってもいい、お金を持っているのは成功者、そして自分がうまくいかないのは○○のせいだと思い込み、まわりはすべて競争相手であり敵。

…とてもストレスの溜まる社会です。そこに堪えられなくなって自暴自棄になって爆発するものも現れる…
だとすると、こうした事件はますます増えてくるんじゃないかと。

教育の問題をその要因に考える方も多いと思います。もちろんそれもあると思いますが、教育も社会システムの一部であり、社会の価値観がそのまま教育の現場にも反映されます。

教育にだけ焦点を当てて問題視する(=教育のせいにする)のではなく、むしろ社会全体、国全体に目を向ける必要があると私は思います。


◆日本はどこへ向かおうとしているのか?

いま、一国の政権が主導する形で、世界各地の紛争に「支援」という名のもとに武器を輸出する道を開き、わが国が戦後70年余り守ってきた平和の礎が大きく揺らごうとしています。

武器輸出

★クリックすると大きな画像になります


私がこのカテゴリー内でしばしば用いる表現ですが
「人の命よりも、地球よりも、経済(=大企業の利益)は重い」
といった方向に日本全体が動いている(動かされている)ように思えてなりません。

命の大切さをいくら一方で訴えても、それをかき消してしまう大きな力があるのです。
「経済」という名の人間の欲望によって、その力は「がん細胞」のようにどんどん大きくなっていきます。

つい先月にもこんな本をご紹介したばかりです。
→ 
「なぜ世界から戦争がなくならないのか?」


戦争産業120160620


やはり私たち社会の一人一人が、人としての優しさ・思いやり・想像力をもっともっと強くし、社会全体で★「本当の豊かさとは何か?」を考える必要があると思います。

「趣味」・「ボランティア」とは? ~本当の豊かさを考えるヒント~

2016年7月12日(火)


私が若いころから(←今でも気持ちは若いつもりですが…笑)こだわってきた言葉に「趣味」「ボランティア」があります。
どちらも「仕事以外のこと」(=余裕があったらやればよいこと)というニュアンスでとらえられることの多い言葉かと思います。

★「給料をもらってやる仕事」以外のこと=すべて「趣味」なんでしょうか?
★お金にならないけど大切な仕事=ボランティア=無料奉仕があたり前、なんでしょうか?


◆あらためて問題提起

演劇をやっている方やジャズシンガーなど、本当にやりたいことはそっちだけど、それだけでは食べていけないので他に「本業」としての「仕事」を持っている方は多いと思います。 そういう方にとって、「仕事ではないこと=趣味」なんでしょうか?

「仕事=当然ながら真剣にやるべきこと」VS「趣味=自分の楽しみ」という区分で片付けるにはどうしても抵抗があります。
あと「ボランティア」という言葉についても同様です。「ボランティア=無料奉仕があたりまえ」なんでしょうか?

ビジネスとしての仕事ではなく、誰からも命じられたことではないけど、真剣に取り組まなければできない世界、それを必要としている人たちに応える責任もともなう世界…
もしかすると、「お金をもらってるんだからやって当然の仕事」以上に真剣にならないと成り立たない世界かもしれません。

「ライフワーク」っていう言葉もありますが、なんとなく仕事の一線からはリタイアして、残る人生、お金になる・ならないに関係なく自分が本当にやりたかったことをやる…そんな最終的な大きなテーマのような言葉ではないでしょうか?
そこまで大げさな言葉ではなく、若いうちから「会社だけ人間」になることなく、好奇心と情熱をもって真剣に取り組む仕事以外の世界…、なにかいい呼び方はないものでしょうかね?



趣味とは?

言葉としては「趣(おもむき)を味わう」こと。あたかも平安貴族の「管弦の遊び」のような、とても優雅な世界を想像させますね。

一方、英語では「Hobby」という言葉があります。 こちらはミニカーや鉄道模型といったミニチュアをコレクションするイメージがわきます。

もうひとつ、ミニチュアならぬ「アマチュア」という言葉が浮かびます。それを生業(なりわい)として報酬を得ている「プロフェッショナル(プロ)」と対峙する言葉で、報酬はもらわずに、もっぱら個人の「楽しみ」としてやる世界。

私が「趣味」という言葉を用いる場合、3番目の「アマチュア」というニュアンスで使うことが多いように思います。ただ、その使われ方にちょっと違和感を感じることがあるのです。



たとえば音楽の世界で、仕事(プロ)としてオーケストラをやるのと、アマチュアとしてオーケストラをやるのとの違いはなんでしょう?

もちろん演奏の技術面・表現力には天と地ほどの差がありますから、比較すること自体おこがましいのですが…

プロの方は基礎も十分できていて、ふだんの練習量・レパートリー・場数経験・表現力…どれも充分ある方たちですから、たいていどんな曲でも2~3回合わせ練習をして、指揮者が求めている音楽を理解し、要所ごとに確認する程度で、本番では素晴らしいアンサンブルができます。

一方アマチュアは、さまざまな年齢・さまざまな職業の人たち、楽器経験も異なる人たちが集まって「1」から音づくりをしていかなくてはいけません。
たいていのアマチュアは年に2回ほどの定期演奏会を開くとして、ひとつの曲に半年ぐらいの練習を重ねることになります。長い道のりです。

編成の大きな曲を演奏しようと思ったら、プロでもアマチュアでも同じ楽器・奏者が必要になります。
数回のリハーサルだけで本番を迎えられるようなベテラン揃いの「一発オーケストラ」は別として、多くのアマチュア団体は半年ほど練習を重ねるので、大型楽器も毎回揃えて運ばなくてはなりません。

プロのオーケストラだったら専属の事務局があり、演奏面以外のことは事務局がやってくれるので、演奏する人は音楽面・演奏にだけ集中すればよいでしょう。もちろん演奏面に求められる質の高さ、厳しさ、責任は大きいですが。

一方アマチュアには、そこまで演奏面での責任はないとはいえ、やはりそれなりの演奏レベルにもっていくまでの長い道のりがあり、毎回の練習会場の確保、楽器の手配、運搬、練習計画、本番会場の手配、チケッ・チラシ・プログラムの作成、告知、次回の曲目選定、そのほか団の運営に関するもろもろのこと…etc.

それこそ演奏以外にも膨大な「仕事」があります。
それらすべてを、演奏する団員が自分たちでやるのです。それぞれ忙しい本業をほかに持ちながら…

ここであえて逆説的なことを書かせていただきます。
プロだから大変、アマチュアだから適当に「遊び」でいい…なんでしょうか?



もしプロの演奏家だったら、それが本業ですから、朝から晩まで音楽に集中していても誰からも文句は言われません。でも「アマチュア」が、仕事の休みの日に朝から晩まで楽器の練習ばかりやってたら、家族から見放されます(笑…ごとではありません!)

「やって当然」とされないことを、どうやって本気で時間を作り出して続けるか…?

また「仕事」だったら、万が一本番当日に怪我をしたり病気になったり家族に何かあった場合、急きょ休んでもたいてい代役がいるでしょう(乗り番・降り番のシフトがあって、降り番の人が急きょピンチヒッターで入る。万一に備えて代役で注目を集められるように、したたかに練習している人もいるかもしれません)。

音楽以外の世界で見ても、たとえば会社の仕事は「組織」で動いてますから、個人ひとり欠けても組織として誰かがフォローしてちゃんと機能しなくてはいけません。むしろ「その人でないと分からない」ような抱え込みがあったら組織としては良くないのです。

一方アマチュアは、何か月も前から練習を重ねてきて、各楽器の音色や微妙なタイミングも「その人が頼り」という要素も大きいです。
ずっと練習に参加してきて、本番当日に何か急な仕事が入ったから、家族が病気になったから「ごめん、俺ちょっと出られないわ」は簡単には許されません。楽器にもよりますが、代役はそうそう簡単には立てられません。

仮にお金を払ってプロに頼めば、その本番はなんとかクリアできるでしょう。でも、自分が出られる時・出たい時だけ参加して、本番当日「ごめんなさい」が簡単に許されるとしたら、アマチュアとして一緒にやる意味はなくなってしまいます。

つまり「仕事」だったらお金をもらってるんだから、やって当然、できて当然ですね。
一方アマチュアは、仕事ではないから「義務」ではありません。でも、「義務ではない=そのうち余裕があったらやればいい=遊び」という感覚では、いつまでたっても「そのうちできたらいいな」でしょう。

また、「好きな時だけ、出られる時はやればいい」では活動として成り立ちません。やる以上は「仕事以上」に真剣に覚悟を決めて取り組まなくては成り立たない世界。

この「真剣にやらなければ成り立たない世界=本気の遊びの哲学」を学んだのは私がまだ中学生のころ、今もご健在の鉄道模型屋さんのおやじさんからでした。

こちら、過去のブログ記事から…

→ 
「遊びから学ぶ 人生の恩人」 (2010年7月)



いまから10年以上前ですが、かみさんにそんな話をしたら、「あなたにとって家族とは、趣味より下にあるものなのね!」と言われてしまいました。いまだに言われます(泣)。
やる以上は決して生半可な「楽しみ」のレベルではなく、責任も伴い、それなりの覚悟がなければできないことなんだよ。釣りとかパチンコのように、好きな時・できる時だけやればいい気楽で無責任な遊びとは違うんだよ、ということが言いたかったのですが…

はい、本業の仕事、家族との時間も大切にきちんと向き合い、人並以上にやった上で、趣味にも真剣に取り組まなくてはいけない、と表現を修整させていただきます。


◆ボランティアとは?

「趣味」と並んでもうひとつ私の中で気になる言葉として「ボランティア」があります。

これも、「仕事=報酬を伴うもの=当然の義務としてやるべきこと」に対して、「ボランティア=任意で、報酬を受けないでやること」という風にとらえられることが多いように思います。

しかし、そもそも「ボランティア=無料奉仕があたりまえのこと」ではないのです。
本来は「自分の意志にもとづいて行う活動・仕事」という意味です。

給料をともなう「仕事」として、組織の上から命じられてやらなくてはいけない仕事、ビジネスとしての「仕事」ではなく、大切なこと、必要としている人のために、積極的な意志(=善意)によって行う仕事です。


一方、ビジネスとしての「仕事」は、会社が利益を上げなくてはいけませんから、世の中に対して会社が作り出す需要というものも存在します。

経済学の喩え話に「エスキモーにどうやって冷蔵庫を売り込むか?」という話があります。

氷原で暮らすエスキモーたちには冷蔵庫なんて必要ないように思いますよね。昔から冷蔵庫なして彼らは生きてきたんですから。
そこで、彼らに「ビールのおいしい飲み方」を教えるんだそうです。ビールももともとエスキモーにはなかったものでしょう。ひとつの「新しい文化を伝えること」と言ってもいいかもしれません。

そして、氷の中にビールを突っ込んでおいたらガチガチに凍ってしまいますよね。
そこで、ビールを凍らせることなく、適温で冷やしておくために、冷蔵庫というものが必要なんですよ。これがあると便利ですよね、と営業するわけです。

ちょっと悪い言い方かもしれませんが、もともと需要(=ニーズ)のなかったところに、新たな需要(=欲求)を作り出し、そこに「仕事」を作り出す、ということです。
ビジネスとしての「仕事」の中には少なからずそういう側面もあるでしょう。



一方「ボランティア」はどうでしょうか?

被災地の瓦礫を撤去する、お年寄りの施設で介護のお手伝いをする…どれも本当にそれを必要としている人が現実にいます。
しかしそれを企業の論理(=採算性)で考えたら、「仕事」としては成り立たない世界。
でもそれを必要としている人にとっては「待ったなし」の仕事が現にそこにあるのです!

そこに、お金目的ではなくあくまで「善意」で駆けつけて、親身になって働くのが「ボランティア」ではないでしょうか?

ならば、最低限の交通費・必要経費、そしてなにより彼らの「善意」による「かけがえのない働き」に見合ったなんらかの報酬はあっても良いのではないでしょうか?

決して「もうけ主義」に走るような高すぎる報酬は必要ありませんが、考え方によっては、「会社が儲かるための仕事」以上に、報酬面でも社会的にもきちんと認められてよいのではないかと。

このあたりも、以前のブログ記事に書いていることと重複します。

→ 
「本当に必要なことにお金が回る仕組みを」 (2013年9月)



もう一歩踏み込んで言わせていただくなら、政治家・議員たちこそ、「社会のため・世のため・人のために行う有償のボランティアで」という発想があっても良いのではないでしょうか?

もちろんただ(無料奉仕)で働けとは言いませんが、一般の労働者の賃金とはおよそかけ離れた異常に高い報酬や特権を与える必要はありません。アメリカのように「労働者の平均的賃金」とすべきです。

そうすれば、カネ儲けのために政治家になる人や、政治家になったとたんに金銭感覚がマヒしておかしな不正を働くような人は現れなくなるのではないでしょうか!?

政治倫理の問題と合わせて、税金の使われ方も大きく変わり、その分を福祉などの社会保障の充実に回せば、財源問題も大いに解決でき、何よりの政治改革・行政改革になるのではないでしょうか?


仕事だからしょうがない…?

最後に、ここまで「趣味」や「ボランティア」と対極にあった言葉は、いうまでもなく「仕事」ですね。
報酬をいただき、義務も責任もともなう「仕事」が大切なことは言うまでもありません。

しかし、いつも「仕事が忙しいから」を言い訳にして、「会社がすべて」になってませんか?
飲み会やゴルフなど、会社の人がちょっとでも関係するとすべて「仕事」なんでしょうか?
大切な人や家族との約束をドタキャンしたりすっぽかしたときに「仕事だからしょうがない」を言い訳にしすぎてませんか?

入社面接で、あるいは新しい部署のトップとの面接で、「仕事以外に休日にこんな活動をしています」と言うと、みなさん「それは素晴らしいことだ。ぜひ続けてください」と言われます。

ところが実際の職場では、せっかく計画的に仕事もこなしてきて、週末近くになって、急な休日出勤をしなければならないかもしれない事態になることも。ふだんの休日なら出勤もいといませんが、前々から予定していた行事のある休日だったら…?

そんな時かならず言われるのが、「仕事とプライベートとどっちが大切なんだ?」

「仕事かプライベートか」と究極の二者択一を問う前に、仕事の中身、仕事の段取り・進め方、トータルなワークバランスを考えてみることが大切ではないでしょうか?

これも過去のブログ記事から…

→ 「仕事だからしょうがない」が多すぎませんか? (2013年6月)



「趣味」、「ボランティア」、そして「仕事」…ふだん当たり前のように耳にする言葉ですが、その中身について、「常識」とはちょっと違う切り口でつづってみました。

これは私自身が30年以上サラリーマンを経験してきた中で感じてきた、今の日本社会の価値観への問題提起でもあり、その中には「本当の豊かさとは何か…?」を考えるヒントも隠されているのではないでしょうか?


  よかったら、ご意見をコメントに残していただけたら…
                   ペンネームでも構いません ↓


プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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