コバケン先生との出会い(1.長崎)

炎のコバケン・小林研一郎先生との出会い

学生時代から市民オーケストラにも参加し、音楽の素晴らしさはよく分かってきたつもりだった。
しかし、仕事や生活のしがらみを乗り越えて活動を続け、無事に演奏会を終えた感動も冷めやらぬうちに、楽器をトラックに積み込み、また明日から仕事…という現実に引き戻される瞬間、ふと虚しさのような疲れのようなものを感じてもいた。「自分は何のために音楽をやってるんだろう?」…と

2番目の娘が命を宿してくれ、上の娘が小学校に上がるのをきっかけに、日曜日ごとにフルに活動する市民オケの活動はしばし休止する決意をした。



それから1年近くたった05年2月ごろ、私の携帯に見覚えのない番号から着信があった。出てみると、なんとあの世界的な指揮者、炎のコバケンこと小林研一郎先生の奥様から!

「3月のはじめにスペシャルオリンピックスの開催されている長野県の白馬で、障がいのあるアスリートたちが世界から集う閉会式で、コバケンのもとで演奏しませんか?」というお誘いだった。

残念ながら年度末のその時期には休みが取れず、その演奏には参加できないとお伝えすると「ならばせめてリハーサルを見学にいらっしゃいませんか?」とお誘いを受け、たまたま自宅にも近い世田谷の駒沢中学校で平日の夜行われていたリハーサルにお邪魔したのだ。

高校生ぐらいの若いメンバーからプロのような素晴らしい音を出す大人まで、100人ほどの大きなオーケストラの前で、あのコバケン氏が真冬だというのにTシャツ1枚で汗をびっしょりかいて真剣な音づくりをしている!

ロッシーニの「セビリアの理髪師」、シベリウスの「フィンランディア」、スメタナの「モルダウ」など、皆さんがよく知っている名曲が並ぶプログラムだが、マエストロのひとことでわずか数分のうちにみるみる音が変わっていく!


いまそこにいるメンバーに、どうしても不可能な要求はしない。
しかし、恥ずかしいとか、やめとこうかな、といった躊躇は限りなく取り払い、
「もっと出るはず」の音は妥協なく要求する。そしてみなカラを破っていい音に変わってくると、万面の笑みを浮かべて「素晴らしいですね~」と。
 
 「クレッシェンドって、どういう意味だか知ってますか?」と質問される。一般には「だんだん強く大きく」だが、それでは答えになっていないのだ。
それは「もっと我慢する、エネルギーをためて、という意味です」と。
つまり、その文字が見えたあたりからあっという間に大きな音に到達してしまうのではなく、最初は聴こえるか聴こえないか、遠い小さな音から、長い時間をかけて、少しずつエネルギッシュに近づいてくるように…。

 演奏者がその意図を理解して意識をひとつにした瞬間、同じオーケストラのメンバーから出る音がまったく生まれ変わったように活き活きとしてくるのである!…こういう光景を生で見ていられる幸せに鳥肌が立つ。

 「フィンランディア」では、アレグロからそのまま一気に中間部へと流れ込むのではなく、楽譜には書いてないが、いったんオケ全体の音が聞こえなくなるほどにまで音を消して、一瞬の間と静寂の中から一気にクレシェンドして…という方法をご提案。
「きのうちょっとシベリウスさんに電話をかけて了解をいただいたんですが…」と気の利いたジョークを飛ばしながら、一瞬にして情熱的な音に変えてしまうパワー。このエネルギーはどこからきてるのだろう…?

それがまさに、プロもアマチュアも垣根を越えて、スペシャルオリンピックスへの支援に向けて「コバケンとその仲間たちオーケストラ」が生まれた瞬間だった。私は光栄にもその瞬間に立ち会っていたのだ。

 リハーサルの休憩時間に、マエストロと奥さまがわざわざ私のところにいらしてくださり、マエストロは汗だくのまま握手を求めてくださり、素晴らしい笑顔で「今度はぜひご一緒に演奏にも加わってくださいね」と。

 その“今度”が叶ったのは案外近く、その年(2005年)8月の「長崎・被爆60年メモリアルコンサート」だったのである。


長崎・被爆60年メモリアルコンサート

 東京から参加するアマチュア・プロと、地元・長崎交響楽団のメンバーが、現地でたった3日間だけ合わせリハーサルをやってすぐに本番、という恐るべきスケジュール。
 でも、志の熱いみなさんと、マエストロの強烈な吸引力と音づくりで、必ず素晴らしい演奏になる、ということは疑う余地もなかった。
 しかも、東京からは日フィルをはじめフリーの若手演奏家などプロの方たちも交じる中、なんと光栄にも打楽器の首席・ティンパニをご指名いただいて。

 これはもう行くしかない。これを逃したら一生後悔する、とかみさんを説得し、行事に合わせて夏休みを申請した。


炎のマエストロとの初リハーサルへ

 初めてご一緒させていただくことになったこの長崎でのコンサート。
私は金曜日から休暇をとって、現地リハーサルの始まる2日前の朝羽田をたって長崎入りし、ひとり長崎の原爆資料館や平和祈念公園を訪れ、リハーサルに向かう気持の準備をしていた。

平和祈念公園

平和記念公園2

松山橋キャプション
現在の松山橋 
爆心地に近い 現在の松山橋


広島と違って長崎は起伏の多い地形で、平和祈念公園も小高い丘の上にある。炎天下の中、持っていたペットボトルはすぐに温まってしまい、空になる。

ここで60年前、最後のひと口の水を求めて亡くなった方たちがいたことを覚え、式典を1週間後の9日に控えてテントなどの準備のすすむ平和祈念公園で、黙とうをした。

夕方は浦上天主堂やグラバー邸を訪ね、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」のモデルともなった風景も見た。

グラバー邸
グラバー邸

グラバー邸より
グラバー邸より プッチーニの歌劇「蝶々夫人」に思いをはせながら…


 夕食をすませてホテルの部屋に戻り、演奏する曲のスコア(総譜)やパート譜に目を通すが、興奮と緊張で目が冴えてしまって眠れそうもない。夜の街に涼みがてら出かけ、思案橋あたりのカウンターでグラスを傾けた。

「モルダウ」「フィンランディア」など既によく知っている曲が多かったが、あの炎のマエストロがどういうタイミングでどう振られるのか、いろいろと想像して期待したり緊張したりで落ち着かなかったのである。



しかし初日のリハーサルでは、そんな緊張が嘘のように、その空気の中で音を出していた。まさに2月の世田谷でのリハと同じ鳥肌を立てながら。

会場となったブリックホール
会場となった長崎市ブリックホール

リハーサル1

前もってマエストロのところにスコアを持って行って「ここはどうしましょうか?トレモロでやりますか、刻みますか?」などと質問しても、マエストロはにっこり笑って、「どうぞ、高木さんの思うとおりにやってみてください」と言われてしまう。
ただ、ステージで音がつくられていく現場では、逐一どういう音を求めておられるのか、バシバシと的確な指示が飛んでくる。

たとえば、モーツァルトの「レクイエム」の中から、「ラクリモーザ(涙の日)」という曲。
ゆったりした4拍子。弦楽器の静かな前奏が2小節続いたあと、静かに合唱が入ってくる。そして1拍1拍、ことばを区切りながら、音の上昇に合わせてピアニッシモからだんだん強くなっていき、やがて頂点に達するところ(8小節目の3・4拍目)で、ティンパニが下の「ラ」の音を叩くのである。

ものすごく凝縮したエネルギーがどんどん大きくなってくるのに応えて、でも決してティンパニの音が割れて汚くならないように、柔らかめのバチでかなり大きく叩いた、つもりだった。

しかしマエストロからは瞬時に「高木さ~ん、まだ弱~い!」と罵声が飛んできたのだ。
でもこれ以上強く叩いたら音が割れて汚くなってしまう。どうしよう!?
一瞬迷ったが、すぐにいいアイディが浮かんだ。

モーツァルトでは「レ」と「ラ」の2音しか使わないので、ティンパニは2台あれば演奏できる。しかし他の曲も演奏するため、目の前には4台のティンパニが並んでいる。
ふつうはあまりやらないことだが、下の大きな2台を「ラ」の音に合わせ、2つを同時に両手で叩いたのだ。音を割ることなく、でも響きは倍にして。
今度は「ティンパニ素晴らしい!ブラボー!」とすぐに返ってきた。

リハーサル2

リハーサル3

演奏しながらのほんの一瞬ながら、ダメなものはダメ、いいものはいいとはっきり伝えて下さるメリハリ。ことにマエストロは「素晴らしい」「素敵ですね~」「最高です」「さすがです」…など、たくさんの褒め言葉の引き出しをもっておられる。
時にむせび泣くような表情で指揮をされながら、いい音が出た瞬間に万面の笑みを浮かべて「素晴らしいですね~」とじわーっとおっしゃったりするのだ。一緒に演奏させていただいていて、たまらない瞬間である。

よく会社組織などでは、ダメなことや失敗したことはネチネチと叱るくせに、こちらもそれなりに考えて「これでいいかな?」と出したことに対して、OKの時は何も反応が返ってこなくて不安になる…そんな経験はないだろうか?

マエストロの大きな魅力のひとつは、素晴らしいものに対して大いに絶賛されることで、「You are OK」と優しく包まれているような安心感で、みな実力以上の素晴らしいものをどんどん出していく、いや出さざるを得ない状況になっていく。まさにそれがコバケンワールド!



リハーサルがはじまる前はいろいろと想像したり緊張したりで目が冴えてしまったが、初日のリハーサルを終えて、マエストロを囲んでおいしいワインをご一緒にいただきながらジョークも交え、今ここにこうしていられることの幸せと興奮で、そして本番はまだこれからだというのに初日の音づくりの現場の感動と興奮で、またしても目が冴えてしまったのである(笑)。

リハーサル4

長崎放送でオンエア
長崎放送でオンエア(アップのシーンでごめんなさい)


★高校生による、核兵器廃絶に向けての1万人署名活動
このコンサートの収益金から、高校生が署名を国連に届けるために、200万円が寄贈されました。


長崎の熱い夏に感謝!

長崎での行事日程に合わせて夏休みを申請し、こちらは一足早く長崎入りし、一歩遅れて生まれてまだ4か月の下の娘と当時小学校1年の上の娘を連れてかみさんも長崎まで来てくれることになった。

私の宿泊先のホテル宛てに、前もって着替えなどの大きな荷物は宅急便で送らせ、それを私が受け取って部屋に入れておいた。
2日目のリハーサルを夜に控えた午後、空港からのリムジンバスを出迎え、早めの夕食を一緒にとり、夜は私だけリハーサル会場へ。
翌日も昼間は路面電車に乗って市民プールへ行き、家族一緒に“にわか長崎市民”としての時間を過ごしてから、夜は「じゃ、パパ行ってくるからね」と最終リハーサルへ。

チキンラーメン号
長崎市電 チキンラーメン号!

昼間は家族と…

結(小学1年)

長女・結(ゆい) この時小学1年


本番当日、子供2人とともにほぼ丸1日、会場内でリハ~本番、かみさんにとって長かっただろう。終演後にはロビー外の階段にしゃがみ込んでしまうほど疲れてたようだが、上の娘は、それまでにも私の参加するオケは何度も聴きにきたことはあったが、これほどまでにエネルギッシュな演奏に圧倒され、目を輝かせていた。

その後も上の娘は、許される限りオーケストラのリハーサルにも同行する機会も増え、贅沢な耳を鍛えながら、素晴らしい「仲間たちオケ」のメンバーのメル友も増やしつつ今日に至っている。


コバケン先生との出会い(2.熊本)

コバケンとその仲間たち・イン熊本(06年9月19日)

長崎でのコンサートからほぼ1年後の2006年9月、スペシャルオリンピックスの開催される熊本で、ふたたび「コバケンとその仲間たち」のチャリティ演奏会に参加させていただくチャンスに恵まれた。

地元の平成音楽大学のメンバーと、東京からの参加メンバーたち、さらに京都や九州、さらに遠くブダペストに留学している若き音楽家など、実に多くのメンバーとともに。

スペシャルオリンピックス
SO.jpg


私は例によってその行事に合わせて休みを申請し、一足早く熊本入りしたが、その翌日あたりから大型の台風が九州地方に近づいていた。

宮崎県内の日豊本線では特急列車が突風(竜巻?)のため脱線。各地で土砂崩れなどが相次ぎ、ついに九州全体で鉄道などの運休が相次いだ。
ニュースを見ていると、まるで九州全域が大変なことになっているように思われ、東京の友人から「そっちは大丈夫か?」みたいなメールも頂いたが、熊本市内にいる限り、午前中はまだとくに雨も風もなく平穏そのもの。
台風のニュース映像には欠かせない、ヤシの木が髪を振り乱している姿を探したが、熊本駅前に見つけたヤシの木は静かに立っていた(笑)。

とはいっても、東京からの便は軒並み遅れ、熊本空港に着陸できない便も出るなど、他のメンバーの到着を心配したが、なんとか無事にホテルで合流。

しかしマエストロは、前日名古屋での公演を終えて、新幹線で博多までは移動できたものの、九州内の在来線もバスもストップしていて動けず、現地でわずか2日しかない貴重なリハーサルのうち初日はできなくなった。

台風の近付く熊本市内(県立劇場前)
台風の近づく熊本市内(熊本県立劇場前)


演奏会会場となっている熊本県立劇場まで、ホテルからバスを一台出すので、個人練習をしたい人はどうぞ、と言われ、私は楽器類のチェックもあるので迷わず手をあげた。

やはり夕方を過ぎて、台風の上陸とともに風雨が強まっていた。夕食に県立劇場近くのファミレスに向かおうとしたが、バス停のベンチが倒れていたり、街路樹の枝が折れて歩道を走っていき、何が飛んでくるか分からない。やはり九州に上陸したばかりの台風の勢いは筋金入り。コンビニで簡単な食糧だけ調達して早々に戻った。



翌日、台風一過で晴れ渡った中、待望のマエストロが到着。ホテルの玄関でメンバーが出迎えると、マエストロがにこやかにひとりずつ握手をしてくださる。リハーサルはその日しかないというのに、焦った様子もない。

コバケン氏到着(ホテル前)
1人ずつと硬い握手を

その時は、ピアニストの熊本マリさんをゲストに迎えて、チャイコフスキーのピアノ協奏曲から1楽章、小林研一郎氏自身の作曲による「パッサカリア」から「夏祭り」、などもプログラムに加わっていた。
編成の面でも演奏技術の面でも、それなりに難曲といえるような曲が、密度の濃いリハーサルの中でわずかの時間の中でどんどん形になっていく。通常では考えられない集中力だ。

集中したリハ―サル2

集中したリハーサル1

大阪フィル首席コンサートマスター:長原幸太氏と
大阪フィル首席コンサートマスター:長原幸太氏と


映画「ビリーブ」の取材クルー
映画「ビリーブ」の撮影クルー 

その現場には、映画「ビリーブ」の主役である知的障害をもつ方たちの撮影クルーと小栗監督も同行され、知的障害のある方たちのスペシャルオリンピックスに向けてのさまざまな行事を追いかけて取材し、カメラを回してインタビューをしていた。その様子をさらにNHKの「福祉ネットワーク」が追う形で取材に来ていた。

「ビリーブ」のメンバーたちは皆さんとてもいい笑顔で取材され、リハーサルの現場でどんどん音が作られていく空気に圧倒され、時に涙で声を詰まらせていた。彼らのようにとても純粋に素直に感動を表してくれると、こちらの感動も増幅してさらに大きな素晴らしいエネルギーをいただくのだ。

そう、まさに「コバケンとその仲間たち」の演奏機会は、単に世界的な素晴らしいマエストロの元でいい演奏ができるから、というだけでなく、障害のある方にも一緒の空間の中でいい演奏を味わっていただくという大きなテーマがある。そういう明確な目的のために、プロもアマチュアもそれぞれ志を高く持った方たちが手弁当で集まってくるのだ。
本番は満席の県立劇場で、素晴らしい演奏が展開されたことは言うまでもない。高木も長年アマチュアオケに参加してきたが、本番のステージにいながら目がしらが熱くなるような体験は初めてである。


♪ スペシャルオリンピックスとの出会いから

終演後のロビーでは、小林研一郎先生の奥様・桜子さんと、スペシャルオリンピックスの支援活動をしておられる地元・熊本の細川佳代子さん(細川元首相の奥様)が涙ながらに抱き合っておられた。

この活動はまさに、小林桜子さんがスペシャルオリンピックスを支援する活動と出会ったことから出発している。その活動を音楽で支援することができたらと世界的なマエストロであるご主人に尋ね、そういう趣旨だからギャラも満足に出せないけど、と伝えたところ、意外とあっさり「うん、いいね」という返事が返ってきたそうである。

その背景には、マエストロの心の中にブダペスト以来の想いがあったようだ。
プログラムにも毎回紹介されている、マエストロご自身のメッセージ文を引用させていただいて以下にご紹介したい。


~ブダペストでの想いから~

 ブタペストの冬。その日もまた、ドナウからの風は氷のように頬を刺した。そんな夜、コンサートを終え楽屋口を出た僕を、ご両親に伴われて、少女が待っていた。

 彼女は体が不自由であり、また、知的障害も持っていた。しかし、演奏を聴いた喜びや感動を必死にぼくに伝えようともがいている様が、いとおしかった。この子たちにもっと自由に演奏を聴いて欲しかった。だが、しかし、知的障害者が健常者と一緒にコンサートを聴く環境を作ることは厳しい。

 音が空気に溶けて行く様や静けさのみが支配する世界では、ほんの少しの雑音も許されない・・・。そういう矛盾を思いの底に沈めて、長い間、解決がないまま、悶々と過ごしてきた。

 そんな中で、スペシャルオリンピックス世界大会・長野との出会いがあった。世界中から集まるアスリート達に、今までの努力を讃え、そして、これからの励ましを込めて、コンサートができたら・・・。そこでは、嬉しかったら立ち上がったり、感動したら声を出してもいい。そんなコンサートにしたかった。
だが、それは途方もない企画だった。指揮者だけではコンサートはできない。果たしてボランティアでオーケストラのメンバーは集まってくれるだろうか。

 しかし、たくさんの人々の小さな想いは、やがて大きな力になっていた。
2005年3月3日深夜、114名のボランティアの演奏家たちを乗せたバスは、ひたすら白馬に向けて走っていた。

“コバケンとその仲間たちオーケストラ”

 バスのフロントガラスにはそう書かれてあった。そして、コンサートではアスリートたちに、僕たちの想いを伝えることができた。彼らの眼はより輝きを放ち、立ち上がっての拍手は続いていた。
 
しかし、それにも増して、我々演奏家たちは口々にこう言っていた。
聴いてくれてありがとう。演奏させてくれてありがとう。この時を与えてくれてありがとう。出会いをありがとう・・・と。励ましをもらったのは、むしろ、僕たちだった。

 日本の社会が障害者をごく普通に受け入れてくれる時がやがて来るまでは、このコンサートを続けなくてはならない。
障害者も健常者も垣根なく共存できる社会に向かって歩き始めよう。

小林研一郎
(以上、原文のまま)




♪ 細川邸へ

 熊本での熱い演奏会から一夜明け、演奏したメンバーたちのうち時間の許すメンバーたちが地元・細川邸にご招待された。細川元首相の家である。

 ホテルからバスで市のはずれにある細川邸に向かい、佳代子夫人が出迎えて下さったのは、どこかで見たことのあるような石段と門。

映画やドラマで見たような…

…そう、あの宮本武蔵も駆け上って門を叩いたといわれる、ドラマや映画のセットでも再現されている、まさにあの石段と門の「本物」である!

細川邸の門の前で
 
中に入ると、細川家の家紋ののぼり旗があり、屋敷とは離れて神社や茶室もある。また屋敷の奥には、細川家代々の墓があり、その中にはあの細川ガラシャの墓も。県の重要文化財に指定されているものが邸内のあちこちにあるのだ。

邸内には文化財がいっぱい
ガラシャ夫人の墓前にて1

かつて歴史作家の司馬遼太郎さんもここを訪れ、細川家が地元の家臣たちに信頼されて栄えた秘訣をおたずねになったそうである。「家臣たちに恵まれたのです」との答えに、一瞬の沈黙の後で司馬氏は「でも、それは殿様が素晴らしい方だったからではないでしょうか?」と静かにおっしゃったそうである。
また、細川家代々の墓の中には夫婦が並んで眠っていて、ガラシャ夫人の墓も夫・忠興の墓と並んでいる。その時代としては珍しいそうである。

現在の佳代子夫人も、この細川家に嫁がれてから、ガラシャ夫人の墓を毎日掃除されながら参拝され、何かを感じられたというお話を伺った。

細川ガラシャの墓
細川ガラシャの墓2 


♪ 細川ガラシャ夫人のパワー

ガラシャ夫人は歴史上では「悲劇の主人公」という見方をされている。
明智光秀を父にもち、細川忠興(ただおき)のもとに嫁入りした玉子(後に洗礼を受けてガラシャとなる)は、本能寺の変で主君・織田信長を討った「謀反人の娘」という立場に追いこまれ、細川家から離縁される。

その後、秀吉の計らいで細川忠興と復縁するが、関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり天国へは行けないため)。享年38歳。
辞世の句として「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んでいる。

まさに歴史上では「悲劇の主人公」であるガラシャ夫人の墓に向かって「貴女の生きた時代はさぞ大変だったでしょうね」と心の中で弔いの言葉をかけていた佳代子夫人の耳に、ふと「いいえ、私はむしろ、命の大切さを実感できる時代に、毎日毎日を精一杯生きることができた、とても幸せものですよ」という言葉が聞こえた、とおっしゃるのである。その言葉によって佳代子夫人もまた精一杯生きる勇気をいただいている、と。

細川佳代子さn

細川佳代子さん

 
スペシャルオリンピックスを支援する活動をずっとされ、「コバケンとその仲間たち」の熊本でのコンサートに向けてもあらゆる方面でご尽力くださった佳代子夫人の中には、まさにガラシャ夫人から頂いた力が宿っておられたのか…と、あらためて心を打たれたのである。


★この熊本でのコンサートについて、雑誌「クロワッサン」(2010年6月)で細川佳代子さん&小林研一郎先生の対談記事でも紹介されています。
→ http://resolutely.blog6.fc2.com/blog-entry-75.html

プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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