「こすりつける」と「なすりつける」、「はっきり」と「くっきり」

言葉の微妙なニュアンス

6月28日(水)


ある留学生との会話で、「人に責任をこすりつける」という表現が出たので、私は「いやいや、それは『こすりつける』じゃなくて『なすりつける』でしょ」と突っ込みました。

脇で聞いていたらジョークのような会話ですよね(笑)

そのアジアからの留学生はよく日本語を勉強されていて漢字もちゃんと読め、「擦る」は「こする」とも「なする」とも読むことを知っていて、その2つはどう違うのかと尋ねてきました。
さて、皆さんならどう答えますか?


「擦る」…する、こする、なする

「擦る」は「する」「こする」「なする」と3通りに読めます。
問題はその使われ方・ニュアンスの違いです。

「する」は、猫が「すり寄る」に代表されるように、身体が触れるほどに近づくこと、ひいては意見を同じくして相手に寄り添う、という意味で使われます。必ずしも物理的に接触するかどうかはあまり問題ではないようです。

それに対して「こすりつける」「なすりつける」はどちらも物理的な接触を伴う言葉です。
そしてただ接触するだけでなく、こちらに付着していたものを向こう側に移す、そんな意味合いを含んでいます。

まず「なすりつける」は…
手についた汚いもの(割と簡単に取れるもの)をそこら辺の壁などにぺたっとやるイメージ。転じて、本来自分が責任をもってやるべきこと(=自分に帰属すること)を人に押し付ける…
「安易に」「軽い気持ちで」「無責任に」…そんなニュアンスが「なすりつける」ではないでしょうか?

それに対して「こすりつける」は…
もう少ししっかりついてしまった汚れをコンクリートの壁などにしっかりと、なんども念入りに、強い意思をもって…そんなニュアンスがあるようです。
犬が嫌な臭いを嗅いでしまったときに、布団やソファーの上を転げまわって身体中を「こすりつけ」てますね。まさにあのイメージではないでしょうか?

日本語は、ちょっとしたニュアンスの違いで言葉を使い分けていますから、なかなか難しい言語だと思います。
さて、自分の犯した重大な過ちを、きわめて悪質に計画的にしっかりと秘書のせいにする…これは「なすりつける」or「こすりつける」どちらでしょうね…?


◆「はっきり」と「くっきり」

以前、やはり日本に来て熱心に勉強している留学生から「はっきり」と「くっきり」はどう違うんですか、と尋ねられたことがあります。

「はっきり」も「くっきり」も英語では「clearly」です。

でも「あなたの話は『くっきり』と分かります」「この際『くっきり』言わせてもらいますけど」…などとは言いませんね。

「くっきり」が用いられるのは、「夕陽が西の空に沈んで、山の稜線が『くっきり』浮かび上がった」とか、「腕時計をはずしたら日焼けの後が『くっきり』ついていた」など、視覚的な場面で用いられる表現ですね。

日本語って、微妙なニュアンスの違いで表現を使い分けている、とても豊かな言語だと思います。だから外国からやってきて日本語を学ぶのは、われわれが英語を学ぶ以上に難しいのではないかと思います。

日本人はふだんそれらの違いを理論的に考えることなく、ごく自然に無意識のうちに使い分けている、とっても感性の豊かな民族なんだと思います。

言葉が乱れている、言葉を知らない若者が増えている…そんな声も聞かれる昨今ですが、日本語のもつ豊かな感性は大切にしたいですね。

「君の話、くっきりとよく分かるよ」とか「人に責任をこすりつけるなよ」などがジョークとして使えて、笑えれば大丈夫でしょう!

「すっぴん」…どういう意味で使いますか?

1月19日(木)

久々に「ことば」に関する記事を書きます。
「すっぴん」という言葉、よく耳にしますが、あなたはどういう意味で使いますか?


多くの女性が口にされる場面では…
「すっぴん」=メイクしてない状態、素顔

<使用例>
*(撮られた写真を見て)「いやだ~、わたしこの時~~なのよ」
*(写真を撮られるときに)「~~ですけど、いいんですか?」…etc.

ちゃんとメイクもしていない状態(=人様にお見せできない状態)で失礼します、
といった謙遜(もしくは言い訳?…笑)としての使われ方が多くないでしょうか?

でも、本来の意味は…

すっぴん=「べっぴん」に類似してできた造語で、化粧をしなくても美しい人、いわゆる「素肌美人」のこと 

だそうです。
男性が、素肌の美しい女性を褒めるときに用いるのが本来の使われ方だったみたいですね。



多くの女性たちの「すっぴん=メイクしていない状態」という意味での使い方も定着してますし、私もとやかく言葉尻をとらえるつもりはありませんが、もし言葉が誕生した時の本来の意味でとらえてしまうと…

「私、すっぴんなんで」は、謙遜どころか、「私、メイクなんかしなくても十分美人なんで」、ということになります。
「私、失敗しないんで」という決め台詞の女医さんがいらしゃいましたね。あんな感じでしょうか?

みなさんはどんな場面でどんな使い方をされてますか?



ところで…
能面のような無表情なメイクのことをなんというでしょうか…?
答えは、くだらないこの記事の終わりをどうぞ!
→ Nomen

 

文学・音楽作品に用いられている 「差別用語」について

10月22日(土)


ごく最近、公務員(機動隊員)が沖縄で反対運動をする人のことを「土人」呼ばわりして大問題になってます。
もちろん今は放送禁止用語、差別用語として「死語」ですし、いま問題になっているような状況での用いられ方は大問題ですね。



…が、私もわりと最近「土人」という言葉が口から出たことがあります。
もちろん「差別」の意図で誰かに浴びせたわけではありませんよ。

じつは、中田喜直さんという作曲家(=「めだかの学校」など多くの歌曲や合唱曲を残した)のピアノ小品の中に、「土人のおどり(踊り)」という曲があるのです。

その曲を知っていたので、素朴な打楽器の荒々しいリズム、それに乗った音楽のイメージとして、何十年ぶりかで「土人たちが踊っているように…」という表現が家でふと口から出たのです。

→ 中田喜直作曲「土人のおどり」 
★第二十二回川口市青少年ピアノコンクール A部門(1・2年生)第2位受賞(サイトで検索したYoutubeより)

お聴きになっていかがでしょうか? なにか差別的なものをお感じになりますか?

私も子供のころに、こんなに上手にではありませんが弾いたことのある曲です。
これがもし「発禁」「演奏禁止」になったら悲しいと思いませんか?



音楽以外にもこういった用語が問題になる作品はあります。

私が子どものころ、小学校の国語の教科書に出ていた「チビクロサンボ」も、今では「差別用語」であるとして教材にももちろん、図書館などでも扱われていないんですね。

こういった、時代とともに「差別用語」として「死語」となっていく言葉は多数あります。小説や映画の中にもそういう言葉はたくさんあるはずです。

が、そういう用語を「一切使ってはならない」という理由で、優れた作品が放送で取り上げられなくなる、ひいては世の中から葬り去られてしまうのは悲しいことです。



同様に、まだ今のところ大丈夫ですが、もし「シナ」「シナ人」もいけない(←かつては正式な国名だったが、今あえてそれを使うのは民族への差別であり過去の歴史認識に触れる…など)と言われて禁止されたら…?

李香蘭の名曲「シナの夜」なども歌ってはいけなくなってしまいます。

さらに、もし「ジプシー」もある種の人種差別用語で問題だ、などと言われたら…?

モンティの「チャールダーシュ」、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」、ビゼーの「カルメン」など優れた作品が演奏できなくなってしまうでしょうし、ある曲のイメージを指揮者がオーケストラに伝える際に「ジプシー風に」などと表現することもできなくなってしまいます。


文学作品や音楽の作品で用いられている用語が、現在では「差別用語」である場合、みなさんはどうお考えになりますか?

★要は言葉の使い方、誰に向かって、どういう意図でその言葉を発するか…が問題だと思うのですが。


「二人の石切り」のお話しから

10月16日(日) ~その2~


午前中、少し雲が広がりましたが、すぐに青空が戻り、さわやかな秋晴れの日曜日となりました。

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先週の日曜は朝から激しい雨、先々週の日曜は千葉で、その前の日曜は富山でコンサートだったため、3週間ぶりに教会へ。

教会・自宅・ショコラの散歩…マイルームから自転車で20分圏内をのんびり移動しながら、木漏れ日を満喫しました。

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◆「二人の石切り」の喩え話

きょう、牧師先生から「二人の石切り」というよいお話しを聞けたのでご紹介しましょう。

ボヴェーというスイスの精神科医であり、キリスト教の思想家でもあった人による喩え話です。
 
ある人が、二人の石切り職人に「あなたは何をしてるのですか?」と尋ねました。
一人は「私は石を切る仕事をしてるんです」と答えました。建材としての石を切る作業。昔は手仕事ですから大変な重労働だったはずです。

もう一人の石切り職人にも同じように尋ねると、「私は教会の聖堂を建てる仕事をしているんです」と答えました。その切った石は聖堂を建てるための建材となるのです。

いま、自分に与えられている仕事がつらく大変な仕事、単調でつまらない仕事…とみるか、その仕事が大切な大きな事業に必要欠くべからざる意義ある仕事としてとらえるか。

この話、キリスト教的に解釈すれば…

人はみなひとつの根から生えたブドウの木で、枝は四方に分かれそれぞれ実を結ぶけど、それぞれの持ち場で人は生かされていて、自分に与えられた命・才能(タラント)・機会を活かさなくてはいけない…ということになるでしょう。

でも、この「二人の石切り」の喩え話は、とくに聖書に出てくる話ではありませんし、べつにキリスト教の「教え」としてではなく、現代の私たちにもそのままヒントとして当てはまらないでしょうか?



会社・組織の中には、必ずしも人間的に尊敬できて仕事もできて、思いやりにあふれている人ばかりではないでしょう。
そういう身近な半径数メートル内の人の属性にばかり目を奪われ、人間関係に苦しみ、ただひたすら与えられた仕事をノルマとしてやったら、毎日はつまらなくてストレスのたまることばかり。
口から出るのは、「仕事の話=職場の愚痴」ばかりになってしまうのではないでしょうか。

日常の仕事、自分がやらなくてはならない仕事の一連の流れだけを見て「大変だな~」「つらいな~」ひいては「なんで私がこんな仕事をしなきゃならないんだ」と思いながら毎日を過ごすか…

それとも、その仕事が全体の中ではどういう役割で、社会にどう役立っているのかを感じながら責任とやりがいをもってやるか…


ホワイトインパルス

何年か前に、青森空港で滑走路の除雪をする作業員たちがテレビで紹介されました。
日本でも屈指の豪雪地で、あっという間に雪に覆われる滑走路を、何台もの除雪車が連なって驚くべきスピードて除雪するのです。

まるでショーのような見事なチームワーク、まさにプロフェッショナルのなせる業!
検索したら動画(青森空港公式)がありました。

→ ホワイトインパルス

飛行機にあこがれて航空関係の仕事に就きたいと思う人は多いでしょうが、こういう地味な「裏方」の仕事なしには飛行機は飛べません。そういう仕事に情熱を燃やし、日本一の空港除雪作業チームとなる…

いや~、素晴らしい話だと思いました。
こういう人たちとだったら、「仕事の話」を聞きながら美味しいお酒が飲めるでしょうね!

どんな世界でも、自分に与えられていること(才能や機会)への感謝、与えられている仕事が全体の中でどういう役割を担っているのか、それが見えているかどうか…

すでに仕事に就いている方も、これから就活という方も、人の生き方として大切なテーマではないでしょうか?


~ふだんの会話に表れる、人の生き方~

◆ハウツウ情報・知識だけの会話?

〇〇〇には、どんなカリキュラムがあって、どういう勉強が必要で、試験はどんな問題が出て、合格するには何点以上取らないといけなくて、合格したら研修があって…

こういう会話、受験生には多い会話ですね。

大学や専門学校に入るための試験、あるいは「〇〇士」の資格を取るために必要な試験も、そのための勉強が将来どんな役に立つのかは別にして、ひとつの関門を突破する経験として努力することは意義のあることだと思います。

しかし、そういう思考回路ばかり強くなりすぎて、その先の人生においても、何をするにもすべて「〇〇するためには~~が必要で、どうしなくてはいけなくて…」といったマニュアル本のような、ひたすら目の前の課題をクリアするだけの生き方って、いかがなものでしょうか?

就職にしても、就職した後の会社内での昇進にしても、さらには趣味で何かを始めるにも、結婚相手を探すにも、子どもを幼稚園や学校に入れるのも、すべて「〇〇するためには~~が必要で…」と。


けっこう真面目に将来のことを考えている人たちの会話の多くも、とかくこうしたハウツウ情報知識だけの会話に終始していることが多く、脇で聴いていて「ふ~ん、その世界もいろいろ大変なんだな~」とはじめは思うのですが、そういう話ばかりが延々と続くと、どこか虚しくなってくるのです。なぜでしょうか?

何か重要なことが抜けているように思いませんか?
以前このブログにもこんな記事を書いてます。

「いい会話」に大切な2つのこと


◆「あなた」が見えるストーリーを

山に登るには登山口があり登山道があるように、何事にもハウツウがあるのは常です。
しかし「〇〇するためには~~が必要で、〇〇は~~で、〇〇するとどうなって…」というハウツウだけの会話は、情報・知識の羅列にすぎません。

「語学をマスターするために外国に留学したい」という夢(←?、それは目標ですね)を持っている若者に「じゃ、あなたは語学をマスターして、何がしたいの?」と尋ねると答えに困ってしまう。
「〇〇士の資格を取りたい」なども同じです。

そもそもの前段、「あなたは〇〇になって、何がしたいの?」「世の中にどんなことを提供したいの?」、ひいては「あなたはどんな生き方がしたいの?」という部分は…?


「あっちには低気圧があって、こっちには高気圧があって、このあたりは気流の乱れがあって…」といった気象図を眺めてあれこれ言っているだけの、飛行計画のないパイロットたちの会話のようで、「結局あなた(私)はどうしたいのか?」が見えない会話は、聴いていても虚しいのです。


パーティ、研究会、セミナーなどに参加しても、「私は〇〇を勉強したくて~~してるんですけど、まだ経験もなくて、ここにいらっしゃる方はみなさん凄くて、私はよくわからないんですけど…」と、やたら言い訳ばかり並べたような自己紹介では「あなた」が見えません。

いまここに集まっている人との比較はどうでもいいんです。自分はこれまでどんなことをやってきて、どんなことに疑問・興味をもち、今どんなことを目指していて、何を求めて今ここに参加しているのか…といった「あなた自身の物語(ストーリー)」が伝わらないと、人との交流も始まりませんし、自分がそこで何を得たいのか、ご本人の頭の中も明確になりませんね。

とはいっても、よく結婚式のスピーチで、新郎・新婦の職場の上司が出てきて、自分のいる会社の部署のことなど仕事の細かい内容や自分の経歴をだらだらと述べる方がたまにいらっしゃいますが、そういうことではありません(笑)。

誰にでもわかりやすく、自分はどういう人間で、私はなぜ今ここにいるのか、を的確に語れること、つまり「自分自身を語れる」訓練も大切ですね。

→ 人をつなげる力「物語(ストーリー)」

そして先ほどちょっと書いた「〇〇の資格を取りたい」というのは、「夢」ではなく「目標」(課題)ですね。
その課題の先にあるご自身の「夢」をぜひ描いて欲しいです。



人の生き方はさまざま、私もまだまだ発展途上ながら、僭越にも書かせていただきました。

将来ある若い人たちも、毎日のいい会話と、自分に与えられた才能を活かしたいい生き方を目指していただきたいものです。


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語り合うことの大切さ

2月16日(火)

きょうは、ネット上で知り合った友達グループと、中央線沿線で顔合わせをしました。
ふだん、ブログやフェイスブックを通じて、お互いの価値観・社会への見方などは共感できる者同士ですが、今日あらためて感じたのは「生きた情報の大切さ」そして「語り合うことの大切さ」でした。

中野の夜

「情報」というと、とかく新聞やテレビなどのメディアから出てくる情報を真っ先に思い浮かべますが、いまはそれ以外にもさまざまな種類の雑誌やネットなどの情報源はたくさんあります。
それら情報の中には、政権の顔色をうかがったようなものもあれば、逆に反体制の鋭い突っ込みや風刺に満ちた情報もあります。

大手メディアの報じることだけを鵜呑みに信じてもいけないですが、あまたある情報すべてを信じ込んでシェア・拡散するのも危険です。
ひとりひとりの理性ある検証・判断によって「何が真実なのか?」「なにがことの本質なのか?」を見極める力がますます重要になってくるでしょう。

たったひとりだけで考えていても、ときに堂々巡りになってしまったり、偏った考えに凝り固まってしまったり、世の中への憂いや嘆きになってしまったり、必要以上にヒートアップしてしまったり、逆に無気力になってしまったり…

そこで、安心して語り合える私的な仲間でときどき集まって情報交換しながら、社会に対して正しい認識を持ち、微力ながら何ができるかを考え、それぞれの世界・人とのつながりも共有できる場があったら、と。


◆いい会話に大切なこと

せっかくご縁あって知り合った輪を、いわゆる「サラリーマンの愚痴」レベルにはしたくありません。
お互いが有意義な時間を過ごせたなと思えて、新たな発見や展開につながるような、よき人生のひと時を!

そのための、私なりの五箇条…

★「〇〇は~~で、~~するとどうなって、◇◇するためには何が必要で…」といったハウツウ会話に終始しない。

★共通の知人であれ、著名人であれ、今ここにいない第三者の噂・悪口・愚痴に終始しない。

お互い無理はしない・させない…身勝手に付き合わぜず、お互いを大切に。

★自分に直接関係のある世界だけでなく、自然・科学・音楽・演劇…etc. 感動と好奇心を!

★お互いの生きてきた世界、そこで得たこと、いま見えていること、これから先に思うこと…「いま私はなぜここにいて、どう生きているのか、どう生きたいのか」を大切に!

ひとりひとりは人生の演出家であり、かけがえのない主役なんです。



レストランや飲み屋さん、ライブハウス、新幹線の車内…、いくら仲間内とはいえ、せんなき愚痴やハウツウ会話だけで盛り上がっている姿には幻滅させられることもしばしばです。

すぐ脇には、美味しい食事を楽しんでいる人、せっかくいい旅をしている人もいるのです。そういう場に、内々の狭い世界のマイナスエネルギーを垂れ流すような会話は慎みたいものです!
ごく最近も、ちょっと不愉快な思いをさせられましたが、人のふり見て…ですね。

むしろ、つい会話に耳を傾けたくなったり、一緒に考えたり、微笑ましかったり、ついつられて笑ってしまったり、ご縁があれば輪が広がるような…そんな「いい人生のひとこま」が共有できたら素晴らしいですね。

これまで「コミュニケーション」のカテゴリーに書いてきたこととも重複しますが、あらためて…
→ いい会話に大切なこと


今夜はお陰様でいい眠りに就けそうです。



「~しておきますね」(未来形)でなく、「~してみました」(完了形)で!

7月6日(日)

これは私自身がそうありたいと思っていることですが、コミュニケーションを大切にしたい方も参考にしていただけたら…

このカテゴリーでこれまで色々つづってきて思うのは、コミュニケーションとは「その場限りのお喋り」のことだけをいうのではなく、人と「気持ちのキャッチボールができること」だと思うのです。



なにか連絡を受けたら、まずは「ありがとうございます」といった挨拶は大切ですね。
お知らせいただいた内容、相談や依頼を受けたことについて「見ておきます」「調べておきます」「聞いてみます」と、まず気持ちを返しておくことも大切です。
 返信が数日後になってしまったような時は、「返信が遅れて申し訳ありません」とひとこと添えます。

そこまではいわば儀礼的な社交辞令です。
問題は中味です。お知らせを受けてすでに数日たってるのに、まだ「見ておきますね」「調べておきますね」(=未来形)と返されると少々がっかりします。

皆さんそれぞれお忙しいのは分かります。だったらあと半日~1日後になってもいいから、せめて概略ぐらいは「見ました、どうだった」(=完了形)という中味のある返信をいただいた方が嬉しいのです。

「見ておきますね」のまま結局それっきり…ということも最近けっこう多いように思います。
時間的な問題ではなく、相手から投げてもらった球をどう受け止め、どう返すかというところです。 



友達同士の個人的なたわいもないことならともかく、さまざまな業者さんへの「業務連絡」でも、こうしたキャッチボールがスムーズにいかないことが最近多いように感じます。

こちらの不具合を伝え、修理が必要なのかどうなのか、都合のいい時に見に来てもらえるのか、修理にはいくらぐらいかかるのか…いろいろと相談したいわけです。
すぐその場で即答できないことは「見ておきます」「調べておきます」「分かったら連絡します」となります。営業担当が個人の判断でできないこと、親会社と子会社の役割分担、いろいろ事情はあるでしょう。

でもそこそこ時間がたったら、「調べてみました→どうだった」という完了形での報告がほしいと思いませんか? 
 
たとえ100%答えが出ていなくても、とりあえずどこまで調べてみたのか、検討した結果どうだったのか、内容の分かる担当者に伝えてくれたのか?…といった途中経過の報告がないと、お互い相手あっての物事が先に進みません。

こちらから催促の電話をすると「いま見てます」「いま調べてます」などと返ってきます。そば屋の出前(=出前を注文したのに一向に来ないので催促の電話をすると「今出ました」という笑い話)じゃないんですから…

で、ようやく技術的なことの分かる担当者から連絡が来たと思ったら「どういった不具合でしょうか?」で、また1から説明し直し!?
「え、前回伝えた内容がまったく伝わってないの?」「いままで待たされてた時間はなんだったの?」

打ち返しが遅すぎる上に、内容がちっとも伝わってない…コミュニケーション力のなさに情けなくなります!



簡単にできること、ちょっと時間を要すること、それはさまざまでしょう。
でもおよそどんなことでも、「そろそろ連絡が来るかな?」と思い始めるタイミングってあると思います。

こちらもずっとそのことだけを気にして待ち続けているわけではありませんが、ふと「あの件はその後どうなったんだろう?」と思うようになります。
そろそろ連絡が来てもいいはずなのに…という時期を過ぎると、はじめは「まだ忙しいのかな?、催促しないでもうちょっと待ってみよう」ですが、しだいに「あれ?どうしたんだろう?」と不安になり、いずれ「いったい何やってんだ!」へ。

時間が経過するにつれて、人の感情も変化していきます。

たとえ個人的な友達同士の約束であっても、来週の予定をどうするか等の相談ごとには1~2日ぐらいのうちには返事が欲しいですね。
いただいた資料に目を通しておくのはおよそ1週間ぐらいのうちに…
物事によって違いますが、そこそこのタイミングというものがあると思います。
→ 「気持ちに応えるタイミング」

コミュニケーションは、会ってるその場の楽しいお喋りだけではありません。
ちょっと離れた相手の気持ちをくみ取り、相手の「どうだったかな?」という気持ちに応えることが大切ですね。


「いい会話」に大切な2つのこと

4月19日(土) 

会話(コミュニケーション)に大切なことって何だと思いますか?
話題の豊富さでしょうか?
話し方のプロのような上手な言い回しでしょうか?

たしかに、小中学校で習う程度の一般常識もないとか、最近の社会の出来事をまったくご存知ないとか、あまりにも恥ずかしい変な言葉使いで会話するのはご勘弁いただきたいですが(笑)、それ以上にもっと大切なことがあると思います。

ワイン乾杯 *イラストは、著作権フリー素材より 以下同じ


はじめて会う相手に手短かに自分自身を知ってもらえて、印象に残り「また会いたい」と思われるには、どういう会話が大切なのでしょうか?


なにかが抜けた会話

「〇〇は〇〇でぇ、〇〇は〇〇だからぁ、〇〇すると〇〇になってぇ…」
最近こういう会話を耳にすることが非常に多いです。

携帯や車の買い替えを考えている人、履修科目を選ぶ学生さん、就活中の若者たち、会社の仕事のあれこれを語り合うサラリーマンやOLさん、子育てに忙しいお母さんたち…etc.
また、女性に向かって、まるで求愛行為する鳥のように、ほとんど一人で喋りつづけている若い男性も…

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商品に関する知識、履修科目やカリキュラム、会社の概要、お得な情報、周りの人の動き…etc.
そうした「情報」はしっかり集め、それぞれの優劣についてはそれこそ評論家並みによく見極めてらっしゃるようですが、それはしょせんハウツウの連続。何か肝心なことが抜けていませんか?

この手の会話に、誰か人の名前を入れてみると…

「〇〇さんは〇〇でぇ、前に〇〇した時も〇〇だったしぃ、〇〇になっちゃってぇ…」
はい、せんなき愚痴が完成します。

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ファミレスや居酒屋で、あるいは電車の中で、仕事や学校のこと、彼氏・彼女との関係を友達に「相談」しているのでしょうか?、それとも自分の近況を「伝えて」いるのでしょうか?、 結局のところ何が言いたいんでしょうか?

こういう会話を延々と続けられると、脇にいるこちらもだんだんイライラしてきます。なぜでしょう?

たとえば、余命何か月と宣告された人が大切な友達と過ごす時間にこういう会話をするでしょうか…? 
宣告を受けていなくても、誰にも人生の時間は限られています。その大切な時間の多くがこの種の会話で過ぎていくとしたら…?
この手の会話には、ある大切なことが抜けていると思うのです。


◆「あなた」が見えない

「〇〇は〇〇でぇ、〇〇だからぁ」という話を延々と聴かされて、「結局のところ、あなたはどうしたいの?」と尋ねてみると、「そうなんだよね~、自分がどうしたいのかが分からないから悩むんだよね」と。そこに気づけてよかったですね。

そうなんです。たくさんの情報を集めることはもちろん大切ですが、いくら周辺の情報や条件だけを並べても、「自分はどうしたいのか?」がなかったら結論は出ないでしょう。

何かを買うにも、多機能で便利なものが次々に発売されてくるでしょうが、自分自身が「どういう目的で、どういう使い方をしたいのか?」が明確にあれば、自分に合ったモノ探しをすればいいのです。必ずしも最新モデルに振り回されてどんどん買い替えなくてもいいはずです。

「こっちの方が多機能だ」「これがよく売れてます」…で選ぶのではなく、自分自身の使い方に合ったモノを選ぶことが私は大切だと思います。
家や職場ではパソコンを使い、出先では携帯をどう使うか?…私は自分の明確な意思で、いまだに携帯はガラパゴス派です。

音楽を外でも聴ける装置も、私はある曲を繰り返し聴いて「覚える」ために期間限定で使います。たくさんの曲を入れて年中持ち歩くような大メモリー容量は要りません。むしろ曲の途中で「今の所をちょっと戻したい、ちょっと先に送りたい」という機能は絶対に欲しいのです。
ところが最新の売れ筋のものにはそうした機能のついてないものが多く、量販店の店員さんも探すのに苦労されましたが、結局のところシンプルな「語学学習用」のものが安価で見つかって良かったのです。



人との会話において、情報や条件だけをあれこれ並べるだけなら、必ずしも今の「あなた」と話さなくてもいいわけです。「いま」というかけがえのないひと時を、「あなた」と一緒に過ごしたことが思い出に残るには、主役である「あなた自身」にぜひ居てほしいのです。

自分自身が不在の会話は、先ほどの愚痴ではありませんが、聞いていて虚しいだけです。

「こっちには高気圧があって、こっちには低気圧があって、ここは気流が乱れてて…」と気象配置を眺めてあれこれ言っているだけの、飛行プランのないパイロットの会話みたいではないでしょうか?

航空気象切り取り


相手の気持ちが見えているか?

もうひとつ会話にとって大切なのは、相手の気持ちを考えることだと思います。
大切な時間を割いて相談に付き合ってくれている相手の気持ちを考えているでしょうか?

また、パーティなどで自己紹介をするときに、一人が延々と自分の所属ややっている仕事の細かいことをだらだらと喋ったら、後の人が話す時間が無くなってしまうし、大勢の中の一人として「あなたはどういう人なのか?」という印象が残りません。

初対面の大勢を相手に話すときは、自分は誰のつながりで今ここにきているのか、ふだん仕事・趣味でこんなことをやっているので、こんなことをよく考えます、といった「私自身のストーリー」を手短に伝え、そんな「私」に興味を持ってくださる人とは後で歓談の時に詳しく話せばいいのです。

聞き手はいま何を知りたがっているのか、相手の立場や気持ち、場の空気を察すること(=想像力)が大切ではないでしょうか?
そこが分かれば、今ここでは何を伝えれば良いのかが分かり、分かりやすく的を得た話しができ、結果として気持ちも伝わるはずです。


◆「いい会話」に大切な2つのこと

単に言葉や知識をたくさん詰め込んで、プロのような話し方ができるかどうかよりも、大切なことは「自分自身を語る」ことと、「相手の気持ちを考える」ことではないでしょうか?

いまはIT技術も進み、常に人とつながっていたい人も多いはずで、みなさん会話(=お喋り)の嫌いな人はあまりいないと思います。でも、ただその場だけの「お喋り」だけでは、決して会話(=コミュニケーション)力が豊かとは必ずしも言えません。

自分自身を語るには、ときには友達と離れて一人でじっくりものを読んだり考えたりする時間も大切です。今までの自分、いま自分が何を目指そうとしているのか、「自分自身」と向き合う時間です。

自分の肩書や今やっている仕事の内容を延々と喋るのではなく、「いま私はなぜここにいるのか」をきちんと相手に伝えられるかどうか?

→ 「人をつなげる力=物語」

そして、ちょっと離れた相手ともメール(文章)のやり取りで、相手が知りたがっている事・期待していることに対して適切なタイミングできちんと返せるかどうか?つまり相手の気持ちを思うちょっとした想像力が働くかどうか?

→ 「気持ちに応えるタイミング」 
→ 「未熟な大人から素敵な大人へ」

いい会話とは、人としていい生き方をすることではないか、と私は考えます。

未熟な大人 から 素敵な大人へ

歌謡曲の世界では、一昔前には「ヤング」、さらに「チルドラン」へとどんどん低年齢化が進みましたが、最近また昔の映画音楽に代表される「大人の音楽」が注目されてきています。

音楽以外の世界でも、若いだけの「子ギャル」や可愛いだけの「アイドル」「おバカさんタレント」はもういい!若者の街・渋谷も、もっと大人にも似合う街へ。
テレビでも、かつてのアイドルが素敵なママになって子育て談義。街の看板も、「キャバクラ」「ギャル」に代わって「熟女」とか「美熟女」という看板が目につくようになりました。

ところで何歳ぐらいからを「熟女」と呼ぶんでしょうね? 二十歳を過ぎればもう「大人」ですが、「熟」という字がつくまでにはもう少々時間が必要なようですね。

ところで「未熟女」ってご存知でしょうか?

「未熟女」…いい年齢なのに大人になりきれていない、精神的にも社会的にも「未熟」な女性。男にもいるが「未熟男」とはあまり言わない。
(「未熟女」なんて言葉、私がいま勝手に作っただけなので現代用語辞典にも出てませんが…笑!)


会話力(=理解力・想像力・表現力)

人が健康で文化的に生活する上で必要な小中学校(義務教育)で学ぶ程度の「常識」もなく、あまりにものを知らない。その場だけの会話はなんとかなるが、ちょっと離れた相手とのコミュニケーションがきちんとできない。

その場のお喋りや電話でのやり取りは、相手と直接つながった状態での会話です。不明なことはすぐに聞き返せて、相手の反応もすぐ見えます。

しかし今ここにいない相手、電話にも出られない相手にも、メールを送っておく、サイト等にアップしておく、といったことで情報を伝えることができます。今はそういう便利な方法がたくさんあります。

今すぐには無理でも、そこそこのタイミングでは見ておく、見たら何か返す、尋ねられてることには次に連絡する時には忘れずに答える。それができないと会話が先に進めません。

相手との距離や多少の時間差はあるけど、相手の状況や求めている事をちゃんと理解して、それに答えてきちんと伝わるように返すことができれば、ちょこちょこ会えなくても多くが伝わり、お互いの人柄まで分かるものです。

会ってるその場での会話や電話での会話は、いわば至近距離でのカードゲームのようなもの。それに対してメールやサイトを通じてのやり取りは、離れた相手とのキャッチボールかパスゲームのようなものと言えるでしょう。

相手の位置や動きも考えてちゃんと受け取る、ちゃんと返す。本当の意味での会話力(=理解力・想像力・表現力)が求められます。
そう書くといかにも難しそうですが、本や新聞を「読む」、相手の気持ちを受け止め、お礼や挨拶など相手への思いを手紙=(mail)に「書く」といった、本来の人として当たり前のことに他なりません。


よく「メールだと気持ちが伝わりにくい」とおっしゃる方がいますが、短い文章でも人の感情は表れるもので、感謝や好意の気持ちで書いたのか、不平不満や抗議の気持ちで書いたのかはすぐに分かります。また大切な伝達は、声でいちど伝えただけだと聞き漏らし・聞き間違いの危険もありますが、文字ならば残るので確実に伝わります。

その昔、歌人たちは文字に気持ちを託しました。その場で口先で伝えるよりも、文字に書いて残す方が信憑性があるということもあるでしょうし、その表現に教養や人柄が表れるということもあるのではないでしょうか?

ところが…

未熟な大人たちの会話スタイル

その場での会話は楽しくはずむ。決して頭が悪いわけでもなく、人を大切にする誠実な人のように見える。簡単なチャット的な軽いメールなら交わせる。
でも一歩踏み込んだ中身のある会話になると…

●なかなか返信を返さない
●伝えたことの意味が分からない
●前に伝えたこととの前後関係がつながらずにぶつ切れ
●前に尋ねたことへの答えがないまま、新たに尋ねたことにだけ単発で答えてくる(相手が何を知りたいのか、全体像が見えてない)
●「見ておきます、やっておきます」と言ったことをいつまでも放置

当然の結果として…

●人との会話が「その場限り」で次につながらない
●人との関係も、知識や教養も深まっていかない
●「相手の気持ちに応える」ということができない

このいちばん最後が重要です!
人の気持ちが分からない、つまり社会性が乏しいということではないでしょうか。


「相手の気持ちに応える」ということ

社会性は、人としての「常識」と似た意味で使われます。
「常識」にも2つあって、覚えるだけの「知識」は、忘れたら調べればいい、実際に使ってれば覚えるからいいんです。問題は人としての「良識」です。

お礼や挨拶といった社交辞令も、ただ覚えて「知識」として身につけお決まりの行動パターンとしてやるのでなく、「相手の気持ちに応える」という良識の問題だと思います。



メールは、電話のように今すぐ話せない時でも送っておくことができます。
仕事中、会議中、演奏中、練習中、裁判中、手術中、修行中…etc.
誰でもいますぐに返せない状況はあります。それはいいのです。 でも送った側としては「ちゃんと届いたかな?」「読んでもらえたかな?」と気になっているものです。

たとえ演奏中でも裁判中でも、数時間では終わるはずです。「受け取りました」「見ました」をまず返し簡単な質問に答えるぐらいはできるはず。「いま~~中なので取り急ぎ」と。それが送った相手の気持ちに応えるということです。

忙しくて、バタバタしてて、メールが苦手だから、アナログ人間なんで、遠慮して…etc.
何日も放置しておいてそんな言い訳はやめましょうね。

さらに内容をじっくり見てみる・読んでおく・考えておく・なにかをまとめて返事する…といったことも、そこそのタイミングで。

グループ活動の場合、参加か不参加かの返事をいつまでもしなかったら、幹事さんはいつまでも会場の予約もできません。
また役割分担としてある時までに「やっておきます」と約束したことは、個人的な興味ややる気だけで「やりたい」のとは違います。
もし約束した時間までに間に合いそうもないなら、一刻も早くSOSサインを出して誰かに代わってもらうか皆で分担してもらうべきです。それが申し訳なくてできないのか、途中経過を尋ねても返事もなく、ずっと抱えこんだまま結局「できませんでした」では皆に迷惑がかかるということが分からない大人は本当に困ります。



人の気持ちは、時間の流れとともに変化します。
すぐに返事が来なくても、最初は「いま忙しいんだろうな」です。
でも、ある時間が経過すると「あれ?見てくれたのかな?」へ、さらに時間が経過すると「あれ、おかしいな~、大丈夫かな?」になっていき、やがて「何やってんだ!いい加減にしろよ!」へ。

どの程度のタイミングで答えるかは、ものによってそれぞれですが。
→ 「気持ちに応えるタイミング」参照


素敵な大人でありたい 

相手の言っていることをもっと理解したい、相手のことをもっと知りたい、自分の知らなかった世界を見てみたい、話題や感動を共有したい…etc.
そういう想いさえあれば、1か月でも、いや1週間・数日でも人は変われるものです。

たとえ片思いであっても、人は「恋」をするとそうなるようです。 恋をすると心が熱くなり生命力が増すのでしょうね。

仕事でもバイトでも学業でも、自分が今ここにいるのはとりあえず「仮の姿」で、「どうせ私は~~だから」と、まるでほんのひと時「足湯」に浸かっているような感覚で「心ここにあらず」という人が時々いらっしゃいます。

目の前にある物事に対しても人に対しても、自分には直接関係ない「他人事(ひとごと)」で、常に腰の引けた「無責任」。
目先の利害、時間とお金、言われた最低限のことだけ。そんな日々の連続で人生が過ぎていく…

素晴らしい出逢いがない、幸運に恵まれていないのではなく、心が冷めているだけではないでしょうか? ではどうしたら心を熱く持てるのでしょうか?

人の気持ちに応えるには、人の気持ちが分かることが必要です。想像力を豊かにすることです。ではどうしたら想像力を豊かにできるのでしょうか…?

私も決して人の気持ちをちゃんと理解しているとは言い難いようなことを口にしてしまったり、浅はかな行動をしてしまう人間ですが、私なりに求めているひとつの答えとして、想像力を養うひとつの方法は「好奇心を持ち続けること」じゃないかと思います。

子どもの頃の好奇心にあふれた日々をちょっと思い出してください。
花や虫や生き物たち・月や星・鉄道や飛行機…どんなものにも興味をひかれ、「どうして?」と疑問をもち、身近な大人に尋ねませんでしたか? 答えてくれる大人は近くにいませんでしたか?
そしてなんでもできる大人の世界に憧れませんでしたか?

子どものころはどうしてもできなかったこと、どうしても分からなかったことが今は当たり前にすぐ手の届くところにありませんか?そんな大人の特権をいい意味で使ってますか?

プラネタリウムを見て彗星の話を熱く語る子ども、恐竜展を見てジュラ紀の地球について尋ねる子ども、登山電車のスイッチバックを見て質問をぶつけてくる子ども…そんな子どもたちの純粋な好奇心にちゃんと答えてあげてますか? 
子どもからの鋭い質問を無視して、大人のしょうもない愚痴話に興じたりしてませんか…?

大人の世界は醜いもの、大人になんかなりたくない…そんな思いを子どもたちにさせたくありません。

JT大人
駅広告でもおなじみ、JTの「Think“OTONA”,Think MANNERS」より
 
プロフィール

高木 章

Author:高木 章
アマチュアの打楽器奏者です。

某放送局関連に勤務しながら長年趣味で続けてきた音楽活動。あるご縁から、障がいのある方たちとも音楽を通じてのバリアフリーを、また東日本大震災以降は「がんばろう日本」…そんな活動を続けています。

単に自分が音楽が好きだから演奏したいだけでなく、「音楽の力」で「せめて自分にできることを」!

50代半ばにして勤め帰りに学校に通い「音楽療法」を学びました。

音楽寄りの話題、社会・時事に関する日常的なあれこれを徒然なるままに…
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